見知らぬ街で・一
どこまでも高く澄んだ青い空、異国情緒溢れる白壁の街。そんな景色を挙げたら、大抵の日本人はヨーロッパの観光地を想像するんじゃないかと思う。もちろん、私だってそうだ。
目を開いてみたら、いきなりそんな景色が広がっていたものだから、寝ている間にどこの外国へ来てしまったのかと驚いた。それでも通りを十分も歩き回れば、この場所が海外どころか、常識の外の場所であることを理解せざるを得なかった。
とにかく、この街には信じられないことが多すぎる。行き交う人は金銀ばかりか、青や緑の髪を持ち、挙句の果てには二足歩行の猫としか思えない姿をしていたりする。さっき通り過ぎた八百屋の番犬なんて、ワンと吠えながら火を吐いていた。
「もう、意味が分からない」
溜息を吐いて、目頭を揉む。振り返ってもう一度八百屋を見てみたけれど、やっぱり番犬は吠えながら火を吐いていた。
何をどう考えたって、夢だとしか思えない。けれど、石畳の硬い感触や、うっすら漂う潮の匂いは、夢だと思うにはリアルすぎた。匂いのある夢なんて、聞いたこともない。……眠って起きたら知らない場所にいたとか、それ自体が有り得ないのだけれど。
もう一度溜息を吐いて通りの脇へ目を向けると、ガラス張りのショーケースで着飾ったマネキンがポーズを取っていた。曇り一つないガラスは、鏡のように通りの景色を映し込んでいる。虚像の街並みの中から、渋面の少女がこちらを見返していた。
短い黒髪に同じ色の目と、浅黒い肌。天沢直生という男子に見えなくもない名前のせいか、背が低い上に起伏も乏しい残念な背格好のせいかは知らないけれど、高校一年生になった今でも度々少年扱いされるのが不満な――つまり、私である。
夢の中だからか、服装まで変わっていた。着古した中学のジャージを着て寝ていたはずなのに、見覚えのない開襟シャツに、ゆったりしたパンツを身に着けている。いい加減着心地が悪くなってきたジャージを捨てたいという願望の表れだろうか。
「何にしても、そろそろ目が覚めたっていいんじゃないかなあ」
とぼとぼ歩いていると、大きな十字路に差し掛かる。理由もなく左に曲がり、ひたすら歩いていくと、通りは次第に薄暗く、人気がなくなり始めた。……道選びを間違えたかもしれない。
戻ろうかと足を止める。その途端、身の毛もよだつ叫び声が響いてきた。しかも、爆発音みたいなものまで聞こえてくる。
「い、一体、何なのさ!?」
安易に道を選んだことを、心の底から後悔した。とにかく、元の通りに戻らなくっちゃ。慌てて踵を返す――ものの。
「いやいやいやいや……」
振り向いて、半笑いになった。もう、笑うしかなかった。
「何でこんなことになってるかなぁ……」
ひくひくと頬が痙攣する。溜息も出ない。いつの間にやら溢れ出した人の群れで、通りは完全に封鎖されていた。
「何だ、ガキじゃねえか。痩せっぽちでチビ。売れるか?」
「捌いて中だけ売ればいいんじゃない?」
「何それ面倒臭い。手っ取り早く奴隷商に渡そうよ」
聞こえてくる会話が、物騒すぎて泣けそう。ついでに身体的特徴に言及した人は、今すぐバナナの皮か何かで足を滑らせて転ぶといい。――って、そんなことを考えている場合じゃなくて!
こうなったら、することは一つだ。深呼吸をして、両足に力を込める。思い出すのは、聞き慣れた決まり文句。
(よーい、)
ぐ、と軸足が地面を踏みしめる。一瞬の空白。
「あっ、逃げるぞ!」
怒号の中、スタートダッシュ。全速力で走りだす。通りの奥へ向かうのは怖いけれど、捕まるのも嫌だ。夢の中でだって、人を売るだとか捌くだとか言う人々と仲良くしたくはない。
「逃がすな、追え!」
「くそっ、あのガキ速えぞ!」
「何、奥は迷路だ。焦らんでもじき捕まる」
中学、高校と陸上部に所属してきただけあって、走るのは得意だ。ただ、「迷路」という言葉が不安を掻き立てた。行き止まりにでも入ってしまったら、一巻の終わりだ。
「どいつか、飛べる奴いねえのかよ!」
折角のカモだぞ、と怒鳴る声。いないでよ、そんなもん。呻きながら、通りを奥へ向かう。進めば進むほど、道は複雑に入り組んでいった。分かれ道をでたらめに選んで、ひたすらに走る。知らない道を追われている状況のせいか、まだ十分も走っていないはずなのに、もう息が苦しい。ぜい、と喉が鳴る。
その時、唐突に身体が浮き上がった。
「――っ!?」
ぎょっと息を呑む。何が起こったのか分からなかった。慌てて見下ろせば、石畳は足下遠く、両脚は宙を掻いている。
何これ。反射的に悲鳴が飛び出す――
「騒ぐな」
寸前、口は硬い掌に塞がれた。ここに至り、ようやく後ろから抱えられていることを理解する。短く命令するのは低く抑えられた男の人の声で、嫌でも追ってくる人達を思い起こさせた。込み上げる恐怖が呼吸を詰まらせ、カチカチと歯を鳴らす。抱えられたまま、私はどことも知れない白い石畳の上に座らされた。
「……行ったか」
しばらくして、ぽつりと男の人が呟いた。口を塞ぐ手が、胴に回った腕と一緒に離れる。けれど、解放されたことへの驚きや喜びよりも、止まった呼吸の苦しさの方が強かった。
強張った唇と喉は息の仕方を忘れてしまったかのようで、少しも動いてくれない。息苦しさだけが増していって、苦しくてしょうがないのに、どうすればいいのか分からない。どれだけ唇を開いて閉じても、息は止まったまま。
「!」
ふと、大きな掌が視界を覆った。掌の触れたところから、奇妙な温かさが広がっていく。不思議と心を落ち着かせる、柔らかな温度。すうっと、嘘のように簡単に息ができるようになった。
「落ち着いたかい」
呼吸が落ち着くと、掌は呆気ないほどするりと離れていった。静かに問う声に頷いて、俯くように頭を下げる。
「すみま、せん。ありがとう、ございました」
そう答えることに、躊躇いはなかった。何が何だか分からないけれど、助けてもらったことだけは確かだ。けれど、返ってきた声は「礼はいい」と前置きすると、
「薄昏は子供が来ていいような場所じゃねえ。この街に住んでるなら、知ってるはずだろう。死にたいのかい」
淡々と紡がれる言葉は、内容の割にひどく平坦に響いた。咎めるのでもなければ、叱るのでもない。それでも、危険を冒した子供を窘め、警告することに変わりはなかった。
その言葉を疑う気にならなかったのは、実際に助けられているからだ。ここは本当に子供にとって危険なところで、案の定、私は追われていた。だから、助けてくれたのだろう。
「……すみません、でした」
ほっとするやら恐ろしいやらで、答える声が震えた。溜息が落ちて、真後ろにあった気配が離れ、右手へ立ち位置を変える。
「一人でここに来たのかい」
頭上から降ってくる声に、少し躊躇ったものの、頷く。
「家はどこだ」
口ごもる。何と答えればいいのか、分からなかった。
「親は」
更に答えられないでいると、かつ、と硬い靴音が鳴った。ひ、と口の中で小さく悲鳴が上がる。
「す、すみません、ええと、その――」
口を開いてはみたものの、答える言葉は見つからない。分かるのは、相手の機嫌を損ねるのはよくないということだけ。でも、本当に何をどうやって答えればいいのだろう。「夢の中でそんなこと訊かれても困る」? ……不審者以外の何者でもない。
「その、ええと……」
「ああ」
短い相槌は、結局答えの催促に他ならない。どうしてこう、夢の中でまで怖い思いをしなきゃいけないんだろう。理不尽だ。
「あれ?」
そう思って、胸の内に違和感が落ちた。……夢。夢。――夢?
「……!」
理解は、ほんの一瞬。けれど、その一瞬が、私を絶望のどん底に叩き落した。信じられない、信じたくない――でも。
そっと拳を握る。爪が食い込むと、掌は当然痛んだ。夢の中なら、痛みは感じない。どういう理由かは知らないけれど、そういうものだと言われていた。だったら、この痛みは、つまり。
「……夢じゃ、ない……?」
呟いた声は、自分のものだとは思えないほど掠れていた。