暮れ泥む初夏の空の下で
<一>
暮れ泥む初夏の空の下。
団地の中にある商店街の往来に人だかりがしている。
店頭に『タイムサービス』と書かれた看板の前の人だかりを避けながら、乳飲み子をだっこベルトで胸の前に抱いた女が小走りに通り過ぎていく。
『みずほクイックコーナー』で一つしかないATMの前にできている列の後ろに並ぶ。
今日は官公庁を初め多くの会社でボーナスが支給される日だ。女は下ろした金を備え付けの袋に入れ腰につけたポーチに押し込むと、大き目のスーパーのレジ袋を右手に持って家路を急いだ。
女の表情はすこぶる明るい。不景気な世の中であってもボーナスを受け取ることの出来た喜びなのか、それともその額が予想を上回っていたのか。ともかくせかせかと人だかりの中を買い物に歩き回っていた時の表情とは格段に違っていた。
女はいつもの通り商店街から家までの近道をして、緑の生い茂る薄暗い公園に入っていった。
あと少しで通り抜けようとする時、突然脇から出てきた三人の男が女の行く先を阻んだ。
そのうち一人の男は素早く女の後ろ手に回り持っていた大きめのタオルで女の口を塞いだ。
「あうっ!ぐぐっ!」
スーパーのレジ袋が女の手から離れ落ちて中身がばらばらと路に散乱した。すぐさま残りの二人の男が女の体を抱えるように手を回してそのまま女を草の生い茂る木々の間に引きずり込んだ。
女は丈の高い草の中に埋もれ転がりながらも左腕でしっかりと胸の子を抱える。腰のポーチから金の入った袋が抜き取られた。
女の目は一人の男の手に鋭く光る包丁を捉え驚きに大きく見開かれた。女は次の瞬間、反射的に、そして我が子を守る本能からか、うつ伏せになり胸の子供を地面に押し付けながら固く目を閉じ、そして自らの絶命を予感した。
<二>
時は経て二十年後。
避暑地にある白樺高原協会のチャペルではこの日男女一組の挙式が執り行われていた。
新郎の名は朝霧健太郎。二八歳。新婦は理華。二一歳。
健太郎は警察官である。
N県警察に所属する彼は、今春巡査部長昇任試験に合格し、A警察署刑事課の刑事よりN県警察本部の刑事部・刑事一課に転勤となった。
理華には両親が無く、高等学校卒業後にN県内の児童養護施設(旧孤児院)を出所した後、当時斡旋された就職先である植物栽培工場の社員として約六年間働いていた。そして結婚を機に二ヶ月前に退職した。
二人の新居は、当初健太郎の転勤先市内に2LDKの部屋を借りることにしていて賃貸の仮契約まで進めていた。
ところが、昨年郊外に一戸建てを購入したばかりの健太郎の弟がこの春遠隔地に転勤になってしまい、やや市内中心部へのアクセスの悪い不便な所に位置しているということもあって借り手がなかなか付かず空き家になっていた。健太郎は弟に無理矢理自分の購入した住居への入居を頼まれ、格安な家賃を払って健太郎夫婦が入居することになった。
◆◇◆
健太郎は県警本部の刑事として県内の広域捜査に当ることになり、いきなり担当した事件は、居住地から六十キロ程度離れたB市内で起きた殺人事件であった。殺害された被害者は住所不定の無職で、N県の隣のT県で二十年前に団地内の公園で起こった主婦強盗殺人事件の犯人として十四年間服役し、今から六年前に刑期を終えて出所した男である。
健太郎にとっては、地域的に出張を要する遠隔地である上、もっと厄介に思えることがあった。この元殺人犯が殺害された犯行日時は、昨年の六月十日推定午後六時前後である。
今日は六月六日だ。
犯行から既に一年近くの時が経ってしまっている。徒労に終わる可能性の高い『蒸し返し捜査』だ。
証拠はかなり薄れているし新たな有力な証言が一年も経った今出てくるとは思えない。
――最初から俺に無駄骨を折らせる気か?
健太郎は上司がいったい何を考えているのか推しかねて苛ついた。
犯行の手口は、男がB市内の人気の無い倉庫に忍び込み盗むものを物色していたところ、いきなり背後から包丁で一突きされたものだった。一見殺人事件としてはあまり特徴のないものと思われたが、この事件の特徴はそのあとの犯人の行動にあった。刺された男は犯行後、首に縄をかけられて倉庫の鉄骨ラックに吊るされていたのである。使われた縄は近辺で入手出来るものでなく犯行に計画性が有り、残虐性からしても動機は明らかに怨恨によるものと察せられた。
健太郎と組んで実際の捜査行動を共に担当する刑事は警察学校を出たばかりの若い警察官で、健太郎にとっては逆に足手まといになる様な状態だった。
名を大木昇といい学生時代柔道をやっていただけあって体格はかなり良かったが、何せ自分で何も考えようとしない上、一緒に動いていてもかなり目立つので、健太郎は彼を主に県警本部に置き連絡係として上司への取次ぎや資料の調査に当らせることにした。
大木昇には、まず定石通り事件の動機に関わると思われる二十年前の主婦強盗殺人事件について、被害者主婦に関係する人物を資料の上でピッキングし整理させることにした。
<三>
「ただいま」
「おかえりぃ」と微笑を返す理華。
B市での犯行現場の同行と当時の資料の確認を終えて、健太郎はその日県警本部へは立ち寄らずそのまま新居へ直帰した。
前任地のA警察署在任中は、警察署内と管内の派出所の警察官との関わりがほとんどであり、他の所轄の者や県警本部の者とは関わり合いがなかったので、慣れない人脈の中での捜査確認だった。おまけに任された最初の事件が一年も前に起こった事件の蒸し返し捜査だ。
健太郎はたった三日間の出張で肉体的にも精神的にも疲労困憊していた。
そんな中、若くて綺麗な嫁の理華の顔を改めて見た健太郎は一変して疲労を忘れた。
そしてその日は仕事のことを完全に忘れて彼女との癒される時を過ごそうと思った。
理華は子供時代、養護施設の中ではかなり無口な女の子で人見知りも激しかったそうであり、施設の仲間や世話をしてくれる人ともあまり会話を交わさなかったし、そのあと約六年間の社会人としての仕事も広大な植物工場での作業ということもあり、あまり他人との会話がなかったようである。このため、他人から見て理華はどこか年齢の割には社会性が欠けている様にも感じられた。
時々、突拍子もないことを口にするようなこともある。所謂『テンネン』といわれるところである。
「ねえ、私、今日ねえ。人生考えさせられることがあったの」
「何だい?」
「スーパーの駐車場に車入れたら、そこに何て書いてあったと思う?」
健太郎は可愛い新妻の表情に癒されながら、話の内容はともかく頷きながら首を傾げて見せた。
「あのね。立札があってね。そこに『前向きに!』って書いてあったのよ」
――前向きに? 前向き駐車で近隣の住宅に排気ガス向けないってことだろ?
「その時、私ちょっと気持ちへこんでたから看板に感謝したの。人生前向きじゃないとね」
「……ああ、そう、そうだね」
健太郎は苦笑いをして理華に近付き彼女のウエストに手を回すと、そのまま寝室に連れて行き一緒にベッドの上に身を投げ出して体を重ねた。健太郎は疲れていたが、彼女の柔らかい体の感触に力が湧いてくるのを感じた。
彼女は健太郎の唇に指を当てて微笑んだ。
「あのね。それから、私、この前ね。東京に出て新幹線で大阪に向かったんだけど、座席を見てウキウキしっちゃったのよ」
「……まさか座席が前向きだったなんて言わないよね」
「そんなことじゃないの。指定席の番号なの」
「座席の番号か?」
「そう。端っこの窓側の席。『一番のE』だったのよ」
「……?」
「一番のE席、一番のE席。いちばんいい席。ふふっ!」
「……」
健太郎はリアクションに困った。
「それからね。私、何だか得した気分になっちゃてね。帰りの電車も窓口で座席番号を指定したのよ」
「また、いちばんいい席かい? はは。ホントに君は子供みたいな性格だね」
「あのね。健ちゃん。あなた刑事さんでしょ? 最後の詰めが甘いのよねえ……」
健太郎は詰めが甘いと言われて少々ムキになった。
「生意気言うな! どこの詰めが甘いってんだよ」
理華は相変わらずの明るい顔をして言った。
「大阪で切符買ったんだから、一番のE席じゃないでしょ。一番のA席。いちばんえー席やでえ。なんちゃって。へへ」
何故だか部屋の中が『サムイ……』。
しかし健太郎の心には明かりが灯って少し暖かくなった。
こういった会話は日常的なことであったが、健太郎にとってはそれが少しも気にならなかったし、むしろその方がいいくらいに考えていた。
<四>
健太郎が風呂からあがりくつろいでいると携帯電話が一通のメールを受信した。
気だるさそうに開いてみると大木昇からだった。
>朝霧さん。怨恨間違いなしですよ。二十年前の主婦強盗殺人事件は六月十日の推定午後六時前後で、今回の殺人事件と日にちも時間もぴったり同じでした。(大木)
健太郎は『おっ、やはり完全な計画実行犯だな』と拳を叩いたが、そのあとの報告の全く無い大木に苛つきながらメールを返信した。
>よろしい。それはそれで良い情報だが、犯人に結びつく関係者は調べたか? 報告しろ。(朝霧)
返信が来た。
>いえいえ、まだそっち全然調べてません。これからです。それからあと一つ。もう一年前、一昨年の六月十日の事件をN県内とT県内で調べてみましたら、同じ推定午後六時前後にもう一つN県内で殺人事件がありました。調べてみましたらなんと被害者は今回の被害者とほぼ同じ時期に出所した共犯の男です。(大木)
健太郎が指示した調査のピントからは外れているが、これが新人の良さかもしれない。意外な盲点をついている。
彼の話だと、一昨年と昨年二年続けて、二十年前に主婦が殺害された日と同じ六月十日にちょうど主婦を襲った犯人が殺されている。しかも殺害時間までほぼ一致している。
今日は六月九日だ。しかも生き残っているのはあと一人だ。健太郎は、資料や聞き込みで新たに犯人探しをするより、これはひょっとして直接犯人に会えるかもしれないと思った。またとないチャンスかもしれない。
>俺は今から署へ行く。お前、刑事課長にそのことを伝えて、本部に課長と一緒に居るように。
理華が健太郎のメールを見るすべもないが、この夜、健太郎を受け入れる気持ちの中で特別な勘がはたらいていた。
「あなた。こんな夜にまた出掛けるだなんて……。ねえ。明日じゃ駄目なの? ねえ……」
理華は健太郎に初めて文句のような類のことを言い、口を尖らせた。今日が6月9日でなかったならば健太郎は必ず家にとどまったに違いない。
「ごめん。日が無いんだ。明日では駄目なんだ。今日なんだ。ごめん」
口を尖らせたままの理香……。
健太郎は彼女の肩に腕を伸ばしその唇を引き寄せた。そして唇を軽く重ね彼女のウエストをぎゅっと抱きしめた。
「ごめん……」
<五>
夜九時も回る頃、県警本部の打合せ室には、健太郎と健太郎の直属上司である刑事一課長、それに大木昇の三人がいた。
二十年前の主婦強盗殺人は三人組の犯行で、犯人は全員捕まり刑務所に送られた。そのうち二人は六年前に服役を終え出所、残りの一人は主犯格で十九年の服役を終え、先月の五月三十日に出所している。
先に出所した二人は、一昨年と昨年、主婦が殺害された日と同じ六月十日の午後六時頃に殺害された。
あくまで想像でしかないが、連続殺人犯が明確な『怨恨』の意志をもって『計画的』に次の犯行に及ぶとすれば、明日、六月十日の午後六時頃に先月出所した、ただ一人生存している主犯格の男を殺害しようとしている可能性がある。
可能性というより健太郎はそれに賭けた。
つまり、明日の午後六時頃に主犯格の男を監視していれば必ず今回の連続殺人犯を発見できる、というものだ。
いや、健太郎はさらに覚悟を決めていた。
これだけのチャンスを与えられていて、もはや刑事としては自分のことを考えている余裕はない。刑事の根性というか習性に近いかもしれない。つまり、その時刻に主犯格の男と一緒に居れば、連続殺人犯に目の前で会うことができる、ということだ。
ところが刑事一課長は首を振りながら健太郎に言う。
「朝霧。そこまでやるというお前の気持ちはわからないでもない。だが、この場合泳がせることのほうが確実だ。警察が動いたと知れば相手は逃げる。離れるんだ。お前の言う様に、年に一度の機会であればこそ、近付かないで泳がせたほうがいい」
健太郎は言った。
「……課長。すいません。これは私の勝手な判断かもしれませんが、今回の事件はいい加減な恨みではないような気がしています。警察が動こうと何が起ろうともやることは殺る、ような……。時が経ち過ぎてますから」
そしてさらに付け加えた。
「課長……。私は、『もしかして会えるかもしれない』ではなく……」
刑事一課長は大きな声で言葉を遮った。
「わかった。お前のやりたいようにやれ!」
◆◇◆
今回狙われるであろう男の名は金城岳士という。
二十年前の事件の主犯格であり、犯行当日は自らも実行に及んだが、基本的にはチンピラと言われる他の二人とは異なり、以前からT県南部地域一帯に幅を効かしている暴力団組織笠嶋会の若頭となっている。
金城のいる組織のアジトには、いかに警察組織と言えども安直に理由も無く踏み込むことなどできない。強硬に真正面から踏み込んで行くとなると、いたずらに刺激を与え、別な犯罪を誘発することにもなりかない。
連続殺人犯の標的は暴力団組織には関係なく、金城一人である。
――警察も容易には踏み込めないところへ、犯人は一体どうやって彼に近づき標的を殺害するつもりであろうか……。犯人はひょっとして暴力団組織の内部にいる人間だろうか……。
健太郎は混乱していたがもういろいろ考えている時間的猶予はない。
彼は、最初に考えた通り、裏付けはないが今回の標的である金城と犯行予想時刻に一緒にいることが犯人捕獲の唯一の機会であると思い色々と考えることをやめた。
<六>
金城に対しては、刑事部内の『組織犯罪対策室』の室長刑事よりコンタクトをとってもらい、ともかく午後五時に市内の喫茶店に単独で呼び出すことに成功した。喫茶店の向いの食堂と並びの本屋にそれぞれ三名づつの機動捜査隊員を配備している。
健太郎は何かしら連続殺人犯に協力してしまっているような違和感を禁じ得なかったが、年に一回、犯人が自分の目の前に姿を現す唯一のチャンスが今すぐそこに巡ってくるかもしれないと思うとその期待は彼に何でもさせてしまっていた。
健太郎は冷静になってもう一度自分の捜査方針をおさらいしてみた。
犯人の特定についてはどうだろうか。
まずは二十年前に殺害された主婦の肉親を疑わなければならない。しかし、被害者は私生児でありもともと父親はいなし、母親は彼女が殺害される前から県内の特別養護老人ホームに入所しており、医師に重度に近い認知症と診断されている。
被害者には兄弟や付き合いの深い親戚縁者は居ない。そうなってくると残りは被害者の『夫』しか近しい人間は居ないということになるが、その夫は既に十九年前、主婦が殺害されたその一年後に自宅で首吊り自殺をしていてこの世には居ない。
健太郎は、組織抗争が個人の怨恨を装って行われているのではないか、とも思った。
しかし、組織を良く知る『組織犯罪対策室』の室長刑事は、そんな回りくどいやり方は意味も無いし有り得ないと断言した。
『怨恨』の線での犯人の心当たりは調べた範囲においては全く無いといってよい。しかし、状況からして余程の偶然が重ならない限り『怨恨』動機以外には考えられない。完全に相矛盾する事態に健太郎は混乱し頭を抱えた。
生きている人間の中に『怨恨』の心当たりのある者はいない。
この段階で彼の捜査方針は行きずまった。
それでは、生きていない人間はどうか。
被害者本人? もしくは自殺した被害者の夫?
健太郎は再び混乱し、刑事としては考えてはいけないことを頭に浮かべていた。
<七>
指定した時刻の午後五時を過ぎても、金城は健太郎と組織犯罪対策室の室長刑事の待つ喫茶店に現れなかった。
いらいらしているうちに時刻はとうとう午後五時四十分を回った。
二十年前の同じ日の犯行時刻まであと二十分しかない。
健太郎は室長刑事に行動を促した。
「笠嶋会の幹部に金城の所在を確認できないか?」
「やってみよう」と室長刑事。
室長刑事は他の客の聴く耳を嫌って席を立ち、店の外に出て行った。
しばらくして室長が血相を変えて店に入ってきた。
時刻は五時五十分を回っていた。
室長刑事の表情は事の重大さを表している。
「大変だ!金城は今から二十分くらい前に、笠嶋会の事務所を出て、朝霧、お前の家に車で向かったそうだ!」
「おい。今何て言った? 俺の家? 何で俺の家だ!」
「四時半ちょっと前、金城に警察署から待ち合わせの時間と場所の変更連絡があったみたいだ。署の事務員から俺からの伝言と言うことで六時にお前の家に変更するとの連絡だ。有り得ない! 伝言があったことは金城の事務所で金城に取り次いだ本人が言ってるから間違いない!」
「何だと? しまった! そっ、その電話の主が連続殺人犯だあ!!」
体格が良く強面の室長も、健太郎の大きな叫び声に一瞬耳を塞いだ。健太郎の家は、笠嶋会の事務所からも今二人が居る喫茶店からも共に車で普通に行って二十分以上はかかる。
「おい。すぐに行こう!お前の家に」と室長。
「当然だ!」
室長は千円札を二枚カウンターに置いて、
「釣はいらない!」
と奥へ向かって叫び、停めておいた車に乗り込んだ。健太郎もこれに続き車の助手席へ飛び込んだ。
車は激しいタイヤの摩擦音を発して発進した。これを見た機動捜査隊員は一斉に路上へ飛び出てきたが、健太郎と室長の予期せぬ行動におろおろするばかりだ。
「まずは電話だ。二十分前に出たのであればもう着いているかいないかだ」と健太郎。
健太郎は手を震わせながら携帯電話で自宅の理華のもとへ電話を架けた。
健太郎は、服役を終えた元殺人犯の金城が理華の一人で居る家に侵入することを恐れていたが、もっと恐れていたのは午後六時に姿見せぬ連続殺人犯が金城を殺害しようとして、間違いなくその近くに潜んで居る、ということだった。
そのことは一体何を意味するのか。
金城の殺害現場に理華が居るということは、殺害がもし実行された時、目撃者たる理華にも殺意が及ぶ可能性が極めて高いということだ。
<八>
五時五十五分
家に居た理華は二階のベランダに乾してあった布団を取り込んで階段を下りてきた。
ピンポーン。
玄関のチャイムが来客を知らせた。それとほぼ同時にカウンターの上の充電器に差してある携帯電話の着信音が鳴った。
理華は一瞬どちらに応対するか迷ったが、携帯電話の方を先に取った。
「理華か! 俺だ健太郎だ! 誰も家に入れるな!」
「ああ。あなた……。ちょっと待っててね。今玄関に人が来たから……」とのんびりと話す理華。
「おい! ばっ馬鹿!よく聞け! 誰も絶対に家に入れるな!」健太郎が電話の向こうで血相を変える。
「玄関も窓も全部鍵を閉じて、おまえは一歩も外に出るな!」健太郎は怒鳴った。
健太郎の怒鳴り声にびっくりして理華は携帯電話を一瞬耳から離した。
「何? 何? よく聞こえない……」
ピンポーン。
再び玄関のチャイムが鳴る。
「はーい!」と理華。
とりあえず通話の繋がった状態の携帯電話を持ったまま理華は玄関へ向かった。
健太郎には電話を通じてチャイムの音と理華の返事がはっきりと伝わった。
電話の向こうの健太郎は断末魔の叫び声をあげた。
「おい! 馬鹿! 馬鹿! 出るな! 理華! ドアを開けるな!!」
ガターーーン!!
家の中の浴室の方で突然大きな音がした。玄関の前まで来ていた理華はその音に驚いて振り向いた。
――あれ? 誰か家の中に居る?
瞬時に理華は思った。
玄関の来客よりも理華にとってはそちらの音の方がむしろ気にかかった。玄関の鍵は閉めていたはずなのに、家の中に誰かが居る。これは理華にとっては一大事だ。
理華は恐る恐る音のした浴室の辺りに歩いて行き浴室入口から中を覗いてみた。パーテーションと床との間には何やらうごめいている影が見えた。
「キャ――!」
『ぼーーーん、ぼーーーん、・・・・・』
家の柱時計は午後六時ちょうどを告げた。
何か正体がわからないが、理華は恐怖のあまり玄関のほうに走って戻って行った。
何かを引きずるような音が理華を追いかけるような気がした。
理華は、鍵を開けて玄関から外へと勢いよく飛び出した。
外には金城が立っていた。
理華は勢い余ってそのまま外にいた金城にぶつかって二人ともがその場に重なるようにして倒れた。
理華の下になった金城の目は、驚きのあまり大きく見開いたまま扉の開いた玄関の中に向けられている。
理華は背中に言いようもない恐怖を感じながらゆっくりと振り向き家の中を見た。
<九>
そこには何もない。誰も居ない。
しかし、理華は背筋に冷えた感覚を味わった。
――お、お父さん? もしかして死んでしまったお父さん?
理華に、彼女をこの世に残して去ってしまった父の印象は全くない。しかし、彼女はそれを直感したような気がした。
理華は金城と重なっているお腹と自分の右手がかなり熱くなっていることに気がついた。
金城の目は、まだ大きく見開かれたまま玄関の中に向けられている。みるみるうちに玄関の外の地面は真っ赤に染まっていった。
理華は自分の右手を見た。
――ええっ! 何! 何!?
何と……。
携帯電話とばかり思っていた理華の右手には真っ赤な血糊の付いた鋭い包丁が握られていた。
カウンターの上の充電器の横に転がっている携帯電話からは健太郎の叫び声が続いていた。
「理華! 理華! 理華ぁ――――! 返事をしてくれお願いだ! 理華!」
いつの間にか理華の目の色が変わっていた。
その目つき、顔つきはいつものあの、おっとりとした『天然』なものではなかった。きりっとした厳しい顔。しかし、その表情は笑顔を浮かべ満足そうだった。
――お母さんの命を奪った三人の男たち……。ぜーんぶ地獄へ落としてやったわ……。
――私を守って天国へ行ったお母さん。それを追って行ったお父さん。有難う。ありがとう。私も今から行くね……。
そして……。
理華は血糊の付いた包丁を自分の喉元へ当てた。そして、渾身の力を込めて貫通した。
想像を絶する痛みは彼女が期待した『一瞬』ではなかった。床をのた打ち回り、そしてそれでも決して耐えることのできない痛みが襲ってきた。しかし、その後、理華の頭と胸はゆっくりと地面に崩れていった。
カウンターの上の携帯電話からは相変わらず健太郎の絶叫が続いていた。
<十>
健太郎は車の中で狂ったような叫び声をあげながら、頭の中にはふとかつて理華が微笑みながら自分に言った言葉を思い出していた。
――あのね。健ちゃん。あなた刑事さんでしょ? 最後の詰めが甘いのよねえ……。
暮れ泥む初夏の空の下。
機動捜査隊のサイレンの音が遠くこだましていた。
『了』