[信仰] シーマ・フェリックの破戒(後編)
(3)
こうして、セトの妻と敬虔な信仰者というふたつの矛盾する肩書きを同時にシーマは背負いました。
もちろん表立ってシスターだと名乗ることはできなくなりましたが、そんなこととは関係なく、シーマは厳粛な気持ちでもって神様への祈りを続けました。
セトはセトでそんな妻を見ては満足し、フェリック・サーウィン両家の後継者として忙しい日々を過ごしました。
ふたりは周囲には内緒で一度も関係を持つことなく、互いに大切な人の隣で、それぞれがそれぞれのやるべきことを追い求める生活を送り始めたのでした。
しかし、そんな理想の生活だったはずなのに。
日を追うにつれ、シーマはどんどん切なくなっていくのでした。
迷いなく神の道に入り、神様に全てを捧げる覚悟をしたはずだったのに、ひとりで淋しい夜を過ごすセトのことを考えると、胸がどうしても痛みます。
自分がセトの相手をしてあげられない以上、他の誰と何をしようが自分は見て見ぬふりをする。
そう言い含めてあったのにも関わらず、セトは一向に誰とも付き合う様子がありません。
そして、シーマの顔を見かけるたびに、にっこりと子供のような顔で笑います。
シーマはその笑顔に曖昧に微笑み返しながら、本当にこれで良いのだろうかと思うのでした。
神様、
大切な人を幸せにしたいと願うことは、
本当に神の道に反することなのでしょうか?
シーマは来る日も来る日も悶々と考え続け、あらゆるところで答えを探しました。
ですが聖書を読んでも、素性を隠して神父に尋ねても、親しい友人に相談しても、どんな場所を探しても、誰に尋ねてみても、どうしても答えは見つかりません。
シーマのことを敬虔なシスターだと思っている人々は揃って神の道を選べと言いますし、シーマのことをただの女だと思っている人々は揃ってセトのことを想えと言います。
そして、そのどちらもがシーマには正しく思えて仕方がありませんでした。
ミユウなら、こういう時はどうするのでしょうか。
いや、一瞬の逡巡もなく神の道を貫き通すに決まっています。
ならば自分もそれに倣うだけです。考える余地などありません。
でも。
シーマはシーマであって、どこまでいってもミユウではなかったのです。
ある大雪の夜。
シーマはとうとう、決意を固めました。
我慢できない想いを、今夜だけは縛り付けない。
その代わり、明日からはもう二度と迷わない。
そう誓って、その夜の間だけ、シーマはミユウの影を追うことをやめたのでした。
そして。
シーマは再び信心深い信仰者に戻り、またそれまでのような生活が始まりました。
セトは最初は不安そうな顔でしたが、シーマの幸せそうな表情を見て、すぐに安心しました。
これでもう迷わずに、真っ直ぐ神の道を進むことができる。
もうこれで何も問題はなくなった。シーマはそう信じて疑いませんでした。
ですがそれからしばらくして、シーマは自分の身体に異変が起きていることに気がつきました。
妙に身体がだるくなったり、吐き気がしたり、食べ物の味がわからなくなったり……
シーマももう子供ではありませんから、自分の身に何が起こっているのかすぐ理解しました。
ああ、きっと。
たった一度の逢瀬で、シーマはセトの子供を宿してしまったのです。
だからといって、それを表沙汰にするわけにはいきません。
シーマは誰にもそのことを言わず、どうしよう、とずっとひとりで考え続けました。
一度の過ちなら、ひょっとすると神様も許してくれるかもしれません。
ですがこれだけは話が別です。神の道を歩む者にとって、絶対に許されるようなことではないのです。
しかし、どれだけ慌てふためいたところで、今更どうなるものでもありません。
どうして良いのかわからないまま、順調にお腹の中の命が育っていくのをシーマはただ感じていました。
他ならぬ自分の中で、自分の信仰心を全否定する証拠がどんどん大きくなってゆく。
お腹の中のまだ見ぬ子供は、絶えず全力でシーマの願いを否定し続けます。
シーマはとうとうミユウにはなれなかったのだと、あらん限りの声で叫びます。
シーマは恐怖しました。
今まで生きていく上で拠り所にしていたものがボロボロと崩れ、最後には何もなくなってしまうという恐れ。
ミユウの再現だけを支えにしてきた上、信仰ゆえにセトをも突き放したシーマは、このままでは生きる理由をなくしてしまいます。
何度か、シーマはお腹の赤ちゃんがいなくなってしまえば良いのにと考えました。
でもその次の瞬間にはいつも自分の恐ろしい考えに戦慄し、激しく後悔しました。
神への信仰を貫き通すがために、神様の教えに背くなんて。
この胸に伝わる命の温かみを、まだ何も知らない赤ん坊を、よりにもよって呪うなんて。
恐ろしい。
なんて恐ろしい考え。
そして、そんな恐ろしい考えを一瞬でも持ってしまう自分が何よりも一番恐ろしい。
そう思うと、どんなに激しい恐怖に囚われていても、シーマは何もできなかったのです。
それに。
どれだけ自分にとって不都合な存在であったとしても、
愛する人と自分の間の子供だから、やっぱり可愛くて仕方がなかったのでした。
強烈な恐怖の感情と、それでもやむことのない小さな命への愛情。
その狭間で小舟のように翻弄されながら、シーマは呻きます。
自分が何をしたいのか。何をしなければならないのか。
そんなことばかり考えているうちに頭の中がぐちゃぐちゃになって、ミユウのこともセトのことも信仰のことも子供のことも、何もわからなくなっていくようでした。
そしてそれから間もなく。
とうとう、限界が訪れました。
シーマは何もかもを捨てて逃げ出しました。
誰も自分のことを知らない場所に行き、そこでひっそりと別の人生を送る。それしかないような気がしたのです。
シーマはありったけのお金をバッグに詰め込んで、汽車でひたすら遠くに逃げました。
もちろんフェリック家やサーウィン家の情報網は侮れません。
しかしずっとその中に身を置いてきたシーマには、その穴もまた良くわかっていたのです。
誰にも見つからないように細心の注意を払いながら、シーマはどんどん東の方へ向かいました。
自分を知っている者の誰もの目が届かない場所へ。
やがて山奥の小さな村に辿り着いたシーマは、そこでひっそりと赤ちゃんを出産しました。
赤ちゃんは女の子でした。
赤ちゃんには、村の神父によってリコという名前がつけられました。
シーマは逃げる時に持ち出してきたお金で村外れの古びた家を買い、その村で暮らし始めました。
そこではシーマはマリーと名乗り、娘のリコとふたりきりで住むことにしたのです。
最初は奇異の目で見ていた村人たちも、シーマの態度を見て怪しい者ではないと判断したのか、しばらくすると誰もが親しげに接してくるようになりました。
こうしてシーマはマリーという全く別の女として、新しい日々を送り始めたのでした。
そして何事もないまま、五年の歳月が経過しました。
その間、フェリック家からの追っ手は一度も来ませんでした。
(4)
シーマは一生懸命働きました。
とても厳しい生活でしたが、修道院にいた頃の経験が活きたのか、親子ふたりだけでも、どうにかやってゆくことができました。
最初は近くの農家の手伝いをしていましたが、やがて畑を少し譲ってもらい、そこで自分の作物を丹精込めて育てているうちに、収穫の喜びにも触れることができました。
その間もリコはすくすくと元気に育ち、どんどん母親そっくりの美しい女の子になってゆきます。
村人たちはみな優しく、子供は元気だし、働くことに充実している日々。
何より、ここでは難しいことを何も考えなくても良いのです。
シーマは幸せでした。
それでももちろん、最初のうちは慣れない環境に随分戸惑いもしました。
幼い子供を抱え、当てになるものは何もなく、その日食べるもののことを一生懸命考えなくてはならない生活。
それまで自分が信じられないほど恵まれた暮らしをしていたのだということをシーマは痛感しました。
リコも寝静まった夜更け、たまに実家やセトの顔を思い出しては、どうしようもなく切なくなって、人知れず泣くこともありました。
しかし今更戻るわけにはいきません。
それに、すくすく育つリコの顔を見るたびに、シーマの体には力がりんりんと湧いてきます。
月日が経つにつれホームシックにかかる回数も少なくなり、やがてシーマはすっかりその生活に慣れてしまいました。
しかしそんな生活の中でもシーマは、ずっと心の奥底に何かどんよりとした泥のようなものが沈んでいるのを感じていました。
もちろん、自分はその泥の正体を知っています。それが決して良いものではないことも知っています。
しかし、触れると泥は上澄みと混ざり、何もかもぐちゃぐちゃになってしまう。
なのでシーマはあえてそれについては考えないようにしました。
不用意に触りさえしなければ、ずっと何事も起こらないだろう。
このままで良いんだ。
だからこのことは、どんなに親しい村人にも、もちろん娘のリコにも、ひとことも話しませんでした。
そしてシーマが村に来てから五年めの早春。
村のすぐ近くで、激しい戦争が起こりました。
村人たちはすぐに避難したので、幸いにも死者を出さずに戦争を乗り切ることができました。
しかし村に帰ってみると、家々や畑は荒れ放題。
春先の収穫前の時期だったこともあり、どの家にも何の蓄えもありません。
おまけに野盗と化した敗残兵たちが徒党を組んで、夜な夜な村を襲いにやってきます。
村はたちまち厳しい状況に晒されました。
それはシーマの家ももちろん例外ではありません。
辛うじて山で採れた数少ない山菜や、わずかな穀物ばかりを食べる日々が続きました。
リコもいつもお腹を空かせ、シーマにしきりに食べるものはないかと聞いてきます。
シーマはあいまいに笑いながら、小さなリコの体をぎゅっと抱き締めるしかありません。
村のどこを見ても、どの人々も同じように苦しんでいます。
みんな空元気を出して、そのうちどうにかなるさと気休めみたいな笑いを繰り返しています。
しかし実際は極度の空腹と疲労で、誰もがふらふら、今にも倒れそうです。
大好きな人達がどんどんやつれてゆく様を見るたびに、シーマはとても申し訳ない気持ちになるのでした。
もし、フェリック家の財産があれば。
誰もいない家の中で、何度もシーマはそう考えました。
もし有り余るほどのお金があれば。食べ物があれば。リコはこんなに辛い思いをしなくて良いのです。
それどころか、お世話になった村人たち全員を助けることもできるかもしれません。
自分がひと声かけるだけで、たちまち全ての問題は解消されてしまうことでしょう。
しかしそれだけはできません。
そんなことをすれば、信仰者シーマは死んでしまいます。
五年ぶりに見つかったかつての敬虔なシスターは、あろうことか自分の子供を脇に抱えていた。
これでは、とうとう最後まで信仰を貫けなかったことが明るみに出てしまいます。
逃げ出したことを責められるのは怖くない。
しかし、ミユウの遺志をとうとう継ぐことができなかったと認めてしまうのが何より怖い。
シーマ・フェリックはミユウの遺志を継ぎ、神の道を歩くために生きています。
それが達成できなければ、「シーマ」という女は生きる意味を失い、やがて枯れ木のように朽ちるしかないのです。
ここにいる限り自分は「マリー」であり、「シーマ」の抱える苦悩とは関係なく生きてゆくことができる。
必死でそう思い込んで生きてきたこの五年間。
この先も、そうやって生きてゆく。だから、ここで軽はずみな行動をすべきではない。
したら、してしまったら、その瞬間にすべてが終わってしまう。
「マリー」の暮らしも、「シーマ」の生きる意味も、何もかもが失われてしまう。
だから、今は何もすべきではないんだ。
それはわかっているのに。
自分には、それ以外の選択肢なんてないはずなのに。
その夜。
とうとうリコが倒れました。
シーマはリコを粗末なベッドに寝かせると、その手をそっと握りました。
がりがりにやせ細った手は見た目よりずっと軽く、ちょっと強く握っただけで粉々に砕けてしまいそうなほどに弱っていました。
シーマは我を忘れて家中を探しましたが、どこにも食べ物はありません。
もちろん、他所の家に行ってもほとんど同じ状態であることは十分過ぎるほど知っています。
食べ物を恵んでもらえるような家は、この村のどこにもありません。
「おなかすいた」
リコの小さな呟きが、シーマの耳を突き刺します。
シーマはその手をぎゅっと握り、顔を近付けて祈るように目を閉じます。
「ごめんね、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ我慢してね……」
リコはシーマの顔をじっと見て、やがて笑ってうん、と頷きました。
すぐに聞こえ始める微かな寝息。
シーマは涙を流しながら、自分は一体何をしているのだろうと考えました。
自分の娘を死の渕に立たせてまで。
辛い時に助けてくれた、大切な村人たちを見捨ててまで。
そこまでして、自分は一体何を守っているのだろう。
何を恐れているのだろう。
記憶の彼方、幼かったあの時、自分を守って死んでいったあの背中。
その背中を追いかけることだけが、ずっと自分の生きる目的だった。
成し遂げられなければ死ぬと思っていた。
だが、ああ、自分は何を勘違いしていたのだろう。
ミユウがこの場にいたとして、今の自分と同じ行動をするだろうか?
これが信仰の道を歩むということだとでも言うのだろうか?
もしここで自分が何もしなければ、同じことをもう一度繰り返すことになる。
また自分のために他人を犠牲にして、たったひとりで生き延びることになる。
それで良いのか?
本当にそれで良いのか?
ミユウは――――そしてシーマ・フェリックは、そんなことを本当に望んでいるのか?
違う。
そんなことは、望んでいない!
これで、自分は全てを失うだろう。
生きる目的も、この村の生活も、信仰も、何もかもを失う。
あとに残るのは存在理由を失った燃え滓、神への裏切りを犯したシスター崩れの醜い残骸だけだ。
だが、それで良いんだ。
私はそれで良いんだ。
翌朝、シーマは一通の手紙を出しました。
手紙はその三日後にセトの元に届き、そのさらに二日後にはフェリック家の使いが大挙して押し寄せ、村の全ての家々にパンと温かいスープが配られました。
さらに雇われた兵士たちが近隣の山を捜索し、野盗たちを追い払ってくれました。
奇しくもその兵士たちのうちの何人かは、かつて奴隷商人と戦った時の兵士と同じ者でした。
リコが元気になった頃、ようやく激務を片付けたセトがシーマのもとにやって来ました。
セトはリコの――自分の娘の姿を一目見て、五年前に何があったのかを一瞬で悟ったようでした。
「おかえり」
セトは五年ぶりの妻の顔を見て、まるで大好きな食事を前にした子供のように、無邪気に笑いました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
シーマはセトに抱きつきながら、この人にはどれだけの迷惑をかけただろうと思いました。
今まで自分は逃げてばかりだった。
だから、この人にも、孤児院の人にも、村のみんなにも、今度こそ本当に全てを話さなくてはならない。
そして、これまでの迷惑の分、これから一生をかけて尽くすのが私に残された責務だ。
こんな私でも、少しでも誰かを幸せにできるだろうか……。
そんなことを考えて、その瞬間、シーマは気づきました。
ああ、なんだ。そういうことだったのか。
最初からこうすれば良かったんだ。
思えばあの時、孤児院のシスターも言っていたじゃないか。
「もしあの子のことを可哀想に思うのなら、
その分だけあなたがみんなの幸せを願ってくれないでしょうか」
信仰の本質とは、神様の代わりに隣人の幸せを願うこと。
それ以外の何物でもなかったのに。
自分は生きる理由なんて、これっぽっちも失っていなかったんだ。
ミユウ、これまでずっとありがとう。
そして、これからもよろしく。
シーマ・フェリックは、それからずっと幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
[信仰] シーマ・フェリックの破戒(了)
本当はもっと正面から信仰というモチーフを扱うはずだったのですが、私が扱うにはあまりにデリケートすぎて、
結局全然違うテーマを上からかぶせてわかりやすい方向に逃げてしまいました。ごめんなさい。
ほとんど善人しか出てこない話になってしまったのは反省。