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[鍋] 悲しみ鍋を召し上がれ



 徹夜明けで重いまぶたをこすりながら階段を下りていると、早速何か変な匂いが鼻に飛び込んできた。

 これが噂の「悲しみ鍋」の匂いに違いない。

 ドアを開けて居間に入ると、匂いはいっそう強くなった。

 台所からは、何か巨大で得体の知れないものをぐつぐつと煮込んでいる音も聞こえる。

 あまりの匂いに顔をしかめていると、窓際の座布団の上で新聞を読んでいた父が顔を上げた。

「おう灯子、大丈夫なのか」

「うん」

「そうか」

 父はそれきり黙って再び新聞に目を戻した。私も黙ったままソファに座ってテレビをつける。

『――昨日午後五時に名北市で無事捕獲された前代未聞の『青いカラス』の集団は、何者かが青いスプレーを使って着色したものであることがわかりました。警察では現在、これは悪質な悪戯であるとして、目撃者を探しています』

「世界は平和だな」

 そんなことを言いながら、頭の中は違うことでいっぱいだ。

 あっという間に終わってしまった新婚生活。もうあのマンションに帰ることはないだろう。

 荷物はほとんど残してきたままだから、明日か明後日には回収しに行かなくてはならない。

 こういう時、彼がいれば本当に助かったものだ。父はもう年だし、遊びまわっている弟は手伝ってくれるかどうか怪しい。

 でも彼はもういないのだから、自分が頑張るしかない。

 あの楽しかった日々を自ら破壊することに、本当に耐えられるかどうか、全然自信がないけれど。

「あら灯子、起きてたの?」

 台所から母が顔を覗かせていた。私は表情を作れないまま、うんとうなずいた。

「寝てないでしょ」

「大丈夫だよ」

 母は困ったような顔をしたが、どうにもならないことをすぐに悟ったのだろう。話題を変えた。

「アレ、今作ってるけど……」

「悲しみ鍋? すごい匂いね」

「実物はもっとすごいけど、食べれそう? 身体は……」

「身体は別になんでもない。食べれるよ。頂戴」

 そう、と言い残して母は台所に消えた。私は後を追って食卓へ向かう。

「灯子」

 振り返る。父は空咳をしながら、ぼそりと呟いた。

「無理するなよ」

「大丈夫だって」



 夫を亡くした妻、妻を亡くした夫は、たったひとりで悲しみ鍋を食べなくてはならない。

 この世に存在するあらゆる食材を使って、出来得る限り最もひどい味に仕立て上げられた、最悪の鍋。

 これを、この地獄のように熱されたふた目と直視できない恐るべき料理を、ひたすら食べ続ける。

 悲しみ鍋を食べている間は、他の何物をも口にすることはできない。何日かかってでも、必ず完食しなくてはならないのだ。

「うっぷ」

 悲しみ鍋の第一印象がそれだった。

 家で一番巨大な鍋にたっぷりとたたえられた、真っ黒い液体。ボコボコと際限なく沸き立ってくる気泡。

 コールタールのような深い黒の、その沼の中にちらりと見える、肉のようなもの。何の肉なのかは考えたくもない。

 泥漬けになって浮かんでいる野菜のようなもの。本当に野菜と言い切れないのがこの鍋の恐ろしさだ。

 さらに目を凝らすと、豆のようなものがぷっかりと……本当に豆か? それとも卵か? チョコボールの成れの果てか?

 そしてそれらの集合体から漂う、硫黄とアンモニアの中に首を深く突っ込んでいるかのような、この強烈な悪臭。

 こんなものを食べなくてはならないのか。

「これでも、レシピの中から一番マトモそうなのを選んだんだけどねぇ」

 そう言う母はすでに鼻栓装備済みだ。

「マジで……」

 ボコボコボコボコボコボコボコボコ。鍋の異常な沸騰音。

 できることなら今すぐ逃げたい。こんな鍋、即廃棄してなかったことにしてしまいたい。

 けれど。

「……始めなきゃ、終わんないもんね」

 私は彼からもらった指輪を外し、鍋の上にかざす。きらりと鈍く光る指輪を、瞬く間に容赦のない湯気が覆う。

 目を閉じて、手を離した。どぷん、という音がして、指輪が漆黒の液体に飲み込まれる。

 開始の合図。これがはっきり見えるくらいまで食べ尽くせば、ゴールだ。

「じゃあ……いただきます」

 母からおたまを受け取り、悲しみ鍋をすくう。異様な抵抗。粘度が普通の鍋と明らかに違う。

 重い。

 鍋からすくった塊を、受け皿に叩きつけるように入れる。べちゃっという不快な音がした。

 箸と受け皿を手に持って、得体の知れないブツを凝視する。風船ガムのようなでかい泡が膨らんできて、ぼこりと破裂した。

 こ、こんなんでも、きっと味はまだ!

「……おぇ」

 美味いわけがなかった。

 甘いのか、苦いのか、酸っぱいのか、辛いのか、あるいはしょっぱいのか、わからない。未知の味だ。

 でも、確実に言えることがひとつだけ。死ぬほど、まずい。

「と、灯子」

 思わず助けに入ろうとする母を手で制して、私は目を閉じ、一息にごくりと飲み込む。不思議な喉越しだ。

 これだけはまだ、最悪というほどのレベルではないような気がする。

「……っ!」

 受け皿を傾けて、残っていた分を一気に流し込んだ。絶望の味。破滅の食感。というか熱くて火傷しそうだ。

「はふ、はふ、はふ」

 死にそうだ。こんなわけのわからん鍋を食べて、私は死にそうになっている。

 夫が死んで、毎日泣いて、だけど今の私は変な鍋のせいで死にそうだ。いったい私は何をやっているのだろう。

 だんだん腹が立ってきた。そもそも、なんでこんなもの食べなきゃならないんだ。

 むかつく。むかつく。むかつく。

 目の前にある、このヘドロの塊がむかつく。

 そうはっきり自覚すると、何もかもがこの鍋のせいであるように思えてきた。

 夫が死んだのもこの鍋のせいだ。

 たった半年で新婚生活が終わってしまったのもこの鍋のせいだ。

 葬儀代が予想以上にかかったのもこの鍋のせいだ。喪服がやけに高かったのもこの鍋のせいだ。

 死に目に立ち会えなかったのも、お腹の子供が父親に会うことができないのも、みんなみんな、この鍋のせいだ。

「……ひふほう」

「え?」

「ひくひょう……」

 おたまをちぎり取るように掴んで、力任せに鍋に突き刺す。そして、勢いよく引き抜く。

 受け皿に叩きつけ、箸でかきこむ。熱い。まずい。喉越しだけが良い。

「ふぎっ! ほいっ!」

 間髪入れず、受け皿に次の一杯をすくい取る。今度は件の「肉のようなもの」が混じっていた。

 関係ない。がっついた。

 むかつく。むかつく。むかつく。

「はふ、はふ、はふ、はふ」

 すくっては食べ、すくっては食べ。勢いが止まらない。

 体の中によどんでいた全てのエネルギーを、この鍋を食べることに叩き込む。畜生。畜生。むかつく。

「うふっ……あふ、あふ、あふあああっ」

 ぼろぼろと涙を流しながら、あまりの熱さに悶えながら、私は一心不乱に悲しみ鍋を食べ続ける。

 苦味も甘味も思い出も、何もかもを飲み込みながら。





[鍋] 悲しみ鍋を召し上がれ(了)

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