[ツナマヨ] ツナマヨだけはぼくのもの
十月十三日、午後十時ジャスト。
俺はスーパーマーケットの店内を五周した挙句、また「そいつ」の前を通り過ぎた。
店舗の一角を占めるおよそ二十平方センチメートルほどの惣菜コーナー、その横のおにぎり陳列棚に並べられたツナマヨおにぎりである。
値札は未だ定価のまま、すなわち百五円。店内に並ぶおにぎりの中では最も安い部類に属する。
他に安いおにぎりとして、鮭、昆布、梅が同じく百五円であった。
もう少し高い部類になると、牛カルビ、明太子、五目、これらは百二十六円である。
さらに値の張る部類にはごろっとチャーシュー、北海道いくら、期間限定ジャンバラヤなどがあったが、俺はそれらを食したことはなかった。
理由はひとつ、貧乏である。おにぎりに百五十円以上払いたくないというみみっちい根性もあるにはあったが、金銭的に余裕がないのだ。
余計な金は全て書籍代につぎ込んでおり、食物は最低限生存に必要な分のみあれば良いと割り切っている。
家にある食物はすでに食べ尽くした。明日の給料日まで、俺が腹に詰め込める炭水化物はこのおにぎりだけだった。
俺はおにぎり棚を通り過ぎながら、ちらりと横目で「それ」の様子を確認する。
最低価格ランクのおにぎりの中で、唯一つ残ったツナマヨおにぎり。値札はやはり百五円だ。
ええい、まだなのか。
値下げはまだなのか。
店内をひたすらぐるぐる回っているのも、このおにぎりの値下げを待っているからに他ならない。
財布には百円玉が一枚だけ。百五円だと買えないのだ。
通例スーパーマーケットでは、一日の営業時間の最終盤に差し掛かると、生ものの値下げに取り掛かる。
翌日まで持たない食品は安くても売り払った方が得だからだ。
十一時には閉まるこのスーパーマーケットでもそれは例外ではなく、いつもの流れで言えばそろそろ値下げが行われる時間だった。
その時、俺は視界の隅に値札打ち機を持った店員の姿を認めた。間違いない、おにぎりを含む惣菜の値下げに来たのだ。
ついに来たか。
散々待たせよってからに。
俺は近くの冷蔵ラックの納豆を吟味するふりをしながら、横目で店員の挙動を監視する。
この若い男性店員はから揚げ類の値下げから入り、次におにぎりの値下げに入る。全店員の値下げ行動パターンは把握済みである。
今日は、から揚げ類は全て売れているので棚には何も残っていない。
男性店員はおもむろにツナマヨおにぎりを手に取ると、バーコードにかぶせるように「20%引き 84円」のシールを貼った。
今こそ好機!
俺は納豆ラックを離れ、何食わぬ顔でおにぎり棚に接近する。
店員が明太子おにぎりへのシール添付に集中している隙を突いてツナマヨおにぎりを回収するのだ。
店員がかがんで下を見た瞬間を見計らい、ツナマヨおにぎりに手を伸ばす。
そこで全く予想外のことが起こった。
もう一人、違う人間の手が伸びてきて、ツナマヨおにぎりの前で俺の手と衝突したのだ。
手の持ち主は俺と同じくらいの年齢の見慣れない男だった。
スーパーマーケットの常連は大体把握しているが、この男は初めて見る。
お互いにびっくりした顔を見合わせ、続いて敵意に満ちたまなざしを交わした。
俺、ツナマヨ狙ってたし。
俺の方が先にツナマヨ狙ってたし。
お前さっき納豆見てたじゃねえか。納豆買えよ。
納豆見てたからって納豆買わなきゃいけないなんて法律はありませーんー。
無言のまま、一瞬で互いの思考を読み取る。互いに引く気はないと、魂が理解した。
どうする。
獅子のごとき殺気を纏って男を睨み付けたが、男は大鷲のごとき威圧で対抗してくる。そう簡単に折れてはくれないようだ。
ならば……
公正明大に、じゃんけんを持って勝負を決するしかあるまい。
そう思って手を振り上げかけたその時、男は静かに言った。
「わかった。お前もツナマヨを譲る気はないんだな。ここは互いのツナマヨにかける想いをぶつけ合って勝敗を決めようじゃないか」
えっ。
えっ?
俺は自分の目が点になったことを自覚した。
足元では男性店員が、眠そうな顔で北海道いくらおにぎりにシールを貼るところだった。
「思えばあれは十年前。当時小学生だった俺はいつも孤独だった」
男は訥々と語りだした。俺は展開についていけず、ただ男の語るがままに任せていた。またずいぶん昔の話だな。
「体育の授業でも一人、休み時間でも一人。
切なかった。
悲しかった。
ちょっと大の方のトイレに行ったからっていじめすぎだと思うが、今になってそんなことを言っても詮無いな。
そんなこんなで、俺はひたすらに孤独だった」
ああ、小学生は大の方のトイレに入った奴を見つけたら徹底的にからかうよね。ってこいつは何を話しているんだ。
「あの遠足の日も俺は一人だった。山頂への道のりはひたすら苦しかったことだけを覚えている。
ああいう登山遠足はテンション高めて乗り切るもんだからな。テンション最低の俺がくたくたになるのも無理はない。
そして山頂に着いた時に事件は起こった。弁当箱がないんだ。持ってくるのを忘れたんだ」
あー。それはつらい。俺は男に同情した。疲れ切っていて、腹も減ってるところにその仕打ちは自業自得とはいえ惨い。
食べ盛りの小学生ならなおさらだろう。当時の俺は特に大食いだったから、余計に気持ちがわかる。
「途方に暮れた。涙がこぼれそうになった。ただでさえ一人の昼休憩時間は時間を持て余す。
せめて目の前の食べ物に集中すれば気を紛らわせることもできるだろうが、それすらできない。
体はもちろんふらふらだ。精神的にも身体的にも限界だった。俺は天を恨んだ。俺が何をしたっていうんだ。
そんなに学校でうんこするのはいけないことだったのか。どう考えてもいじめすぎだ」
男は悲嘆に喘ぐ瞳で天井を見上げた。
「しかし神は俺を見捨てなかった。近くにいたクラスメイトの男子が、俺にそっと近寄ってきて、おにぎりを一個渡してくれたんだ。
盛んにいじめていたグループとは別のグループに属していた奴だった。俺はたくさん食いもんあるからやる、それだけ言って去っていった。
俺は夢中で彼のくれたおにぎりにかぶりついた。ツナマヨの塩気が口の中いっぱいに広がって、体の隅々まで染み渡っていった。
端的に言って、俺は救われた」
まあ、そりゃ嬉しいだろうよな。しかし結局「遠足で弁当忘れたらクラスメイトがおにぎりをくれた」ってだけの話じゃねえか。
……あれ? なんかそういうの記憶にあるような……
「俺はそれからすぐ引越し、転校先の学校では友人に恵まれたおかげでもう辛い思いをすることはなかった。
しかしあのツナマヨの味は一生忘れられないと思った。
それから俺は、おにぎりは必ずツナマヨを食べるようにしているんだ。
俺にとってツナマヨは思い出の食べ物であると同時に感謝の祈りなんだ。
わかったか。
だったらそのツナマヨを早く俺に」
「おい。あっちぃか? お前、あっちぃなのか?」
俺は思わず男の言葉を遮り、問いかけていた。
学校でうんこしていじめられてたあっちぃ。知ってる。俺はそいつを知ってる!そして俺は……
「……まさか。お前……森やんか? 森やんなのか!?」
「そうだ。森やんだ。あっちぃ」
なんてことだ。こいつにおにぎりをあげたのは、他ならぬ俺自身!
すっかり忘れていたが、そういえばそんなことをしたような気がする!
「あっちぃ。お前いつこっちに戻ってきたんだよ。久々すぎてわかんなかったぞ」
「今日だよ。まだ荷物がダンボールに入ったままだ。だから食べ物を補充しに来たんだが……そっか、森やんだったのか……」
男は目を閉じ、永い永い月日をかみ締めるような深いため息をひとつつくと、そっとかぶりを振った。
「わかった。あの時お前にもらったツナマヨを、今ここで返す。今がそのタイミングだ」
あっちぃは体を引くと、さあ取れ、と言わんばかりにツナマヨおにぎりを手で示した。そして、俺の瞳をまっすぐに見つめてきた。
本当にいいのか?
いいんだ。持っていけ。
刹那の視線の交差。俺とあっちぃは十年前の小学生の姿に戻り、無言のまま頷きあった。言葉にするまでもない友情がそこにあった。
わかった。ありがたく頂戴する。
幼い目尻に涙の光を浮かべ、半ズボン姿のあっちぃは小さく微笑んだ。
その瞬間であった。
「あー、これと、これと、ついでにこれと…」
突如として現れたトドのようなおばちゃんが、値下げされたツナマヨおにぎりをむんずと掴み、食料品を満載した買い物カゴにぶち込んだ。
そして、そのままどしどしと去っていった。
「……」
「……」
俺とあっちぃは呆然とその後姿を見送った。全ては一瞬の出来事であり、そしてもう終わってしまったことだった。
「……えーと。じゃあ俺はこれで」
やっとのことで搾り出したような声で、大人に戻ったあっちぃが乾いた会釈をした。
俺は一人、百円しか入っていない財布を握り締めたまま、いつまでもそこに佇んでいた。
[ツナマヨ] ツナマヨだけはぼくのもの(了)
津軽あまにさん(http://mypage.syosetu.com/106029/)、吾妻巧さん(http://mypage.syosetu.com/137928/)、ヤマネさん(http://mypage.syosetu.com/112345/)、犬居のすけさん(http://www.pixiv.net/member.php?id=3621536)、小鳥遊ここあさん(http://mypage.syosetu.com/205868/)らと開催した「お題を決めて1時間でSSを書く」企画で執筆した作品です。