さよならの花が降る前に
こちらは、恋の終わりに白い花が咲く街を舞台にした短編読み切り作品です。
忘れることで、救われるのか、それとも痛みごと大切に抱えていくのかーー紬と伊織が選ぶ答えを、最後まで見届けていただけましたら幸いです。
この街では、誰かとの恋が終わると、その人のもとに一輪だけ、白い花が咲く。
鉢植えの土から芽吹くこともあれば、閉じた本の隙間から顔を覗かせることもあり、枕元や鞄の底、昨日まで何もなかったはずの場所に、まるで別れを告げるために現れるのだという。
そして、花が咲いた夜から七日目の午前零時、白い花びらは静かに散り、そのうちの一枚を飲み込めば、終わった恋の記憶をすべて忘れられる。
だから、この街に暮らす人々は、叶わなかった恋をいつまでも引きずらない。
忘れたい人は花びらを飲み、忘れたくない人は花を瓶に閉じ込める、ただそれだけの 簡単な決まりだった。
紬の部屋に白い花が咲いたのは、伊織と別れた翌朝のことだった。
窓辺に置いていた空の花瓶から、細い茎が一本伸び、その先に透き通るような花弁を広げていた。
別れたばかりの恋人のために咲いた花だと、考えるまでもなく分かった。
「……本当に、咲くんだ」
指先で触れると、花びらは微かに震えた。
伊織と出会ったのは三年前、駅前の小さな書店だった。高い棚に置かれた本を取ろうと背伸びしていた紬の代わりに、彼が何も言わず取ってくれたことが始まりだった。
同じ作家が好きで、雨の日が好きで、甘い珈琲は苦手で、いつか海の見える街にすみたいという夢まで同じだった。
自分たちは、きっと出会うべくして出会ったのだと、紬は信じていた。
けれど、伊織に遠くの街への転勤が決まり、紬は一緒に来てほしいと言われなかった。
待っていてほしいとも、離れていても続けようとも言われず、彼はただ、「ここで終わりにしよう」と告げた。
理由を尋ねても、伊織は困ったように笑うだけだった。
あの日の笑顔を思い出すたび、胸の奥に細い針が刺さる。
花が散るまで、あと七日。
七日目の夜、花びらを飲みこめば、伊織を忘れられる。
最初に交わした会話も、繋いだ手の温度も、眠る前に届いていた短いメッセージも、別れ際に見せた寂しそうな横顔も、すべて初めから存在しなかったことになる。
そうすれば、きっと楽になれる。
紬は毎朝、そう言い聞かせながら白い花に水を与えた。
けれど、五日目の夜になっても、決心はつかなかった。
忘れたいはずなのに、忘れたあとの自分を想像すると怖かった。
伊織を失った痛みがなくなる代わりに、伊織と出会えた喜びまでなくなってしまう。あの三年間を知らない自分になってしまうことが、別れることよりもずっと恐ろしく思えた。
六日目の夕方、紬は白い花を持って家を出た。
花を瓶に閉じ込めるためには、街の外れにある古い温室へ行かなければならない。午前零時を迎える前に温室の土へ植え替えれば、花は散らず、記憶も残るという。
雨の降るなか、傘を差して坂道を上った。
忘れるのか、残すのか、まだ決められないまま、それでも花が散ってしまう前に、選べる場所まで行こうと思った。
温室の前に着いたとき、入り口の軒下に一人の男性が立っていた。
濡れた黒髪から雫を落とし、その胸元に白い花を抱えている。
「……伊織?」
呼びかけると、彼はゆっくり顔を上げた。
驚いたように目を見開き、それから、泣き出しそうなほど弱い笑みを浮かべた。
「紬も、来たんだ」
「その花……」
「君と別れた次の日に咲いた」
伊織の手の中には、紬の花とよく似た白い花があった。ただし、その花弁の先は少しだけ透けている。散るときが近いのだ。
「忘れるつもりだったの?」
「そのつもりだった」
伊織は花を見下ろし、声を詰まらせた。
「遠くへ行けば、会えなくなる。待たせるのも、紬の時間を奪うのも嫌だった。だから俺のことなんか忘れて、別の誰かと幸せになってくれたら、それが一番いいと思った」
「それで、私に何も選ばせてくれなかったの?」
「……うん」
「勝手だよ」
「分かってる」
「私が一緒に行きたいって言ったら、どうするつもりだったの」
「言わせないつもりだった。言われたら、連れていきたくなるから」
あまりにも身勝手で、あまりにも伊織らしい答えだった。
紬は怒っているはずなのに、視界が滲み、頬を流れるものが雨なのか涙なのか分からなくなった。
「私、七日間ずっと考えた」
胸に抱いていた花が風に揺れた。
「あなたを忘れたら楽になれるって。でも、忘れたくなかった。つらくても、悲しくても、伊織と出会ったことまでなくしたくなかった」
「紬」
「私の幸せを、あなた一人で決めないで」
伊織は何も言わなかった。
ただ、白い花を抱く手に力を込め、やがて堪えるように俯いた。
「……ごめん」
掠れた声が雨音に溶ける。
「本当は、離れたくなかった。紬に忘れてほしいなんて、一度も思えなかった」
「だったら、そう言ってよ」
「今からでも、言っていい?」
伊織が顔を上げる。
濡れた睫毛の向こうに、三年間、何度も見つめてきた瞳があった。
「一緒に来てほしい。知らない街でも、紬となら暮らしていきたい。離れるのが怖いから、もう一度、俺を選んでほしい」
紬はすぐには答えなかった。
許したわけではない。一度置き去りにされた悲しみも、勝手に未来を決められた怒りも、簡単には消えてくれない。
けれど、それでいいのだと思った。
忘れるのではなく、抱えたまま進めばいい。
「次に勝手なことをしたら、その時は本当に別れるから」
「うん」
「遠くに行ったら、今までみたいにはいかないかもしれないよ」
「それでもいい」
「喧嘩もすると思う」
「何度でも話す」
「……だったら、もう一度だけ」
差し出した手を、伊織が両手で包んだ。
その瞬間、二人が抱えていた白い花が同時に揺れ、光の粒となって夜のなかへ舞い上がった。
午前零時には、まだ少し早い。
それなのに花は散り、無数の花びらとなって二人の周りに降り注いだ。
紬の掌に、一枚の花びらが落ちる。
飲み込めば、恋を忘れられる花。
けれど、その花びらは触れた途端、雪のように溶けて消えた。
「消えちゃった」
「たぶん、もう必要ないんだ」
伊織が言うと、紬は小さく笑った。
終わったことをなかったことにはできないし、傷ついた心がすぐに元どおりになるわけでもない。
それでも、終わった場所から、もう一度始めることはできる。
温室へ向かう必要のなくなった二人は、降り続く雨のなか、来た道をゆっくりと戻った。
傘は一つしかなかったから、肩を寄せ合って歩いた。
触れ合う腕の音尾を、紬は確かめるように感じていた。
この先、また同じ花が咲く日が来るのかもしれない。それでも今度は、花が咲いてしまう前に、何度でも言葉を交わそうと思う。
忘れることでしか終われない恋ではなく、忘れなくても続いていける恋を、二人でもう一度育てていくために。
夜空を覆っていた雲の隙間から、細い月明かりが差し込む。
振り返れば、白い花びらはもうどこにも残っていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
別れの記憶だけを都合よく消すことができないように、つらかった思い出と幸せだった思い出はきっと切り離せないものなのだと思います。
忘れることだけが前へ進む方法ではなく、傷ついたことも含めて抱えながら、もう一度始める道もあるーーそんな物語として楽しんでいただけましたら嬉しいです。
少しでも心に残るものがありましたら、感想や評価でお伝えいただけると、今後の創作の励みになります。




