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いつも頑張っているあなたに、十万円プレゼント!

作者: Tsuna
掲載日:2026/05/01

その日も、小林悠生は一限の講義に出ていた。


出席は取られない。小テストもない。教授の声は抑揚が少なく、教室の後ろの方では何人かが机に突っ伏している。スマホをいじっている学生もいた。


けれど悠生は、前から三列目の席でノートを取っていた。


教授の話をノートに書きながら、前回の内容とどこでつながっているのか考える。

そして分からないところには小さく印をつける。


大学に入ってから、悠生はずっとそうしてきた。


自分は凡人だと思っている。


たまたま受験の本番でうまくいって、身の丈に合わない大学に入ってしまった。周りの学生は要領がよく、少し勉強すれば理解できる。自分だけが、何度も読み返して、何度も手を動かして、ようやく追いつく。


だから、休めない。

勉強は積み重ねで、一度でも手を抜けば、すぐに分からない所が増えていくから。


講義が終わると、悠生は学生食堂で一番安い定食を食べ、午後の講義を受け、そのまま図書館へ向かった。

夕方にはスーパーの品出しのバイトがある。


時給から塾講師も考えたが、家族から時間外で予習復習を長時間してしまって、結局時給が悪くなるからやめておけと言われたのもあって、断念した。

それを友人に言ったら、確かにと笑われた。


だからきっと、この仕事が合っているんだろう。

愚直に。言われたことをただやるだけ。


スーパーの時給はそこまで高いわけでもないが、奨学金を合わせれば、贅沢をしなければ暮らしていける。


うまい話は、要領が良い者だけが得られる。

自分のような凡人は、一歩ずつ積み重ねて行くべきなのだ。



夜十時過ぎ、くたびれた足でアパートに戻る。部屋の明かりをつけると、六畳の空間がぼんやり浮かび上がった。


机。参考書。洗濯物。安物の炊飯器。

悠生はカバンを下ろし、スマホを確認した。


通知が一件あった。


差出人不明。


『いつも頑張っているあなたにプレゼント!自由に使ってね』


「……は?」


怪しい広告かと思った。


だが、同時に銀行アプリから入金通知が届いていた。


十万円。


悠生は画面を見つめたまま固まった。


間違いだろうと思った。

昔、役所からお金が誤送金されて、使ったあとに全額返金しろと訴えられたというニュースを見た記憶がある。


そう思う一方で、心臓は妙に速くなっていた。



     



「十万円?」


翌日の昼休み、悠生は友人の白鳥玲奈に相談した。


玲奈は同じ学科の学生だった。整った顔立ちに、上品な服装。持ち物も、言葉遣いも、どこか悠生の生活とは別の世界にある。


しかし玲奈は、名簿が近いこともあって、関わることが多かったし、悠生のような地味な学生にも、自然に話しかけてくる。

しまいには、学科に小林が2人いるからと、自分のことを名前で呼んでくれた。


なので、自分でも明らかに釣り合っていないなと思いながらも、大学に入ってからの初めての友達と言える人だった。


大学二回生になり、他にも数人友人は出来たが、こんな荒唐無稽な話を真面目に聞いて、そしてちゃんとアドバイスしてくれそうなのは白鳥以外に居なかった。


「それ、すごいじゃない。私も欲しいわ」


「いや、すごいっていうか……怖くない?」


「怖いけど、メッセージには自由に使ってって書いてあったんでしょう?」


「そうだけど」


玲奈はグラスを傾け、水を少し飲んだ。


「もしかして早めに返金したほうが良いだろうか、なんて考えてない?」


「そうしようと思っていたけれど」


「一番やっちゃいけないことは、送金元に連絡を取ったり、返金することだよ。それが詐欺に繋がっていくかもしれないし。公的な連絡があったら、返金する。そうすれば良いでしょう?」


「なる、ほど?」


悠生にも、一理あるようにも感じられた。が、そんな自分に都合の良い考えで良いのだろうかという疑問も感じる。


「この前、腰が痛いって言ってなかった?これをきっかけに、ちょっと良い椅子でも買ってみたら?体はすべての基本よ」


「えぇ……」


「別に10万円を抜きにしても、椅子を買うお金くらいはあるでしょう?前々から思っていたのよ。悠生くんって、自分に投資を全然しないって」


悠生は反論できなかった。

たしかに、最近腰が痛い。机に向かう時間が長いのに、椅子はホームセンターで買った安物だった。


「でも……」


「悠生くんって、本当に真面目ね」

玲奈は微笑んだ。

その言い方は、からかっているようでもあり、褒めているようでもあった。


「でも、貯金額は安心を生むけれど、あなたの生活を豊かにしないよ」


「そうかな」


「大丈夫。もし、誤送金で返金しなくちゃいけないってなったら、ご飯奢ってあげる。最近美味しいお店見つけたから」





椅子を買った。


中古ではなく、新品のワーキングチェア。腰を支える部分がしっかりしていて、長時間座っても疲れにくいもの。


値段は一万七千円。


家具店で悩んで悩んで。配送料が高かったから頑張って運んで。


けれど届いた椅子に座った瞬間、胸の奥に小さな感動が広がった。


楽だった。

勉強に集中できた。

自分は今まで、こんなに無駄に疲れていたのかと思った。


次に、参考書を三冊買った。


大学の参考書は高いので、いつもなら古本で探すか、図書館で借りていた。だが、新品の本はページがきれいで、クセもなく、書き込みも自由にできる。


勉強の効率が上がって。

予習復習が早めに終わることによって、より睡眠時間も取れるようになってきた。


数日後、玲奈が言った。


「顔色、少し良くなったね」


「そうかな」


「うん。前は、すごい生きていくのに精一杯!って感じだったから」


「そうかな」


「そうだよ」


今まではできる限り切り詰めていた。

でも、その頑張りは本当に続くものだったんだろうか。

余裕ができて、悠生は少し疑問に思った。


きっと、これは良い変化なのだろう。


     


次の月。


また通知が来た。


『今月も、あなたの自由に使ってね!ただし、10万円は使い切ること。先月みたいに残しちゃだめだよ』


同時に、十万円が振り込まれていた。

悠生はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


先月とは違う。今回は条件がついている。

十万円は使い切ること。

冗談みたいな文面なのに、なぜか命令のように感じた。


使い切らなかったら、どうなるんだろうか。

ぽんと10万円を送りつけられる財力があって、そして、先月みたいにと書いていたから、もしかしたら僕のお金の使い道を知る手段がある人。


一瞬神様が僕で遊ぼうとしているなんて馬鹿な考えが頭によぎった。



悠生はその日、玲奈に見せた。


「ねえ、これ、やっぱりおかしいよね」


玲奈は画面を見て、少しだけ眉を上げた。


「たしかに、不思議ね」


「不思議ってレベルじゃないよ。お金を送りつけてきて、そして使い切れって……」


「でも、先月は何も起きなかったんでしょう?」


「それは……そうだけど」


「だったら、今月も大丈夫じゃない?」


悠生は言葉に詰まった。


「でも、十万円を使い切るって、普通に難しいよ」


「そう?普段のちょっとした贅沢とかを考えたら、10万円って大きいけれど、大きい買い物したら足りないくらいじゃない?」


「確かに……」


ドライヤーとかのちっちゃい家電なら変えるけれど、良いパソコンを買おうと思ったら全然足らない。

洗濯機でも、乾燥機能がついていて、静音性に優れているものに買い替えようと思うと、足りるか怪しい気がする。


そう考えると、十万円はそこまで大金というわけでも――いや、僕の貯金3ヶ月分くらいだぞ。めっちゃ大金だ。

とはいえ、使い切れと言われている。何を買うべきだろうか。


「タブレットを買ってみるのはどう?」


「タブレット?」


「いっつも悠生くん授業資料を印刷しているでしょう?タブレットだと、web上の講義資料に書き込んだり、タブレットでノートを取ったりできるよ」


「確かに。たしか、白鳥って、タブレット使っていたよな」


「便利よ。紙がごちゃごちゃすることもないし、印刷の手間もないもの」


印刷代も一つ一つは安いが、積み重ねると案外馬鹿にならない。

そう考えると、かなり良い買い物な気がした。


「おすすめってある?」


「うーん」

玲奈は顎に一瞬指を当て、思案した表情を見せると、バッグを開いた。


「例えばこれが私の使っているタブレットなんだけれど、これよりも大きいサイズが良い?小さいサイズ?それとも、これくらい?」

タブレットはB5くらいの大きさで、いつも使っているノートもB5だから、ちょうどいい気がする。


「このくらい」


「メモリとかは――いや、一旦置いておこうか。予算以内で、そして保証期間がしっかりしていて、酷使しても壊れにくいものかな」

悠生は、大金を払ってすぐに壊れたらしばらく立ち直れない自信があったため、頷いた。


「と、なると私と同じ型のものはどう?」


「白鳥の?」


「今言っている条件を満たしていて、そして実際に私が使っていて、特に不満もないし。おすすめだよ」

改めて、机の上のタブレットを見てみる。


「確かに。白鳥と同じものにしようかな」


「決まりねっ!」


「相談に乗ってくれてありがとう」


「お安い御用よ」


「お礼に今度お昼奢るよ」

普段、レポートや過去問の解答づくりの相談に乗ったとき、ちょっと良いご飯を奢ってもらっているからだろうか。

悠生は自然と言っていた。


「うーん。奢ってもらうのも魅力的だけれど――どっちかっていうと、今度買い物に付き合ってほしいわ」

つい一食分浮くと大喜びな自分の感覚で言ってしまった。

が、そこまでお金に困っていなさそうな白鳥は確かに、荷物持ちのほうが嬉しいのだろう。


「分かった」


「デートだからちゃんとおめかししてきてね」

玲奈の発言に、悠生は目をしばたたかせた。


「荷物持ちでなく?」


「私を何だと思っているのよ」


「え、服どうしよう?」

デートという言葉が脳にまでたどり着いて。

彼女の隣を歩く自分を想像して。

悠生はまともな遊び用の服がないことに気がついた。


「悠生くん、セミフォーマルな服装しか持っていないの……?」

頷く。恥ずかしい。


「タブレットを買っても微妙に余るはずだから、悠生くんも服を買ってみるのはどう?」


「服?」


「そうね。今度の土曜日、空いてる?じゃあ、服一緒に買い物に行こう。私が選んであげる」


「いや、悪いよ」

もともと、彼女の買い物に付き合うという話だったのだ。

それなのに、自分の服も、いやどちらかというと自分の服がメインになりそうなのは申し訳ない。


「いいの。私、悠生くんにもっと大学生活を楽しんでもらいたいと思っているから」


その言葉に、悠生は少し引っかかった。

だが、玲奈の笑顔を見ると、深く考える気にはなれなかった。


     



土曜日。


玲奈に連れられて、悠生は繁華街の服屋に入った。

普段なら絶対に入らない店だった。値札を見るだけで胃が痛くなる。


シャツ一枚で八千円。ジャケットで二万円。靴で一万五千円。


「高すぎる」


「でも、ちゃんと長く着られるものよ」

ユニクロなら何着買えるか。

そう悠生が思ったのを見透かしたように、玲奈は微笑んだ。


「ユニクロもいいけど、今日はそういう日じゃないでしょう?」


玲奈は当然のように服を選び、悠生に渡した。

試着室で袖を通す。


鏡の中の自分は、いつもより少しだけ別人に見えた。

背筋が伸びて見える。顔つきも、少しまともに見える。


外に出ると、玲奈が目を細めた。


「似合ってるわよ」


その一言で、悠生は負けた。


服を買った。

靴を買った。


昼には、玲奈が予約していた店に入った。ランチで三千円もする店だった。悠生は落ち着かなかったが、出てきた料理は驚くほど美味しかった。


会計を済ませたあと、悠生はタブレット代と、今日使ったお金を計算する。

大体10万ちょっと。


恐怖よりも先に、軽さがあった。

使い切った。

条件を満たした。


そう思った瞬間、自分が何かを乗り越えたような気がした。

その夜、悠生は勉強しようとはしていたものの、昼間のことを思い出して集中できなかった。


     


三ヶ月目の十万円が届いた頃、悠生はもう銀行に連絡しようとは思わなくなっていた。


『今月も、あなたの自由に使ってね!ただし、10万円は使い切ること』


同じ文面。

同じ金額。


最初は異常だったものが、繰り返されるうちに生活の一部になっていく。

悠生はテスト前ということもあり、バイトのシフトを減らした。


今まではテスト前も変わらず入れていたが、やっぱりしんどかったから。


最初のうちはバイトを減らした分を、勉強に使っていた。


だが、徐々にそこまで頑張らなくて良いのでは?という思いが大きくなって。

少しだけ買ったタブレットで動画を見て。

最近、明るくなったなという言葉とともに、友人にご飯を誘われたり、遊びに誘われたりすることが増えたから、出費が大きくなって。


少しだけ寝る。

少しだけ外食する。

少しだけ、玲奈に誘われたカフェへ行く。


少しだけ。


その少しが、積み重なっていった。


講義には出ていた。

ノートも取っていた。


けれど以前ほどの切迫感はなくなっていた。

分からないところに印をつけても、家に帰って復習しない日が増えた。


バイト先の店長には、最近入れる日が少ないね、と言われた。

悠生は曖昧に笑った。


生活は楽になったはずだった。


なのに、心の奥には別の不安が生まれていた。

十万円が来なかったら、どうする?


来月も来る保証なんてない。

でも、来る気がした。


来てくれたならば、友人たちと旅行に行けるから。

     

「最近、楽しそうね」


玲奈が言った。


大学近くのカフェだった。悠生は六百円のコーヒーを、以前ほど高いとは思わなくなっていた。


「そう見える?」


「前よりずっと」


悠生はコーヒーを口に含んだ。

コーヒーは香り高く、とても美味しかったが、同時に自分を責めているような気がする。


「でも、ちょっと駄目になってる気もする」


「どうして?」


「勉強時間、減ってる。バイトも減らしたし。お金があるからって、気が緩んでる」


玲奈はカップを置いた。


「それは、悪いことなの?」


「悪いだろ。学生なんだから」


「悠生くんは、今まで頑張りすぎてただけよ」


「でも、頑張らないと」


「なんのために?」


悠生は言葉が見つからなかった。

昔は、良い会社に行って、良い給料をもらうためと思っていたはず。

でも、こんな風に自由な時間、遊びの時間を削ってまで、貯金の多寡を気にする。


そんな未来に疑問を覚えていた。


「落ちこぼれたくないから?」

悠生は、自分でもその言葉に疑問を持ってしまった。


「悠生くんは単位の心配も、留年の心配もあんまりないでしょう?」


落ちこぼれないこと。

単位を取ること。


それさえ最低限こなせばよいのでは?

成績は大事だ。奨学金にもつながる。


でも、自分の能力だと、頑張っても成績は一番や二番にはなれないし、そうなると頑張っても、給付型奨学金が貰えるわけでもない。


なんのために?

将来、安定した仕事に就くために。


それは、失敗しないための目標であって、自分は何がしたいのかではないのでは。


余裕のできた心が、自分自身を疑い、否定していく。


「少しくらい、楽をしてもいいと思うけど」


玲奈は優しく言った。


「悠生くんは、真面目でいることに慣れすぎてるのよ」


その言葉は、慰めのように聞こえた。


だが同時に、どこか甘い毒を食べているような気分だった。



     


四ヶ月目。

十万円は、もう驚きではなかった。


悠生は通知を見ると、まず今月何に使うかを考えた。

欲しいものは、探せばいくらでもあった。


新しいスマホ。少し高いバッグ。映画。外食。旅行。

玲奈はよく付き合ってくれた。


彼女と過ごす時間は楽しかった。自分では選ばない店に連れて行ってくれる。知らない世界を見せてくれる。


悠生は次第に、玲奈に見合う自分でいたいと思うようになった。

安い服では隣に立ちたくない。


チェーン店ではなく、雰囲気のいい店に入りたい。

会計のときに、値段を気にしていると思われたくない。


十万円は、悠生の生活を支えるお金から、悠生の見栄を支えるお金に変わっていた。

ある日、講義を休んだ。


朝、起きられなかった。

前日に玲奈と遅くまで出かけていたせいだった。


出席は取られない。

一回くらい大丈夫だ。


そう思った。

一回目は、罪悪感があった。


二回目は、言い訳を呟いた。

三回目には、慣れていた。


大学の図書館の席に毎日座っていた自分が、遠い昔のように思えた。


     


そして、五ヶ月目。

十万円は来なかった。


悠生は朝から何度もスマホを確認した。

通知はない。


銀行アプリを開いても、残高は増えていない。

昼になっても、夕方になっても、何もなかった。


胸の奥が冷たくなった。

今月の予定は、もう立てていた。


玲奈と行く約束をしていた店。買おうと思っていた靴。先月少し使いすぎて減った生活費。


バイトを減らしていたせいで、口座には余裕がなかった。

悠生は、久しぶりに自分の部屋を見回した。


高い椅子。服。靴。イヤホン。

少しずつ増えたものたち。


それらは確かに便利で、楽しくて、自分を変えてくれた。


「ローンを組んでいるものがあるわけじゃない。大丈夫」

そうは言うものの、買おうと思っていたものが買えないと思うと。

外食や遊びの誘いを断らないといけないと思うと。


憂鬱だった。


「ただ、ちょっと遅れているだけかもしれない」

そんな、自分でも信じられないような言葉を呟いた。



翌日、悠生は玲奈に会った。


「今月、来なかった」


玲奈は驚かなかった。

少なくとも、悠生にはそう見えた。


「そう」


「どうしよう」


「バイト、増やせば?」


「急には無理だよ。店長にも最近あまり入ってないし」


「じゃあ、別のバイトを探すとか」


「そんな簡単に……」


悠生の声は、自分でも情けないほど弱かった。

玲奈はしばらく黙ってから、ゆっくりと言った。


「良いバイトがあるんだけど、興味ある?」


悠生は顔を上げた。


「なんと、一日で五万円も貰えます!」


玲奈はまるで悪意なんてないみたいに、いつものように綺麗に微笑んでいた。



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