最終話 そして未来へ
「さて、リーゼンフェルト侯爵」
美しい黒髪を揺らして聖女ヴィオレットがクリストフへ視線を向ける。
呼ばれたクリストフはアンバーの手を握ったままピシッと背筋を伸ばした。
「はい、精霊妃様」
「この一件、教会への始末はわたくしが請け負うけれど、表向きの始末はお前に任せるわ。良いこと? この地に呪いは存在しない。リーゼンフェルトの血は穢れていない。お前は誇りを持って、これまで通り真面目に領地を治めなさい」
「お言葉、謹んで承ります。あの、それで、妻は……エルフェの一族は……」
敢えて領民の前でこの地に呪いは存在しないと宣言したのは彼女なりの配慮だったのだろう。
クリストフは侯爵家の当主として王族にするような最上級の礼でもってそれに応え、そしてすぐに傍らの己の妻に視線を向けた。
呪いの伝承はひとつではない。
自分だけが呪いから解放されても意味がない。
そんな思惑を滲ませた問い掛けに、聖女はポンと両手を合わせてから、徐に精霊王を見上げた。
「そうだったわ。ねぇ、あなた。わたくしの愛しい方。これは一体どういうことなの。わたくし何ひとつ聞かされておりませんわ。説明して頂ける?」
ニコニコと可愛らしい笑顔だが目が笑っていない。
有無を言わせない笑顔とはこういうことをいうのだろう、と誰もが思う表情だった。
そんな笑顔を向けられた精霊王は視線を泳がせ、何かを誤魔化すようにパタパタと手を動かす。その仕草はどうにも俗っぽく、その場にいた領民は精霊王様もそんな顔をするのだなぁと妙な感慨を得ていた。
「違う。誤解だ。呪いではない。これはギリギリ呪いではない」
「では何ですの。さぁ、仰って」
「これは、その、どんなに苦しくとも寿命以外で死ねぬ呪……加護だ」
今一瞬『呪い』と言い掛けたな、とクリストフは思ったが、彼はとても弁えた領主であったので口には出さなかった。
彼の領民も領主と同じく弁えているので皆一様に視線を落とし、自分のつま先やら石畳のタイルの隙間なんかを見詰めることでその場をやり過ごした。
ただ一人、アンバーだけはハッと何かに気が付いた様子で顔を上げた。
「確かにうちの一族や領民は何故か妙に身体が頑丈で、どんなにひどい病気や怪我でも死にそうで死なないというか、むしろ最終的には復活するパターンだったわ……。皆、大往生って言葉が似合う長寿だったし……。絶対に栄養状態とか悪かったのに……。なるほどそういう……」
ふむふむと頷くアンバーの横で、クリストフはほんの少しだけ顔色を悪くしている。
どんなに苦しくても死ねないというのは、考えようによってはものすごく惨たらしいのではないかと思い至ってしまったからだ。
「そうなると、いっそ死ねた方がマシだったような状況にも何度か追い込まれているのではないだろうか」
「まぁ、そこはそれですよ。呪いも正体がわかると意外とスッキリするものですねぇ」
「これをスッキリするだけで済ませてしまうのか、君は」
「だって、頑丈さは生き抜く為に必要でしょう?」
「それは、そうかもしれないが」
妻の寛容さがむしろ心配になってきたクリストフが更に何か言おうとしたその瞬間。
言葉を遮って聖女がパンパンと二回手を叩いた。
「二人ともそこまでになさい。ねぇ、精霊王様、わたくし怒りたくないわ。早急にエルフェの血族にかけた呪……、加護を書き換えてくださる?」
「今あの領地に残っているのは、あの忌々しい王子とその側近の子孫だ。気に食わぬ」
かつて聖女を王都から追放しようとして精霊王の怒りをかい、遂には王族から追放されてしまった愚かな王子。
エルフェ家というのはその王子の末裔であり、今領地に残っている土地を離れられない者たちは、かつて王子の側近であった一族の末裔だという。
精霊王は王子だけでなく、王子の側にいながらその愚行を諌めることも止めることも出来ず、唯々諾々と従った側近たちにも同様の呪……もとい加護をかけていたと知り、アンバーは長年の疑問が晴れた気分だった。
エルフェの一族でもないのに、領民があんな痩せた土地にしがみつく理由がずっと不思議だったのだ。
数百年が経過した今となっては領民たちには呪いの伝承だけが残り、かつての側近としての矜持や歴史の全ては引き継がれていないのかもしれないが、それでも辛く苦しい時を一緒に乗り越えてきた仲間である事実は変わらない。
次に里帰りする時には領民みんなに何かお土産を買って帰ろう。アンバーは心に深く決意した。
同時に、エルフェの当主として全てを継承していたはずの父が、アンバーに何も伝えていなかったのは何故だろうかと新たな疑問が浮かぶ。
アンバーは少し考えて、おそらく王家絡みのあれこれを説明するのが面倒だったからだろうなと肩を竦めて苦笑した。
そんな風にアンバーが思考に耽る一方で、ぷいとそっぽを向いた精霊王に聖女は距離を詰め、ますます笑みを深めて言った。
「ふふふ。明日から寝所を別にしたいのなら、そのままになさってくださってもよろしいのよ」
え、と精霊王が目を丸くして無言で妻の顔を見る。
もしもこれが精霊王でなくて猫科の動物だったら、きっと耳がぺしょりと垂れていただろうと思える表情で妻を見た精霊王は、妻が本気だと察知してこくりと深く頷いた。
そして次にアンバーへと向き直り、厳かな声音で告げた。
「エルフェの民よ。加護はそなたらを健やかに守るものに変わるだろう」
一連の流れを見ていたクリストフとその領民たちは、精霊王は妻に弱いのだなと思ったが、やはりここでも口に出すことはしなかった。
領民の中にも妻に弱い夫というのは複数人いて、彼らは精霊王に対するこれまでの敬いの他に深い親近感まで抱いた程である。
アンバーも、恭しく頭を垂れながら、精霊王様もクリストフのように可愛いところがあるのだなと思いつつそろりと問う。
「……土地は、エルフェ領はどうなりますか?」
「そもそも我はあの土地に関する加護は与えていない。土地を離れなかったのは、王族からせめてもの餞別として秘密裏に与えられた土地だったからだろう」
「えっ、そうだったのですか!? 王籍を剥奪して追放はしたけど追放先の土地と代わりの身分はちゃんと用意してくれていただなんて、王族って優しいのね」
「身内に甘いともとれるが……」
元々実りが少なく税金の少ないエルフェ領であるが、それは痩せた土地だからというだけではなかったのかもしれないなとアンバーは思った。
エルフェ領の土地に呪いはなく、精霊王が加護を書き換えてくれたお陰で今後は領民もますます健康一直線だ。領内の経済状況が安定してきた今、それは真の加護だった。
エルフェ領はそれなりの僻地なので医者を呼ぶにも薬を買うにも少々苦労する土地である。健康は金より尊いのだ。
これにはヴィオレットもニッコリで、腕組みをしながら後方聖女面で上機嫌に頷いていた。
「通りであの王子殿下の名前が歴史書には一切出てこない訳だわ。表の歴史から抹消して、王家の与えた土地で第二の人生を送っていただなんて思わなかったもの。そこまで興味もなかったけれど」
あの王子殿下が平民に混ざって畑を耕す姿を見て笑ってやりたかったわねと高笑う聖女ヴィオレットは、続けてクリストフに向けて言った。
「今回の件で裏から教会をせっつくついでに、王子の子孫の権利回復についても王家をちょっとつついてみるわね。わたくしの与えた祝福が長年に渡り迷惑を掛けてしまったのだもの。せめてものお詫びよ」
自分が悪い時にはきちんと謝ることが出来る聖女である。
しかも元が侯爵令嬢なだけあって彼女はその辺のことにちょっぴり詳しかった。
具体的にいえば、この案件をスムーズに処理させるには、どの辺りに圧力を掛ければ良いのだとか、そういうことに詳しかったし元々の勘も良かった。
申し訳なさそうに睫毛を伏せて謝罪を口にする彼女の殊勝な様子からは、己が聖女として与えた祝福が民を守るどころか苦しめる原因になったことに責任を感じているのだということがクリストフにもアンバーにも痛いほど伝わった。
そしてこの後で関係各所が聖女から圧力を掛けられるであろうことも痛いほど伝わった。
今に伝わる聖女の伝説では、聖女はやると決めたことは必ず全てやり遂げていると皆知っているからだ。
ちょっとだけザマァ見ろと思ったのは秘密である。
彼女の提示したエルフェ家の権利回復という適切な落とし所に対しても二人に否やはなく、領民も聖女の口から呪いはないと語られたことによりここ数日神官から与えられていた不安が消え去り、安堵の表情を浮かべている。
なんだか陽光がいつもよりも眩しく感じるくらい、広場に集った皆の心は晴れ渡っていた。
「……妻よ。そろそろ時間だ」
「あら! 随分と長居をしてしまったものだわ。リーゼンフェルト侯爵夫妻、わたくしたちはそろそろお暇するわね」
ばさりと黒髪をかき上げ、優雅に精霊王の腕に己の腕を絡めて旅装姿に戻った聖女が微笑む。
その言葉にクリストフとアンバーが慌てて声を掛けた。
「お待ちください!」
「どうかこの地に留まり、我々をお導きください」
二人の声音は必死であった。
けれども聖女は、ツバの広い帽子を指先で直しながら緩く首を振って否を返した。
真っ直ぐにクリストフとアンバーを見詰め、まるで母が子を諭すような表情で彼女は言う。
「良いこと? これから先、人の歴史をつくるのは人でなければいけないわ。わたくしたちのような存在は見守るだけ。……本当に助けが必要な時は駆けつけるけれど、それは本当に厄災に直面した時のみと心得なさい」
「案ずるな。我々はこの地を加護する存在。そなたらの祈りある限り、繋がりは途切れぬ」
聖女の言葉に続いた精霊王もいつの間にか旅装を纏っている。
旅装の二人はまるでこの地を離れてどこか遠くに行ってしまうようで、妙な心細さに襲われて思わずクリストフは訊ねた。
「これから一体どちらへ……?」
その問いに、聖女はそれこそ無邪気な娘のように弾んだ声音で答えた。
「今日開通する大陸横断列車の一等客室を予約してあるのよ!」
列車の時間に遅れてしまうわと続ける聖女は、傍から見れば年頃の貴族令嬢にしか見えない。
けれど先ほどまでの神々しい姿も、今の無邪気な姿も、どちらも正しく彼女なのだ。
だから彼女は今なお精霊妃と聖女の両方で呼ばれるのだろう。
どこからか現れた白馬に精霊王と共に跨り、旅装の聖女は馬上から広場に集う領民たちを見渡してそっと右手を掲げた。
「──最後にリーゼンフェルトの民にささやかな祝福を授けましょう」
するとふわりと金色に輝く粉が領民たちの上に降り注ぎ、キラキラと輝く金色の光が舞う様子の美しさに誰もが一瞬声を失った。
「あ、あれ? 膝が痛くない……」
その内に、領民の一人が日々己を苛んでいた忌々しい痛みが消えていることに気が付いて声を上げた。
それをきっかけに一人、また一人と驚きの声を上げ始める。
「持病の腰痛が消えた!」
「捻挫が!」
「口内炎が!」
「偏頭痛が!」
これぞ万病に効くとされる聖女の加護だと領民は口々に快哉を叫んでいる。
それを嬉しそうに聞きながら、ヴィオレットは当然でしょうと張りのある声で高笑いをした。
その高笑いを聞いた老齢の民はありがたやと両手を合わせて馬上の聖女を拝み倒している。
しばらくして高笑いをおさめた聖女は、アンバーにだけわかるようにパチリとウインクを飛ばした。
「侯爵夫人。そなたには二人分の祝福を授けてあります。どうか、息災に」
聖女のその言葉を合図に精霊王が手綱を取り、ひとつ嘶いた馬が軽快に走り出す。
蹄が力強く地を蹴る音を聞きながらクリストフはそっと妻の肩を抱いた。
抱き寄せられてアンバーも遠ざかる馬と聖女の靡く黒髪を目で追いながら夫の肩に頭を凭れかけさせ、そしてハッとした様子で顔を上げた。
あまりに勢いよく顔を上げたのでアンバーの頭がクリストフの顎に当たり、クリストフは痛みにちょっぴり涙目になった。
「アンバー? どうかしたのか」
「ああああの! さっき! 精霊妃様が仰っていましたよね!」
「祝福を授けたという話か?」
「そう! 祝福! ふ、二人分って……」
「そういえば……」
「一人は私として、もう一人って……」
アンバーとクリストフの視線が自然とアンバーの腹部へと移動する。
そろりと恐る恐る腹部に手を当て、アンバーは信じられないといった表情でクリストフを見上げた。
「まさか……」
「い、医者! 医者に診せねば! 屋敷に戻ろう、アンバー!」
狼狽するクリストフを見てかえって冷静になったのか、アンバーがクリストフの腕を軽く叩いて落ち着いてと微笑みかける。
「そんなに慌てて帰らなくても大丈夫ですよ。だって精霊妃様から祝福を頂いたのですもの。私だって体調はすこぶる良好ですよ」
「そ、そう、か……。取り乱してすまない。もしかしたらと思ったら、つい」
「気持ちはわかりますわ。ですからゆっくり安全に帰宅して、お医者様を呼んでくださいな」
「そうしよう」
既に件の神官たちは精霊王便(超速達)で王都に届けられているから、今この地にあるのは精霊王と精霊妃の祝福と、愛しい領民だけである。
クリストフはようやく落ち着いて、大きくひとつ深呼吸をしてから広場の馬車留めで控えていた御者に馬車を回すよう合図をした。
そして何かを気取ったらしく、そわそわした目で夫妻を見詰める領民に向かって口を開いた。
「皆、聞いてくれ。私の力足りず、一部の心悪しき神官の暴走によって皆に不安を与えてしまったことをまず謝罪する。しかし、この領地に長らく根付いていた『呪い』は今や過去のものとなった。リーゼンフェルト侯爵家は精霊妃様より賜った祝福に感謝し、より一層民のために尽くすと誓おう。皆もリーゼンフェルトの民として胸を張り、誇り高く、けして驕らず、日々の生活を守ってほしい」
そして、と続けながらクリストフは少しだけ照れたように目を細めた。
「もし、これから先、嬉しい知らせを皆に伝えることが出来た際には、是非とも皆にも祝ってほしい」
その言葉に領民はワッと沸いた。
知らせはまだだというのに気の早いことであるが、皆アンバーが新しい命を、この領地の未来を担うであろう子を授かったであろうことに気づき沸き立っていた。
その後、広場に来た時とは違って、領民に見送られながら二人は馬車に乗ってその場を後にしたのだった。
御者に何度もゆっくりで良いからとにかく安全にと言いつけてアンバーの隣に座ったクリストフが大きく息を吐く。
「この広場に来て半日も経っていないというのに、何だか何年も経ってしまったような気さえするな」
「あまりにたくさんのことがありましたからね。でも平和におさまって良かった。……あぁ、そうだ。ひとつよろしいでしょうか」
「何か気になることでも?」
少しでも暖かくしていてほしいというクリストフの主張から、彼のコートで包まれてしまったアンバーはくすくすと楽しそうに笑って言った。
「私、これまでよく知らなかった自分の家の詳細を今日突然知った訳ですけれど、それを知った時に思ったんです」
「何を?」
「少し不謹慎かもしれませんが、これってアレだな、と」
アレとは。
ぱちりとクリストフの目が瞬き、アンバーはまたくふりと小さく笑った。
「聖女の伝説の劇で、愚かな王子が偽の聖女こそが己の真実の愛だと言うシーンがあるじゃないですか。そして私はその王子の末裔で、あなたはあの偽の聖女の末裔。でも私とあなたはこうして結ばれて、新しい命も授かって……。だから、これこそが本当の、」
「──真実の、愛?」
アンバーの言い掛けた言葉を何かに気付いたクリストフが引き継ぐ。
クリストフは何度か真実の愛という言葉を口の中で繰り返し、そして満足そうに微笑んだ。
「そうだな。これこそ真実の愛だ」
「エルフェとリーゼンフェルトのご先祖様も、まさかこんな巡り合わせがあるだなんて思ってもいなかったでしょうね」
追放された王子と偽の聖女。
今はもうお伽話となっているその続きを、自分たちは実際に歩いている。
それは二人に不思議な感慨を与えた。
聖女ヴィオレットが口にした『これから先の歴史を作るのは人でなければならない』という言葉も、思い返してみれば何かの起点のように思えてくる。
お伽話と現実の狭間。そこに立つのが精霊王と精霊妃であるのかもしれない。
ゆったりと進む馬車の中で、クリストフとアンバーはとても幸せな気持ちで、これから訪れるであろう更なる幸せな日々を思ったのだった。
***
リーゼンフェルト領での、晴れた日の午後のことである。
屋敷の廊下をぱたぱたと軽やかに幼子が駆けていた。
「お父様ー! お花あげるー!」
「おや、うちのお姫様は今日も泥まみれだな。今日はどこで遊んでいたんだ?」
「中庭!」
「うーん、うちの中庭にそんな泥だらけになれる場所があっただろうか……」
リーゼンフェルト領での精霊王と精霊妃降臨の日から数年。
その後、がっつり教会側に抗議して謝罪を勝ち取り、聖女の暗躍もあってしっかり権利を回復して国内での権力を増したリーゼンフェルト侯爵クリストフは、自分の服が汚れることも気にせずに芝と泥にまみれてキャッキャと笑うお転婆な娘を抱き上げて眉尻を下げた。
抱き上げられて視線が近くなると、幼い愛娘はアンバー似のオレンジがかった琥珀色の瞳を細めて、父の黒髪に庭で摘んだ花を一輪ずつ挿していく。
「あのねぇ、さっきねぇ、また『おーほほほ』のお姉ちゃまが来たのよ。それでヴィーにお花の冠作ってくれたの」
「……また我々に隠れておいでになられたのか……」
娘の癖のある黒髪を飾る花冠に目を向け、クリストフは嘆息した。
あの方はいくらクリストフたちが頼んでも滅多に姿を見せてはくれないのに、領内の子供たちの前には頻繁に現れては一緒に遊んでいくらしい。
子供たちが言うには、先日などは精霊王様と森で隠れんぼをしていたという。
恐らくは本当に困った時にのみ現れるという言葉を守ってのことなのだろうが、子供たちと遊んでくれる礼くらい直接伝えたいものだとクリストフは妻と常々話していた。
「それでヴィオラ、頂いた花冠のお礼はきちんと伝えたのだろうね?」
「ヴィー、ちゃんとありがとうしたわ。だってヴィー、一人前のレディーだもの」
「さすが私のお姫様だ」
クリストフは娘を抱き上げたまま、娘を追ってくるだろう妻アンバーの元に向かって屋敷の廊下を歩き出した。
少し歩いたところで中庭の方から侍女たちと共に現れたアンバーが、クリストフと娘を見て声を上げる。
「あぁ、あなた! ヴィー!」
「やぁ、アンバー。また精霊妃様がいらしたそうだよ」
慌てた様子でおくるみに包んだ赤子を抱いてやってくる妻に、クリストフは肩を竦めて笑って見せた。
アンバーも苦笑して頷く。
「えぇ、そうなの。私もさっきヴィーから聞いたところよ。たまにはお茶くらいご一緒頂きたいのだけど……」
「ヴィーがお願いしてみる?」
「そうだな。次にいらしたらお茶会に招待してくれるかい」
父の言葉に娘はうん!と元気よく返事をした。
クリストフとアンバーの娘は父譲りの黒髪と母譲りの琥珀の瞳が聖女によく似ているということから、聖女からあやかってヴィオラと名付けられ、祝福のお陰か今日に至るまで怪我も病もなく元気にすくすくと育っている。
花丸健康優良児過ぎて若干お転婆気味ではあるが、それも愛嬌というもの。
生まれたばかりの第二子にして長男も、よく寝てよく泣く元気な子だ。
娘と息子に視線を向け、クリストフとアンバーは幸せそうに微笑む。
事実、二人はとても幸せだった。
子供にも恵まれ、領内も安定している。政務は忙しいものの、日々健やかかつ穏やかに過ごせることは幸せ以外の何ものでもなかった。
「あ、」
その時、開け放った窓からレースカーテンを揺らしてそよぐ風に混じって、微かに笑い声が聞こえた。
聞き覚えのあるその高笑いに、クリストフとアンバーは顔を見合わせ、揃って窓の外を見上げる。
「今日も精霊妃様はお元気なようだ」
「えぇ、そのようですね」
今日も聖女はお伽話と現実の狭間で精霊王の腕に抱かれ、黒髪を遊ばせながら楽しげに笑うのだろう。
そんなことを思いながらクリストフとアンバーは空を見上げて、その眩しさに微笑むように目を細めた。
窓の外に見えるリーゼンフェルトの空は、聖女の高笑いを乗せてどこまでも高く、青く、清々しく広がっている。
ただ一人、聖女をただのよく遊んでくれるお姉ちゃんとしか思っていない娘だけがキョトンとした様子で両親の顔を眺めていた。
こうして、呪いを乗り越えて真実の愛で結ばれたクリストフとアンバーは、その後も時折遠くから聞こえる高笑いに叱咤されたり背中を押されたりしながら、いつまでも幸せに暮らし後世に名を残す名領主となったのだった。
めでたし、めでたし。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
聖女についての詳細をお知りになりたい方は『侯爵令嬢ヴィオレットは今日も元気に高笑う』をどうぞ。




