第三話 暗雲
──さて、アンバーがリーゼンフェルト侯爵家に嫁いでから更に半年ほど経った頃のことである。
その日、アンバーはエルフェ領内の橋の補修について、夫であるクリストフに相談していた。
「橋の建設許可を頂いたので、資材と人足の手配をしたいのですが、過去の資料などありますか?」
「あぁ。それならあの棚の資料が参考になるだろう。橋の名前はどうする?」
「そうですね。聖女様にあやかって『春の暁光橋』と名づけたいのですが、さすがにエルフェ領でそれをやったら不敬でしょうか」
「地元では正式名でなくお嬢橋だとか聖女橋という愛称で呼ばれているそうだし、名前くらいなら聖女も目溢ししてくれるのではないだろうか」
今日も今日とて和気藹々と領内整備に精を出していたそんな二人のもとへ、慌てた様子でメイドが駆け込んできた。
「旦那様! 奥様! 大変です!」
こんな風に慌てたメイドは見たことがない。
二人は顔を見合わせてから何があったのかと問うた。
「街に来た神官たちが、旦那さま方を非難する内容の話をあちこちでしているんです!」
「は?」
「非難? えぇと、私たち、具体的になにを非難されているのかしら」
メイドが言うには、最近リーゼンフェルト領とエルフェ領が前よりも栄えているのは、侯爵夫妻が領地運営で不正を行い私腹を肥やしているからなのだと神官たちが領民に吹聴しているのだという。
「私腹を肥やす? 私たちに自殺願望はないのだがな……」
「そうですよね。それに、そういう悪いことって普通こっそりやるものでは? 吹聴されるほどバレバレな悪事って、素人仕事にも程がありませんか?」
領全体の状態が良くなっているのが神官たちの言うところの不正の証なのだろうか。
あまりに突拍子もない話を聞かされ、日々真面目に領地運営に精を出していただけの二人は、小鳥のようにちょんと首を傾げることしか出来なかった。
「何が目的なのでしょう。教会が侯爵家の領地運営に文句をつけるメリットなんてあるのかしら」
「しかもこの領は元は王家の直轄地だ。そもそも教会とは関係ないはずだが」
貴族として教会への寄付も積極的に行っているし、行事などにもきちんと参列している。
考えてみても何ひとつ思い当たる節がない。
もしや神官を騙る不届者なのではないだろうか。
それはそれで野放しにしておけない。
二人は現状の把握のために市街地の視察と称して様子を見に行くことにしたのが、事態は二人の予想以上であった。
「皆も知っている通り、リーゼンフェルト侯爵家は呪われた侯爵家である! かつて精霊妃より与えられた呪いは今日まで解かれることはなかった! これは今も精霊妃がリーゼンフェルト侯爵家を許していない何よりの証拠! そんなリーゼンフェルト侯爵家が繁栄するなど、そも精霊妃の意にそわぬことである! この裏には数多の犠牲があるに違いない! この地の手にした豊かさは他の何かを犠牲にして得たものなのだ! 罪深き地を今こそ清めなければならない!」
教会前の広場に集まった人々の前で、数人の神官が声を張り上げている。
クリストフが呪われているというのはこの辺では有名な話だ。
それでもあくまで呪われているのは侯爵家の人間であって、厄災が領民に降りかかることはなかった。
しかし侯爵夫妻が悪事に手を染めているとなれば、また精霊妃の怒りに触れ、今度は領地ごと危うくなるかもしれない。
連日神官たちによる話を聞き続けていた人々は、知らず知らずのうちに胸の内に不安の種を植え付けられており、皆どこか不安気な表情を浮かべていた。
「りょ、領主様……!」
その場に侯爵夫妻が現れたことに気がつくと、居合わせた人々は知ってか知らずか一様に夫妻から距離を取った。
そんな彼らの視線にも、神官の言葉にも臆さず、アンバーは制止するクリストフを振り切って一歩前に出ると負けじと声を張りあげた。
「神官さま。今の話は聞き捨てなりません。我々の領地運営に何一つ不正はございません! 夫はこの地に生きる民のために、寸暇を惜しんで働いているのです。もし私たちの行いが精霊王様や精霊妃様に顔向け出来ぬようなものであれば、私たちは既にその報いを受けているはずです」
神官というのはこの国において、ある程度の立場がある。
それ故にこのように話を遮られたことに驚いた様子だったが、その相手が侯爵夫人であるアンバーとわかると鼻で笑って返した。
「報い! 報いと仰ったか! そうだ、このリーゼンフェルト領は報いを受けるだろう。そして、エルフェ領もまた報いを受ける!」
「精霊王の怒りに触れ呪われたエルフェの血を受け継ぐ侯爵夫人よ、その日はもうそこまで来ているのだ!」
口々に叫ぶ神官の言葉に、領民達は顔を見合わせてざわざわと騒ぎ出した。
そもそもこの国は今より遠い時代に精霊王が一人の人間の娘を愛し、娘もまた精霊王を愛した事から生まれている。
愛した娘とその家族が生きるこの地に精霊王自らが愛情を示して加護を与えたことで繁栄し、国となったと伝えられており、その娘の子孫が今日の王族であるという。
それ故、王族をはじめ、国民は皆幼い頃から教会で国の成り立ちと精霊王への感謝を忘れないよう教育を受ける。
精霊王の心が民から離れれば、かの王の加護が薄れ、国は早晩滅びてしまうと言われているからだ。
そんなこの国において、精霊王や聖女である精霊妃の怒りに触れた一族が報いを受けると、他でもない神官が言っている。
今まで何もなかったからこそおとぎ話くらいに思っていた領民が、この神官の言葉に不安を抱くのは当然だった。
(呪われているのは確かだけど、でも!)
アンバーは内心で歯噛みした。
呪われているからこそ、リーゼンフェルトもエルフェも呪いを発動させないよう必死になって今日までやってきたのだ。エルフェの領地のために貴族である父だって毎日畑を耕して頑張っているし、母だって糸紡ぎに精を出している。
神官の言葉ひとつでクリストフのこれまでの献身や皆の頑張りを全てなかったことにされるのは、妻として、同じく呪われたエルフェの血族として我慢がならない。
しかし呪いを受けている事実は変わらない以上、今ここでアンバーもクリストフも口にできる言葉を何も持たなかった。
黙りこくった二人に領民は一層ざわつき、神官はにやりと笑って更に言葉を続けた。
「リーゼンフェルト侯爵家はこの地を教会に委ねよ。呪われた地は教会の管轄とし、土地そのものを清めるべきだ」
そう告げた神官は、さらに領主は私財全てを教会に寄付せよとクリストフに迫った。
なるほどそれが目的か。
侯爵家の土地と財産を寄付の名目で接収し、更には豊かになったこの地の税収まで得ようとしているのだろう。
二人は瞬時に教会側の意図を悟ったが、しかし教会に罪を告白し浄化を願うのなら財産を寄付するのはごく一般的な風習であり、神官の言葉は常軌を逸している訳ではないのがまたやりづらい。
まるで救いの手を差し伸べるかのような声音で神官は、さすれば精霊王とその妃の怒りもおさまるだろうと笑った。
「クリストフ……」
「アンバー」
教会前に集まった神官以外の人々は皆、今や二人を怯えを含んだ目で、或いは生贄の仔羊を見る目で見つめていた。
明らかな状況不利である。
ここで選ぶ言葉を間違えれば、こちらに非がなくとも形勢は更に悪化するというのが肌でひしひしと感じられる。
人々の視線に晒されたクリストフとアンバーは、触れた指先を頼りに、周りから見えないように互いにそっと手を握った。
(……侯爵家がそうすることで領民に安寧が訪れるなら……)
クリストフの指先に力が込められ、アンバーはピクリと肩を揺らした。
夫が今何を考えているのか手に取るようにわかる。
今この場で結論を出す必要はないが、何も言わずにこの場を去るのはむしろ悪手であるし、早晩周りにせっつかれて教会側が望む答えを出さねばならないのは間違いない。
卑怯な手ではあるが、そんな手を使う教会側でも領民まで悪いようにはしないだろう。
大丈夫だ。元々富など知らない環境で育ったアンバーは貧乏には慣れている。夫と共に畑を耕すなどして慎ましく暮らすのも悪くはないだろう。
アンバーもまた握る手に力を込めてクリストフを見上げる。
大丈夫よ、とアンバーの瞳が語る言葉に彼は小さく頷いた。
二人がしばし見つめ合い、クリストフが口を開こうとしたその時である。
──その場に若い娘の高笑いが響いた。




