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午前六時のブラックアウト ーベテルギウスの嵐ー  作者: 流星


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第2話 白紙の恋人

ノクターンノベルでも2話を投稿しましたので、こちらでも2話を公開させていただきます。


第二話 白紙の恋人


意識を取り戻した由焚花ゆたかは、昨日までの彼女とは別人だった。


「…………あ、い………………いえう、お…………?」


その唇から漏れるのは、意味をなさない音の羅列られつに過ぎない。聞こえたはずの言葉は、俺の脳の「幻聴げんちょう」に過ぎなかったのか。


「由焚花……! 分かるか? 俺だ、分かるのか!」


必死に呼びかけ、彼女の肩をつかむ。だが、俺の問いかけに対する彼女の反応は、あまりに期待を裏切るものだった。


「……っ、……あ、……ぅ……」


ただ空気が喉を通るだけの、乾いた呼気こき。舌の使い方も、喉の鳴らし方も、すべてを喪失そうしつしたような、空虚くうきょな音だ。

俺は、その瞳を至近距離しきんきょりで覗き込んだ。鏡のように俺の困惑こんわくを映すだけのその瞳を見て、俺は悟った。由焚花は、重度の記憶喪失におちいっている。これまでの日々はおろか、言葉の操り方さえ、今の彼女は持ち合わせていないのだ。


俺は言いようのない罪悪感と、正体の知れない恐怖に焼かれながら、自分のスウェットを履き直した。


俺は、赤子同然となった由焚花を抱き寄せ、姿見すがたみの前に立たせた。鏡の中の自分を見つめる彼女の瞳が、激しく揺れる。

「……お、……お……」

「……」

彼女は鏡の中の俺と、現実の俺を交互に見比べ、やがて安心したように俺の胸に後頭部こうとうぶを預けてきた。

鏡に映る二人の姿は、一見すれば仲睦なかむつまじい兄妹のようだった。だが、現実のこの部屋にいるのは、記憶を失いすがり付く恋人と、彼女を寂しげに見つめることしかできない男の姿であった。


クローゼットから、アイボリーのハイネック・リブセーターと、グレーのジョガーパンツを取り出した。


「由焚花、これを着よう。寒いからな」


彼女の頭を狭いえりぐちに通し、俺の手で一本ずつ、細い腕を通していく。

首の付け根までを覆うタイトなリブ編みは、彼女の華奢きゃしゃな喉元から胸の膨らみにかけて、呼吸のたびにリブのうねが波打つように動く。


「由焚花、おなか減っただろう。何か食べようか」


俺は、まだ足取りのおぼつかない彼女の手を引き、キッチンへといざなった。

停電した室内、窓からの薄明うすあかかりがステンレスのシンクを鈍く照らしている。俺は彼女の背後に立ち、その小さな身体を包み込むようにして、まな板の前に立たせた。


「……あ、う……?」

「そう、ここに立つんだ。いいか、これは『お料理』っていうんだ。由焚花がいつも、俺にしてくれていたことだぞ」


男の料理といえば、プロテインを溶かすか冷凍食品を温める程度。だが俺は、かつて彼女が作ってくれたミルクがゆを思い出し、食パンでそれを再現しようと試みた。

俺がプロテインを牛乳に溶かす傍ら、彼女には食パンをちぎらせ、一つひとつ鍋に入れさせた。不器用な手つきでちぎられたパンは、コンロの青い炎で温められたミルクと混ざり合い、次第にそれらしい形になっていく。


だが、出来上がった食事を与えるだんになると、壁にぶつかった。

コップを口元に当てても、彼女は飲み方がわからず、ただふちついばむばかり。こぼれた水があごを伝い、白い首筋をなめらかに濡らしてこぼれ落ちる。

「……ダメだな。コップはまだ難しいか」

哺乳瓶ほにゅうびんなんて便利なものはない。俺はペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、キャップを開けた。


(ペットボトルの大きさなら…)

「ほら、これをくわえるんだ」


見本を見せた後、丸い飲み口を彼女の唇の間にそっと差し込んだ。

彼女は最初、戸惑うように唇をすぼめ、プラスチックの硬質こうしつな感触を確かめていたが、ボトルをわずかに傾けると、冷たい水が彼女の喉を打った。透明なボトル越しに、華奢きゃしゃな喉元が上下に動くのが見える。口角から溢れた水が、ハイネックの縁をわずかに湿らせ、白いリブが彼女の喉元に吸い付いた。


――ごくり、ごくりと、喉を鳴らし、水を飲み込んだ。


栄養を摂らせるため、プロテインを溶かしたボトルを差し出す。彼女は唇全体で飲み口に密着し、吸い付くように飲み始めた。

「……ん、ふぅ……」

ボトルを両手で包み込み、夢中で吸い上げるその様は、赤ん坊のような無垢むくさが、思わず可笑おかしさがこみ上げる。


飲み終わった彼女がボトルを離すと、「ぷはっ」と吐息といきが漏れた。


だが、咀嚼そしゃくの壁はさらに高かった。

スプーンで固形物を運んでも、彼女はそれをどう処理すべきか分からず、ただ口の中にめるだけだ。俺が見本を見ても、咀嚼という概念そのものが伝わらない。

俺は意を決し、自分の口でパンを細かく噛み砕くと、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。


「……ん、っ……んぅ」


触れ合った唇は驚くほど柔らかく、内側から溢れる湿った熱で濡れていた。抵抗のない牙城がじょうを割り、彼女の口腔内こうくうないへと咀嚼物を滑り込ませる。

その瞬間、彼女は「ん……っ」と鼻にかかった声を漏らし、まるで唯一の命の綱を掴むかのように、夢中で俺の唇に吸い付いた。


密着した口内から漏れる、互いの熱がどろりと混ざり合う音が、鼓膜こまくを直接撫で回す。強く吸い付かれるたび、彼女の肺腑はいふに溜まっていた熱い呼気が逆流し、俺の鼻腔へとダイレクトに流れ込んできた。


「……ん、っ……. おい、落ち着け……っ」

(……おかしい。食事を教えているだけなのに)


狂おしいほどの吸着を一度解き、再び咀嚼物を含ませては唇を重ねる。それを何度か繰り返すうち、彼女の喉は規則正しい嚥下えんげの動きを覚え始めた。

次は、スプーンに持ち替える。


「あー……. ほら、由焚花」


銀色のスプーンを差し出すと、彼女は自ら大きな口を開け、俺の差し出すものを受け止めるようになった。俺の顔をじっと見つめ、咀嚼の感触を確かめるようにゆっくりとあごを動かす。リブセーターの首元が、彼女の喉の動きに合わせて小さく波打った。


二度、三度。

銀色の金属が彼女の白い歯に触れるたび、俺の指先にもその微かな振動が伝わってきた。スプーンを抜くたび、彼女は次のひとさじを急かすように俺の服のすそを小さな手で握りしめた。


「……よし、次は自分で持ってみろ」


試しにスプーンの柄を握らせる。力が入らずに滑り落ちそうになる指を、俺のてのひらで上から包み込むようにして固定した。


「……そう、口まで運ぶ。ゆっくりだぞ」


俺の腕の力を添えて、彼女のひじを曲げさせ、スプーンの先をその柔らかな唇へと導く。何度か往復させるうち、彼女の腕に自身の本能的な意思が宿り始めた。


「……そう、自分で行け。……上手いな」


俺が少しずつ掌の力を抜くと、彼女は自身の不器用な筋肉を使い、震える軌跡を描きながらも自力で口内へと栄養を運び入れた。


(……覚えられるんだ。一つひとつ教えていけば、馴染んでいくんだ……)


空になった器を見つめながら、彼女は満足げに小さく「あ、う……」と、とろけたような声を漏らした。真っ白なキャンバスに筆を入れるようで、俺の胸を熱くさせた。


「……美味しかったか」


俺は彼女の顎をそっと持ち上げ、口内に残ったパンを指で確かめようとした時だった。

指先が熱い粘膜に触れた瞬間、由焚花ゆたかの身体がビクリと跳ね、喉の奥から聞いたこともないような、粘り気のある吐息が漏れた。

彼女は俺の指を強引に吸い込み、舌先で愛撫あいぶするように、執拗にしゃぶりついてくる。


指を引くと、今度は、口を前に突き出し、俺の唇にすがり付こうとしてくる。

彼女は、俺のフリースを鷲掴わしづかみにし、獣のようなひたむきな力で俺をソファーへと引き寄せた。


「あ、ぅ……っ、ぅ……ん! ぁ……ん、んっ!」


彼女は、濃厚な、まさに魂を吸い上げるような口付けを仕掛けてくる。彼女の細い腕が、俺の頭を両側から強く挟み込んだ。


「……っ!」


逃げ場を失い、完全にホールドされた俺の顔が、彼女の眼前に固定される。


男が、口移しで食事を与えたあの時の、その濃厚な接触が、彼女の中で「生存の欲求」から「愛の欲求」へと、鮮やかに、かつ激しく書き換えられてしまったのか。


強く吸い付かれるたび、彼女の口腔から漏れる、焼けるような「熱」が、鼻腔へと突き抜けていく。

汗と、高まった体温、そして記憶のピースが彼女の脳をしびれさせていく。


その瞬間――。

「……ッ!? あ、あああああ!!」


彼女の瞳が、カッと見開かれた。


「あああああ!――」


せり上がる熱に呼応するように、記憶の欠片かけらが、感情という名の最強の結びつきによって、新しい形へと再構築されていく。


「……はぁ、……ぁ、……あ……」


放心し、虚空を仰ぐ彼女の瞳からは、一筋の涙が頬を伝ってあふれ出した。


「……お、……にい……さん……?」


彼女は静かに瞳を閉じた。


(続く)

3/10 主人公の恋人「ゆたか」の漢字を「由焚花ゆたか」に変更


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