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午前六時のブラックアウト ーベテルギウスの嵐ー  作者: 流星


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第1話 6時零分、止まった世界

本日は202X年3月2日。物語の幕が開く「その日」です。

現実の時間と、物語の時間が重なり合う不思議な感覚と共に、この『止まった世界』の断片を体験していただければ幸いです。


3/10 主人公の恋人「ゆたか」の漢字を「由焚花ゆたか」に変更


第一話 6時零分、止まった世界


202X年3月2日、月曜日。週の始まり。


少し早く1日のルーチンを始めようと、午前5時45分に微睡まどろみからい出した。

リビングは照明がついたまま。ソファーでは、一人の女がノートPCをひざに乗せたまま眠っていた。


彼女は俺の恋人で、志牧しまき 由焚花ゆたかという。


昨夜、遅くまで仕事の資料を作ると言っていた。

同い年の由焚花ゆたかは、普段は少しわがままで、いわゆるツンデレだ。

すっと通った鼻筋に、気の強そうな薄い唇。身長は155センチと小柄だが、均整の取れた肉体美を誇っている。そんな勝気な面影も、今は深い眠りの底に沈んでいる。パーカーの厚い生地越しでも、彼女の肉体の柔らかな曲線は隠しようもなく、静かな呼吸に合わせて微かに上下していた。


声をかけず、足音を忍ばせて浴室へ向かう。換気扇のスイッチを入れ、中へ。浴室の床が、足裏を刺すように冷たい。シャワーの蛇口をひねる。やがて熱を帯びた細い湯が流れはじめ、鏡がゆっくりと曇り、室内が白く塗りつぶされていく。


浴槽にお湯をめながら、降り注ぐ熱を全身で受け止める。

閉じたまぶたの裏に、昨夜のニュースがよみがえる。


『ベテルギウスからのニュートリノを観測――超新星爆発の光が、数時間後から遅くとも明日には届く見込み。明るさは満月ほどで、昼間でも観測できるでしょう』


その時だった。


「……っ!?」


視神経をき切るような、凄まじい閃光。頭の奥で弾ける激痛。

同時に、世界から一切の音が消え失せた。


重力が消失したかのような錯覚。濡れた髪がふわりと宙に浮き、体の制御を失って、後頭部を浴槽のふちへと打ちつけた。意識が遠のく中、浴槽の中に崩れ落ちる。鼻腔びくうに熱い湯が入り込み、肺が酸素を求めてもだえ、死を感じた。


「がはっ……、っ、げほっ……!」

手探りで浴槽の縁をつかみ、震える腕で体を持ち上げる。ようやく確保した呼吸のなかで、目を見開いた。

だが、そこには「虚無」しかなかった。光も、色彩も奪われた絶対的な暗闇。

「……ッ、……ゥ」

うなりが漏れた。


脱衣所へ這い出すが、あちこち体をぶつける。完全な暗黒。照明のスイッチを何度押しても、むなしいスイッチ音が響くだけ。停電だ。


暗闇の中、ガツン、とドア枠に肩を強くぶつける。止まらずに壁を伝いながらリビングへ進んだ。ゴン、とまた何かにぶつかった。

由焚花ゆたか……? 由焚花、そこにいるのか?」

返事はない。


窓際まで手探りで進み、遮光カーテンを力任せに引き開けた。薄明はくめいが室内に滑り込む。続いて、リビングのカーテンも一気に引き開ける。

東の空が、白くにじんでいる。ふと壁のコンセント式時計に目を向けると、短針と長針が一直線の6時零分を指したまま微動だにしていない。


薄明かりが、ソファーの輪郭を照らし出す。

彼女が、そこにいた。先ほどと同じ姿勢。


「おい、由焚花ゆたか! 起きろ!」

肩を掴み、揺さぶる。反応はない。

「由焚花! 由焚花!」

耳元で何度も名前を叫ぶ。


首筋に指を当てれば、体温は驚くほど高く、脈拍も力強い。陶器のように滑らかなはずの肌は、今はねっとりと熱を帯び、指先に吸い付くような感触があった。

呼吸も深く、規則正しかった。額に手をかざすが、手のひらで感じる彼女の体温は、少し高い。だが、風邪や炎症のような、熱さではなかった。まぶたを押し上げてみる。瞳は虚空を見つめたまま焦点が合わなかった。


彼女の胸元に耳を寄せた。だが、厚手のパーカーの生地が邪魔をして、肝心の心音が遠い。

一瞬、躊躇した。だが、迷っている場合ではない。

パーカーの裾から、震える手を滑り込ませた。Tシャツを捲り上げ、ブラジャーの下、直接その肌にてのひらを当てる。

指先に、トクン、トクンと規則正しい鼓動が伝わってきた。肌は驚くほど熱く、吸い付くような湿り気を帯びている。心拍に乱れはない。肺の音も静かだ。

「……心音は、たぶん普通だ。リズムも、しっかりしてる」


パーカーの袖から覗く彼女の手をとり、続いて足首に触れた。

不自然な強張こわばりはない。震えや、痙攣けいれんの兆候も見られない。指先まで血色は良く、爪の色も淡いピンク色を保っている。


心臓も、呼吸も、手足の反応も、目に見える範囲では正常だ。ならば、原因は頭か。


固定電話の受話器を耳に当てるが、発信音すら聞こえない。液晶画面は死んだように黒いままだ。

書斎のデスクに放り出していた自分のスマホは、電源が、落ちていた。長押しで、ようやく起動させるが、圏外。


(……スマホも、だめか)


藁にもすがる思いでノートPCの天板を開く。PCは立ち上がったが、ネットワークに接続されない。LANが死んでいるのは、停電のせいか。


ふと、耳の奥が痛くなるような感覚に襲われた。

普段の朝なら響くはずの列車の音、新聞配達のバイクの音、カラスの鳴き声――そのどれもが、どこかで遮断されたように聞こえない。この世界から、一切の「生活音」が消失している。


その異質な静寂を意識した瞬間、ゾクリと背筋を撫でる冷気に身震いした。

ガチガチと奥歯が鳴るほどの震えの中で、ようやく、自分が浴室から飛び出したまま一糸いっしまとっていない全裸であることに気がついた。


(……あ、服を着ていない。何やってんだ)


剥き出しの肉体で放り出されていることが、耐えがたいほど無防備で、滑稽に思えた。

クローゼットから適当にスウェットパンツと厚手のフリースを引きずり出し、湿った体に無理やり通す。布地で皮膚を保護された安堵感が勝った。


高輝度LED懐中電灯を掴み出す。机の上の電池式目覚まし時計に目を向けると、6時45分、秒針がカチカチと規則正しい音を立てて進んでいた。


玄関から外に出る。

重いドアを開けた瞬間、奇妙な圧迫感に襲われた。音が、ない。

本来なら聞こえるはずの始発列車の響きも、遠くの幹線道路を走る大型車の走行音も、早起きのカラスの声さえも、真空に吸い込まれたかのように消えていた。


隣の家のドアへ歩み寄り、インターホンに指をかける。だが、押した感覚に続く電子音は聞こえない。焦燥に突き動かされ、鉄の扉を拳で叩いた。


「すみません! 誰か、いませんか!」


ゴン、ゴン、という乾いた打刻音が、静止した廊下に暴力的なほど大きく響き渡る。

……返事はない。

数秒待ったが、その空白が永遠のように感じられ、俺は逃げるように部屋へ戻った。


ベランダの掃き出し窓からも街を見下ろしたが、そこにあるのは静止画のような光景だった。消えた信号、不自然な位置で止まった車。動いているものが何ひとつない、死んだ街。


「……っ、おい! 由焚花ゆたか、起きろよ!」


俺は由焚花ゆたかのそばに駆け寄り、彼女の体を両手で掴むと、意を決して大きく揺り動かした。何度も、何度も。彼女の頭がガクガクと揺れるほど激しく揺すり、声を枯らして呼びかける。

一瞬、彼女の指先がピクリと動いたように思えた。

由焚花ゆたか! 頼む、目を開けてくれ!」

再度、身体が壊れるほど強く揺すって叫び続けた。視界がにじみ、涙が零れ落ちる。だが、彼女は反応しない。


俺は力尽き、彼女の横に座り込んだ。フローリングの床が、冷たく感じた。

「……隣も、だめだ。電話も繋がらない。由焚花ゆたか、どうすればいい」


答えが返ってこないとは分かっているが、彼女に相談してしまう。白んだ光を浴びて無言で横たわる彼女が、寒そうに見えた。

毛布を持ってこようかと考えたが、ここで寝かせておくより、寝室のベッドへ運ぶのが良いと思い直した。


俺は一度立ち上がり、廊下へ続くドアを開け放った。扉の隅に備え付けられているゴム製のドアストッパーを、床に噛ませる。

続いて、寝室へと向かう。ドアを開け、入り口近くにある、重い図鑑を重石にしてドアを固定し、リビングから寝室までの道を完全に開通させる。

北側の寝室は、カーテンを開けても薄暗い。廊下も同様だ。俺は書斎へ向かい、引き出しから備蓄用の懐中電灯を二個取り出した。

懐中電灯の一つを点灯させ、寝室の入り口を照らすように床へ置く。もう一つはリビングから廊下への動線が見える位置に据えた。


「……今、運ぶから」


自分を鼓舞するように呟き、由焚花ゆたかの首筋と太ももの下に腕を滑り込ませた。

一気に抱き上げる。だが、その瞬間に違和感を覚えた。


床に広がった染み。そして太ももの裏から伝わる生ぬるい湿り気。

「……失禁」


プライドの高い彼女が、これほどの醜態しゅうたいさらしている。

俺は運び出すのを踏みとどまり、彼女を床へ下ろした。


洗面器に水をみ、数枚のタオルを抱えて、彼女の前に膝をついた。


重いスウェットを、かかとの方へゆっくりと引き抜く。彼女の体温を吸い込んだ布地を床に置いた。


水に浸したタオルを絞り、丁寧に、汚れをぬぐう。

冷えないように、そして清潔にするために――。そう自分に言い聞かせながら、何度も場所を変えて拭った。


普段の彼女なら、平手打ちを食らわせるだろう。だが今は、彼女はただ深く、穏やかに呼吸を続けるだけだった。


肌に残った水分を、清潔な布で拭き取る。指先に伝わる彼女の体温は、この静止した世界で唯一の、確かな生命の証だった。


タンスから清潔な衣類を出して、恋人の身体にはかせた。


俺は疲れてダイニングの椅子に座る。動かない彼女と外の景色を眺めながら、思案を巡らせた。

自宅は停電、周囲一帯が停電なのだろうか。

恋人の由焚花ゆたかは、眠ったままで決して起きない。いつもの街の喧騒けんそうは聞こえず、どう考えても、異常事態であった。

3月の朝の空気は、停電した室内を容赦なく冷やしていく。カーテンを閉めれば暗黒に戻る。それが怖くて、開けたままにした。


由焚花を見て、胸が痛む。

「寝室へ運ぼう」


仰向けに横たわる彼女を再び抱き上げる。ぐったりと俺の腕に預けられたその体は、驚くほど熱く汗ばんでいた。

懐中電灯の光を頼りに、ベッドへゆっくりと彼女を横たえた。


ふと枕元の目覚まし時計に目を向ける。

「……“2時45分”?……」

思考が一瞬、停止した。リビングは6時、俺の時計は9時。この部屋だけが、別の時間軸にあるようだった。


由焚花ゆたかのパーカーのジッパーを下ろし、湿ったTシャツを脱がせる。

「起きていたら、絶対に殺されるな……」


白い肩に指を触れる。驚くほど柔らかく、そして温かい。俺は彼女の無事を祈るように、その鼓動を確かめ続けた。

世界から音が消え、文明が死に絶えたような暗闇の中で、彼女の熱だけが唯一の現実だった。

俺は彼女を強く抱きしめた。


「由焚花……由焚花……っ!」


極限の焦燥と、孤独への恐怖。俺は、ただその生命力にすがり付いた。

その時、彼女の身体が大きく震えた。

ドクン、ドクンと、互いの心音が重なり合うように響いた。


荒い呼吸を整えようとしたその時、腕の中で震えていた由焚花ゆたかの、焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。


「…………な、に………………してる、の…………?」


かすれた、しかし紛れもない彼女の声だった。

静止した世界の中で、彼女が意識を取り戻した。


(続く)

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


本作は「現実の3月2日」という日付と物語をシンクロさせる試みとして準備してまいりました。実は、3月3日に起きる「皆既月食」も物語の重要な鍵として組み込んでいたのですが、現実の予報が雨となり、作中との空の乖離かいりが出てしまうこと、それに伴い描写の修正が間に合わないことから、苦渋の決断として本連載の開始を「来年の3月2日」へと延期することにいたしました。


本話はその「テスト版」としての公開となります。


この静止した世界の不気味さ、時間のズレの謎をどう感じたか?


全年齢版としての緊張感や、ラストの覚醒シーンの衝撃はどうだったか?


ぜひ皆様の率直な感想をお聞かせください。来年の3月3日には、現実の空で月食は起こりません。しかし、月食という天体ショーに代わる「何か」……この静止した世界をより象徴するような、新たな事象を組み込もうと考えています。


来年の3月2日、この場所で再びお会いできることを願っております。

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