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共に宿屋へと戻ってきたエリアスとは、カティアは受付で別れることになった。そして、そのまま自室へと戻ったカティアは、結局まだ食べることのできていない甘いパンの入った袋を胸に抱いたまま、窓の外の木々を眺めていた。
カティアはアルベルトの出現で有耶無耶になったエリアスの言葉の続きを考える。一瞬でも聞きたいと思った、その言葉を。想像した言葉の通りなら、と。けれど、考えたところでどうしようもないだろうと、思考に制止がかかる。この町で生まれ育った自分は、きっとこの町で結婚して、子供を産んで……そして死んでいくのだろうとカティアは思っている。この町の大多数の人間にとっては、それが普通なのだから、と。
カティアは窓から視線を小さな机の上へと移した。机上には昨夜読んでいた娯楽本が置いてある。身分違いの恋愛は、穏やかな幸せで終わっている。一生その幸せが続くのか、二人に何か試練が襲うのか。描かれていない物語のその先を、カティアが知る術はない。
再び窓の外を眺める。カティアには遠い、外の世界を思い描きながら。溜め息を一つ吐き、カティアが今日はもう寝てしまおうか、と思ったその時、窓を挟んだカティアの視界に、満面の笑顔を浮かべたマチルダの顔が映り込んだ。
カティアは一瞬、肩をビクリと震わせる。心臓がドクドクと早鐘を打つカティアに一切構わずに、マチルダは窓を開けるようにと口の動きだけで指示をした。
「やあ、幼馴染殿。失礼するよ」
挨拶もそこそこ、そう言うや否や、マチルダは躊躇うことなく窓枠に足をかけると、カティアの部屋へと許可も取らずに入ってきた。
「えっ……マチルダさん?」
「あはは、小さい部屋だね」
「……ほとんど寝るためだけの部屋ですから」
「おや、気を悪くしたかい? 正直者ですまないね」
「いえ……そんなことは……」
困惑するカティアを他所に、マチルダはカティアの寝台に腰かける。組んだ足を支えに顎肘をつくと、カティアに向かってにやりと笑った。その笑顔に、カティアにしては珍しく心が乱された。
「何か、ご用ですか」
「なかなかに辛辣だねえ。ふふっ、なんだか面白いことになったなあ、と思ってね」
「見ていたんですね」
「もちろん。アルベルトがいようと、私がミアから離れる道理はないからね」
「今は離れているようですが」
「この宿屋には部下を泊めているから、少しくらい目を離しても大丈夫さ」
マチルダは笑う。
「私に、何か、ご用ですか」
「君は感情を隠すのが上手いようでいて、実は下手なんだね。いや、経験不足ってところかな?」
「何が言いたいんですか」
「ああ、ごめんごめん。別に君を苛めたいわけじゃないんだ、そんなことを君にする意味も必要もないしね。ただ娯楽の提供と、ミアに優しくしてくれた君への礼に、年長者からささやかな助言をあげようと思ったのさ」
マチルダはカティアを見ながら、そう言った。
「どうやっても抑えきれない衝動が起こったなら、ただ、動けばいいんだよ」
「え……?」
「――とは言っても、凡人の君には難しいだろうから、君の中の基準と天秤にかけて、少しでもそちら側に傾いたならば、走り出せばいい」
「何を言って……」
「君のその衝動は、誰かや何かを不幸にするものかい? なあ、カティア・ネーヴェ」
違うだろう? と。カティアに向けて、マチルダは笑っている。瞳の奥に、どこか淡く柔らかい光を灯しながら。
「ただ、動けばいい……走り出す……」
マチルダの言葉を、カティアは反芻する。その時、胸の中で存在を主張するように、パンの入った袋が音を立てた。その音に、カティアは心を決めた。
「あの、マチルダさん」
「なんだい?」
「部屋、出ていってもらってもいいですか?」
「おや、冷たい」
「これから私、行く所ができたので」
「なるほど。それなら、お暇しよう」
カティアの言葉にマチルダはすぐに納得すると、寝台から立ち上がり、窓へと向かって行った。
「……窓から出て行くんですか」
「窓から入ってきたのだから、窓から出て行くのは当然だろう? 様式美というものだよ」
では、健闘を祈るよ、と窓から出て行ったマチルダが、まあアイツは私と同類だから、心配はないよ、と笑いながら呟いた言葉は、幸か不幸か、部屋から出て行くカティアの背中には届かなかった。
*****
カティアは自室を出ると、足早にエリアスの宿泊している部屋へと向かった。考えるのは、今のこと、これからのこと。
カティア・ネーヴェは勇者の幼馴染である。けれど、勇者の冒険譚に宿屋の娘であるカティアは存在しない。カティアの幼馴染というのはあくまでも、魔王を倒した勇者アルベルトではなく、ヤンチャ坊主な食堂の息子のアルベルトなのである。
変わって、エリアス・ノックスは勇者の冒険譚に仲間の魔術師として存在する。魔王を倒した英雄の内の一人であり、更にはエリアス本人が直接カティアに語ったことではないが、この国の王宮魔術師団長補佐であり、魔法伯として有名なノックス伯がエリアスの父親であることを、カティアは知っていた。
勇者の冒険譚の中と外。貴族と平民。現実的ではない、娯楽本の中でしか存在しない、身分違いの恋。
――どうやっても抑えきれない衝動が起こったなら、ただ、動けばいいんだよ
エリアスの部屋の前に着いたカティアは、扉の前で軽く息を整え、口を開いた。
「エリアスさん、カティアです。少し、お話があるのですが」
カティアの言葉に答えるように、静かに扉が開かれた。




