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パン屋の会計を終わらせて、なんとか気持ちを落ち着けたカティアは、どうせならこの町の名所で食べましょう、とそこを目的地にすることに決めた。そして、エリアスから渡された、甘いパンが一つだけ入った袋を胸に抱えながら、カティアはエリアスと二人並んで歩き出す。しばらく歩いたのちに二人が着いた場所は、といえば。
「……ここ、は」
「はい、この町の名所の、噴水広場です」
昨日とは違う道で来たので、気づきませんでしたか? と楽しそうに、にこりと微笑むカティアに、エリアスは一瞬、目を見開いて言葉を失った。
噴水からは少し離れた木陰に設置してある無骨な石造りの腰掛けに、エリアスからほんの少しだけ間を開けて座ったカティアは、膝の上に袋を置き、眉尻を下げながら無言のエリアスに声をかけた。
「あの、ここではない方が良かったですか……?」
「いや……君こそ昨日の今日で、ここでよかったのか?」
「何がですか?」
「……昨日の、ここでのことだ」
「なるほど、それのことですか。アルベルトが突飛なことを言ったり、やったりすることはよくあることだったので、特に気にしていません。というより、私にとっても、おそらくアルベルトにとっても、あれはあの時、あの場で完結した話です」
まるで今の今まで忘れていたとでもいうように答えるカティアは、エリアスから視線を外すと中空を見詰めた。
「だから正直、私がアルベルトのことを異性として好きなんじゃないか、と聖女様やマチルダさんが気にする理由が、わからないんです」
本当に、異性としての好意を持ったことはないんです、と強がりでも、諦めでもなく、カティアはただ本心を口にする。それから視線をエリアスへと再び戻せば、カティアの様子を探るように見詰めていた、エリアスの強い視線と絡まった。
「……アルベルトのこと、よく理解しているんだな」
「幼馴染ですから。ずっと幼馴染として一緒に過ごした時間……勇者として旅に出る前までのことなら、わかります。でも、旅に出た後のことは、正直言ってわかりません。わからない、はずでした。それでも――」
いい意味でも、悪い意味でも、アルベルトは変わらなかったから、と。カティアは続けた。
「本当に、好き、とか、そういう感情はないんです。それにアルベルトは勇者で、私はただの宿屋の娘で。勇者に選ばれたアルベルトは外の世界へ行けるけれど、私は多分、この町から出ることはなくて」
けれど、生まれた町を一度も出ることなく生涯を終えることは、現実ではよくあることだった。心踊る冒険譚や胸が高鳴る身分違いの恋愛話などは、所詮宿泊客の体験談か娯楽本の中にしか存在しないのだということを、カティアは自覚している。
宿屋の娘でしかないカティアにできるのは、精々宿泊客から町の外の話を聞いて想像したり、娯楽本を読んで夢想したりすることだけなのだ。
「――町の外に出たいと思ったことはないのか?」
「思ったこと……は、ないことは、ない、です」
カティアにしては歯切れ悪くそう答えて、それからカティアは気持ちを切り替えるように、一度だけ深呼吸をした。
「……急にすみません、昨日会ったばかりの方、しかも、アルベルトの仲間の魔術師様に、こんなとりとめもない話をして」
カティアはエリアスから視線を外し、地面を見た。土の上では働き蟻が連なって、何かを一生懸命運んでいた。ただ与えられた役割を果たすだけのその存在に、カティアは何故だかひどく息苦しくなった。
無意識に力が籠り、がさり、と膝の上に置いていた袋が小さく音を立てたのを聞いて、カティアが慌てて握りしめていた手の力を緩めたその時
「――もし仮に……」
不意に、カティアの隣からエリアスが立ち上がった気配がした。そして、エリアスがカティアの前へと回り込み、地面に片膝をつく姿がカティアの視界に入り込む。カティアが慌てて顔を上げると、想像していた以上にエリアスの顔が近くにあって。
「君が外の世界に出たいと思うのならば……」
「エリアス、さん……?」
「望むのなら――」
そこで止まったエリアスの言葉の先を、聞きたい、けれど、聞いたら戻れない――エリアスの鉄紺の瞳に囚われながら、カティアはそう思った。そんなカティアの様子を観察しながら、ゆっくりとエリアスが口を開く。
「俺は――」
――その刹那。
「あー! カティアとエリアスがいる! なあミーティア、カティアとエリアスがいるぞ! 二人してそこで何してんの!?」
エリアスの言葉を遮るように叫ばれた声に、カティアとエリアスの二人は同時に声のする方へと顔を向けた。視線の先にいたのは、噴水を背にして二人を指差しているアルベルトと、その隣でアルベルトの服を握り締めながら慌てているミーティアで。
なぁなぁ、何してんだ? とミーティアの手を引き、ゆっくりと二人の側へと近付いてくるアルベルトの行動に、カティアは頭を抱えた。
「……アルベルト、人を指差しては駄目だと、子供の時教えたでしょう」
「あっ、そうだった。ごめんカティア。今度から気をつけるな! で、何してんの?」
「……まったく、もう」
まるでなぜなぜ期の子供のように、何度も繰り返されるアルベルトの問いに、カティアは困ったようにエリアスの顔を見た。エリアスはただ、薄いが確かに今まで存在していたはずの表情を一切削ぎ落として、無表情でカティアを見詰めていたのだった。




