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自宅へ戻るために受付の前を通れば、カティアは受付にいた母からエリアスへ蓄光石を持っていくように頼まれた。今更仮眠を取る気も起きず、それを了承すると、カティアは長期滞在者用のエリアスの客室の前まで訪れた。
「……宿屋の者ですが、蓄光石を持ってきました」
名前を名乗ろうかどうかを逡巡して、けれど、名乗らずにカティアはノックをして返事を待った。ほどなくして
「今手が離せないから、入ってきてくれ」
客室内からエリアスの声が聞こえてきた。
「……失礼します」
扉の握り玉をゆっくりと回し、カティアは静かに扉を開けた。
カティアが部屋の中に入ると、長期滞在者用の部屋にだけ設置してある、造りのしっかりした木製の机に腰掛けたエリアスが視界に入った。エリアスの膝の上には色褪せた茶色い装丁の分厚い本があり、時折机の上にある紙に羽根ペンで何かを書きつけていた。
カティアはそれを横目に、エリアスが座る机上にある洋燈へと、持ってきた蓄光石を入れる。少しばかり気になって、カティアはエリアスの持つ本へと視線を向けた。
「……気になるか?」
その視線に気付いたエリアスが、カティアに声をかける。
「あ……すみません、失礼でしたね」
「いや、問題ない。これは薬草学の本だ。この頁は薫衣草について、だな」
「そうなんですね……でもここの、この言語は見たことがありません。魔術言語とは、違うのですか?」
「これは古代魔術言語だ。魔術師でもない限り、確かに見ることもないだろう……それにしても、朝まで働いてたというのに、大して休みもせずに、もう働き出したのか?」
「いえ、明日の朝までは休みなのですが、色々ありまして……まあちょっとしたお使いのようなものです」
なるほど、それなら……と、エリアスは持っていた本と羽根ペンを机上に置くと、腰掛けていた机から立ち上がった。
「もし昼がまだなら、一緒に行かないか?」
*****
宿屋を出て、ツァーレの町の中心地へと向けて二人で歩く。カティアの速度に合わせて歩くエリアスの隣で、カティアはエリアスへと視線を向けた。
「エリアスさんは、何か食べたい物はありますか?」
「特にはないが、何があるんだ?」
「そうですね……お店に入るなら、大体うちの宿屋と同じような食事を出す食堂になります。食べ歩きや持ち帰りなら、露店やパン屋で猪豚の串焼きや肉詰め、黒パンに香辛料の効いたほぐし肉を挟んだものや、糖蜜で煮詰めた果実を中に入れた甘いパン、などもあります」
「なるほど。では、後者にしよう」
「わかりました。それなら、露店の方に案内しますね」
実は私、甘いパンが大好きなんです。たまにしか買えないですけどね、と恥ずかしそうに笑うカティアの姿に、エリアスは目を細めた。
複数の露店を回りながら、二人並んで食べ歩いた。カティアが支払うよりも早くエリアスが二人分を支払ってしまうため、せめてこれだけは、とカティアは果実水を二つ、購入した。
果実水を持ったカティアとエリアスの二人は、まだ足りないというエリアスのために、宿屋の食堂でも出しているパンを売る、老夫婦が営む馴染みのパン屋へと向かった。
「エリアスさんは、思ったよりもお食べになるのですね」
「頭を働かせるためには、どうしてもな。集中して忘れることもあるが、その場合、間違いも多くなる」
「そうなんですね」
つい前日に、ただ自分を無言で見詰めていたエリアスという存在に、ただただ戸惑っていたカティアだったが、今では自分から話題を振るようになっていた。それは、他の宿泊客相手には聞き役にしかならないカティアにしては、とても珍しいことだった。
「……あの……エリアスさん、まだそんな食べられるのですか?」
パン屋に入り、エリアスが陳列棚の中から指先で示したパンを、店の老婦人が木製の盆へと山盛りに載せていく。その量を見たカティアは、思わず声を出した。
「ああ、これは夜食の分も合わせてだ。……婦人、それから最後にそれを。それは別の袋に入れてくれ」
エリアスが最後に示したのは、カティアが好きだと言った甘いパンで。
「それは……」
「案内の礼だ」
「え……ありがとう、ございます?」
「ああ。他にも、いるか?」
「――っと、そうではなく。先ほど露店でも出していただいたのに、もうこれ以上はもらえません」
「誘ったのはこちらなのだから、気にするな」
くくっ、とエリアスが小さく笑った。笑みというほどはっきりとしたものではないけれど、初めて見るエリアスの表情に、カティアの胸が、どくり、と鳴った。
「あ……の、その……」
ありがとうございます、と顔を赤くし、消え入りそうな声で答えるカティアを、エリアスは穏やかに見詰めていた。そして、幼い頃からカティアを知るパン屋の老婦人は、そんな二人を微笑ましそうに眺めていた。
この時、パンを食べるためにとカティアがエリアスを連れて行った場所が、流石のエリアスも一瞬目を見開く場所であることを、カティアには予見できてはいなかったのだった――




