お礼のお菓子
あの日から、
アオイの中で何かが変わってしまった。
城の廊下は相変わらず冷たく、
使用人たちの態度も、急に優しくなったわけじゃない。
それでも――
騎士団長、カイルの姿を思い出すたび、
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
(……助けてくれた)
たったそれだけのこと。
でも、この城に来てから、
自分を「人として」見てくれたのは、あの人が初めてだった。
部屋に戻ったアオイは、
擦りむいた手をじっと見つめる。
大した怪我じゃない。
それでも、あのとき真っ先に気にかけられたことが、
どうしても頭から離れなかった。
「……お礼、しないと」
小さく呟く。
けれど、すぐに不安が湧いてくる。
(でも……迷惑、だよね)
騎士団は忙しい。
自分はただの巻き添えで、
城でも歓迎されていない存在だ。
「……それでも」
何もしないままでは、
ずっと胸の奥がざわついたままな気がした。
その日の夜、
アオイは城の厨房の前で立ち止まっていた。
灯りは落とされているが、
中にはまだ微かに甘い匂いが残っている。
(……お菓子なら)
元の世界にいた頃、
アオイはよく焼き菓子を作っていた。
母が忙しい日、
黙々とキッチンに立っていた時間は、
嫌いじゃなかった。
(材料……少しなら、残ってるかも)
もちろん、勝手に使っていいわけじゃない。
でも、捨てられる寸前の材料なら、
誰も気にしないかもしれない。
翌日。
朝の掃除を終えた後、
アオイは恐る恐る厨房を覗いた。
「……あ」
棚の隅に、小麦粉の袋。
砂糖も、ほんの少しだけ。
使用期限が近いものばかりだ。
(これなら……)
心臓が、どきどきと早まる。
誰にも見られないように、
そっと作業を始めた。
慣れた手つきとは言えない。
オーブンも、家のものとは違う。
それでも、
無心で混ぜて、形を整える時間は、
久しぶりに「考えなくていい」時間だった。
焼き上がったクッキーは、
少し不格好だったけれど、
ほんのり甘い香りがした。
「……よかった」
布に包みながら、
ふと不安が押し寄せる。
(受け取って、もらえるかな)
(……気持ち悪いって、思われないかな)
一瞬、足がすくむ。
それでも、
アオイは騎士団の詰所へ向かった。
「……すみません」
扉の前で、声が震える。
中から聞こえてくるのは、
低い笑い声と、鎧の触れ合う音。
(帰ろうかな……)
そう思った瞬間、
扉が開いた。
「あれ?」
「君、この前の……」
数人の騎士が、不思議そうにこちらを見る。
アオイは、ぎゅっと包みを抱きしめた。
「……この前は、ありがとうございました」
「これ……お礼、です」
一瞬の沈黙。
「……手作り?」
「え、すご」
戸惑いながらも、
一枚、また一枚と手が伸びる。
「……うまい」
「甘さ、ちょうどいいな」
その輪の少し外で、
カイルがこちらを見ていた。
視線が合う。
アオイは、慌てて頭を下げた。
「その……勝手に作って、すみません……」
カイルはしばらく黙っていたが、
やがて、短く言った。
「……迷惑ではない」
それだけで、
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ありがとう」
アオイは小さく笑った。
このときはまだ、
知らなかった。
この小さな「お礼」が、
騎士団との距離を、少しずつ――
本当に少しずつ、変えていくことを。
「王国第一騎士団」
王都と城を守る精鋭集団。
実力主義で規律は厳しいが、仲間意識は強く、一度身内と認めた存在は決して見捨てない。
最近では、ある少年――アオイをきっかけに、団内の空気が少しずつ柔らいでいる。




