1_6:うららかな日々と、少しだけ動く現状
川沿いの撤退は、想像していたよりもずっと静かだった。ラントはティッシを背負い直すたびに、肩ひもが濡れた布に沈む。
(自分は本当に無事に帰れているのか)
いまだふわふわした感覚があり、居心地の悪さがぬぐえない。振り返って確かめたくなる感覚が湧いたが、立ち止まって考えたところで状況は変わらないので、黙って足を動かした。戻るとロクなことにならない気もしていた。
「ん……、あれ、先輩?」
「ああ、目を覚ましたか」
ラントはティッシを適当な木の下に下す。
「……えっと、何があったんですか。私、途中から……川の音しか覚えてなくて」
と、息を整えるように言った。
意識が戻ってからも、滝壺の冷たさがまだ身体に残っているのかなんなのか、小さく震えているのを見て、ラントはため息をつく。
「説明はあとだ。帰ったら全部話す。敵に会ったが、お互いとりあえず五体満足で無事に帰宅する際中だ。今は、こっちがどこへ向かってるのかだけ覚えておけ。体力がだいぶ無い」
「マジっすか……、あ、弓……」
ティッシは軽くなった装備品をみてきょろきょろ周りを見回す。
「あとで一緒に怒られるぞ」
「マジっすか」
それだけ言うと、ティッシは小さく頷いて、余計なことを聞かなかった。
前線の開拓村が見えたのは、陽が傾いてからだった。木柵の見張り台で、見張りが誰かに声を投げ、門が開く。
魔物が殆ど居ないとはいえ、もともとは最悪ランクの魔獣が跋扈する地獄だ。用心するに越したことは無い。
いつもの帰投なら、軽口のひとつも返してしまうところだが、今日は喉が動かなかった。ティッシが村に入った瞬間に膝をつきかけ、近くの兵が慌てて肩を貸す。
明らかな異常な状況に、久しぶりに緊張が走っていた。
「グラーフ爺は?」
「詰所にいる。今は――揉め事の仲裁をしてたが、戻ったって言えば出てくる」
「わかった」
ラントは頷いて、詰所へ向かった。
詰所の扉を開けると、奥で机に向かっていた男が、顔を上げた。髭は薄く、目だけが妙に重い。グラーフは、ラントの濡れた服と、ティッシの青い唇と、そしてラントが抱えている袋を一度に見て、「座れ」と短く言った。
「殺し合いか?」
「いや、死人は居ません。ただ、異常の中心地に紛れ込んでしまったみたいです」
グラーフは何かを言いかけて、ラントの目が、冗談の一つも挟める目ではないと分かったのだろう。グラーフは椅子の背に体重を預け、顎に手を当てたまま、軽く顎を上げて続きを促した。
ラントは、順番を間違えないように、見たままだけを話した。滝壺で魚を狙っていたこと。滝の裏に岩穴があったこと。通路を抜けた先に、畑と家があったこと。偶然獣人と接敵したこと。そこに黒髪の少女がいて、農具を盾のように抱えていたこと。武器に手をかけた瞬間に、息が詰まり、足が重くなり、剣が――音もなく崩れたこと。
「音もなく?」
「はい。抜けたと思ったら、もう刃がなくて、柄だけでした。粉が革に付いてた。……見れば分かります」
ラントは袋を机の上に置き、紐をほどいた。中から出てきたのは、刃のない柄と、革にまとわりつく細かな粉だった。グラーフはそれを持ち上げる。
折れたのではなく、刃そのものが消えたような断面で、焼けてもいないし、欠けてもいない。職人の仕事が、そのまま途中で「なかったことに」されたみたいな形をしている。
現代日本で例えるなら、研磨剤を吹きかけて削り取られた後、が一番近いかもしれない。
「……鍛冶屋に見せるか。あと、見張りの隊長もだ。書記を呼ぶからお前らは、もう一回、最初から言え。言い回しじゃなく、事実だけでいい」
事実が固まれば、次にやるべき判断が決まる。グラーフはそういう人間だ、とラントは思い出した。
鍛冶屋が呼ばれ、柄と粉を見て唸った。
「折れ……じゃねぇ。これは……なんだ?」
グラーフはその沈黙を受け取って、ゆっくりと息を吐いた。
「で、その黒髪の娘は、何をした」
「何も。……騒いでるのを聞きつけて偶然来た、って感じでした。畑のそばで、『ここは私の家のまわりなんですけど』って。声は震えてたが、変な脅しはない。むしろ、こっちが怖がられてました」
グラーフはそこで初めて、ほんの少しだけ顔色を変えた。変えたというより、血が引いたのを隠すために、目だけを細くした。
「黒髪、か」
その一言が、詰所の空気を変えた。周りの兵は、黒髪が何を意味するのかを知らない。ただ、グラーフだけが、古い話と今の現物がつながる瞬間の重さを理解してしまっている。
「目の色は?」
「多分黒ですね。それが?」
「……お前、少年兵からのたたき上げだったか?」
「はい。それが?」
「たまには座学くらいはやっとけ。まあ、いい。」
グラーフは机の引き出しから、古い紙束を一つだけ引っ張り出した。開拓村に似つかわしくない、乾いた紙の匂いがする。それを広げながら、グラーフは言った。
「今のところ分かったことは、わからん力でわからんことが起こった。そして、わけがわからんが、相手方も似たような目にあっている。つまり状況はイーブンだ。まあ、その娘についてはこっちで対応する」
「はぁ。お貴族様ってやつですか? あの娘は」
ラントのセリフにグラーフは肩をすくめる。
「だから本くらいは読まねえとバカをするって言っただろ」
「ええ?」
困惑するラントを、ティッシは胡乱な目で見ていた。
同じ頃、森の反対側でも、似たような報告が上がっていた。
獣人の前線営地で、ハ・ガルドは濡れた毛を乱暴に拭きながら、ド・ドーンとシ・マーヤの前に座っていた。
ドーンは紙と炭を用意し、マーヤは火の近くで、手が震えていないかを確認するように指を組んでいる。誰も「人がいた」ことを先に問題にしなかった。問題にする前に、谷の異常が大きすぎた。
「刃がなくなったんだ。折れたんじゃない。なくなった。……それで、身体が止まる。殺すつもりになった瞬間だけ、だ。砂に埋まったらこんな感じじゃねえかな、っていう感覚だった」
ガルドの言葉は荒いが、内容は整理されていた。
ドーンが淡々と書き留める。
「まあ、あの女が多分異常の中心地だ。かかわるとマズいタイプのな」
ガルドのセリフにドーンは頷いた。「賢い判断です」と言って、書き終えた紙を乾かすために火から少し遠ざけた。マーヤは「次に行くなら、武器を持っていく意味がない」とだけ言った。誰も反対しない。
「でもあんな人間初めて見たぜ。黒い髪に黒い目だ」
そのセリフを聞いてドーンは大きくビクっとして、ガルドを見る。
「もう一度いいですか? 本当に黒髪に黒目?」
「お……おう。なんだ? なんかあんのか?」
あっ、とそこでマーヤも声を荒げた。
「常闇の王。樹海の汚泥。いろんな綽名はありますが、我々の伝承では、黒い髪、黒い目を持つものは、邪神か、その眷属と言われていますね。おとぎ話とは言われていますが……。」
「あー……?」
それからしばらく、谷の主――、曰く邪神である澪は、また静かに暮らしていた。
畑の芽は、相変わらずゆっくりと増えていく。水をやって、草を抜いて、土をまた耕す。
怖い出来事のあとでも、手を動かすと頭が少し落ち着くのは、澪の癖だった。だから、分かる範囲を丁寧にやる。暮らしの中では、それがいちばん現実的だ。
見たことない人間と、見たことない獣人みたいなのが急に出てきたときは死ぬかと思った。
あのスライムみたいに襲い掛かられたらどうしようかと思った。
腕の傷は癒えているが、いまだに少しだけひきつる。とは言え、少しの色抜け以外はほぼ治ったので、思ったよりは軽傷だったのかもしれないが、もう二度とご免である。
その日も、澪は麦わら帽子をかぶって、鍬を持ち、畑の端を均していた。風が気持ちよくて、少しだけ肩の力が抜けていた。
最近は、森の変な声も聞こえない。
このまま、誰にも会わずに、普通に畑を増やしていけばいいのかも、と、油断に近い考えが頭をよぎった。
そのとき、滝つぼへ続く道の方で、草を踏む音がした。
澪は反射的に鍬を胸の前に抱えた。念のために持っていた包丁の場所も服の上から確かめる。
視線だけで、通路の出口を見た。
出てきたのは、兵でも獣人でもない。汚れていない靴。皺の少ない上着。長旅の人間がしているはずの擦れが、どこにもない。森の中にいるのが、場違いなくらい身なりのいい人類だった。後ろには、距離を取って控える影がいくつか見える。この前来ていた人間も居る。
こちらを威嚇する姿勢はないようではあるが……
澪の口の中が、乾いた。
(やばい。今の、完全に油断してた。万が一の時の対応を考えてなかった)
澪は引っ越しもままならない身であり、もう二度とこないことを祈っていたが、その祈りは通じなかったようだった。
身なりのいい男は、ログハウスのテーブルの外がわ、柵の少し手前で足を止め、澪の様子を見てから、ゆっくりと両手を上げた。武器を持っていないことを示す、分かりやすい動きだった。
「驚かせてしまって、申し訳ありません。あなたに危害を加えるつもりはありませんし、こちらもそれを望んでいません」
言葉遣いは丁寧で、声も落ち着いていた。
ただ、多分貴族という人種だろう。明らかに服が違う。そして澪はある程度小説を読んでいたせいで、貴族という存在にあまりい印象はなかった。完全な先入観だが。
澪は意を決して声を出す。
「……あの。何かご用ですか?」
男は一瞬だけ迷うように瞬きをしてから、澪の言葉の形に合わせるように、ゆっくり答えた。
「お話をしに来ました。できれば――あなたが怖がらない形で」
それを聞いて反射的に眉をひそめた澪を見て、男は苦笑した。




