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1_1 Side現地人類側


 この世界の常識は、食う、寝る、遊ぶ、戦争。


 ラントが物心ついた頃にはもう、国境は赤いインクのスプ〇トゥーン状態で、獣人は「森の向こうから来る敵」だった。

 畑の話、家族の愚痴と同じ調子で戦況の話が飛び交い、徴発が増え、葬列が増え、そしてそれが「いつものこと」として処理されていく。


 それが、前線の日々だ。


 ラントはまだ20代前半だが、ベテランとまでは行かないが、しぶとい古参兵の一人といっても嘘にはならない程度に戦場に居た。

 なんやかんやで自発的に兵士になり、なんやかんやで多少の手柄を立て、そして数人規模の小隊を任され、いくつか有名な戦地で生き残った。

 まあ、少なくとも、そういう噂が立つ程度には前へ出てきた。

 剣に血がつくのにも慣れたし、部下に背中を見せる立場にも慣れた。


 ただ、The・古参といえるほど擦れてはいない。青いと言われることもあるが、ヘドロみたいに腐るには早いと思っている。


 「この森が取れたら、苦労は減る」

 耳にタコができるほど聞いたセリフだ。宝くじで一等が当たったら旅行に行こうというのと同じくらいの重さのセリフ。少なくともラントはそう思っていた。

 補給が通る。迂回路が使える。森の中に村ができれば、戻る場所も増える。万々歳だ。

 王都が掲げる「千年続く平和」みたいな看板は遠いが、「来月の死に方が少しマシになる」くらいなら、現場の手の届く範囲だ。ようは五等を当てていい晩御飯を食べたいというささやかな願いだ。


 だが、その森が、今は妙に静かだった。


 本来ここは魔獣の巣だ。

 斥候を出せば帰ってこない。小隊を出せば半分が消える。運良く戻ってきた者は目が合わなくなる。

 そういう“魔境”だった。真面目に森を開拓しようとする人間はバカか、大バカだった。この前までは。


 最近になって、魔獣が消えたとの報告が出てきた。それは国の斥候ではなく、犯罪者の追跡でたまたま見つかっただけだが。

 魔獣の食べ残しも足跡も、何もかも、ようは地獄感が希薄だ。夜に聞こえる生物とは思えない遠吠えも、この最近は聞こえない、とのことだ。

 そして、その結果、代わりに増えたのは、人間と獣人の気配だった。


 結局双方とも考えることは同じで、森を押さえれば彼らの理想に近づく。水源と迂回路と、「森の中に拠点を作れる」という事実が、前線の天秤を傾ける。


 だから小競り合いが増える。マクロの平和のためにミクロの平和が犠牲になるのが、まあ現実ってやつだ。

 そして森の奥へ、ドロ臭い、血なまぐさい戦場が移っていく。


 その結果その増えた小競り合いを潰しに行くのが、ラントの小隊だった。ようはカナリアだ。


「小隊長。今日は森の縁ですね」


 後ろの兵が言った。軽い声だが、足音は揃っている。だがイヤだなぁという気持ちが隠しきれていない。まあ、新兵なんてそんなもんだ。敬語が使えるだけ上等だ。

 ラントは頷き、森を見た。


「ああ。深追いはしない。見せるだけだ。向こうに“ここを見てる”って知らせる」


「見せるだけで帰れますかね。最近向こうも元気だっていうじゃないですか」


「そこをなんとか帰れるようにするのが俺らの仕事だろ。帰るまでが遠足だぞ」


「「了解です」」


 言いながら、ラントは腰の感触を確かめた。短剣と鉈。

 慣れた重さだ。余計な飾りのない道具の重さ。


 弓を持った小柄な兵――ティッシが、隊列の端で無言で弦を確かめている。

 口を開けば余計なことを、なんなら閉じてても視線で言うタイプだが、仕事の時は黙る。

 こういうのは助かる。普段ももう少し静かならなお良いのだが。


 森の外縁は歩きやすい。木々の間も通れる。

 昔話のような“入り口から死ぬ森”ではない。


 だからこそ、油断が混じる。


 なんとなく、超能力なんて信じていないが、第六感がその場所に視線を持って行った。

 次の瞬間、獣臭い。汗と毛の湿り気。風に乗って流れてくる。


 ラントは指を上げた。止まれの合図。

 小隊が一斉に息を殺す。ティッシも、弓の握りを少しだけ締めた。


 枝葉がわずかに揺れて、その後ろに隠れていた何かが出て来る。


 獣人だ。


 人間と同じように鎧を着ている。

 だが鎧の下の筋肉の厚みが違う。骨格が太い。呼吸の音が重い。


 顔は――象に似ていた。

 長い鼻が鎧の縁から覗き、牙の名残みたいな白い曲線が口元に見える。目は小さいが落ち着いている。

 名のあるやつではない。だが、弱くもない。こういうのは堅実で、しぶとい。


 一瞬遅れて、向こうもと目が合う。


 ラントは腰へ手を伸ばした。短剣と鉈。鞘の感触。抜ける、いつでも。

 向こうも同じだ。鞘に手を添えたまま、こちらの立ち位置を読む。


 合図もなく互いに踏み込む。こんな戦場に名乗りもクソもない。


 「デカブツはこっちだ!!!」


 ラントは短剣と鉈を抜いた。同時に象獣人も鉈を抜く。見た目は似ているがラントの鉈の倍はありそうだ。


 真面目に受ければ腕が持っていかれる。人類と獣人の筋力は、最低でも倍は違うと言われている。力比べをするのは無謀の極みだ。

 ラントは滑らせるようにして、象獣人の一撃を受け流す。

 ジャリッと、研ぎの悪い火花が散る。


 速い。でかいのに速い。クソったれが。

 だが狙いは読める。読めるなら勝てる。


(素人が)


 フェイントで誘い、狙いはがら空きの喉。細い動脈でも引っかかれば出血死か窒息死だ。

 確実な速度で短剣を走らせた。


 が。


 刃先が、喉のすぐ横をかすめた。


 外した? 避けられた?

 違う。外したというより「そこに喉がない」みたいに、狙いだけが抜け落ちた。


 ラントは眉をひそめるが、すぐ次の手を出す。

 象獣人の鎖骨の上を狙い、返す刀を突きさした――


 つもり、だったのに、短剣は鎧の縁で止まった。

 縁の金具が、たまたま当たった。


 さすがに二度も外すと、鈍重な象獣人ではあるが、猛然と反撃してきた。

 胸にその大きな刀が――、と思った瞬間。


 鉈の刃が、胸の前で“わずかに”滑った。


 皮鎧を裂くはずの角度が、なぜか布の上を滑る。

 肩口に当たり、浅い傷で止まった。


 痛い。血も出る。皮一枚だが、それでも意識が多少持っていかれる。戦場では最悪だ。まあ、最悪以外は何もないのだが。

 だが、勿論死ぬほどではない。


 ラントは象獣人を蹴り、その反動で距離を取り、呼吸を整える。

 象獣人も距離を取り、こちらを見た。


 ……困っている顔だ。

 戦場で見るべきじゃない顔。ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。


 その後も戦いは続いた。

 ラントが狙えば外れる。象獣人が狙えば外れる。


 致命傷だけが、必ず“少し”ずれる。


 石が転がって間合いがずれる。

 枝が折れて角度が狂う。

 踏み込みが半歩遅れる。


 ほかの獣人の相手をしながら、隙を見てティッシは矢でフォローしてくるが、それも象獣人の眼球のすぐ横を抜け、森の奥へ消えていった。


 ティッシが小さく舌打ちした。仕事の舌打ちだ。まあ、矢も作るのは大変だから気持ちはわからなくはない。

 ラントはそれを背中で聞きながら、だんだん冷静になってくる。


(――明らかに異常だ)


 だが、ここで「変だ」と叫んでも状況は良くならない。

 良くならないなら、いつも通り回すだけだ。


 勝敗のない殴り合いみたいに、疲労だけが積もっていく。


 その瞬間、足元が崩れた。


 いつのまにか森の中の浅い崖に来ていた。

 ラントの踵が土を踏み抜き、体が後ろへ持っていかれる。


 ニヤリと笑った象獣人の顔をみて、ハメられたとおもった。そして落下する――が、

 だが落ちた先にあったのは、たまたま絡み合った蔓と腐葉土の柔らかさだった。

 背中に衝撃は来たが、骨は折れない。息が詰まるだけで終わる。とは言え明らかな隙を作ってしまっている。


 上から象獣人が覗き込んでくる。今なら鉈を投げるだけで終わる距離だ。

 ラントは守るために鉈に手をかけ、象獣人もとどめのために鉈を振り上げた。が、

 

 「うおっ!?」


 突然象獣人の足元の枝が折れた。体勢が崩れ、鉈は振りかぶったままどこかへ飛んでいき、象獣人は頭から落下して目の前に突き刺さる。

 日本人がいたらスケキヨと言っていたかもしれない。


 あまりのことに反応が遅れている間に、象獣人は頭を引っこ抜いて間合いを取る。


 そして無言で睨み合う。。


 ラントは自分の腕から滴る血を見た。赤い。痛い。

 ……なのに、死なない。


 象獣人も肩口から血を流しながら、こちらを見ていた。

 怒りというより、「分からない」に近い顔だ。


 その瞬間、遠くで角笛が鳴った。撤退命令。

 こちらも、向こうも、ほぼ同時に。


「勝負は持ち越しだ」


 象獣人はそういうと、部下を連れて消えていった。


「先輩大丈夫っすか?」


 不満顔のティッシが飛び降りて来る。


「何とかな。みんな無事か? よし、――引くぞ。――全く、ろくでもない」


 全員大小の傷はあるが、しっかりした足並みで帰路に就く。


 森を出たところで、ラントは息を吐いた。

 肩が痛む。腕が重い。

 そして、怪我とは別のところが妙に疲れている。


 そんな疲労困憊のラントを待っていたのはグラーフ爺だった。

 爺と呼ばれる年ではないが、最古参のいわゆる現場たたき上げだ。

 声は平坦だが、目だけが鋭い。


「……どうだった」


 ラントは答える前に、一度だけ森を振り返った。

 普通の森みたいに、葉が揺れている。


「刺したはずなのに、外れました。向こうも同じです」


「ほう? お前が外したんじゃないのか」


「いやまあ、そう言われたら……まあ、言い返せませんけれども。疲労困憊の俺にそんなこと言います?」


 ラントは肩をすくめた。

 説明できないものは、だいたい「腕が落ちた」で片づけられる。前線では特に。


 グラーフ爺は、ふっと鼻で笑った。


「冗談だ。実は他の隊からも、先週から似たような報告が上がってる」


「先週から、ですか」


 ラントは思わず聞き返した。今日だけの話じゃない。

 ――そうなると、森の“静けさ”が別の意味を持ち始める。


「ああ。下らん言い訳だと流されていたみたいだがな。さてさて、時期なのか、なんなのか」


 グラーフ爺は森へ目を向けた。


 先週から戦場は森のやや奥に移動しつつある。


 葉が揺れている。鳥が鳴いている。

 普通の森みたいに、きちんと普通の顔をしている。

 だが。


「……気味が悪いな」


 ぽつりと独り言みたいに言った。


 ラントは頷いた。

 自分だけが変だと思っているわけじゃない、と分かっただけで、胸の奥の妙な疲れが少しだけほどけた気がした。

 森の顔をしているが、森のような別の存在かもしれないと思うと、急に気持ちが悪くなる。




 帰営の道すがら、ティッシが隣に並んだ。弓を抱えたまま、顔だけ真面目だ。


「せん……小隊長」


「なんだ」


「なんか……変なことばかりで、妙に疲れました」


「俺もだ」


 ラントが即答すると、ティッシは「ですよね」と当然みたいに頷いた。

 その当然が、逆に救いになる。


「矢もなくなりました。もったいない」


「あー、まあ、そうだな。作るの大変だもんな」


「ですよ。全く」


 しばらく歩いて、ティッシが唐突に言う。


「そういえば今日の晩ご飯は?」


 現実が強い。

 森の不思議も戦争の大義も、腹の前では二番手だ。


「いつもの粥だ」


「……肉は?」


「いつもの通りだ」


 ティッシは目を細めた。怒っているわけではない。計算している顔だ。


「……明日、もう一度森行きましょう」


「……は? なんで?」


「いやマジで獣人でも野生の獣でもなんでも倒さないと、毎朝、私のお腹で目が覚める羽目になりますよ」


「やめてくれ。――わかったわかった。だからそんな目で見るな。よし、ほかのやつらは休め。俺だけ付き合う」


「よし」


 ティッシは満足げに頷いた。


「待ってろよ……!」


「お前が言うと、なんか違うな」


「違わないです。矢はちゃんと飛びます」


「今日のは飛んでた。……当たらなかっただけだよな」


 言った瞬間、二人とも黙った。

 あの“当たらなかった”が、まだ喉の奥に引っかかっている。


 後ろからグラーフ爺の声が飛んできた。


「お前らさっさと寝ろ!」


 呆れたようで、少しだけ笑っている声。

 

 ここは森の縁で、葉のさざめきは子守歌。のはずだった。普通の森ならそのはずだ。


「はぁー、貧乏くじかなぁ」


「肉食いましょ先輩」


 そんな軽い動機の一歩が、後になって思えば、ずいぶん大きな分岐点だったのかもしれない。

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