1_0:ある日、森の中、ヤバい人たちが出会った。
「今日は絶対、肉です。粥に肉。決定。異論は認めます」
ティッシは弓を背負ったまま、胸を張って言った。背が低いせいで鎧も少し大きく見えるが、本人は気にしていない。むしろ「こういうの、似合うでしょ」とでも言いたげに歩幅を大きく取る。おなかがすいているのか、いつもより速足だ。
「決定って、お前が決めるな。……あと声がでかい」
ランツは口に指をあてて、黙れのポーズを取る。
「でも森の中で囁いてたら、逆に怖くないですか?」
「そういう問題じゃない。肉が逃げるだろ」
ランツは前を見たまま返す。
森は、静かだ。
少なくとも、噂で聞いた“魔獣の森”とは違う。
昔はこの森に踏み込むこと自体が冗談だった。魔獣が山ほどいて、人類も獣人も、どれだけ兵を出しても戻ってこない魔境。酒場の話では、夜になると木々が歩くとか、地面が口を開けるとか、はだしのババアがダッシュで襲い掛かってくるとか、まあ、そういう類の「ガセ9割、言ったもん勝ち」の恐怖が並んでいた。
ところが最近、妙なことが起き始めた。
魔獣が消えたのだ。
少なくとも「消えたみたいに見える」くらいには落ち着いた。斥候が何人も入って、全員元気に帰ってくるようになった。それだけで異常だった。
原因は分からない。
分からないが、この森を取られると戦争として致命的に不利になる。水源にもあるし、潤沢な資源もある。誰にでもわかる資源、まあ、木とか。
何より、ここを押さえれば“次”の布陣が楽になる。
だから双方、考えることは同じだった。
いきなり入植は無理でも、村を作って少しずつ調べる。
調べるために前に出る。
前に出れば、相手も出てくる。
結果、小競り合いが増える。
増えた結果、兵士も増える。
となると、自称成長期の若者の胃袋が耐えられるわけもなく、こうして狩りに出る兵が増える。
狩り――と言っても、遊びではない。
肉があれば兵の顔色が変わる。本国が遠いため、塩漬けの肉ですら貴重だ。粥に脂が落ちれば、ちょっとだけ世界がマシになる。そんな程度のことで、前線は助かる。
「ランツ先輩、見てください。これ、鹿です。足跡」
「鹿で喜ぶな。……いや、嬉しいけど」
「嬉しいんじゃないですか。人間素直が一番ですよ」
ティッシは得意げに笑って、地面を指した。
土は柔らかく、確かに新しい跡がある。二本に割れた蹄の形。草が少し倒れている。匂いも薄く残っている。
ティッシはこういうのが妙に上手い。
弓が上手いだけじゃない。視線の運びが軽いのに、抜けがない。何かの本で読んだのか、誰かに教わったのかは知らないが、森での歩き方が兵より“狩人”寄りだ。
「先輩って呼ぶのやめろ」
「じゃあ何て呼べばいいんです?」
「ランツでいい」
「呼び捨てはちょっと……」
「どういう距離感なんだよ。まあ、好きにしろ」
ランツは溜息を吐きつつも、緊張が少しだけほぐされた気がした。
前線には、こういう馬鹿みたいなやり取りが必要だ。
「ねえ、先輩。森、ほんとに静かですよね」
ティッシが少し声のトーンを落とした。
さっきまでの軽さが、ふっと消える。
「……ああ。静かすぎる。魔の森としてはな」
「魔獣って、ほんとに消えたんですかね」
「消えた、って言い方が一番怪しい。見えてないだけだろ、多分。どこに引っ越したんだよ」
「でも、見えてないだけでこんな静かなんですか?」
「知らん。それを調べるのも俺らの仕事だ。まあ、飯食ってからだけどな」
ランツは答えを濁した。
知らないからだ。上も知らないから、兵が前に出ている。
森の葉が擦れる。鳥が一羽、上を横切る。
それが平和すぎて、逆に怖い。
「でも、肉は欲しいです」
「それは同意だ。できれば大盛な」
ティッシは弓の弦を指で軽く弾き、歩調を上げた。
こういう時の彼女は頼りになる。力はないが、弓の腕は本物だ。小隊の中でも「当てる」ほうで、だからランツの組に回されている。
ランツは、彼女の背中を一歩後ろから見ながら、少しだけ警戒を強めた。
足元の苔。湿気。冷気。
水音が、近い。
滝だと気づいたときには、もう遅かった。
「そっち、鹿の足跡だって言っただろ――!」
「言った! 言ったけど、ここまで苔だらけだとは――」
ティッシが先に滑った。
滑る、というより“剥がれる”感覚で、靴底が地面の苔むした石や土ごと崖のほうに崩れ、身体が投げ出される。
「おい――!」
ランツは反射で手を伸ばした。が、
「嘘だろ!」
落ちないように握っていた小さな木があっさり引っこ抜け、
そして、次の瞬間、けたたましい2つの水音とともに、白い水の壁が視界を埋めた。
冷たい!
もう春とはいえ、流れる水は冷たい。容赦なく指先から体温を奪いに来る。
水が体を叩き、肺から息が抜ける。口を開けば水が入る。鼻からも入る。喉が焼ける。
音が暴力みたいに耳を殴り、上下の間隔がなくなる。どこが水面で、どこが川底か分からない。
滝つぼは深かった。終わりが見えない。底が見えない。いや、そもそもここは滝つぼかもわからない。
石にぶつかった痛みが遅れて来て、どこが自分の体なのかさえ怪しくなる。
――死ぬ。
思考がそこへ辿り着く頃には、身体はもう諦めかけていた。
だがまだ“終点”ではなかった。
水が、ぐい、と身体を持っていく。
沈む前に横へ引っ張られる。滝つぼは川につながっていて、二人はそのまま流れに巻き込まれた。
暗い木陰を潜る。枝が頬を掠める。岩にぶつかって視界が火花みたいに散る。
息ができたと思ったら、また引きずり込まれる。
どれくらい流れたのか分からない。時間の感覚がなくなる。距離の感覚もなくなる。
ただ「まだ終わっていない」ということだけが分かる。
水音の中に――一瞬、笑い声が混じった気がした。
気のせいだ、とすぐに思った。思ったのに、耳の奥に引っかかったまま消えない。
やがて水音が変わった。滝の轟きが遠ざかり、川の音が前に出る。流れが少しだけ緩み、底の砂利が見えた瞬間
「……っ、ぶはぁ!」
ランツは泥と水と、なんか小さいエビみたいなのを一緒に吐き出しながら、浅瀬に爪を立てた。
掌に砂利が刺さる。痛い。痛いのに、地面があるのが嬉しい。
だが、喜んでいる場合じゃない。
「ティッシ!」
視線を走らせる。
少し先、流れの淵で、ティッシの影が沈みかけていた。鎧が重い。身体が小さい分、余計に持っていかれる。
ランツは迷わず川へ戻った。
足が滑る。冷たい水が膝を叩く。胸まで来る。息が乱れる。
腕を伸ばし、ティッシの襟元を掴む。布が水を吸って重い。指が滑る。
もう一度掴み直し、今度は鎧の肩当てに指を引っ掛けた。
「……っ、上がれ!」
「ごぼっ……!」
ティッシが反射で腕を動かす。掴む力は弱いが、意志は残っている。
ランツは歯を食いしばって引き上げた。砂利に膝をつき、体重を全部使って岸へ引きずる。
ティッシが水を吐き、咳き込む。
顔が青い。だが、目は半開きになった。
「……に……にく……」
「ふざけやがって……」
悪態をつくと妙に安心する。生きてる、ということだからだ。まあ、ほめられたことではないとすぐに反省はする。
ランツは袖で口元を乱暴に拭った。
肩にかけていたはずの弓の重みがないことに気づき、思わず腰のあたりも探る。
ない。
「……っ、クソ」
舌打ちが漏れた。
狩りのために持ってきた弓が、いちばん綺麗に消えている。矢筒もない。水に持っていかれたらしい。
「めちゃくちゃ怒られるじゃねえかよ……」
ランツはため息をついて、川べりに座り込む。
ティッシは、そこで力が尽きたのか、目を閉じて動かなくなった。
呼吸はしている。顔色も、さっきの青さは引いている。大丈夫そうだが、まだ起きなさそうだ。
ランツは隣へ這い、ティッシの肩に手を置いた。
「おい。起きろ」
揺すっても反応がない。
ランツはティッシの頬を、ぺち、ぺち、と軽く叩いた。
「おい、冗談だろ。起きろって」
「むにゃむにゃ、じいや、もうそれは食べれないです、ぐぅ・・・」
「……何が爺やだ、まったく」
小説の読みすぎだ、とでも言いたげに呟いてから、ランツはティッシの脈をとる。問題なさそうだ。濡れた服が冷たいが、震えてはいない。
「……まあ、とりあえずは大丈夫っぽいな」
言いながら、襟元だけ整える。放っておくには冷えすぎる。だが今ここで背負って動けるほど、自分の体も万全ではない。
ランツは一度立ち上がろうとして、膝の痛みに顔をしかめた。
立てる。立てるが、走るのは無理だ。転べば終わる。
次に、周囲へ目を走らせた。
川は浅い。見たことないほど透明な水だ。
岸は砂利混じりの土。少し滑りやすいが、足が取られるほどではない。
近くに大きな獣の足跡は見当たらない。草も踏み荒らされていない。
――いまのところ、襲ってくるものはいない。
もう一度、周りを見渡す。
ここは……盆地みたいな場所だった。
崖が半分、森が半分。ぐるりと囲まれている。崖は高く、登るには嫌な角度で続いている。森は濃いのに暗くなく、葉の隙間から光が落ちて、草がやけに柔らかい。
魔獣の森とは思えないほど、のどかだ。地獄ではなく天国ではないか、と思った。
遠く、木々の隙間に四角い影が見えた気がした。
屋根の線。壁の線。ログハウスみたいな――いや、まさか。
確かめようと目を凝らしたが、間の雑木林が邪魔をして、はっきりしない。まだ目がしょぼしょぼする。
畑みたいな色も見える。整った筋の黒い土。
だがそれも枝葉の向こうで揺れているだけで、確信に届かなかった。
ランツは息を整え、背中の冷えを振り払うように肩を動かした。
そのときだった。
ジャリ、ポチャン
滝つぼの奥――水の幕の向こうで、水が跳ねる音がした。
音が、近い。人が動いた時の音だ。
ランツは、ぴくりと肩を上げた。
水の幕の裏に空洞がある。洞穴のように奥へ抜けている。
そこへ視線を向けると――
ぎょっとした顔と、目が合った。
獣人。
何百年も争っている人類の敵。
相手はこちらと目が合った瞬間、目を大きく見開き、耳がぴくりと動いた。
相手の手が迷いなく腰へ伸びる。短剣か、鉈の柄か。鞘に収まったままでも、いつでも抜ける位置だ。
ランツも腰へ手を伸ばした。
短剣の柄に指をかけ、もう片方の手は鉈の鞘の口に添える。抜かない。抜けるようにしておくだけ。
砂利が、わずかに鳴った。
水幕の向こうで、もう一つ影が動いた。二人かよ。
ランツは視線だけで相手の輪郭をなぞる。
――でかい。身長は、うらやましいことに俺より頭二つは大きいな。肩も厚い。毛並みは濡れて貼り付いてるのに、獣臭さが残ってる。
もう一人は、そこまででもないか。背は高いが、でかいほうほど圧がない。動きが落ち着いてる。
どっちにせよ、こっちは弓を失った。隣の弓手は寝てる。
ランツはティッシをちらりと見た。
寝言はやめている。呼吸は一定。放っておいて大丈夫そうなのが、逆に腹立たしい。
置いていくわけにもいかない。間違いなく死ぬ。
ランツは浅く息を吐き、足の位置だけを整えた。
抜ける。いつでも。そういう形で、手をそこに置いたまま。
獣人も、同じ姿勢だった。
鞘からは抜かない。だが、抜けるように手を置く。互いにそれを見て、互いにそれを読む。
その緊張が、突然――意識の外から引き裂かれた。
「えっ――!」
声がした。
獣人とランツが、ほぼ同時にそちらへ目をやる。
そこにいたのは、黒髪、黒目の少女だった。
鍬を手に、畑仕事の格好のまま、固まっている。
木々の間からこちらをみて、絶句している。今初めてこの状況を“見てしまった”顔だ。
三人の視線を一度に受けて、少女は一歩だけ下がり、鍬を胸の前に構えた。
盾のつもりなのか、ただの反射なのか分からない。
それでも今の彼女にできる唯一の防御だった。
震える声で言う。
「ど……、どちら様ですか……?」
これが、数百年にわたる紛争が終わる切っ掛けになったことを、
この場にいる誰も、今はまだ知らない。
マイペースにまた書いていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。




