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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

断罪された悪女は螺旋の先で静かに笑う

作者: 河合ゆうじ

その日、エララ・フォン・クラインフェルトは、ただの「エラ」だった。

宰相の娘という身分を隠し、質素な町娘の服に身を包んだ彼女は、侍女一人だけを伴い、王都の下町、その最も活気と、そして最も淀んだ空気が混じり合う市場の奥深くへと足を踏み入れていた。表向きは社会勉強。だが、本当の目的は、父の報告書には決して上がってこない、民の生の声をその耳で聞くためだった。


「ひどい……」

パンの値段は高騰し、子供たちの顔色は悪い。道端では病人がうずくまり、衛兵は見て見ぬふりをしている。父の改革は、まだこの場所には届いていない。いや、それどころか、改革の過程で利権を奪われた貴族たちの嫌がらせが、民の暮らしをさらに圧迫しているのかもしれない。


胸が痛む。だが、感傷に浸っている暇はなかった。彼女は、この国の未来の王妃となる身。この現実から目を背けることは許されない。

そう決意を新たにした、その時だった。


「よう、嬢ちゃん。見かけねえ顔だな。金目のもんは持ってるかい?」

不意に、二人の薄汚れた男に路地裏へと続く道に追い詰められた。侍女が悲鳴を上げ、エララの前に立ちはだかるが、すぐに突き飛ばされてしまう。

エララは冷静に男たちを観察した。ただのチンピラ。護身術は心得ているが、ここで騒ぎを起こせば正体がバレる。それは避けたい。


「申し訳ありませんが、持ち合わせは…」

「嘘つけよ。その綺麗な顔が気に入らねえ。少し痛い目見ねえと分からねえようだな」

男が下卑た笑みを浮かべ、手を伸ばしてきた。

エララが反撃のために身構えた、その瞬間。


「――おい、そこの二人組。商売の邪魔だ」


背後から、低く、温度のない声がした。

振り向くと、黒い外套のフードを目深に被った一人の男が立っていた。細身だが、その佇まいには只者ではない空気が漂っている。


「ああん?なんだてめえ」

「俺の『商品』にちょっかいを出してる、と言ったんだ」


男はそう言うと、チンピラの一人に向かって、懐から何かを投げつけた。小さな革袋だった。チンピラが慌ててそれを受け取ると、中から銀貨が数枚こぼれ落ちる。

「情報料だ。今すぐここから消え、二度とこの辺りには現れるな。そうすれば、お前たちが昨夜、商人の倉庫から盗んだブツのことは忘れてやる」

チンピラたちの顔色が変わった。

「なっ……てめえ、何者だ!」

「通りすがりの、お人好しな商人さ」


フードの奥で、男の目が皮肉気に細められる。チンピラたちは一瞬顔を見合わせたが、やがて悪態をつきながら、銀貨を拾い集めて闇へと消えていった。


「……助かりましたわ」

エララが礼を言うと、男は「別に」と短く答えた。

「あんたも不用心だ。こんな場所をうろつくなら、もっとマシな護衛を雇うことだな。もっとも、その前に『氷の人形』とやらの評判を何とかした方がいいかもしれんが」

「!」


男の口から出た言葉に、エララは息を呑んだ。氷の人形。それは、貴族社会における彼女のあだ名だ。

「……なぜ、それを?」

「この王都で俺の知らない噂はないんでね。じゃあな」


男――カエルは、それだけ言うと踵を返し、闇に溶け込むように去っていった。エララはその背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。

今日の出来事は、彼女の胸に二つのものを刻みつけた。一つは、民の苦境という直視すべき現実。そしてもう一つは、得体の知れない影の商人の、どこか物悲しい瞳の記憶だった。


==========(エララ視点)==========


数年後。王都が祝福の光ではなく、絶望の影に包まれたあの日のことを、エララは自らが描いた設計図を見るような、冷徹な心で記憶していた。


年に一度の「太陽の祝福の儀」。祭壇の中央に進み出た純白の儀式服姿のエララを、誰もが息を呑んで見つめていた。完璧という言葉以外では評することのでこない、氷の人形。下町での一件以来、彼女はその仮面をより強固なものにしていた。感情は、最大の弱点だと知ったからだ。


(さあ、舞台の幕開けですわ)


彼女は「太陽の宝珠」に両手をかざした。清らかな魔力が流れ込み、宝珠が黄金の光を放ち始める。順調。あまりにも順調すぎる。だが、彼女は知っていた。この儀式には二重の罠が仕掛けられていることを。


一つは、ライバルであるセラフィナ・ヴァレンシュタインが仕掛けた、魔力をわずかに乱す薬草の粉末。家を思うが故の、可愛らしい悪意。

そしてもう一つは、王国の深部に巣食う癌、「紫根の会」が仕掛けた、儀式そのものを破壊する禁術の触媒。


突如、黄金の光が禍々しい赤黒い色に変じた。宝珠が甲高い悲鳴を上げ、凄まじい衝撃波が迸る。

(……! 思った以上の威力)

セラフィナの小さな罠が、「紫根の会」の大きな罠の威力を予期せぬ形で増幅させてしまったのだ。想定外。だが、許容範囲内。むしろ、より劇的な舞台となった。


民衆の悲鳴が聖なる広場を埋め尽くす中、エララは計算通りに膝をつき、冷静に状況を見つめた。


「エララ!貴様、何をした!」

婚約者であるレアンダー王太子の、怒りに満ちた声が響く。彼はいつだってそうだ。単純で、正義感が強く、そして何よりも――扱いやすい。


「衛兵!この女を捕えよ!国家に対する反逆罪、その現行犯である!」

衛兵騎士団長であるギデオン・バルクホルンが、数名の部下と共に駆け上がってくる。実直な男。彼もまた、重要な駒だ。


エララは、ギデオンが彼女の腕を取ろうとしたその瞬間に、彼にしか聞こえない声で、そっと呟いた。


「――これで、いい」

ギデオンの肩が微かに震えるのを見て、エララは満足した。疑いの種は蒔かれた。

連行されながら、エララは集まった群衆を見渡した。恐怖に怯える民、憎悪の目を向ける貴族、そして青ざめた顔で立ち尽くす父。彼らの反応もまた、計算のうち。


冷たい石牢に一人投げ込まれた時、エララは初めて誰にも見せることのない深いため息をついた。

孤独な戦いが、今、始まった。


==========(レアンダー視点)==========


正義は、執行された。

レアンダーは、エララを反逆者として断罪したことに、一片の後悔もなかった。いや、そう信じようとしていた。彼女を幽閉したことで、国を蝕むクラインフェルト家の野心を打ち砕いたのだ。父王は早計だと憂慮していたが、時間が経てば自分の正しさが証明されるはずだった。


しかし、現実は彼の思惑通りには進まなかった。

宰相が全ての公職を辞任すると、国政の中枢はあっという間に「紫根の会」に連なる貴族たちで占められた。彼らは口々に王家への忠誠を誓ったが、その裏でやっていることは国の解体作業に等しかった。宰相が民のために制定した減税措置や公共事業は次々と廃止され、富は再び貴族たちの懐へと流れ込み始めた。


そんな中、レアンダーは影の商人カエルがもたらす情報に傾倒していた。

「宰相派の残党が、デュカス公爵の暗殺を計画しております」


次々とたらされる情報に、レアンダーは危機感を募らせた。彼は衛兵の一部を動かし、存在しない「宰相派の残党狩り」に奔走し始めた。


だが、最も彼を苛んだのは、日々の執務だった。

エララがいなくなった途端、行政は目に見えて滞り始めた。報告書は要点を得ず、地方からの陳情は複雑に絡み合ったまま彼の机に積まれていく。


「くそっ、なぜ誰も彼女のようにできないのだ!」

思わず書類を床に叩きつけると、側近たちは怯えたように身を竦めるだけだった。

あの氷の人形は、ただそこにいるだけで、この国の巨大な歯車を円滑に回していたのだ。


そして、彼が最も信頼していたはずのセラフィナの様子も、どこかおかしい。彼女は夜会の華として輝いてはいるが、ふとした瞬間に見せる表情には怯えの色が浮かんでいた。

(何かが、違う……)


自分の信じていた正義が、足元から崩れていくような感覚。彼はまだ、自分が巨大な螺旋の中心で、最も無力な操り人形であることに気づいていなかった。


==========(カエル視点)==========


カエルにとって、世界は巨大な市場だった。愛も、憎しみも、忠誠も、復讐も、全ては値札のついた商品に過ぎない。彼が信じるのは、金と、等価交換の契約だけだ。


だが、その彼にも唯一、値のつけられない過去があった。

デュカス公爵によって全てを奪われ、家族を失ったあの日から、彼は復讐のためだけに生きてきた。そんな彼の元に舞い込んできたエララ・クラインフェルトからの誘いは、まさに天啓だった。


廃教会での密会。彼女の口から語られた計画は、彼の復讐心と完全に利害が一致していた。だが、それ以上に彼の心を揺さぶったのは、彼女の瞳の奥に宿る、自分と同じ種類の、全てを焼き尽くすような静かな炎だった。

(ビジネスパートナーとして、最高の獲物だ)

カエルは自らにそう言い聞かせ、彼女との契約を結んだ。


彼は彼女の計画通り、巧みに情報を操作した。

だが、カエルは己の中に生まれた想定外の感情に戸惑い始めていた。彼は独自に、彼女の過去を探っていた。宰相の娘として、何不自由なく育った令嬢。そう思っていた。だが、彼が掴んだ事実は全く違った。


『エララお嬢様は、奥様が亡くなられてから、ずっとお一人で……。旦那様は寄り付きもせず、新しい奥様はお嬢様を疎んじて……。それでもお嬢様は、我々使用人にも言わず、ご自分のお小遣いを切り詰めては、街の孤児院に寄付を続けておられました……』

かつてクラインフェルト家に仕えていたという老いた侍女は、涙ながらにそう語った。


完璧な氷の人形ではなかった。誰よりも温かい心を持ちながら、それを誰にも見せることなく、ただ一人で耐えていたのだ。数年前に路地裏で会った、あの毅然とした町娘の姿が脳裏に蘇る。あの時も彼女は、自分のことより、突き飛ばされた侍女を心配していた。


その事実を知った時、カエルの胸に突き刺さったのは、かつて守れなかった妹への悔恨だった。

(……くだらん)

自嘲するように呟き、彼は闇の中へと消えていく。彼女という最も危険で、最も魅力的な「投資対象」を成功させるために。

契約は絶対だ。彼はまだ、その言葉を盾に、己の心から目を逸らしていた。


==========(エララ&カエル視点)==========


追放生活にも、慣れた。

規則正しい生活。質素な食事。そして、終わりなき孤独。エララは精神を研ぎ澄まし、ただその時が来るのを待ち続けていた。

しかし、カエルからの定期連絡が、ぷっつりと途絶えた。

そして、その予感は最悪の形で的中した。ある夜、塔はデュカス公爵の私兵たちに包囲された。


(……やられた)

エララは唇を噛んだ。計画は、破綻した。

彼女が懐の毒薬瓶に指をかけた、その瞬間だった。背後の窓ガラスが、轟音と共に砕け散った。夜の闇を切り裂いて部屋に飛び込んできたのは、漆黒の外套を翻す一つの影。


「……カエル……殿?」

「遅くなって申し訳ない。少々、野暮用が立て込んでいましてね」

その声は微かに乱れ、彼が纏う外套はところどころが裂け、血の匂いが漂ってくる。彼は罠にかかり、それを力尽くで突破してきたのだ。


激しい戦闘が始まった。カエルの動きは獣のようにしなやかだったが、多勢に無勢。彼の右腕から血が滴り、限界が近いことは明らかだった。

(このままでは、二人とも犬死にですわ)

「カエル殿!取引ですわ!」

「ほう、この状況で?」

「わたくしを『人質』にとりなさい!」


カエルは一瞬でエララの意図を悟った。それは死刑台への帰還を意味する。だが、その公の場こそが、最後の勝負を挑める唯一の舞台だった。

「……承知した。あなたという商品は、どうやら俺が今まで扱ってきた中で、最もスリリングで、最も高くつきそうだ」

彼はエララの首に短剣を突きつけ、彼女を盾にするようにして叫んだ。

「この女は俺がもらう!デュカス公爵に伝えろ!命が惜しくば、三日後の満月の夜、王城の舞踏会で『取引』に応じろとな!」


私兵たちが撤退し、嵐のような静寂が戻った部屋で、カエルはその場に膝をついた。エララはすぐに駆け寄り、自らのドレスの裾を裂いて、彼の腕に応急処置を施す。

「無茶をなさる。なぜ、わたくしを助けに?」

「……言ったでしょう。商品は最後まで見届けると」


カエルは痛みに顔を歪めながらも、ぶっきらぼうに答えた。

エララの手が、彼の顔の火傷の痕にそっと触れた。

「これも、デュカス公爵の…?」

「……昔の話ですよ」

カエルは短く答え、目を伏せた。


その時、エララは初めて彼の魂の奥深くに触れた気がした。そして、この傷だらけの男を、死なせたくない、と強く思った。

塔での三日間、二人は共犯者として、そしてそれ以上の何かとして、最後の作戦を練り上げた。弱ったカエルをエララが献身的に看病した。薬草の知識を活かし、彼の傷を癒し、温かいスープを作る。

カエルは、生まれて初めて、他人の手による温かい食事をとった。凍てついていた彼の心が、ゆっくりと溶かされていく。彼は弱った彼女の寝顔を見つめながら、かつて守れなかった妹の面影を重ね、そして「今度こそ守りたい」という、契約とは全く別の強い感情が芽生えているのを自覚した。それは、彼がとうの昔に捨て去ったはずの、人間らしい心だった。


************************************


満月の夜。デュカス公爵の屋敷で開かれた仮面舞踏会は、偽りの栄華の頂点だった。

その宴の最高潮、「紫根の会」による新時代の幕開けを宣言しようとデュカス公爵が杯を掲げた瞬間、物語の歯車は一斉に、そして劇的に回り始めた。


バァン!と、ホール全ての扉が開け放たれ、ギデオン率いる完全武装の衛兵騎士団がなだれ込む。

続けてホールの中央に進み出たのは、王太子の正装をまとったレアンダーだった。

「デュカス公爵、貴殿を国家反逆罪の容疑で逮捕する!」

その声と同時に、バルコニーの扉が開き、そこにカエルが姿を現した。彼はデュカス公爵の兵力を内側から切り崩していたのだ。

「馬鹿な……!」

狼狽するデュカス公爵の前に、レアンダーはセラフィナから託された密書と、ギデオンが保管していた禁術の触媒を投げつけた。

「全ての証拠は揃っている!」


デュカス公爵は顔面を蒼白にさせたが、次の瞬間、狂気の笑みを浮かべた。

「……終わらんよ、まだだ!人質がいることを忘れたか!」

彼の合図で、ホールの奥の扉が開かれ、縄で縛られたエララが兵士に引きずられてきた。


「エララ!」

レアンダーが悲痛な声を上げる。

「見ろ、反逆者が戻ってきたぞ!」

デュカス公爵は短剣を抜き放ち、エララへと迫った。絶体絶命。誰もが息を呑んだ。


だが、エララは笑っていた。

「本当に、それでよろしいので?」

彼女の声が響いた瞬間、ホールの外から、いくつもの悲鳴と剣戟の音が響き渡った。「紫根の会」の貴族たちは、王都の各所で一斉に捕縛されていたのだ。

「貴様あああっ!」

追い詰められたデュカス公爵は、隠していた手勢に合図を送り、クーデターを起こす。舞踏会は、一瞬にして血と悲鳴が渦巻く籠城戦の舞台と化した。

「まずはお前からだ、小賢しい女狐め!」

デュカス公爵の刃が、エララへと向けられた。その刃が届く寸前、彼女の前に飛び出し、その身を盾にした者がいた。


「ぐっ……あああああッ!」

レアンダーだった。彼の右肩を、公爵の短剣が深く貫く。だが彼は倒れない。

「……これが……俺の、贖罪だ……!」

彼は血を流しながら、逆に公爵の腕を掴んで動きを封じた。

デュカス公爵はそれを振り払うと、隠し持っていた魔道具を起動させた。闇の魔力が凝縮され、エララに向かって放たれる。


「させん!」

レアンダーは最後の力を振り絞り、エララを突き飛ばした。闇の奔流が、彼の左腕を飲み込む。肉が焼け、骨が砕けるおぞましい音と共に、彼の腕は無残に消し飛んだ。


その一瞬の隙を、カエルが見逃すはずがない。

影の中から放たれた投げナイフが、デュカス公爵の利き腕を正確に射抜いた。

「がああああっ!」

悲鳴を上げて短剣を落とす公爵。その隙に、ギデオンの剣が彼の喉元に突きつけられた。


「……チェックメイトですわね、デュカス公爵」

エララの静かな声が、偽りの夜会の終わりを告げた。


************************************


一ヶ月後。

王都には、偽りの安定ではない、真の再建の兆しが見え始めていた。

「紫根の会」は壊滅し、その富は民のために使われることになった。


レアンダーは王太子の位を辞退し、国民の前で自らの過ちを全て告白した。失った左腕と肩の傷は生涯残ったが、それは彼が背負うべき罪の証となった。王位は聡明で知られる彼の弟が継ぎ、レアンダーは一人の公爵として、父となった宰相の元で、国の再建にその生涯を捧げることを誓った。彼の元には、自らの罪を告白したことで罰は軽減され、修道院で静かに祈りの日々を送るセラフィナから、時折国の未来を案ずる手紙が届いた。彼はその手紙を、生涯大切にしたという。


ギデオンは、新王の元で騎士団の再編を成し遂げ、国に真の正義をもたらす守護者として、その名を歴史に刻んだ。


そして――。

再建が進む王都を見下ろす丘の上。かつて彼女が追放された荒野へと続く道の起点に、エララは立っていた。

「……終わりましたわね」

「ええ、ようやく」

隣には、火傷の痕も露わに、カエルが立っていた。もはや彼は、フードで顔を隠す必要はない。


「さて、我々の『契約』は、これにて完了。報酬として、旧『紫根の会』の商業権益は、確かに貴殿の商会にお渡ししましたわ」

「ええ、結構な儲けになりました。ところで、エララ様。貴女はこれからどうなさるおつもりで?」

彼女はもはや公爵令嬢ではない。だが、彼女が望めば、新王がどんな地位でも用意しただろう。しかし、エララはそれを全て断った。


「さあ、どうしましょうか」

彼女は、初めてカエルの前で、少女のように悪戯っぽく微笑んだ。それは、氷の人形でも、冷徹な策略家でもない、彼女の本当の顔だった。


「この国も、少しは退屈しない場所に変わったようですし。もう少し、この盤上で遊んでみるのも一興かもしれませんわね」

「ほう。ならば、次なる事業への『投資家』がご入り用では?」

「あら、興味がおありで?」

「ええ、大いに。あなたという『市場』は、世界で最も予測不可能で、最もリターンが大きい」


カエルは芝居がかった仕草で、エララに手を差し伸べた。

「エララ様。俺と、新たな『契約』を結びませんか? 今度は、国盗りなどというちっぽけな話ではなく――この世界の仕組みそのものを書き換えるという、壮大なビジネスを」


エララは、一瞬だけ空を仰いだ。そこには、何事もなかったかのように青い空が広がっている。

彼女は差し出されたカエルの手を、迷いなく取った。

その手は、傷だらけだったが、温かかった。


「結構ですわ。その面白そうな話、乗らせていただきます。――ただし、条件があります」

「と、おっしゃいますと?」

「今度の契約書には、恋愛条項も盛り込んでいただきたくてよ。わたくしの公私のパートナーとして、あなたを独占する権利。……いかがかしら?」


カエルは一瞬、目を丸くした。そして、たまらないといった風に、心の底から笑った。

その顔は、復讐に囚われた影の商人ではなく、愛する女性を前にした、ただ一人の男の顔だった。

「それは……今までで最も割の良い取引だ。いや、もはやビジネスではないな」

彼はエララの手を引き寄せ、その唇に、優しく、そして深い口づけを落とした。

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