12
鶴梨は一人で先に帰宅。対する萌夏のグラスにはコーヒーが半分ほど残っていた。
閉店時間を過ぎた店内で一人、いかにも暇そうにスマートフォンをいじっていられる精神の図太さはかなりのものだ。
「お客様、そろそろお帰りの準備をお願いします」
萌夏に話しかける。
「先にお帰りの準備をお願いします、マスター」
萌夏はスマートフォンから視線を外さずにそう言った。
「なんだよ……待ってくれてるならそう言えよな」
「待ってるって分かって話しかけにきたくせに」
萌夏がニヤリと笑って顔を上げた。
「べっ……別に……」
「はいはい、帰るよ。準備して」
「はいよ……ってなんで萌夏ちゃんが主導権持ってるんだよ」
「巧妙なテクニック」
萌夏は真顔でピースサインをする。
「ここは俺の店だ」
「ん。じゃ仕方ないね。匠己さん、指示して」
「帰るぞ」
萌夏は「うっす!」と言って立ち上がると、伸びをしながら先に店から出ていった。
◆
店を出たら家に直行するはずが、何故か萌夏を送ることになり遠回りをすることになった。
「こっちって匠己さんの家と反対じゃない?」
夜風に吹かれ、髪の毛を軽く押さえた萌夏が俺のツンデレを引き出そうとニヤリと笑って尋ねてくる。
「この道が近道なんだよ」
「わお。物理法則がねじ曲がってる」
「じゃ、ここで帰るわ」
「ま、そう言わず」
俺が足を止めると、萌夏は穏やかな声でそう言って手を繋いできた。
「この道はお互いに主導権があるということで」
萌夏ははにかみながらそう言った。
「はいはい」
「いきなりだけど、今日の振り返りしようか」
「本当にいきなりだな」
「鶴梨のおっぱい、すっごい大きかったよね。テーブルに乗ってたよ。見た?」
「もっと他に振り返ることなかったか!?」
「や、これは大事ですよ……え? 匠己さん、見てないの?」
「仕事中にいちいち気にしてないよ……次来たら見とくよ」
「わ、客をエロい目で観察する宣言だ」
「萌夏ちゃんが言ったんだよな!?」
萌夏はケラケラと笑う。まだ主導権は取り戻せていないみたいだ。
「どのくらいなんだろ。GとかHとかあるのかな」
そんな下世話な推測をしながら萌夏は「A、B、C――」とアルファベットを数えるながら繋いだ手を何度も握ってくる。
「ちなみに私は――」
萌夏はそこで言葉を止めて手を3回握ってきた。Cだと言いたいらしい。
「聞いてないし鶴梨の後ならもう少し盛っても良かったんじゃないか?」
「や、ありのままを知ってもらわないとね。匠己さんも何か教えてよ。じゃあ……今財布に入ってる一万円札の数」
萌夏の手をぎゅっぎゅっぎゅっと3回握る。
「わ、いっぱい入ってるね」
「一応な」
「じゃ、次は……理想の胸のサイズ」
また萌夏の手を3回握る。
「本当にぃ?」
萌夏が笑いながらジト目で見てくるので数え切れないくらいに何度も手を握る。
「ふふっ……やばっ」
「別に気にしたことないけどな」
「ふぅん……じゃ、元カノの数」
ぎゅっと一度手を握る。
「へぇ。何年?」
ぎゅぎゅっと2度手を握る。
「そうなんだ。いつ頃?」
「何でもかんでも教えるわけじゃないからな……萌夏ちゃんはどうなんだ? 元カレの数」
「わっ、私!?」
「俺は教えただろ」
「む、急に主導権を取られた」
萌夏はそう言って俯き、手を繋いだまま歩き続ける。
返事がないまま、萌夏の自宅マンションのエントランス前まで到着した。
「結局教えてくれないのかよ……」
「や、握りようがないというか……」
手を握る回数で表現しているのだから、つまりゼロ。
それを伝えるためなのか、萌夏はすっと力を抜いて手を離して俺と向き合うように立つ。俺が「あ……」と声を漏らすと同時に萌夏が「喪女で悪いか」と俯いて早口で言った。
「あぁ……いや、意外だなって。可愛いからさすがに一人や二人はいるだろうと思ってたから。なんか……ごめんな。言いづらいこと聞いて」
「言いづらいことだから手で教え合ってたんだ」
萌夏は顔を上げてニッと笑い、背後にそびえる自宅マンションを見上げて、また俺の方に視線を戻した。
「もうついちゃった。相変わらず近いね」
「そうだな」
「そういえばだけどさ……その……」
萌夏は急にモジモジし始めた。
「なんだ?」
「ばっ、晩御飯っていつもはどうしてるのかなって。たっ、単純なアンケート。街頭アンケートと思ってくれたらいいよ。喫茶店のマスターの独身男性の生活パターンを調べてて」
「随分限定的だな……俺はコンビニが多いかな。それか食わずに寝るか」
萌夏は俺の答えを聞くと「そっか」と言って下を向き、つま先を何度かトントンと地面に軽く打ち付けた。
「明日は……その、私は晩御飯を多めに作る気がする。誰かにお裾分けしたくなるかもしれない。ご近所さんに知り合いはいないから、腹ペコになった独身男性がいると心強いかもしれない」
遠回しにだが自宅での夕食に招待されているということなんだろう。やはり、素直に「行く!」と言えないのは性格なんだろう。
「……別に、食べに来なくもないぞ」
萌夏がハッと顔を上げてニッコリと笑い、俺を指差す。
「うわ〜ツンデレ。あべこべキツネじゃん」
「うるせぇ、捻くれハムスター」
ニッと2人で笑い合いながら毒づき、どちらからともなくお互いに手を振って今日はここまで、と意思表示をする。
「またね、匠己さん」
「おう。たっ……楽しみにしてるからな」
萌夏は何も言わずに肩を竦めてエントランスの中へ消えていく。
自動ドアが閉まるのを見届けて俺も自宅に向かって歩き始める。
明日は萌夏が飯を作ってくれるらしい。メニューはなんだろう。手土産にコーヒーでも淹れて行こうか。タンブラーは家にあったかな、なんてことを考えていると鼻歌まで飛び出した。
「別に……飯を食うだけ――」
自分にそう言い聞かせていると、ふと思い出す。
萌夏は納豆巻きとフルーツオレ、カルアミルクともやしナムルを同時に食べられるくらい食べ合わせに無頓着だ。
料理が苦手かどうかは別の話だが、とんでもない味覚の持ち主であることは確実だし、そこに相関がないとも言い切れない。
「だっ……大丈夫……だよな?」
振り向いて萌夏の住むマンションを見ながら一抹の不安に駆られるのだった。




