八重谷茉莉花はちょっとおかしい。8
八重谷の呟きと同時。突然、蛍光灯が光を失った。午後8時、サークル棟の電気が止まったのだ。
スマホの画面以外に一切の光を無くし、部屋はほとんど暗黒に包まれる。しかし今更、暗闇に対する恐怖など無い。
片方の首筋に触れる冷えた金属と、もう片方の首筋を撫でる冷えた指先。それだけに支配されて、俺は明暗の変化になど影響を受けず、体を硬直させていた。
突如、ドアが開いて音と光が飛び込んできた。
眩いライトを複数掲げて、誰かが入ってくる。
「いえーい!ドッキリ大成功ー!」
叫んでいるのは大志満だ。隣には里見と、月山までいる。
状況が理解できず……というのが、よくある表現なのだが、意外と一瞬で状況は理解できた。普段の八重谷で慣れていたのかもしれない。
「驚くかと思って。」
日頃聞くのと何も変わりない声が背後から聞こえた。さっきまでの不気味な響きは霧消して、いつもの八重谷の、いつもの顔を想像できる声だった。演技力がとんでもない。
「マジで……お前、マジで……。」
多分、怒りはもう少し後で来るのだろう。今はまだ安堵が勝っている。
安物椅子が悲鳴をあげるのにも構わず、思い切り背もたれに背中を預けた。もう壊れたって知るか。俺は卒業だ。
「誕生日のサプライズっスよー!」
「めちゃくちゃ引っかかった風じゃん、陽光くん。相手が八重谷先輩だから仕方ないけど。」
後輩たちが笑いながら何か騒いでいるが、とりあえずうるさいだけだ。今は聞きたくない。
そのまま椅子から滑り落ちる寸前に収まり、天井を見上げる姿勢になった。虚しい気分で仰向けのまま目を閉じていると、八重谷の声が聞こえた。
「ねえ、陽光くん。ごめんなさい。」
「……八重谷でも、謝ることがあるんだな。」
妙に感心して、目を開ける。
ライトに照らされた部屋の中。天井に向けた俺の顔を、頭の側から顔を出した八重谷が逆さまに覗き込んでいる。長い髪が俺の頬を撫でた。
「でも、可愛いのは本当よ。」
ふふっ、と笑う。
最後だからか。出会って4年目にして、俺は初めて八重谷の笑顔を見たのだ。
それで俺は、八重谷に対してすっかり怒る気を無くしてしまった。
代わりに、後輩達をめちゃくちゃ怒った。
後で聞いたところによると、大体が嘘で仕込みだったらしい。
大志満は月山と付き合ってなどいない。ネタに合わせて八重谷がついた嘘だ。
月山を呼んだがまだ来ていない、というのも嘘。こっそりライトなどを準備していたらしい。
ドアの鍵まで嘘だった。掛け金のネジをほとんど外れるところまで緩めてあって、掛けているように見えても外からドアを押せば外れるようになっていたのだ。
本当だったのは、大志満と里見が寝ていたことくらいか。
そんな話をしながら、それが終われば他愛も無い雑談をしながら、俺と八重谷が運んだ飲み物と菓子を皆で消費した。山程あったのに、5人寄ればどんどん減っていく。
それでも全部はとても消費しきれず、八重谷がぽつりと言った。
「残りは、三人で仲良く食べなさいね。」
静かな言葉に全員が黙り込んだ。
次第に、誰かの嗚咽が聞こえてきた。どうせ大志満だ。そう思っていたら、すぐにそれは三人分になった。
「……だから、言ったでしょう。皆泣くって。」
「言ったか?」
「お葬式。」
「ああ……。」
ろくでもない伏線を回収した八重谷に、大志満が飛びついていった。
「先輩、自分はまた5人でお菓子食べたいっスよー。」
大志満は八重谷に抱きついて泣いている。
「八重谷先輩。金城先輩。卒業しても、また遊びに来ればいいじゃん。」
里見は無理に笑っているような顔をしていた。その目からは、はっきり涙が溢れているのに。
「この三人じゃ推理ゲームも上手く回りませんよ。先輩、パソコンの通話とかでもいいんで、また教えてくださいよ。」
月山の提案は里見に倣って前向きだった。
そうだ、別に卒業しても皆で遊べばいい。学生時代よりも自由な時間は減るだろうが、年中働いているわけでもない。空いた時間で後輩と遊んでやるくらい、先輩なんだから楽勝だ。
「そうだなあ、八重谷。」
「……そうね、出来るといいわね。」
大志満の頭を撫でながら、八重谷は俺に曖昧な答えを返した。
また、特に意味も無いのに意味深な言い方をしているな。その時の俺は、八重谷のろくでもなさを信じて、そう思っただけだった。