八重谷茉莉花はちょっとおかしい。1
桜と推理をテーマにした作品のはずでした。
※最初は短編であげたけど、連載形式の方が見やすいと思ったので話数で区切りました。
誰かが訊ねた。
どうして桜はあんなにきれいなんだろう?
誰かが答えた。
それはね、桜の木の下にはきれいじゃないものが埋まっているから。
誰かが訊ねた。
それは何?
誰かが答えた。
………………
八重谷茉莉花は、一見すると非の打ち所の無い女だ。
一目見ればその容姿に、一言話せばその声音に、誰しも心を囚われるだろう。自分も最初はそうだった。
そして知り合えば、その知性に敬服し、その多才に感服し、誰しも「才色兼備」という言葉の表すものを知るだろう。自分も最初はそうだった。
いや、才色兼備は否定しない。才色を兼備した上で、余分なものも備えているだけだ。
「金城くん。あなたの考えている事は分かっているわ。」
大学のサークル棟、三階の一番奥の部屋。3月の短い日は暮れようとしており、今日最後の太陽と蛍光灯の黄色い灯りが、雑然とした室内を照らしている。
書籍とノートばかりが山と積まれた4つのデスク、その数より何脚か多い安物の椅子。床に置かれたゴミ箱代わりの段ボール箱には、菓子や飲み物のゴミが適当に放り込まれている。それだけの部屋。
雑然とは言ったが、第三者から見てそうであろうと言うだけで、この部屋はこれで正しい。ここを利用する誰もが、このままを受け入れているからだ。
向かいのデスクに向かって読書をしていた八重谷が静かに口を開いたのは、同様に読書をしていた俺が、読みかけだった推理小説をほとんど読み終えようとしていた時だった。
作中では事件は全て解決し、探偵達が日常に帰るシーンだ。俺の嫌いなシーンでもある。推理パートの終わりを象徴するからだ。
「金城くん。」
再び八重谷の呼び掛けが聞こえた。
どうせまた戯言を聞かされるのだと思い、無視して手元の小説に目を落としたままでいると、視界の端で八重谷が席を立つのが見えた。二人の間を隔てていた机を回り込み、こちらに歩いてくる。
「なんだよ。」
顔を上げずに訊ねるが、返事は無い。カツ、カツ、と高い足音だけを鳴らして、黙って近付いてくる。
「……なんだよ?」
足音が近くで止まった。
渋々顔を上げると、八重谷の顔は思いもしないほど近くにあった。こちらをまじまじと見つめる目が、数センチの距離で俺の目を映している。
「なんだよ!?」
狼狽しながら三度同じ言葉を放ち、思わず椅子ごと後ろに下がった。よろけて倒れそうになるのを堪え、誤魔化すように八重谷を睨む。
彼女はただ俺の目を視線だけで追いかけて、姿勢はひとつも動かさずにいる。
「驚くかと思って。」
当然のように言われ、まるでこちらが間違っているかのように錯覚してしまう。
頭を掻いて気を落ち着け、己の錯覚を正した。俺は間違っていない。八重谷の悪ふざけの方に問題がある。いつも無表情のままで無邪気に俺をからかう無神経な八重谷に問題がある。
「……お前、何歳だよ。」
「同学年でしょう。」
その返答に、苛立ちと感心を同時に覚えた。
単純な言葉に見えて、その裏に込められた意味は単純ではない。年齢に相応しくない言動を咎めようとしている俺に対して、同年齢という事実を挙げて俺自身を巻き込み、煙に巻くつもりなのだ。そうと意図して即座にそう返せる機知は尊敬に値する。
「……それで、何だって?俺の考えてる事?」
椅子の位置を正していると、八重谷もそこらの椅子を引いてきて俺の目の前に腰掛けた。
「ちゃんと聞こえていたのね。」
「どうせまたろくでもない事を聞かされると思って無視した。」
「心外だわ。私の読心術がろくでもないだなんて。」
「……じゃあ、俺が何を考えてたか当ててみろよ。」
「八重谷茉莉花について。」
なるほど。相手の事を考えるというのは、部屋に二人きりである事実を踏まえれば妥当な推測だ。
読書中であれば本の内容について考えているのが普通だが、目は本に向けながら頭は別の事を考えている場合もある。特に、全く読み進んでいない風であれば明らかだ。余計な事を考えていればページを繰る手は止まる。八重谷はそんな俺の様子を見て取ったのかもしれない。
本以外の事と決まれば、同じ部屋にいる相手の事と当て推量するのも、そう分の悪い賭けでもあるまい。決め手には欠けるが、あるいは八重谷なりの理屈が更にあるとすれば話は別だ。
「八重谷茉莉花の、何について?」
そう追及して、その八重谷なりの理屈の有無を確かめる。「二人きりだから相手の事を考えている可能性は高い」という以上の事を当ててくれば、それは八重谷の勝ちと認めよう。
八重谷は、しかし、俺の期待を裏切るのだ。
「ろくでもない事を聞かされると。」
思わず、漫画のようにガックリと項垂れてしまった。
「……読心術はそれより前だろ。」
「そうかしら?なら、何時何分何秒だったか覚えているの?」
「だから何歳なんだよお前は。」
「ど」
「同学年だよ大学4年だよ知ってるよ。」
ただのおふざけだったようだ。まただ。
からかわれたとか、そういう事ではない。本当に単に純粋に、八重谷は「ふざけている」だけなのだ。
からかいには「弄ぶ」というようなニュアンスが含まれるが、彼女のおふざけはそうではない。無邪気にトリックや言葉遊びを仕掛けて楽しんでいるだけ。相手がそれに引っ掛かるか否かに関係なく、ふと思いついた冗談で遊んでいるだけ。
それでも感覚としては「からかわれた」と感じてしまうのは、八重谷自身に問題がある。どこかのお姫様のような見た目をしているせいで、そのおふざけに見下されているような印象を受けてしまうのだ。彼女がただ無邪気なだけと分かっていても、振り回される庶民は少しの憎らしさと諦めを覚えずにはいられない。それを「無邪気で可愛らしい」と感じられるのは最初だけだ。
結局読心術など八重谷は試みてさえおらず、今も俺が何を考えているか気にもかけず、既に今の会話が無かったかのように元のデスクの上からノートを取り、パラパラとめくって眺めている。
俺はため息をつきながら立ち上がった。飲み物を買いに行こう。もうしばらく残って読書を続けるつもりはある。今日は、そういう日なのだ。
「八重谷、何か飲むか?」
「……買い物?」
「ああ。そこのコンビニ。」
「私も行く。」
ノートを鞄に仕舞って、八重谷は立ち上がった。
「いいけど、ノート。持っていくのか?」
「他の人に見られたくないから。」
てっきり誰かが置いていったノートを気まぐれに見ているのだと思ったが、八重谷の私物だったのか。
何が書かれているのか、とは思わない。俺達の間でノートと言えば、大抵それはネタ帳のようなものを指すのだ。ネタが書いてあるに決まっている。
俺達、というのは、俺と八重谷だけではない。他に男女3人を加えた合計5人、「推理研究会」を自称しているメンバーの事を言う。
「推理」とだけ冠しているのは、研究対象が推理小説や探偵ドラマではなく「推理そのもの」だからだ。
つまり、小説やドラマから「トリック」と「推理」の部分だけを抜き出して考察したり、あるいは自分達で考えたりする。そういう遊びが、俺達5人の共通する趣味という事だ。
推理小説を書いたりするつもりは誰も無い。ノートにネタを書いても、プロローグやエピローグはおろか、およそストーリーと呼べそうなものは一切考えない。ただ登場人物とその役割、必要最低限の人間関係と舞台設定などがあるだけ。そこに事件と、解決を困難にするトリックや解決のヒントになるパズルを放り込む。それを推理クイズとしてメンバーに出題する、というような推理ゲームが伝統的に行われているのが、推理研究会だ。
伝統などと言うと格調高いようだが、どのくらい前からある会かは知らない。何年か前の先輩があの部屋でそんなネタ帳を見つけて、そういう遊びを思いついて、それを後輩が継いで連綿と続けている。正式なサークルではないのに部屋を得ているのは、幸いにして三階の一番奥と不便な場所であること、そしてそれこそ伝統的に推理研究会が使っているために、他のサークルも「あの部屋は推研の部屋」と認識していることに由来する。そういう内実ともに雑な会だ。
「金城くん。あなたの考えている事は分かるのよ。」
「そうなん。」
連れ立って歩いているので無視するわけにもいかず、かと言って真面目に話す内容でも無さそうなので、俺はさも興味なさげに返す。八重谷は気分を害したような素振りも無く、視線を俺に向けたままでこう続けた。
「ノートに何が書いてあるのか。」
「……まあ、他人のネタ帳は気になるよな。」
「特に今日だもの。」
3月15日。今日は発表会の日だ。
この後に5人が集まり、今年度最後の推理ゲームを行う予定をしている。だから、八重谷のノートにも今日出すためのネタが書かれているのかもしれない。興味があるのは間違いないが、先に見て後の楽しみを無くすような愚に走るつもりも無い。
「私達には、最後の遊び。」
いつの間にか日はすっかり落ちていた。大学の前の道と、そこを歩く俺達を、少ない街灯の灯りだけが照らしている。
3月の夜空は暗く、足元はあまりよく見えない。否応なく僅かな不安感に背中を撫でられているような気持ちになる。そのふたつの足音だけが心の拠り所になるような薄闇の中、言葉と共に、足音のひとつが悲しげに止まった。
「言うなよ、八重谷。」
「言っても言わなくても、最後という事実は変わらないわ。」
「じゃあ、言うなよ。」
「そうね。」
それきり黙って、コンビニまで二人とも口を開かなかった。
責めたつもりは無かった。
最後なのは本当だ。それを口にするのは自由だ。ただ、俺に言ってどうする。そう思うと尖った言葉が出てしまった。
責めるつもりは無かった。
じゃあ、言うなよ、金城。
後悔というほどではなく、謝るほどでも謝られるほどでもない、もやもやした気持ちを抱えて歩いた。
3月にしては暖かく、風も車の音も無い静かな夜道だった。そんな些末な幸福は、俺の沈んだ気持ちに対して何の救いにもならないのだが。