Mission1 ロシアより【核】をこめて その⑦
その様に「だめだ、こりゃ」と言いたげに天をあおぐ澤村であったが、そこはなんとか自らを励まして別の手段を模索した。
「それじゃ仕方がない。峰子、これを奴の服に着けてきてくれ」
そう言って澤村が内ポケットから取り出したのは、大きさが米粒ほどしかない超小型盗聴器だった。
眼鏡型通信機と同様、公調の科学班が開発したスパイ道具のひとつである。
「何よ、これ。盗聴器?」
「そうだ。発信機能も備わっている。これさえ奴につけておけば、いざってときに奴が何を話しているのか知ることができるからな。奴のネクタイの裏にでもそっと付けてきてくれ。お前ならできるだろ?」
「ふーん……ま、いいわ。付けてくればいいんでしょう」
澤村から超小型盗聴器を受け取ると、峰子はミネラルウォーターの入ったグラスを片手にマルコフに近づいていった。
マンゴーのシャーベットを口を運びながら、澤村はさりげなくその動きを目で追った。
ほどなくマルコフに近づいていった峰子が、「ごく自然な」形でマルコフとすれ違いざまに接触すると、手にするグラスからこぼれた水がマルコフのタキシードにかかった。
謝りながら峰子が濡れたタキシードを拭き、そんな峰子にマルコフは「気にしなくていいですよ、レディ」とでも言いたげにニコニコしている。男が美女に寛容なのは、洋の東西を問わないようだ。
その峰子が目的を果たし、なに食わぬ顔で戻ってきたのはそれから十分後のことである。
「付けてきたわよ、涼介。注文どおり、あの男のネクタイの裏側にね」
「よしよし、ご苦労さん……宅矢、聞こえるか?」
澤村は腕時計にささやき、後輩スパイの井上と連絡をとった。
その井上は現在ホテルの別室からパソコンを使い、ホテル内の通信や警備などのシステムに侵入する作業に従事していた。
「はい、聞こえますよ、先輩」
「例の盗聴器をマルコフにつけた。発信機能をチェックしたい。そこから奴の位置が確認できるか?」
「ちょっと待ってください……はい、確認できます。会場の北東側ですね」
「よし、OKだ。じゃあ、音声回線をインカムとつなげてくれ」
「わかりました」
澤村がスーツのポケットからインカム(イヤホン型の通信機)を取り出して、それを耳に装着しようとしたとき。峰子が慌てた態でその肩をたたいた。
「ちょっと、見て。マルコフに誰かが近づいてきたわよ」
「えっ?」
澤村が視線を転じると、たしかに峰子の言うとおり、グレー色のスーツを着た男がマルコフに声をかける姿が見えた。
年齢は四十歳前後。長身で彫りの深い、なかなか苦みばしった容貌の所有者である。
「本当だ。でも例の原黒とかいう組織のメンバーではないな……」
ややあって、インカムから男たちの声が聞こえてきた。
外国語である。「ロシア語ね。それもウクライナ訛りの」と峰子が言う。
日本語以外はまったく理解できない澤村であるから、通訳は七カ国語に精通する峰子の担当だ。
その峰子の表情がにわかに一変した。
「ちょっと涼介。あのスーツの男、別室で原黒が待っているから一緒に来てくださいってマルコフに言っているわよ」
「なにぃ!?」
峰子の言葉に澤村はおもわずいろめきたった。やはり組織に与する男であったのだ。
用心深く様子を遠目に窺う澤村と峰子の視線の先で、グレー色のスーツを着た男とマルコフはしばし立ち話をかわしていたが、やがてホールから一緒に出ていった。
「なるほど、人の目を避けて別室で待機していたのか。さすがにテロ組織のメンバーだけあって、なかなか用心深いな」
やるじゃないかとでも言いたげに薄く笑う澤村に、峰子が気づかわしげな声を向けた。
「ねえ、二人とも出ていったわよ。後を尾けなくてもいいの?」
口もとに微笑をたたえながら澤村は軽く頭を振った。
「慌てる必要はない。あの盗聴器には発信機能もついているんだ。ホテルのどの部屋にいこうと、こいつで居場所は一発よ」
そう言うと澤村は、ポケットの中から一台のスマートフォンを取り出して峰子に見せた。
四インチほどの大きさがある液晶の画面上では、マルコフをしめす赤い光点がゆっくりと動いている。
「宅矢もパソコンで監視しているし、これさえあれば奴がどこに行こうともすぐにわかる。慌てる必要はない……」
「先輩、マルコフの動きが止まりましたよ」
「なに、早いな!」
前言をあっさりと翻して、澤村は慌ててスマートフォンの画面に視線を落とした。
その画面上では、つい今しがたまで動いていた光点がたしかに止まっている。マルコフがホテル内のどこかの部屋に入ったのであろう。
「宅矢、マルコフがどの部屋に入ったかわかるか?」
「はい。ホテルの最上階にあるスイートルームです」
「よし。すぐに盗聴開始だ」
そう澤村が指示したのとほぼ同時、インカムからふたたび複数の男の声が聞こえてきた。今度は日本語での会話だった。
「また会えてうれしいぜ、ハラグロ」
「私もだ、マルコフ。よく来てくれたな」
インカムから伝わってくる男たちの会話に聞き入りつつ、澤村と峰子はワインを飲んだ。九十年製の高級白ワイン、モンラッシェである。
「どうだ、マルコフ。何か飲むか? 八十年製のモンラッシェがあるぞ」
「もらおう。だがその前に取引きを済ませよう。なんといっても今回の商品は、苦労してようやく手に入れた極上の品なのだからな」
「ハハハ。よし、わかった」
「……いいぞ。そのまま話を続けてちょうだい、原黒ちゃんにマルコフちゃん」
盗聴されているとも気づかずにまぬけな連中め、と心の中で嘲笑しつつ、澤村はマスクメロンにかぶりついた。
その傍らでは、もはや盗聴すらそっちのけで峰子が洋梨のシャーベットをパクついている。
「これが約束の小切手だ。契約どおりにUSドルで五千万ドルある。確認してくれ」
「……たしかに。こちらのブツは外にある。ホテル北側の駐車場に停めてある赤色のベンツだ。トランクの中に入っている。これがキーだ」
「な、なにぃ、ここに持ってきているのか!?」
一瞬、澤村は驚きのあまり食べていたメロンの果肉を吐きだしそうになった。
マルコフが口にした「ブツ」とは、言うまでもなくロシアから持ちこまれたウラン235のことであろう。そのウランがこのホテルの敷地内にあるというのだ。
いくらトランクなどでの携帯運搬が可能なウラン235とはいえ、危険な核物質を大都市の中心部に、それもホテルにまで持ってくるとは予想外だった。