Mission1 ロシアより【核】をこめて その⑥
「ボ、ボス、【対象】を見つけました。今、会場に入ってきました!」
興奮を抑えきれない口調で澤村は腕時計にささやいた。【対象】とは、公調用語で「追跡している者」という意味だ。
ややあって土門から返答がきた。
「よし、こちらでも奴の姿をとらえている。そのまま監視していろ。怪しまれるなよ」
「了解……あっ、ちょっと待ってください」
突然、ピーピーという電子音が澤村の鼓膜を刺激した。眼鏡に内蔵されたバッテリーが切れる寸前であることを伝える警告音である。
「くそっ、こんなときに!」
澤村は眼鏡をはずし、ふたたび土門と連絡をとった。
「大変です、ボス。眼鏡のバッテリーが切れそうです。あと一分くらいしか保ちません」
「なんだとぉ! ええい、この肝心なときに……!」
ギリギリという歯ぎしりする音が回線越しに漏れ聞こえてくる。
「よし、わかった。すぐに新しい眼鏡を運ばせる。それまで奴を見失うなよ、涼介」
「了解!」
澤村が応えたのと同時に眼鏡のバッテリーは切れ、公調自慢のハイテク眼鏡はただの伊達眼鏡と化した。
その眼鏡をすばやく内ポケットにしまいこむと、澤村は眼球だけを動かしてマルコフを視線で追った。
そのマルコフはというと、会場にやってきたものの誰と声をかわすわけでもなく、さりげなく周囲を窺いながらゆっくりと歩を進めていた。
その様子は、この場にいない何者かを捜しているようにも見えた。
「どうやら、まだ相手の方が来ていないようだな。それにしても眼鏡がこれじゃ、奴に何か動きがあってもボスに映像を送れない……待てよ?」
ふと澤村は、ひとつの事実に思いいたった。
バッテリーが切れている今、眼鏡は作動しない。作動しないということは、音声も映像も送ることができない。
映像が送れないということは、澤村が今どのような行動にでようとも、この場にいない土門に知られることは絶対にないということだ。つまりそれは……。
「こ、これこそ千載一遇の好機! やはり神は、愚直な労働者の味方だったかぁ!」
内なる叫びもそこそこに、澤村はまず近くのテーブルからフォークと皿を手に取ると、そこに並べられている料理を次々と皿に盛り、口の中に放りこんでいった。
肉にかぶりつき、果物をかじり、ごくごくとワインを喉に流しこむ。ガツガツとしか表現不可能なその食べっぷりは当然ながら周囲の目をひき、一部の来賓の好奇の視線が四方から澤村に注がれた。
こうなると、もはや「極秘任務」だの「隠密行動」どころの話ではないのだが、空腹に耐えていた愚直な労働者にしてみれば、そんな四字熟語にかまってなどいられない。
(かわりの眼鏡が届けられる前に、とにかく食べれるだけ食べておかなければ!)
山のように盛った料理をあっという間にたいらげた澤村が、さらに別の料理に手を伸ばそうとしたとき。その動きがにわかに停止した。
メロンのハム巻きを皿に盛ろうとした澤村の背中に、突然ぐぐっと何かが押しつけられたのだ。
それが細い円筒状の形をした金属性の固体であることに気づいたとき、澤村の全身に戦慄が走った。
(こ、この感触は……ま、まさか拳銃か!?)
「動くな。ゆっくりと皿をテーブルに降ろしなさい。いいこと、妙な動きをしたら安物のスーツに風穴が開くわよ」
背後から聞こえてきたのは、意図的に低く抑制された、妙にどすのきいた女の声だった。
まさか自分の正体がばれたのかと、澤村は背筋に冷たいものが流れ落ちるのを自覚したが、ともかく言われたとおりに手にする皿をテーブルの上にゆっくりと戻した。
「素直でよろしい。ではハム巻きにそこのゼリーサラダを添えて、そのままの姿勢でこちらに渡しなさい。早く!」
(な、なんなんだ、いったい?)
意味のわからない指示に困惑しつつも、とにかく澤村は言われるままに料理を盛り、その皿を渡した。すると――。
「はい、ありがとう。私もお腹がすいていたのよね。では、いただきまーす!」
それまでの抑制された低声から一転したその陽気な声に、おもわず澤村はあ然とした。
それも当然で、その声に十分すぎるほど聞きおぼえがあったのだ。
まさかと思い振り返ると、案の定、目の前で料理を美味しそうに食べていたのは、公務員法を鼻で笑いながら夜のアルバイトに精を出す美貌の女スパイだった。
「み、峰子じゃないか!」
絶句し、酸欠ぎみの金魚のように口をパクパクさせる澤村をよそに、峰子はご満悦の態で皿の料理をパクパクと食べていた。
その峰子がふと澤村を見やり、
「あら、このゼリーサラダはほんと美味ね。あんたも食べたら、涼介?」
「あっ、本当? じゃあ俺もひとつ……って、おい! 何がゼリーサラダだ。いきなり人に拳銃を押しつけてなにを考えているんだ、お前は!」
憤然として詰めよる澤村を、峰子は余裕たっぷりの冷笑であしらった。
「ふん、なによ。あんたが任務そっちのけで一人でおいしい思いしているから、少し脅かしてやったのよ。自業自得ってやつでしょうが」
吐き捨てるようなその言い草にますます憤然とする澤村であったが、相手は公務員法を無視して副業に精をだす銀座の夜の蝶。
何を言ってもカエルの面に小便であることを知っているだけに、澤村は怒りぐっとこらえて話を転じた。
「そ、それよりも、かわりの眼鏡は持ってきたんだろうな?」
「ちゃんと持ってきたわよ。はい、これが新しい眼鏡」
そう言うと峰子は、手にするセカンドバッグから眼鏡ケースを取り出して、それを澤村に手渡した。
「よしよし。これがないと何もできないからな」
澤村はさっそく眼鏡をケースから取り出してかけてみた。
しかし、何か変である。いっこうに通信機能が作動しないのだ。
というより、作動させるための起動スイッチが眼鏡のどこにもない。
まさかと思い、慌てて澤村が眼鏡をはずして調べてみると、案の定、峰子が持ってきたのは百円ショップでも売っているような普通の伊達眼鏡であった。
「おい、峰子。これは普通の伊達眼鏡じゃないか。こんなもの持ってきて俺にどうしろって言うんだよ!」
いくらカエルの面になんとやらの性悪女とはいえ、さすがに澤村も文句を言わずにはいられなかった。
だが、ローストビーフを美味しそうにパクついている女スパイの口から返ってきたのは、反省の弁でも謝罪の一語でもなく、小馬鹿にしたようなせせら笑いだった。
「そんなの知らないわよ。持っていくように言われたから指示された場所から持ってきただけよ。あとは私の知ったことじゃないわ。それよりも喉が渇いたわね。何か飲み物はないの?」
悪びれるということを知らない女スパイは同僚の文句など右から左に聞き流すと、テーブルの赤ワインを手に取り、ひょいひょいという感じでいっきに三杯もグラスをあけたのだった。