Mission1 ロシアより【核】をこめて その⑤
例年より半月以上も早い到来であったにもかかわらず、気象庁がほぼ例年どおりの時期に梅雨明け宣言をだしたその日。大阪市北区梅田の一画に、さながら白亜の城塞のようにそびえたつ某外資系ホテルでは、その開業を祝う披露パーティーが催されていた。
そのホテルの十階には、大規模宴会用に造られたヨーロピアン調デザインのグランドホールがある。
パーティーはそこを主会場として開かれ、招待された多くの来賓たちによってホールはごった返していた。
スーツにタキシード、パーティードレスに宝石類で着飾った政治家、財界人、ジャーナリスト、芸術家、スポーツ選手、芸能人など、八百人を超える各界の著名人たちが一堂に会し、まばゆいクリスタル・シャンデリアの下、群れつどい、談笑をかわし、豪勢な料理や酒に舌鼓をうっていたのだが、その来賓の中に約一名、偽造した招待状を使ってパーティーに潜りこんでいた招かれざる客がまじっていた。
名前を澤村涼介といい、容貌は平凡なサラリーマン風ながら実は情報機関のスパイであり、ある国際的大事件を解決するためにパーティーに潜りこんでいるというそのあたりの裏事情を知る者は、むろん会場内には皆無である。
ミネラルウォーターの入ったグラスを片手に所在なげに会場内を歩きつつ、変装用の黒縁の眼鏡越しに眼球だけを動かして、周囲をきょろきょろと窺っているその姿は見るからに挙動不審なのだが、ほかの招待客たちは誰一人として澤村の存在など気に留めていない。
その澤村がふいに立ち止まり、スーツの腕の裾をまくった。
「トイプードルよりブルドッグへ。繰り返す、こちらはトイプードル……」
なんちゅう暗号名だよと、澤村は胸の中でぼやきつつ、左手にはめた腕時計型のトランシーバーに小声でささやきつづけた。
「十九時三十分現在、会場内に【対象】の姿はなし。あらわれる気配もなし。ひきつづき捜索を続ける。以上、定時連絡終わり……」
どこか投げやりな口調で言い終えると、澤村はひとつ息を吐いて周囲を見わたした。
絢爛豪華な貴顕淑女の宴。そう評していいだろう。
広大なホールの隅から隅にかけて、透き通るようなシルクのレースがかけられた丸テーブルがいくつも配置され、豪勢すぎるほど豪勢な料理の群が整然とおかれてある。
仔牛の赤ワイン煮。鹿肉のソテー。サーモンマリネ。鴨肉の照り焼き。牡蠣のシャンパン蒸し。メロンのハム巻き。洋梨のシャーベットにチョコレート・ババロア。赤白バランスよくそろえられた高級ワインの数々……。
だが、それらの料理を澤村は、会場入りしてから現在にいたるまでひと口も口にはしていなかった。
別に胃の調子が悪いとかダイエット中だからとか、そういう理由ではない。会場への潜入を命じた某上司から、料理に手を出すことをかたく禁じられていたからだ。
「まったく、少しくらい食べたって任務には支障ないじゃないかよ。ほんと、あの石頭はどうしようもない……」
「なにぃ、誰が石頭だとっ!?」
(……し、しまった!)
突然、鼓膜を刺激したその怒声に澤村はおもわず心身と舌を凍らせ、と同時に、それまで失念していたひとつの事実を思いだした。
今、澤村は縁の厚い眼鏡をかけている。度が入っていない素通しの、いわゆる伊達眼鏡なのだが、これがただの変装用の伊達眼鏡ではなかったのだ。
音声通信にくわえ、レンズ越しに見た光景を映像として送信することができるという眼鏡型の映像送信機なのである。
つまり音声はむろん、澤村が眼鏡越しに見た物すべてが眼鏡を通じて送信されているわけであり、そして回線越しに怒号を飛ばしてきたのは、その澤村に石頭と評された某上司――土門であった。
雑言を聴かれるというあまりにもばかばかしい失態に、澤村は己のうかつさを心の底から悔いたが、一字一句聞かれてはどうしようもない。
ばつが悪そうに沈黙する澤村に、回線越しにさらなる怒声がとどろいてきた。
「だいたいなんだ、さっきから料理の映像しか送られてこないじゃないか。ちゃんと奴を捜さんか。誰も料理の監視をしろとは言っておらんぞ!」
自棄と怒りと、ついでに空腹の苛立ちが澤村の凍った舌を溶かした。
「そ、そうは言いますけどね、ボス。俺は今日、昼間にハンバーガーをふたつほど食べただけで、ほかには何も食べていないんですよ。そんな人間をこんな場所に送りこんでおいて『料理を見るな!』なんて、そりゃ殺生ってもんですよ」
この切実な正論の前にはどんな反論もありえない。澤村はそう信じて疑わなかった。上司のどす(・・)のきいた怒声が返ってくるまでは。
「このバカモンが! お前は神聖な任務をなんだと思っているんだ。この作戦には日本の威信と世界の平和がかかっているんだぞ。たとえ飲まず食わずで餓死寸前だとしても、気力をふるってお国のために働いてこそ、真のニッポン人というものだろうがっ!」
「…………」
土門お得意の「精神力万能論」を聞かされて、澤村は反論する気が一気に失せた。食欲のほうはちっとも失せなかったが。
「わ、わかりましたよ。捜せばいいんでしょう、捜せば……」
語尾に失意のため息を重ねて、澤村はふたたび会場内を歩きはじめた。
あいかわらずパーティーは盛況であった。時間が経つにつれて来賓の数も増え、それに比例して会場内の熱気や喧噪も増していくという状況であったが、その喧噪の中に身をおく澤村の表情に熱は微塵もなく、むしろ低下傾向にあった。
上司の非情な指示に、任務に対する意欲や士気がすっかり削がれたこともあるが、なにより肝心のマルコフの姿がいまだ見つけられずにいたからだ。
現在、時刻は夜七時半。パーティー開始からすでに一時間が過ぎている。
いかに八百人という大勢の人々が集っているホールとはいえ、顔半分を濃い口髭でおおわれた白人の男となれば、否応なく目につくはずなのだが……。
ともかく澤村はマルコフの不在を再確認し、場を変えようと歩調を速めようとしたまさにそのとき。会場に通じる扉のひとつからあらわれた、タキシード姿の白人の男が目に入った。
たちまち澤村の足が急停止する。
「あ、あの男は……?」
澤村は慌ててスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
任務用に渡されたマルコフの顔写真である。
その写真と男の顔を交互に見た後に澤村は断じた。
ふいにパーティー会場にあらわれたその白人の男こそ、澤村たちが追うロシア・マフィアのボス、ユーリー・マルコフだったのだ。