Mission1 ロシアより【核】をこめて その②
それは、澤村が洗顔と歯磨きを終えて寝室に戻ったときのことだった。
まるでそのタイミングを待ちかまえていたかのように、部屋に備えつけの固定電話がだしぬけに鳴ったのである。
「……嫌な予感がする」
電話機を見つめながら澤村は眉をしかめた。
けたたましく鳴り続ける電話の音から、なぜかとてつもない「邪念」を感じとったのだ。
澤村はとくに第六感が鋭いとか、動物的本能が発達しているとか、そういう人間ではないのだが、ともかく鳴り響く電話に得体の知れない悪寒を覚えた澤村はすぐに居留守を決めこむことにしたのだが、留守電機能に切り替わった瞬間、電話機からとどろいてきたダミ声がそれを許さなかった。
「おい、涼介。いるのはわかっているんだぞ。さっさと電話にでんかぁ!」
「…………」
朝っぱらから他人の家に電話しておいて名乗りもせず、しかも聞く者に殺意すら抱かせるようなダミ声をこうも無神経に飛ばしてくる人物を、澤村はこの世で一人しか知らない。
自身が所属する諜報六課の課長で、名前は土門巌。澤村を含めた部下たちから【ボス】という愛称で呼ばれている直属の上司である。
その上司に居留守を看破されてはさすがに無視することはできないらしく、澤村はひとつため息をついた後、受話器を取りあげた。
「はい、澤村ですが……」
「いるならさっさとでんか。電話代がもったいないだろうが!」
みみっちい上司だ、と澤村は胸の中で毒づいたが、声にだしてはこう訊ねた。
「そんなことよりもボス。いきなり電話なんかしてきてどうしたんですか?」
「どうもこうもない。仕事だ。部長から任務指令がでたのだ」
「…………」
土門の言葉に澤村は沈黙をもって応えた。
上司の発した言葉の意味を、とっさに理解しそこねたのである。
やがて寝起きの脳がその意味を完全に理解したとき、悲鳴にも似た澤村の声が寝室にとどろいた。
「な、何を言ってるんですか、ボス。俺は今日非番なんですよ!」
休みの日まで働いてたまるか! 澤村はそう副音声で訴えたのだが、部下の悲痛な訴えに耳をかすような上司ではなかった。
嘲るように「ふん」と鼻で一笑に付すと、敬愛する上司は冷ややかな声音で語をつないだのである。
「何を寝ぼけたことを言っておる。この世界に陰謀あるかぎり、われわれ諜報員に非番だのオフシーズンなどというものは存在しないのだ。われらスパイの信条を忘れたのか。滅私奉公、勤労美徳、七生報国、上司崇拝……」
最後のは絶対にちがうだろう! 澤村は胸の中で叫んだ。
「とにかく、すぐに本部まで来るんだ。わかったな!」
と、一方的に言い放って土門は電話を切ってしまった。
これでは反論する間も断る間もありゃしない。
ツーツーという無情な電子音が鼓膜を刺激する中、横暴な悪辣上司に澤村は心の底から殺意を抱かずにはいられなかったが、そうはいっても諜報部門のトップたる諜報部長から任務指令が出たと聞いては、一介の平スパイでしかない澤村に選択肢などあるはずもない。
「せっかくの休みがぁぁ……」と未練がましい不平をぶつぶつと口にしつつも、クローゼットからスーツとネクタイを取り出してそれに着替えると、澤村は東京霞ヶ関にある公安調査庁の本部に向かうため自宅アパートを出たのである。
†
東京メトロ有楽町線の桜田門駅からほど近い場所にある公安調査庁の本部ビルに着いた澤村は、守衛の係員に身分証を提示してさっさとビル内に入っていった。
そしてエレベーターで上がること十階。そのフロアーの一画に諜報六課のオフィスはある。
陽当たりの悪い北側の、しかもフロアーの隅っこというその場所は《お荷物部署》と揶揄される六課の評判と現状を如実にあらわしているといえよう。
「これはこれは、お早いお着きで……」
オフィスに入るなり澤村にそう皮肉っぽい声と微笑を向けてきたのは、六課の職員である藤堂勇次だった。
澤村とは同期入省の間柄だが、彼は諜報員ではなく経理担当の職員であり、諜報員を含めた六課職員の経費の集計や給料の計算などが主な仕事である。
「せっかくの休みが台無しだな、涼介?」
「ほんと、まいったよ。朝一で電話してきたと思ったら、いきなり本部に来いだもんな」
あの鬼上司め、と言いたげな顔つきの澤村に藤堂が失笑を漏らす。
「ま、しょうがないよ。世界に陰謀あるかぎりスパイにオフシーズンはないんだからさ」
今度は澤村が失笑しかけた。土門の大仰な口癖はつとに有名だったのだ。
「ほら、ボスが待っているから早く行った行った。もう全員集まっているぞ」
あ、そう、と端的に応じて澤村はオフィスの奥にあるブリーフィング・ルームに入っていった。
しかし、そこで澤村が見た光景は意外なものだった。
「あれ、これだけですか?」
ブリーフィング・ルームに足を踏みいれた瞬間、澤村は軽く目をみはった。
それも当然で、自分以外の諜報員が集まっていると聞いていたのに、室内には三人の男女の姿しかなかったからだ。
「なんだ、まだ全員、集まっていないじゃないですか」
「何を言っている。これで全員だ」
ぶっきらぼうな声で澤村に応じたのは、部屋のほぼ中央におかれた革張りの安楽椅子に座る、脂ぎった面相の中年男だった。
澤村の上司にして六課課長の土門巌である。
その土門はこの年四十八歳になるが、澤村とはまたちがった意味でスパイには見えない人物だった。
小太りの身体を派手な紫色のスーツで包みこみ、短い足を組んで安楽椅子にふんぞり返るその風貌は、情報機関の管理職というよりは暴力団の幹部に近いものがある。
背はそれほど高くはないが全身の肉づきが厚く、両目は猛禽類のように鋭い三白眼で、脂ぎった大きな顔はどことなくブルドッグを思わせた。
その為人はまさに風貌からうける印象そのままで、四字熟語で表現するならば「横暴無比」「倣岸不遜」「唯我独尊」「自己中心」になるだろうか。
とにかく《ゴーマン》という言葉がスーツを着ているような人物なので、一年前、課長への昇進が決定したときなどは、その驚天動地の人事に慌てふためいた六課の職員たちが転属願いを手に人事部に殺到したほどである。
むろん澤村もその一人なのだが、提出した転属願いは他者同様あっさりと却下。それゆえ朝からダミ声で電話ごしに怒鳴りつけられても、頭ごなしに本部に呼びつけられても、唯々諾々と従っているのである。
「全員って……だって四人しかいないじゃないですか」
「他の者はそれぞれの任務があって出払っておる。それに今回の任務は俺が直接、指揮をとるしな。少数精鋭でのぞむことにしたのだ。わっはっは!」
「……………」
その瞬間、澤村はなぜ非番の自分が呼び出されたのかを明確に悟った。
つまり今回の任務。土門が直接指揮をとると事前に知り、他の諜報員たちが「それぞれの任務」を理由に逃げだして集まらなかった。否、捕まらなかったのだろう。
そこで頭を抱えた土門が狙いをつけたのが自分だったのだ。非番だから、必ず自宅で寝ているにちがいないと考えて……。
すべての「裏事情」を看破し、澤村は怒りと不満で爆発する寸前であったが、本部までのこのこと来てしまった以上、今さら逃げだすわけにもいかない。
自分のうかつさと土門の悪辣さを呪いながらも、「ま、この人数ならたいした任務じゃないだろうしな」と、自らを納得させて澤村は席についたのである。