愛と恋
醜い私の優しい思い出は、心に青空を思い浮かべたときに蘇りました。それで私は満足していたのです、紅春さんに会うまでは。
成人して何年か経っていました。私は布で、妹は踊りで日銭を稼いでいました。忙しい毎日の中、偶然妹と出かける時間的余裕ができ、妹とイチゴを摘みに行っていました。ジャムを作ろうという妹の提案で、両親は妹の言葉ならなんでも許しました。
「姉様、これは?」
「フユイチゴね、籠に入れて頂戴。」
「これは?」
「ヤマグワね、食べられるけれど……ポケットに入れましょうか。」
「これもヤマグワかしら。」
「クロイチゴよ、籠に入れて。」
そんなやりとりをしながら山の奥へ奥へと進んでいきました。
「姉様、随分採れたように思いますけれど……」
「でもジャムにするにはまだまだ足りないわ。」
私は困ってしまいました。山のどこで木の実が沢山採れるかということは熟知していましたが、その年は実りが少なかったのです。砂で霞んだ青空を見上げほとほと困り果てていると、あの声がしました。
「お嬢さんがた、お困りかい。」
妹は小さく悲鳴を上げて私の後ろに隠れました。蛇でした。
「木の実がたくさん生っているところを知っているよ、ついておいで。」
妹は私に耳打ちしました。
「姉様、蛇は怖いわ、帰りましょう。」
「でも昔、移動遊園地で、私だけが遊ばず仕事をしていると気付いてくれた優しい蛇よ。行ってみましょう。」
私たちがついて来たのを確かめるように蛇は鎌首を持ち上げ、再び進み始めました。蛇はなぜか、砂漠へと私たちを案内しました。
「砂漠には木の実は生らないわよ。」
「まあまあ、見ていてご覧。」
蛇の言う通りしばらく黙っていると、緑が地平線上に見えました。近づき、それがオアシスだと分かりました。
「姉様!これってクサイチゴかしら!」
「クマイチゴね、すごいわ、こんなに色んな木の実が……果樹の実りも山とは大違い。もっと早くに気付けばよかったわ。ありがとう、蛇さん。」
「嫌だな、まだ驚くには早いよ。一緒に奥へ行こう、木の実は逃げない。」
蛇の言う通り進んでいくと、湖の中に樹齢何百年かと思うほどの大きなリンゴの樹が生えていました。リンゴは真っ赤に熟し今にも落ちてくるのではなかろうかと枝をしならせていました。
「こんなリンゴ見たことない……」
蛇は真っ赤に割けた口を釣り上げて笑いました。
「凄いのは樹じゃない。木の実でもない。湖でもない。土だよ。」
妹はもう蛇を恐れていませんでした。
「土?」
「そう、この湖の土は次から次へと水を湧き出し続けるんだ。まあ、誰かさんが独り占めしてるんだけどね、不当なことに……っと、私のことは黙っていてくれよ、約束だ。」
蛇がそう言った直後後ろから男性の声がしました。
「ここで何をしているんですか?」
妹と私は驚いて、妹ときたら驚いてのけぞった私の後ろに隠れようとしたので湖の中に転んでしまいました。
「ごめんなさい和美!」
「大丈夫、和香姉様。」
「これは……すみません、私が突然声をかけたばかりに。ここは私の一族の土地ですが、もしかして木の実を採りにきたのですか?」
蛇の言った「独り占めしているんだけどね、不当なことに」という言葉がよぎりました。
「すみません、でもここではまだ木の実は採っていません。この籠は山の中にあったものなんです。信じてください。」
青年は首を傾げ、背の高さに似合わぬ幼い可愛らしい笑顔を浮かべました。
「採ってもいいんですよ、お手伝いしましょう。ここの実りは村民全員のものですから。」
「そうなんですか?」
「ええ。けれどまずは妹さんの服を乾かしましょう。私の家が一番近いのでそこまで来てください。お二人とも肌が砂で汚れています。ぜひ綺麗にしていってください。」
「い、いいんですか?」
「勿論。和香さん、和美さん、私の名前は雪原紅春といいます。覚えておられないようですが、十年前まで同じ教室で学んでいたんですよ。」
私は頬に熱が溜まっていくのを感じていました。異性に、いえ他人にここまで親切にされたことはありませんでした。シャワーで冷やしても頬の熱が冷めないことで、恋をしているのだと気付きました。
その後一緒にイチゴを採りながら、私たちは他愛のない話をしていました。
「紅春さんはよく私たちのことを覚えていらっしゃいましたね。」
「言葉遣いの綺麗な二人のことは、きっと他の同級生も覚えていると思いますよ。」
「言葉遣い、綺麗かしら。普通だと思っていたわ。」
「ご両親もきっと綺麗な言葉を選んで使っておられるんでしょうね。」
私も妹もその点はあえて会話を避けました。両親はときに粗暴な言葉を使うからです。
「紅春さんも言葉遣いが綺麗なんじゃないかしら。」
「私は厳しく躾けられていたので。学校にいるときは怒られないので今のようには話していませんでしたよ。」
そして山まで送ってもらいました。道中、紅春さんが積極的に私に話しかけるので、異性と話したことのない私はまごつきつっかえながら必死に話をしました。
「紅春さんも手が綺麗ですね。妹も手が綺麗なんですよ。」
「でも和香さんの手は働き者の手でしょう?そちらも十分美しいと思いますよ。」
こんなことを言われて、私はすっかり舞い上がってしまいました。後は何を話したか記憶にありません。別れた後、私は妹に「素敵な人だったわね」と零していました。妹は言いました。
「ええ、私も、あの方のことを考えると、今も胸が激しく脈打つの。」
この言葉で妹も彼に恋をしたこと、そして私の恋が成就することはあり得ないということが分かってしまいました。そっと熱の残る頬のそばかすを摩りました。
その後、私にお見合いの話が出ました。何日も前から機織り機を酷使し、壊れては直しました。そして精一杯着飾った姿で相手の方と顔を合わせようと部屋の前に立った時です。
「歳をとったそばかす女にあるのは生殖器だけだろ。」
続く笑い声。胸が針金で締め付けられたように痛み、気付けば飛び出していました。
「父様、母様、お願い、このお話断って。お願い、断って。」
両親は何も分からないまま先方にその旨を伝えました。相手方は大変な怒り様で、「こちらから断った」ということにすれば、縁談を反故にしてもいいと言ったそうです。私はもうこの顔で愛されるということは諦めるしかないのだと再度突き付けられました。私は醜い、愛されることはない、そのことが分かってしまいました。そして、それなら一生誰とも結婚しないことを心に決めました。