美しい自己暗示
ここまで辛い話が続きました。なので唯一の温かな思い出を語ってお口直しといきましょう。
あれは、妹が三歳の時だったので、私が六歳か七歳ぐらいのことと思います。二人でよく行く花園がありました。村は砂漠に面していましたが、私たちが住んでいたのは山の中でした。森の奥にあるその花園にはさらさらと湧き水の流れ出る音が響いていました。色とりどりの蝶が舞い踊り、その蝶が生まれかわったかのように咲く花々が一面を覆っていました。その日は風が強く、砂漠から細かな砂が飛んできていました。妹も私も織った布で口と鼻を覆い、シロツメクサを摘んでいました。妹は私を振り返り言いました。
「姉様、ここの景色の美しさには蝶も一役かっているんでしょうね。」
「ええ、でもあそこの花に群がっている蝶は毒を持っているから近付いちゃだめよ。」
妹は頷き、また冠づくりを始めながら今度はべつのことを尋ねてきました。
「姉様、どうして人は、失うことは恐れるのに奪うことはやめないのでしょう?」
「ええ、悲しいことよね。私が思うに人は、自分だけは大丈夫と思ってしまうからではないかしら。たとえば私たちは魚の命を奪って生きているけれど、自分の命が失われるということにはまるで鈍感よね。魚にも家族はあるけれど、私たちの家族が死んでしまうことには取り乱してしまう。少し考えれば人が死ぬことは当たり前なのに。その当たり前を無視させているのが、自分は大丈夫、という心なんじゃないかしら。哀しいことね。奪うことを始めとする人間の諸々の性はなんて哀しいんでしょうね。」
私がその時見上げた空は、砂で霞んだ青空でした。風がごう、と吹いて目の中に砂が入りました。その時痛みで涙が出たのを妹は勘違いしたのでしょう。
「私、和香姉様の純粋さが好きよ。大きくなったら姉様と結婚する。」
私は自分を嘲笑いながら答えました。
「その気持ちだけで嬉しいわ、私も貴方が好きよ。」
心のこもらない冷たい同意でした。私は屈み、また冠を作り始めました。手を休めていない妹の方が先に仕上がりました。
「姉様、父様と母様は喜んでくれるかしら。」
「父様も母様も心の在り方を見てくれるから大丈夫。」
この後両親は平等に喜んでくれました。これで温かな思い出は終わりです。
私は恨みがましいところがあるので、次に大切な思い出となると心の濁りが一番酷かった四歳の時のことです。すっかり私が家事をこなすのが当たり前になっていました。そのことに対するどろどろとしたものが渦巻き、沼の底のように真っ暗な中で息苦しく這いずりながら毎日を生きていました。ある日洗濯板で洗濯していました。もう生きることが限界で、涙がこぼれそうで上を見上げました。その時です。見上げた空には雲一つなく、濁りのない青でした。心の中のどろどろしたものが吸い上げられました。その嬉しさにこらえていた涙が一粒、また一粒と頬を伝っていきました。初めてのうれし涙でした。いつでもこの青空を胸に抱いて生きよう、そう誓いました。それは困難なことでしたが、清廉された青がこの時から私の希望になりました。その青空に、私は生涯で何度救われたか分かりません。
最後の、辛うじて温かな思い出と言えそうな記憶は十二歳、移動遊園地のバイトをしていたときです。私はサーカスの入り口で風船を配っていました。夜闇に光るイルミネーションが私の白い息を映し出していました。その時までチカチカ明滅し移動して光る色彩は蝶しか見たことがありませんでした。しかし移動遊園地のイルミネーションは蝶よりもずっと綺麗で神秘的でした。家には小さな豆電球しかなかったのです。思わず目を奪われていると、座長さんに平手打ちされました。
「お前たちみたいな盗人の一家を雇ってやっているんだからさぼるんじゃない」
そう怒鳴られました。私は一度頷いただけではさらに叩かれることをそれまでの経験で知っていたので、何度もうなずきました。座長が去ると、緊張が解けて悲しさと惨めさが胸いっぱいに広がりました。
「可哀想だね」
私は慌てて声の主を探しました。風船を売らなければなりません。
「こっち、足元を見てご覧。」
私が下を見るとなんと蛇がいるではありませんか。蛇は口を開きました。
「風船なんか放っておいてさ、一緒に遊ぼうよ」
「私が仕事をしないと、生計が立たないの。」
「でも周りを見てご覧、その歳で仕事をしてる子がいる?みんな遊んでいるじゃないか。楽しそうだろう?」
「ええ……でも……」
その時蛇はするりと姿を消しました。
「あれ、蛇さん?」
「そばかす。」
後ろにはいつの間にか父が立っていました。そして座長と同じところを平手で打ちました。
「蛇なんかと話すんじゃない!」
そこへ一緒に遊んでいたはずの母と妹が駆け寄ってきました。そして妹は驚いたことに、私の手から風船を取ると父に持たせました。そして私の手を引いて走り出しました。父と母の呼び声を無視して山へ走り、その側面にぽっかり空いた洞窟の中へ入って行きました。両親が入ってはいけないと言った場所です。
「ここは獣の巣になってるかもしれないって言われてるでしょう?帰りましょう?」
「大丈夫、ここには獣なんていないわ。」
「和美、もしかして貴方入ったことがあるの?」
「ここは恐ろしいところなんかじゃない、美しいところよ。」
不思議なことに夜だというのに洞窟の中は足元まではっきりしていました。見上げれば夜空の星から光の雨が降っているようでした。
「この天井は何?どうして光っているの?」
「星のようでしょう。土ボタルという虫が光っているんですって。光に寄ってきた虫を食べるそうよ。だからいつここに入っても明るいの。」
とうとう洞窟の奥まで来ました。学校で見たよりはるかに大きな結晶が生えていました。妹はそのそばから小さな欠片を採り、打たれたほうの私の頬にそれをあてがいました。
「これは……氷?」
「山のてっぺんの花園に湧き水があるでしょう。それが滴ってここにも水の道が出来ていて、今日みたいな寒い日は氷になるの。和香姉様の綺麗な顔が腫れるなんて辛くて見ていられないから……ここに来たこと、内緒よ。」
涙ぐんだ私を妹は抱き締めました。
「私たち、痛みは分け合いましょうよ。他の人にはない繋がりが私たちにはあるんですもの。」
その繋がりを疎んでいたことを妹は知りません。イルミネーションよりも洞窟の優しい灯りよりも綺麗な彼女の心を憎みながら、それでも守ろうと私はようやく精神の強さを手に入れることができました。