最後の瞬間
穏やかな日常は突如崩壊する。
まず地盤を割って怪物が現れた。
地面から歪な形の腕が生えた。これを腕だとすると指にあたる部分もまた腕であり、それもまた指にあたる部分も腕であった。
無数に枝分かれした腕たちはそれぞれが意思持つように動き、町を這い回り始めた。
まるで手のひらほどの大きさの模型の町を手で押し潰すかのごとく。
そうして腕は石畳に爪を立て引き剥がし、石壁を引っ掻いて握り潰し、あらゆるものを壊していく。
逃げ遅れた人々が腕に捕まれば、腕のところどころにある口のような裂け目に引っ張り込まれた。
食う。食う。食う。世界を食らい尽くす。
平らげるという言葉は優秀だ。それ自身が食べるという意味を持ち、そして食べた後に何も残らないことまで表現している。
そんな文学的な感想までも怪物は食っていく。
「食い汚いのは感心しないわ」
窓の外の惨状を見つめ、ヴェルダはそっと本を閉じた。
この建物もそろそろ終わりだろう。敷地を仕切る塀はもう打ち崩されてしまったし、玄関扉は剥がされて建物内に侵入されているという。
逃げてきた人々は建物の奥へ奥へと避難しようとして押し合い、人の雪崩となっている。少しでも遅れた者から食われていく。
その騒動ももはや静かだ。その沈黙の意味を知っている。
万物を食らう腕が司書室まで来るのも時間の問題だ。
「あたしさぁ、復活の意味あった?」
せっかく引き上げられたのにもうタイムアップなんて。
だったらダレカに呑み込まれたまま、引き上げられなくともよかったじゃないか。
何も活躍なんてしていない。まともな出番もない。いてもいなくてもよかったじゃないか。
編成所の所長は棒付き飴をくわえて応接用のソファに寝転がった。
だらしない格好に苦笑をひとつ漏らし、ヴェルダはゆるりと首を振る。
「イレギュラーの修正は必要だから」
編成所という大事な施設がなくなってしまっては困るからだ。
とりあえず所長さえいれば基本的な機能は使える。そのためだけに復活させたのだ。
不在というエラーを修正しただけにすぎない。
ただでさえこじれている世界なのだ。これ以上歪んでしまうのはごめんだ。
「それって復活され損じゃん!」
あはは、と笑う声は腕に掴まれて消え去った。
せめて返事に対する相槌くらいはさせてほしい。溜息を吐く前にヴェルダもまた腕に掴まれていく。
こうして図書館は更地になったのである。
図書館が消えた。精霊からその知らせを聞いてイルートは眉を寄せた。
図書館がなくなってしまうとは。被害が甚大すぎる。
「あの怪物はいったい……」
あの正体はわからない。だがよくないものであることは間違いない。
精霊が記した伝承には破壊神という存在があるが、それなのかもしれない。
伝承によると、それは世界を平らげる終末の怪物であるという。
世界を破壊する怪物だろうと、人と精霊を守るのが守護者だ。
逃げ惑う人々の流れに逆らい、前に進み出る。
「精霊よ、応え給え……」
イルートが精霊に呼びかける。どうかこの怪物を撃退する力をと願う。
しかし、精霊は招請に応えない。
たまたま近くにいないのではない。怪物の相手をするので忙しくてイルートに関わっている余裕がないわけではない。
精霊たちは破壊されていく家々に巻き込まれないように避けながら逃げ惑う人々を高所から眺めている。まるでスリル満点のショーを観劇するように。
「なぜ……!?」
精霊はヒトの妖精に応じて力を貸す。それが原初の契約だ。
人は神のために。神は人のために。神の眷属である精霊もまたその範疇だ。
「ダッテ、ココデ終ワル話ダカラ」
この『週』はもう終わり。本を閉じて、新しい本を綴り始めなければならない。
何度も使い回されて古びてしまった本は綴紐を解いて、使えるページは使って使えないページは捨てるべきなのだ。
「それは、どういう……」
「舞台ト同ジヨ、イルート」
この世界を舞台だとしよう。
演目が終わった時、役者は舞台から退場すべきなのだ。それでも居直るというのなら、力づくで追い出すしかない。
その追い出しの時間が今なのだ。
「それでは私たちは何のために……」
言い切る前に、怪物が飲み込んだ。
壊れていく。壊れていく。その様子を見て彼女は世界の終わりを悟る。
夫は来ない。いつも彼は最後の時は逃げるのだ。
大事な仲間を、愛する妻を自分のわがままでこの世界に繋ぎ止めてしまったと後悔して、それを突きつけられる時が来るとこうしていなくなる。
幼馴染と傷を舐め合いに行ってしまう。それを少し寂しいと思ったのはいつだろう。記憶が持ち越されているせいで感情というものは長い繰り返しのうちに擦り切れてしまって何の感慨もわかない。
こういう時に怒りも泣きもしないのが、より人間離れしたモノのようで、だからこそ本人の記憶に合わせた模造品かもしれないという危惧を夫に抱かせてしまうのだけれど。
「またおやすみなのデス?」
「えぇ、そうよ。ゼフィル」
睡眠薬を飲んで眠ろう。そうすれば苦痛を感じる間もなく『全消去』される。
目を開ければそこは『次週』の世界なのだ。
「次もまた4人で探索がしたいデス」
「そうね。そうだといいわね」
「俺たち全員同じ願いだったんだ、きっと叶えてくれるさ」
それこそ世界を無限に繰り返してでも自分たちに『ずっと探索を』させてくれるはずだ。
それが神に願って受諾された願いなのだから。
だからきっと大丈夫。『来週』まで、おやすみなさい。
その優しい眠りすら怪物が食い散らかしていく。すべては更地になっていく。
塔を管理する精霊が住む精霊峠ならばきっと何かの力で保護されているのではないかと期待する人々を食い荒らす。
一度地面に叩きつけられて怒り狂うルフをも物量で押し切って、羽をむしり取って末端からかじり取っていく。
そうして怠惰の巨竜の分身も食い、炎の化身の鳥も平らげて、そうしてどんどん上へと手を伸ばしていく。
それはまるで、絶望の底から救済を求めるかのように。




