わたしはいったい誰なんでしょうか
「わたし……記憶喪失なんです」
後付けの知識以外の何も覚えていない。昴もリーゼロッテもサイハも『元の世界の記憶』を持っている。元の世界の知識や概念が違うせいで衝突し対立することもあるのだと後付けの知識は語っているのに、フォルにはそれがないので衝突することもない。
なぜ自分にはそれがないのだろう。どうして忘れてしまったのだろう。覚えていることは何一つない。自然としている言動は後付けの知識とそれに付随したこの世界における一般常識によるものだ。どうして自分には何もないのだろう。
「記憶喪失? 生まれ子じゃなくてか?」
当然だが、この世界で結婚して生まれた子だっている。そういう子供は生まれ子と呼ばれる。
生まれ子は親と違ってこの塔の世界しか知らないのだから『元の世界』などないし、元の世界の記憶など存在しない。
「生まれ子は召喚の場にいないでしょう……?」
『気がついたらいた』。フォルの記憶のはじまりであるあの場所。初めて昴とリーゼロッテとサイハと顔を合わせたあの石の空間は召喚の場だ。異世界から人間を呼び出すための召喚陣が描かれている。そう後付けの知識にはある。
もともとこの世界で生まれ育った生まれ子は召喚なんてされない。だからどこかしらの世界から呼び出されたはずなのだ。なのにその世界の記憶がない。
「ふむ……記憶喪失の原因と元の記憶を思い出す方法が知りたいってことか」
成程。状況は理解した。生まれ子でない。どこからか召喚されてきた。記憶がない。思い当たることがない。
候補に挙げられそうな要因はいくつか思いつくが、確信に至る証拠がない。原因を特定する材料が足りなさすぎる。なので原因の方はいったん置いておくとしよう。
考えるべきは思い出す方法だ。記憶が戻れば、記憶を失う前後のことも思い出すかもしれない。そうすればおのずと原因はわかる。
「いくつか質問してもいいか? ……何か、こだわりがあったり……気になることがあったり……そういうものはないか?」
心に引っかかるものと言い換えてもいい。気がかりがあればそれは記憶を失う前に強く執着していたものだ。記憶喪失になっても失いたくなかったもの。
チェイニーに言われ、フォルは思考を巡らせる。しばしの沈黙の後、口を開いた。
「……使命感……でしょうか」
「使命感?」
「はい。『塔を登らなければ』という……使命感のようなものが……ある……気が……する……ような……?」
自信がないので曖昧になってしまうが、胸を突き動かす使命感のようなものがある。塔を登らなければいけない。頂上に至らなければならない。そんな強い使命感だ。塔の上にはきっと何かがある。
そんな強い感情だ。理由はわからない。けれど、義務感に似た使命感がある。
「頂上に行く、か……頂上……何があるんだろうな……」
チェイニーにもそれは解き明かせていない。『塔の頂上には良いものがある』という漠然とした概念が存在するだけだ。単に巨万の富が眠っているのか、それとも別のものか。それすら検討がつかない。
それなのに、フォルは塔に登らなければならないという使命感を持っている。
生真面目な性格ゆえに、後付けの知識で刷り込まれた目的意識を重要視してしまったか。そんな理由もありえるだろう。記憶がない心細さから目の前にぶらさげられた目的を唯一の救済として縋ってしまったというのはよくある話だ。それを記憶を失う前の執着にすり替えた。
「わからないんですよね、何もかも……」
わからないことが不安だ。そうフォルは眉を下げた。
みんなは元の世界の記憶を持っている。自分がどこからか召喚された者だという自覚がある。フォルにはそれがない。まるで世界から爪弾きにされているような気分になる。
考えるくらいならまず飛び込めというが、どうしたって竦んでしまう。
「未知に対する不安か」
気持ちはわからなくもない。チェイニーの役割はまさに未知を解き明かすことなのだから。
未知のものというのは強大な敵だ。首を上に向けても見上げきれないような巨大な敵と戦っている気分になる。
それを倒すのはとうてい困難に思える。本当に倒せるのだろうかと途方も無い気持ちになる。
「アプローチを変えてみるといい。どんなものでも学んで知識をつけろ。思わぬところに解決方法があるかもしれないぞ。……受け売りだがな」
格好いいことを言ったところで、話を本題に戻そう。フォルの記憶の話だ。残念だが現状ではフォルの望む答えを提示することは不可能だろう。判断する材料がなさすぎる。なのでここは材料集めといこう。フォルの執着が塔の踏破にあるというのならそれをすればいい。それは昴たちに任せるとして。
チェイニーが取れる方法はこれだ。自分が解析できた塔の情報をフォルに開示すること。それをヒントに記憶の手がかりを探らせることだ。
この塔は誰が作ったのか。何のために作ったのか。いつからあるのか。頂上には何があるのか。何によって保持されているのか。塔以外の場所は存在するのか。
探索者は異世界から召喚されたというが、どうやって。何を基準に選びだした。そして呼び出したというなら、元の世界に帰る方法はあるのか。そもそも本当に召喚されたのか。何気なく異世界から召喚されたという認識でいるが合っているのか。
すべてに答えることはできないが、いくつかは解析済みだ。
「知っているのか!?」
声をあげたのは今まで成り行きを見守ってきた昴だ。
「あぁ。探索者云々はわからんが……塔のこれまでについては、おおよそ」
気になるだろう。この塔は誰が作ったのか。答えは神だ。塔以外のものを切り落とした密室のような世界はまるでゲーム盤のようだ。神がこの世界を作り駒がどう動くかを見守っている。そんな世界だ。
「アクアリウムにたとえるとわかりやすいか、あれだ」
ビオトープとかアクアリウムとか。人工的に環境を作ってその中で飼育する。基本的に循環する環境を見守りつつ時々手入れをする。そんなようなものだ。
だからこの世界に塔以外の場所は存在しない。水槽の外なんて必要ない。
「運営も、だ。おかしいと思わないか? こんな町があるのに統治者がいない」
探索者という概念があり、探索者のための施設や組織があり、それらが住む場所がある。ここはちゃんとした町なのだ。それなのに町長だとか領主だとか、そういった統治者がいない。
住民の寄り合い組織や自警団はあるが、統治はしていない。編成所の所長も図書館の司書も誰も自分の施設の運営をするだけで町そのものを統治しない。それなのに世界は秩序だって回っている。
これはきっと何かが介入しているのだ。何かとは何だ。神だ。あるいはそれに連なるもの。それらによって寄り合いの自治組織程度でも秩序維持ができるほどに整えられている。そうとしか考えられない。
「この世界の住民は神に飼われているのさ」
そこまでを一息に語り、チェイニーは窓の外を見る。
「なぁ? 帰還者」
からん、とベルが鳴った。
続いて警鐘が鳴り響く。表通りの喧騒が狂乱じみたものになっていく。帰還者だ、と悲鳴が聞こえる。
「っ!?」
帰還者。まさかアレか。編成所を消し飛ばしたあのヒト型の帰還者『ダレカ』か。
身を固くする昴たちをよそにチェイニーは平然としている。あれは接触されなければ大丈夫だということを知っている。
ダレカの移動能力からしてここはまだ安全圏だ。念のため昴たちを窓から遠ざけてから、窓からそっと様子を窺う。
「……ダレカじゃないな。何だ?」
泥の山が蠢いている。ダレカはヒト型の黒い影だ。姿が違う。背筋がすっかり折れ曲がった老婆が深くフードをかぶって杖をついて歩いていたらあんな感じに見えるだろうか。
泥の山が進むたびに、からん、からん、とベルの音がする。粘性の高そうな泥なのに、動いても粘液の音はしない。ただ鐘の音を鳴らして進んでいる。
「おい、良い知らせと悪い知らせとどっちが聞きたい?」
「え?」
「いや、答えを聞いている時間がないな。悪い方から答えておくぞ。……あいつ、こっちに来ている」
真っ直ぐこちらに向かってきている。逃げ遅れた人間に追いついても、恐怖のあまり腰を抜かして動けない人間を前にしてもその横を素通りして。
敷地を区切る植え込みの向こう、正面に真っ直ぐ伸びる通りから図書館へ向かって進んできている。
「それってやばいやつじゃ」
まさかあれの目的は、図書館を消し飛ばすことなのではないだろうか。ダレカが編成所をそうしたように。
そうなればとんでもない混乱が起きる。編成所が消失してランクという概念が意味をなさなくなった今、探索者を評価する基準はレベルだ。レベルを付与する施設である図書館がなくなれば、探索者の評判をどこで判断すればいいのか。レベルでどうにか保たれている秩序がついに崩壊してしまう。
「あぁやばいだろうな。だが良い知らせがある」
だからこそチェイニーは平然としていられる。この情報があるからこそ逃げ惑わずにじっとしていられる。
それは。
「ここには司書がいる」
からん、とベルが鳴った。




