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長い時間をかけてイルク王国の王都に辿り着いたオレは、ベテランらしき侍女に連れられて部屋へと向かう。そこにはこれからオレの世話をしてくれる、オレが頼んで選んでもらった若い侍女がいた。
選定条件は、『真面目な新人である事』。新人であれば、同僚にいる水色の髪の侍女と聞けば分かるだろう。真面目なとつけたのは、適当な新人をつけられればアストレン王国の立つ瀬がなくなるからだ。
そんなわけで、部屋に通されたオレはまずは長旅の疲れを取る事とした。侍女にお茶を頼んで窓の外に目を向ける。
「リア……きっと見つけるから、待ってて」
小さく呟いた言葉は、風に乗って消えていった。
ティアリアの事を考えていると、いつの間にかお茶の準備が終わっていたらしい。まあ、ぼうっとしていた時間を考えても淹れたてくらいだろう。
オレが机に向かうと、扉近くにいた侍女は自然にオレの後ろにまわり椅子を引く。そしてそのまま机の横に待機していた。何というか、新人とは思えない程美しく滑らかな動きだった。
用意されたお茶を口に含む。どうやら割と前に淹れられたらしく、飲むのにちょうどいいか少しぬるいくらいの温度だった。味も申し分ない。その上、お茶を淹れた事に気が付かなかったから、音も出さないでやった事になる。新人らしいが、かなり優秀な侍女を選んでくれたようだ。
それに、オレにはもう一つ気になる事があった。横に立つ侍女の方を向き、疑問をぶつける。
「……このオレンジの香りは、君が焚いたのか?」
そう、この部屋には少しながらオレンジの香りが漂っていた。今までの疲れを癒してくれるような香り。これも、この侍女がやったのか?
「はい、わたしが準備致しましたが……気に障りましたでしょうか」
「いや、問い詰める訳では無い。むしろ心地良く過ごせる事、感謝する。……ちなみに、何故オレンジの香りを選んだ?」
これは純粋な興味だった。侍女とはいえ元は貴族令嬢、あの諦めの悪い令嬢達のように、焚くならフローラル系を好みそうだが……
それにオレンジなどアロマとしては特殊だ。ほとんどがフローラル系のものの中、何でわざわざ滅多に見ないオレンジなどを選んだのか。
「こちらにいらっしゃるまでの長旅でお疲れかと思いまして、爽やかな物をお選び致しました」
フローラル系の香りは、オレにとっては安らぐ香りでは決してない。この事を知っているのは幼馴染の二人くらいなので流石に偶然だろうが、やはりこの侍女は優秀だな。
「そうか……優秀な人だ、侍女にしておくなんて勿体無い」
そう言いながらオレは侍女の顔を見た。思ったより整った顔立ちをしていた彼女は、一度その蒼い目を瞬かせると、それはそれは綺麗に笑った。すぐに頭を下げてしまったが、オレの目にはその笑顔が焼き付いた。
『ありがとう!』
ティアリアの笑顔が脳裏に浮かび上がる。そう、あの子もこんな風に笑っていて、きっと成長した今はこの侍女くらいになっているだろう……………この侍女?ま、まさか?
確認のために侍女に近づいて眺める。身長はラファンスト公爵夫人くらい、そして特徴である髪はきっちり布に覆われていて見えないが……
顔を上げた彼女と目が合う。はっと息を呑むその表情は、やはり過去に見たものとそっくりで。
「…………リア……?」
そんな都合のいい事があるわけがない。だが、十年ぶりの成長した姿を見て、オレの心は本物だと認めていた。理屈なんかでは説明出来ない、ただ本能がそう言っているのだ。
昔のように彼女の顔に、その頬に触れようとすると彼女は一歩退いた。駄目だよティアリア、どうしてオレから逃げるんだ?
「あ……あの……?」
「……やっと見つけた……オレの大事な人……ティアリア………」
戸惑っている彼女を壁際に追い詰める。さあ、これで君はオレから逃げられない。なあ、オレの事覚えてるだろう?昔のように笑ってよ。
しかし、彼女は少し震える声で思いもよらない発言をした。
「……王子殿下、わたしはアリアナと申します。人違いではありませんか?」
ティアリアは、何を言っているんだ……?人違いだと、そんな事はない。まさか、令嬢どもの言っていたようにオレから逃げたのか……?もう、今度こそ逃がさない。逃がしてたまるか。
逃げ道を塞ぐように壁に手をつく。それに彼女が体を震わせると、頭に巻いていた布が落ちた。
そこにあったのは、予想通りのもの。つまり、ラファンスト公爵家の者の証、水色の美しい髪が波打っていた。
「…いいや、この水色の髪、それに…」
いつしか俯いていたティアリアの顎に手をやり、オレの方を向かせる。ぱちぱちと瞬きした彼女の蒼い瞳には、ただ戸惑いが浮かんでいた。だが、間違いない。
「…綺麗な蒼い瞳。間違いなくティアリアだ」
十年ぶりに会ったオレの愛しの婚約者。気がつけば、オレは彼女を抱きしめていた。ああ、ティアリアの表情、声、香り。十年前と全く同じとはいかないが、やっとオレの元に取り戻したんだ…………!
本音を言えばまだ足りないが、先程のティアリアの発言にいくつか疑問があったのでそっと手を離す。すると案の定、深呼吸したティアリアはこちらを窺いながら発言した。
「あ、あの、王子殿下…」
「レオナルドだ」
「…レオナルド様、その……ティアリアという方は、どなたなのですか?」
まだ、これでもしらを切るつもりか?ずっと仲良しだっただろ?それに『レオナルド様』なんて、何の冗談だ。とぼけるつもりなら、隠す必要がない事を思い知らせてやろう。
「君の事だよ、ティアリア·レーア·ラファンスト公爵令嬢。我が国の宰相の娘でオレの婚約者。髪の毛はラファンスト公爵家の特徴である水色で、母親譲りの蒼い瞳を持っている。七歳の時に突然行方不明になって、今までずっと探してた。……まさか、知らないとは言わせないぞ」
さあティアリア、今ならオレを『レオニー』と呼ばずに避けた事、許してやる。だから正直に言ってくれ。
ティアリアは言うか言わないかで迷っていたようだが、最終的に口を開いてくれた。が、その内容はオレの予想の斜め上を行っていた。
「あの……実は、わたしには七歳以前の記憶が無いのです。そのため、今レオナルド様が仰った事に心当たりはありません」
嘘だろ……?七歳以前の記憶がないのなら、まさか………
「は……?記憶が、無い……じゃ、じゃあ、オレの事も……」
「はい、初めてお会いしました」
「なっ………そんな……」
ティアリアが失踪したと聞いた時と、同じくらいの衝撃を受けた。オレが十年間片時も忘れる事などなかった分、まさかティアリアが忘れているなんて考えもしなかった。
気がつけばオレは椅子に座りこんでいて、それを見たティアリアは慌てたように頭を下げた。
「も、申し訳ございません。レオナルド様の仰る事を信じていない訳では無いのです。ただ、予想外な事だったので理解が全くと言って良いほど追いついていないのです」
ああ、君にそんな事をさせるつもりじゃなかったんだ。オレや家族の事を全て忘れてしまっているティアリアにとって、今のオレは客人、そして自分はそれをもてなす侍女に過ぎないのか。
その事実に愕然としていたオレの耳に、小さく戸惑いの声が入ってきた。
「えっ、同じ模様が……?」
「……ん?」
顔を上げるとティアリアは腕をまくって模様を見ていた。オレとティアリアの婚約の証。だがそれすらも忘れているのだろう、オレはその模様の意味を説明した。
「ああ、これは婚約者同士に同じ模様が付けられるんだ。婚約を破棄するか、無事に結婚するか、あるいは片方が死んだ時には綺麗に消えるが、婚約者である限り何をしても消えない」
「…………わたしが、レオナルド様の婚約者……」
「ああ、そうだ。君がいなくなってから十年も探してたんだ、もう離しはしないから覚悟してろよ?」
そうだ、ティアリアが忘れてしまったなら、今からまた新しく想い出を作ればいい。なあティアリア、だから今日はさしづめ『初めまして記念日』かな?
オレの発言を聞いて耳まで真っ赤にしたティアリア。
「色々至らないとは思いますが……どうぞ、宜しくお願い致します」
オレの、十年の苦労が報われた瞬間だった。