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とりあえず短編の場面は手直しと付け加えをして投稿します。
隣国アストレンの王子殿下がやって来る日、わたしはいつになく緊張していた。もちろん噂の事もあるが、それ以上に王子殿下の世話役を仰せつかったからだ。勤めてまだ二年の新人であるわたしが選ばれるのは流石に荷が重いと侍女長に言ったが、貴女なら出来るとむしろ背中を押されてしまった。
「大丈夫よ、アリアナなら出来る!ね、近くで見れるんだから、後で私にもどんな方だったか教えてっ」
「……もう、キャメルったら。分かったわ、わたし頑張るね」
キャメルにも励まされ、わたしは言われた部屋に向かった。大丈夫、いつも通りよ。落ち着いて、わたしなら出来る。
目的地に着くと、早速準備を始める。長旅で疲れているだろう王子殿下のために軽くアロマを焚き、部屋の温度を調節する。シーツの乱れをチェックし、椅子を整え、机には絹のテーブルクロスを皺のつかないように敷いた。
部屋の隅々まで整えると、自分の格好にも目を向ける。着ている侍女の制服に皺がないか確認し、頭に巻き付けた白い布を整える。わたしの髪は目立つから、いつものように上手く結って全て布で覆い隠せるようにして、要人の到着を待った。
少しすると人の気配がして、わたしはさっと外に出て頭を下げる。やって来た人達はわたしの前を通り過ぎて部屋に入った。それを確認して顔を上げると、わたしの前には侍女長がいた。
「…………では、こちらの部屋をお使いください。何かご要件がおありでしたら、この者に何なりとお申し付けください」
侍女長がさっと避けてわたしを手で示す。それに合わせ、失礼の無いようにお辞儀をした。
「承知した」
低過ぎず、かと言って高過ぎないくらいの声の高さが耳に心地良い。何というか、落ち着くような、安らぐような声。その声を聞いた途端、知らず知らずのうちに全身に入っていた無駄な力が抜けていくのを感じた。
「それでは私共はこれで失礼致します」
侍女長がお辞儀したのに合わせ、もう一度頭を下げる。顔を上げた時には、アストレン王家の紋章が大きく刺繍された室内用らしいマントを小さくはためかせて、プラチナブロンドの男性が窓の外を眺めていた。
わたし達が部屋を出ようとすると、王子殿下はそのままの体勢でああ、と付け加えた。
「茶をくれるか」
「かしこまりました」
その後に王子殿下が何か呟いていたが、わたしには聞き取れなかった。
部屋を出ると侍女長に釘を刺された。
「真面目な貴女なら大丈夫だとは思いますが、くれぐれも失礼の無いように」
「はい、侍女長」
わたしの返事を聞くと、侍女長は一つ頷いて去って行った。そしてわたしはすぐさま隣の部屋に入ると、用意していたお湯を茶葉をセットしておいたティーポットに注いだ。それをカップや砂糖、ミルクなどと共にお盆にのせ、王子殿下の居る部屋のドアを軽くノックした。
「失礼致します、お茶をお持ちしました」
「ああ」
そっとドアを開けて中へ入る。王子殿下はまださっきまでの姿勢で外を眺めていた。何か気になる物でもあったのかな、そんな事を考えながらも丁寧にカップにお茶を注ぎ、机に音を立てないように置いた。
しかし王子殿下は微動だにしない。彼がやっと振り返ったのは、わたしがお茶が冷めてしまったのでは無いかと心配し始める頃だった。
キャメルの言っていた通り、綺麗な紫の瞳をした王子殿下は顔立ちがとても整っていて見目麗しい。しかしお盆を前に抱えたわたしには目もくれず、ただ考え事をしながら歩き出す王子殿下の姿に、一瞬だけ動きが止まってしまった。
気を取り直してお盆を置くと、自然な動きで彼の後ろに回り、静かに椅子を引く。王子殿下が一言言えばすぐにお茶を入れ直せるように机の横に待機した。
流れるような美しい所作でお茶を口に含んだ王子殿下。わたしの心配とは裏腹に、彼はふうと息を吐いただけで何も言わなかった。
暫くして、王子殿下がこちらを向いた。一体今までどれほど忙しかったのだろうと思うほど、彼は疲れた表情を浮かべていた。瞳にもあまり輝きが無く、わたしの方を見ているものの焦点が合っていないように感じた。
「……このオレンジの香りは、君が焚いたのか?」
先程までと同じ口調での問いに、不備があった訳では無さそうだと思いつつも答える。
「はい、わたしが準備致しましたが……気に障りましたでしょうか」
「いや、問い詰める訳では無い。むしろ心地良く過ごせる事、感謝する。……ちなみに、何故オレンジの香りを選んだ?」
確かにアロマを焚くのはあまり一般的ではない上、ローズやラベンダーなどのフローラルな香りが基本だ。しかしそれは使うのがもっぱら女性であるからだろう。きっと男性である王子殿下には合わないと直感で思ったのだ。
「こちらにいらっしゃるまでの長旅でお疲れかと思いまして、爽やかな物をお選び致しました」
その上、フローラルな香りは、疲れている時は特に好みが分かれやすい。甘い香りが好みの者もいれば、逆にそれが気持ち悪くなると言う人もいる。ちなみにわたしは強いバラの香りが駄目である。
結果として、一番無難だったのがオレンジだった、それだけだ。
わたしの答えを聞いた王子殿下は少し目を瞠った。
「そうか……優秀な人だ、侍女にしておくなんて勿体無い」
わたしの仕事に対するこの上ない褒め言葉。侍女長にもここまで言われた事は無かった。それを初対面の王子殿下、それもかなりのイケメンに言われて嬉しくない訳が無い。思わず笑みが零れて、王子殿下に見られている事に気が付き慌てて頭を下げた。
「大変光栄に存じます」
心を落ち着けて、やっと顔を上げたわたしは固まってしまった。それまで疲れたように座っていた王子殿下が、至近距離に立ってじっとわたしを見下ろしていたのだ。今までとは打って変わったような強い瞳で見つめられて、思わず息を呑む。
「…………リア……?」
かすれた声で呟き、王子殿下がわたしの顔に手を伸ばそうとした。反射的に一歩退くと王子殿下が一歩前に出て来る。それを繰り返すうち、わたしは壁際まで追い詰められてしまった。
「あ……あの……?」
「……やっと見つけた……オレの大事な人……ティアリア………」
熱の篭った瞳に吸い込まれそうになる。ま、待って、その色気全開の顔をこんなに近くで見るなんて、心が追いつかない。でも、今の王子殿下の発言は間違ってる。今できる精一杯の冷静な声で間違いを指摘した。
「……王子殿下、わたしはアリアナと申します。人違いではありませんか?」
「………そんなはずは……」
戸惑ったように揺れる瞳に気を取られていると、耳元でバンと音がした。ビクついた拍子に頭に巻いていた布がはらりと落ちる。顕になったわたしの目立つ髪を見て、息を呑む音がした。
かつての教訓から無意識のうちに俯いていたわたしの耳に、甘い声が響いた。
「…いいや、この水色の髪、それに…」
顎に手を当てられ、クイッと持ち上げられる。王子殿下は真っ直ぐわたしを見ていた。顔に熱が集まって来る。
「…綺麗な蒼い瞳。間違いなくティアリアだ」
そして、わたしが何か言うよりも早く行動した。気がついた時には、わたしは王子殿下の胸に抱きすくめられていた。誰かに抱きしめられるなんてほとんど経験なくて、王子殿下のトクトクと脈打つ鼓動と温もりが心にじんわりと沁みていった。
かなりの時間そのままの状態でいたらしい。気がつくと空に赤色が混じってきていた。ずっとうわ言のようにリア、リアと呟いていた王子殿下は最後にギュッと強く抱きしめると、名残惜しそうに手を離した。
一度深呼吸して心を落ち着けると、恐る恐る頭にあった疑問を聞いてみた。
「あ、あの、王子殿下…」
「レオナルドだ」
「…レオナルド様、その……ティアリアという方は、どなたなのですか?」
わたしとは名前が違うし、少ない知り合いにもそんな名前の人は聞いた事が無い。しかし言った途端レオナルド様が怒ったような顔つきになった。
「君の事だよ、ティアリア·レーア·ラファンスト公爵令嬢。我が国の宰相の娘でオレの婚約者。髪の毛はラファンスト公爵家の特徴である水色で、母親譲りの蒼い瞳を持っている。七歳の時に突然行方不明になって、今までずっと探してた」
そこまで一気に言うと、レオナルド様は不敵な笑みを浮かべた。
「まさか、知らないとは言わせないぞ」
……どうしよう、そんな事を言われても何一つ実感がわかない。確かに見た目の特徴はぴったり一致しているが、それだけだ。でも、それを言ってさらに怒らせてしまったらどうしよう……
でも、知らないのに知っているふりをするのは無理だ。わたしはおずおずと口を開いた。
「あの……実は、わたしには七歳以前の記憶が無いのです。そのため、今レオナルド様が仰った事に心当たりはありません」
「は……?記憶が、無い……じゃ、じゃあ、オレの事も……」
「はい、初めてお会いしました」
「なっ………そんな……」
それまでずっとわたしを見つめていたレオナルド様は相当な衝撃を受けたようで、フラフラと下がると力が抜けたように椅子に座り込んでしまった。
「も、申し訳ございません。レオナルド様の仰る事を信じていない訳では無いのです。ただ、予想外な事だったので理解が全くと言って良いほど追いついていないのです」
レオナルド様の落ち込みように慌てたわたしはとりあえず頭を下げた。その視線がほとんど机に突っ伏す勢いで項垂れているレオナルド様の手首の内側に留まる。そこに描かれていた模様に、心当たりがあった。
確認しようと腕をまくって見る。レオナルド様の手首にあるものと、全く同じ模様がわたしの腕に描かれていた。
「えっ、同じ模様が……?」
「……ん?」
少し顔を上げたレオナルド様の行動で、わたしは声に出してしまった事に気がついて口元に手をやった。しかしレオナルド様は咎める事なく説明してくれた。
「ああ、これは婚約者同士に同じ模様が付けられるんだ。婚約を破棄するか、無事に結婚するか、あるいは片方が死んだ時には綺麗に消えるが、婚約者である限り何をしても消えない」
それを聞いて納得した。昔、学園で嫌がらせされた時に、この模様も散々弄られたらしい。皮膚が擦りむけるほど強く擦られた痕があったにも関わらず、傷が癒えると共にこの模様も復活したのだ。
そして、これがあるという事は、間違いなくわたしはレオナルド様の婚約者であるアストレン王国の宰相の娘、ティアリアなのだろう。
「わたしが、レオナルド様の婚約者……」
「ああ、そうだ。君がいなくなってから十年も探してたんだ、もう離しはしないから覚悟してろよ?」
いつの間にか立ち直っていたレオナルド様に手を引かれる。愛しいものを見るような瞳で、甘い声で囁かれて、こんなイケメンにとんでもなく愛されているのが分かって顔が真っ赤になる。それでも、震える声で何とか返事をした。
「色々至らないとは思いますが……どうぞ、宜しくお願い致します」
レオナルド様はそれを聞いて安心したように微笑んだ。
☆☆☆
その日の夜、仕事を終えて待機室に向かうと、待ち構えていたようにキャメルに問い詰められた。
「ねえ、どんな方だった?」
「キャメルの言っていた通りの、すごいイケメンだったわ」
「どんな感じに?」
「ええと、プラチナブロンドが良く似合ってて、白いマントを羽織っていて正に王子様っていう感じかな。あと、何か落ち着く声だった」
レオナルド様の事を思い出していると、不意にあの愛しげな表情が浮かんできて頬が火照る。幸いにもキャメルはぼうっと上を向いていてそんなわたしには気がついていないようだった。
「良いなー、私も会いたかった……」
「まだ帰らないでしょう?来たばかりだし」
「それでも会いたかったよ。ああ、アリアナが羨ましいなぁ」
わたしは苦笑いするしかない。それに、会っただけでこうなるのなら、実は婚約者でしたなんて言った時にはどうなる事やら。
その後はたわいのない話で盛り上がった。