白い紫陽花 向日葵編 完結版1
主人公になって読むことをお勧めします
ほとんどの場面が主人公の主観によって進みます
ひまわり
キク科、ヒマワリ属
開花期 7月から9月ごろ
花言葉 憧れ、あなただけを見つめる
快晴。春先自分が住んでいる地域では、珍しい。データ的には晴れの日が全国で最も少ない地域らしい。3月の中盤、心機一転、新天地、新たな人との出会いなどときめきや不安に身を置いている人は多いだろう。まあ、自分には関係ない。早い段階で就職活動からドロップアウト。実家でダラダラ過ごす日々。特にやることもないし、やりたいこともない。自分は必要とされているのかと自問自答していた。大学では教師を夢見て、教員免許をとったが先生になりたいわけでもない。今の先生になろうなんて考えるやついるのかと思うくらい教育現場は過酷な状況だと教育実習の時に思い知った。なりたいものを失って大学を卒業してしまっていた。いつもより早い時間に母さんに呼ばれた。
「寛、暇してるなら私の友達の娘さんがお店を出すからその準備の手伝いに行ってくれない?女の子1人じゃ不安で手伝いが欲しいらしいいの。」
確かに時間はある。無職というわけではないがこの時期に仕事はない。家に引きこもっているよりも少しでも外に出ていた方が気晴らしにはなるだろう。人間暇になるとろくなことを考えない。母さんの頼みなら自分に拒否権は存在しない。
「わかった。行ってくるから洗濯と掃除お願いね。」
母さんは少し嫌そうな顔をした。3月中のほとんどの家事を自分がしていたから、自分がこの家から出るということは家事は自分がやらなければいけなくなる。家事が苦手な母さんにとっては苦行だろう。しかし言ってしまったことは引くことができないし友人の頼みごとということもあり胸にトンッと手をつき、
「まかせなさい。寛より完璧に綺麗にしてみせる。」
行動と言動がとても可愛らしい。我が母ながらしぐさだけならトップアイドルにも負けず劣らず。年齢的に無理はあるが、父さんは未だに可愛い可愛いと常に言っている。
数分で支度をして、家を出る。そういえばここ1週間は外に出ていなかった。久々に浴びる太陽の光はギラギラ少し不快だった。母さんから聞いた場所は昔自分が精神科医に通っていた時の病院だった。家からは徒歩で行ける距離だったので、車は使わずに行った。もしそれが病院内だった場合他の患者さんに迷惑がかかってしまうのを恐れたから。この病院自体には約3年ぶり。母さんは頻繁に行っているらしいが体が丈夫な母さんに病院に行くような用事はなさそうだが病院の中に友達がいるなら頻繁に行くのも頷ける。迷惑になっていなければいいのだが。それよりもこれから会いに行く娘さんは気難しい人でなければいいが。久々に母さん以外の人と話すから癖の強い人や威圧的な人はやめて欲しい。
病院についてみると病院の敷地内にいかにも開店準備をしているような感じにダンボールが並んでいるところがあった。駐車場の一部を改装して建てたような感じだった。
「すいません。母からの紹介で手伝いに来ました渡邉寛と言います。どなたかいらっしゃいませんか?」
店内に入ると、1人カウンターのようなところに座って本を読んでいる女性がいた。綺麗な人だ。本を持った長い指、耳にかけた長く綺麗な髪の毛、眼鏡をかけていたが横からでも見てわかる大きい眼。
「すいません。手伝いに来ました。渡邉寛と言います。日向結さん(ひゅうがゆい)ですか?」
「うん。よろしく。」
返事はそっけない。心配していた怖い人ではなさそうだが少し面倒な人かも。
「さっそくで悪いけど、外にあるダンボール中に入れてくれる?荷物はそこらへんに適当に置いていいから。」
「わかりました。」
外にあるダンボールは確かに女性が持つには少し重いくらいだった。自分が外のダンボールを中に入れている間も結さんは本を読んでいた。他にもすることもあるとは思うのだが何もしようとしない。すると結さんが口を開いた。
「1週間後に間に合うようにしてね。開店するのが4月の頭だから重いものは任せるからわからないところがあったら言って。」
そういうと本を置いて、ダンボールの中の荷物を整理し始めた。座っていてわからなかったが、結さんかなり身長が高い。モデル体型というべきか。身長180センチの自分でも高いヒールを履かれたらほぼ変わらない身長になってしまうかもしれない。華奢な人にはやはりこの荷物は重いのだろうか。5キロくらいの土を持ち上げようとしているが全く上がっていない。
「自分が運ぶのでどこに置くのか指示してください。」
「ならこっちに置いて。」
指示通りに5キロくらいの土の塊を8袋運んだところでまた別の作業に。
開店準備はかなり力のいる仕事が多い。大きなものは運んできてくれた業者さんがやってくれてはいるのだが、その他にも重いものが多数。確かに結さん1人では不可能なものもある。自分以外の手も借りたいところだがこの時期は誰も忙しい。どこも新しく、変化する時期だ。暇なのは自分くらいだろう。
午後5時。春先だとこの時間は真っ暗だ。どうやら今日はここで終わりのようだ。
「ありがと。助かった。明日からよろしく。」
「お疲れ様でした。あと1週間ですけど頑張ります。」
「何言ってるの?お母さんから聞いいてない?」
「え?何をですか?」
「今日から寛くんはここで正社員として働くことになってるんだけど。」
母さんから聞いていたのは確か準備の手伝いだけ。ここで働けなんて聞いてもいない。
「一応お母さんからはオッケーもらってはいたんだけど迷惑だったかな?」
「いえ、別に迷惑というのではなくていきなりのことだったのでびっくりして。」
別に嫌ではないのだが母さんには説明はして欲しかった。
「そっか。なら開店までの1週間のうちに答え出して。」
「わかりました。考えておきます。」
この日はそう言って家路に着いた。家に帰った後に母さんに対して何も聞いていないと抗議したのだが「良かったじゃない」と言うことで簡単に流されてしまった。母さんから話を聞いて結さんのことがなんとくなくわかってきた。どうやら、年齢は自分より一つ上の23歳。隣の大病院の医院長の娘で二人姉妹の妹。お母さんが幼い頃に亡くなっており、父子家庭で育った。まあいいところのお嬢様である。そのお父さんの敬意で土地の一部をもらい、専門学校卒業後、花屋を開くことになったらしい。お父さんが母の絵のファンで、その病院には母さんの絵が多く飾られている。お父さんの紹介で自分のことを知り、人見知りの性格から知らない人を雇うよりしっている人の家の人の方がいいと言うことで自分に白羽の矢がたったらしい。
次の日にはよろしくお願いしますと結さんには返事をした。ただし条件として、自分の他の仕事をできるだけ優先させてもらった。常に仕事があるわけではないし、家でできるものばかりなので問題はないだろう。母さんにも外に出なさいと言われたのでちょうどいい。何より必要とされたことが嬉しくてたまらなかった。
日を追うごとに店の内装はできてきた。次々に送られてくる大きな荷物を自分が店の中に運び、結衣さんがどこに置くのかを決める。自分は結さんの指示通りに物を運んでいった。最終日の7日目には全体の雰囲気ができてきた。花壇の配置や、種類別に綺麗なグラデーションになるように並べていった。背景が黒一色なので花の色が良く映える。なんとか店らしくなってきたが、正直まだ片付いていないところの方が多い。この時点で日はもう傾き始めていた。時刻は6時を少し超えたくらい。
「後は私が少し調整するから帰っていいよ。」
「いやまだ終わってないので手伝います。せっかくここまでやったので最後までやらしてください。」
本当は帰りたいのだが、ここまでやったのに最後までやらないのは、プライドが許さなかった。2時間後にはあらかた片付き、なんとか間に合いそうな雰囲気になってきた。
「もうこれくらいにしてもう8時だから明日からちょっとずつ整理していくことにしたから。今日はもう帰っていいよ。」
「わかりました。」
「明日は10時オープンだから9時にはこっちにきておいて。制服はこっちで用意してあるから、つき次第奥の部屋で着替えて。」
「わかりました。明日からお願いします。」
「ん。」
話し方は素気なかったが結さんはどこか嬉しそうだった。自分の店が完成して嬉しかったのだろう。
翌日、少しの緊張感を持ちながら、店に向かう。朝食もしっかり食べたし、睡眠もしっかりとった。トイレも済ませ、コーヒーと栄養剤も飲んできた。何かが始まるのはいつも緊張する。緊張しいの自分を落ち着かせるため、8時半には家を出た。季節的なものもあり桜が咲いている。桜の好きな日本人は多いだろう。自分もそのうちの一人だ。かわいい花の割にどことなく色気がある。幼い顔なのに特殊な性癖がある子みたいだ。いわゆるギャップ萌えというやつだろう。今年は4月に雪が降るなどして、開花がかなり遅れた。今朝のニュースでは例年より1週間ほど遅れているらしい。異常気象だと騒ぐ人もいるが自分的には大した問題ではないと思ってしまっているところもある。気候の変動なんか長い歴史上何度もあっただろう。その時代に生きているだけ、それだけのこと。人間の進化も自然の一部なら、科学の発展も自然なことなのだろう。自然についていけていけない生物が絶滅していく。少し冷めた残酷な考えだろう。命を軽視するわけじゃないが、生きている以上仕方ないことだと思う。こんなことを考えながらゆっくり通勤路を歩く。
店に着き、結さんから制服を受け取り、店の奥で着替える。店名はHearing of flowers。日本語で「治癒の花」という意味だ。病院の敷地内にあるのだからこういった名前になるのだろう。お父さんの患者さんのお見舞いに来る人が花を買うための店らしい。別に外部からのお客様を拒否するわけではないがそこまで多くの人が利用するわけではないだろう。花の種類も豊富で、いろいろなニーズに応えられるようになっている。季節問わず好きな花を買えるように造花も用意してある。しかし、この花屋には決定的に足りないものがある。人手もそうなのだがある花が置いていない。
「あのー、なんでここまで種類が豊富なのに、向日葵だけないんですか?」
向日葵といえば誰でも知っていて、花の特集を組んだ雑誌などで好きな花ランキングの中の上位にありそうな花だ。いわば花界のヒットメーカーのような花なのにそれがない。収益になりそうなのに。
結さんは難しそうな顔の後、ため息をつきながら、
「私あの花嫌いなの。昔の自分を見てるみたいで。向日葵の花言葉って知ってる?」
「確か憧れでしたっけ?」
「そう。正解。向日葵は太陽に憧れた花なの。姿形を似せて、蕾の時には太陽を追うように首を振って、自分は太陽にはなれないと悟ったように花をさかせ、太陽を見ることも諦める。そんな花なの。憧れから逃げた花の花言葉が憧れってなんか滑稽じゃない?」
「そうなんですか。」
結さんは思ったよりも饒舌に話した。まだ色々と聞きたいこと、引っかかっているところはあったのだがあまり深く踏み込むと怒られそうなのでやめた。ていうか目の前にある病院の名前がひまわり総合病院なのだが・・・
開店準備が終わり、いよいよオープンと行きたいところだが、ひとまず病院の医院長である結さんのお父さんにあいさつに行くことにした。結さんはもう挨拶は済ませたらしいので一人で行くことにした。初めて会うので緊張する。一応お得意様?の大ボスにあたる人だ。親族の人、母の顧客とはいえ失礼のないようにしなければ。母の評判も下げかねない。ここで自分に悪い評判がついたら色々と困る。ここで少しだけやった就活の経験が活きてくるのだろう。就活生に戻った気持ちで行かねば。
病院に入ると大きな向日葵の絵が飾ってあった。3年前に母さんがかいた作品だった。確か値段は普通に3桁はくだらないものだったと思う。病院の名前にもぴったりの作品だった。最上階の4階の医院長室に案内してもらい、慎重に扉を開けなが中に入っていく。
「おお!!会いたかったよ!!君か!!佐々木さんの家の子は!!」
「はい。寛と言います。」
「おお!!そうかそうか!!さあ緊張しないでここでくつろいでくれ。」
「はあ、失礼します。」
と、医院長室にあるいかにもたかそうなソファーに座る。
「おーい。コーヒーを用意してくれ。早急にだ!!」
「あ、いえ今日は挨拶をしに来ただけですし、何より結さん待たせてしまいますし。開店まで時間が、、、」
「いいのいいの気にしないで。そこらへんはあの子も理解してここに来させてるはずだから。それに開店したばかりじゃ客もあまり来ないだろうし。そうだ!結の姉も紹介しよう!おーい。真由を読んでくれ。」
「わかりました。コーヒーにはミルクとかいりますか?」
「あ、、、いや入れないです。」
圧倒される勢いで勝手に話が進んでいく。親子なのに全く似てないな。まあここまで話す人が親だったら静かになるしかないか。饒舌な親を持つと子供は無口になるって聞いたことあるしな。家の中でうるさいのが2人以上いるとやかましくてたまらないからな。と思っていると、
「コーヒーの準備ができました。」
「ありがとう。ここに置いてくれ。」
「ごちそうになります。」
猫舌の自分はフゥフゥと両手でコップを持ちながら必死にコーヒーを冷ました。
「あら可愛い飲み方するのね。」
お父さんの秘書の方に言われた。恥ずかしい。子供の頃からの癖なのでもう治ることはないだろう。
「いいことだよ。熱いものを暑いまま飲んでしまうと食道癌になるリスクが増えるからね。君にはその命大事にしてもらいたいから。」
少し雰囲気が変わった様子で自分に話しかけてきた。母から色々と聞いていたらしいが、まあ、減るものでもないしいいのだが、気を使われるのは癪に触る。
「真由さんがきましたよ。」
「失礼します。真由です。入ります。」
「おおー入れ入れ。じゃあ真由にもコーヒーを。」
「了解しました。真由さんは確か砂糖とミルクも必要でしたよね?」
「はい。よろしくお願いします。」
「では、改めて長女の真由だ。ここで産婦人科として働いている。真由も、こちらが佐々木さん家の寛くんだ。今日オープンの結の店で働くことになっている。」
「そうなんですか、、、よろしくお願いします。」
「あ、こちらこそお願いします。」
お姉さんはあまり自分を歓迎しているようには見えなかった。そもそも人付き合いが苦手なタイプだったのかもしれなかったが、どこか冷めた目で自分を見てきた。目の前にいるやつなんかよりもっと別の誰かを見ているようだった。
「挨拶も済んだので、すぐに診療に戻ります。失礼します。」
そういってお姉さんは出て行った。この姉妹は・・・
「すまんなぁ。どうもうちの姉妹は人見知りが激しいらしくてなぁ。早くに母親を亡くしているからかもしれない。真由に関してはあまり手のかからない子だったし、結のことしっかりと面倒を見てくれる優しいお姉ちゃんだったけどね。まっまぁ、暗い話は置いておいて、今日から結のことよろしく頼むよ。あの子はああ見えても優しい子なんだ。」
「はあ、そうなんですか。」
「君から見てどうだいあの子は?お母さんから君は人を見る目があると聞いていてね。人をみすぎて人間不信なところが惜しいところらしいけど。」
余計なことまで言ってしまうのが母の悪いところだ。人を見る目があるとだけ言えばいいものを、短所まで言ってしまう。母らしいと言ったら母らしい。正直嘘をつくのは得意だがお父さんは自分にはいい印象があるっぽいので正直に話した方が今後の関係性で役に立つかもれない。変に嘘をつく方が後々めんどくさそうだ。
「そうですね。正直ここまでの印象はあまりよくはないです。」
「おう、、、実の親を目の前にして結構なこと言うじゃないか。」
「いいえ、下手に嘘ついてもいいことはないかと思いまして。」
「そうか。なら続けてくれ。」
「人見知りもかなり激しいですし、態度はそっけないです。質問しても一言しか帰ってきません。本当に接客業をしようとしている人なのかなって思いました。それと、」
「も、もういいよ、、、いいところはなかったのかな?」
「もちろんありましたよ。少しばかりの気遣いも見えました。特に結さんは見えないところでの努力があるんだと思います。努力を人に見せたくないといいますか。開店にあたっての準備は何も店頭のセッティングだけではありませんし、様々な書類の準備は全て自分でやってたみたいですしね。」
「そうかそうか。」
お父さんの顔がかなり満足げだった。ニヤニヤしてる。
「何より結さん綺麗ですし。」
「あれ?寛くんもしかして結のこと狙ってる?」
「そんなわけないじゃないですか。それに自分には、、、」
「そうなんだよね。まあ寛くんがいいならいいんだけどね。」
「どこの馬の骨かわからない人間に可愛い娘やってもいいんですか?しかも結さんの気持ちも聞かなくても。」
「いいのいいの。多分君は結が好きなタイプの人間だから。君を採用したのもその証拠だよ。男の人となんか話しているところを私は見たことないし、色恋沙汰の噂も聞いたことないしね。どこの馬の骨かは、君のお母さんからいろいろ相談を受けていたから分かっているつもりだよ。お父さんとも仲がいいから君なら任せられると思ったんだけど、君には君の事情があるからねぇ。」
そんな話をしていると、結さんから連絡が来た。
『お父さんに捕まっているみたいだね。
帰ってくるついでに病院内での放送かけて。
よろしく。』
『わかりました。営業時間と場所だけでいいですよね?』
『いいよ。』
『了解です。』
頻繁に連絡が来るわけではないが、ちょくちょく連絡が来るようになった。こっちから連絡することはまずないが、自分のスマホに通知が来ことがあまりないので少し嬉しい。業務連絡ばかりだが。
連絡先は100人以上持ってはいるのだが中学高校大学の友達とは連絡を取ることはない。もともと人付き合いがいい方ではないし、大学時代もレポートの期限や、提出物の内容など業務連絡でしか使っていなかった。今もあまり変わってはいないのだがスマホゲーム以外でスマホを開く理由があることが嬉しかった。
「結からかい?」
「そうです。病院内で花屋の宣伝をしてほしいと言われまして。放送してもよろしいでしょうか?」
「そうかそれなら、うちの秘書に頼もう!!君とはもっと話したい!!おーい!!館内放送で花屋のこと宣伝してくれ!!」
「はぁーい。」
扉の奥から声がする。まぁなんとかなりそうだ。とは言ったものの、いい加減戻らなければならない時間にはなっている。
「しかし、もうそろそろ戻らなければいけないので失礼しようと思います。話はまた今度でお願いします。結さんも交えてお話ししましょう。」
「そうか。仕方ないかな。残念だがまた今度、時間のあるときにでも色々話させてくれ。君には色々と期待してるから。君に頼みたいことが色々あってね。面白い発想を持っていて、なおかつ、人を見る目もある。負担をかけることもあるかもしれないが結のことよろしく頼むよ。」
「はい。こちらこそ全力を尽くします。よろしくお願いします。」
頼みたいことがある、というのが引っかかったのだが、教えてもらえそうもなかったので聞くのは今度にしよう。何より時間がない。開店してから1時間も結さん一人に任せてしまっている。はやく戻ってこいとかの連絡がない分、後で何言われるかわからない。急がなければ。
『皆さーん!!今日から医院長の娘さんのお花屋さんがオープンしまーす!!是非足を運んでみてくださーい!』
随分と明るい告知だった。あの秘書の方、かなり明るくて有名らしい。医者で秘書をつけるのはなかなか珍しいらしいがそれほどお父さんは忙しい人なんだろう。一緒に仕事していて楽しそうではあるがしんどそうでもある。二人の性格だからこその相性があるのだろう。てか、今の放送の内容には頼まれていた営業時間、場所が含まれてはいなかった。確かにこういうことを言って欲しいとは言っていなかった。まあ、場所は病院内の駐車場の一角だし、営業時間は来ればわかる。問題はないだろう。結さんに今戻ることを連絡しよう。
『今から戻ります。館内放送は秘書の方がしてくれました。』
『そう。まだ人来てないからゆっくりしてればよかったのに。』
『お父さんなにか話したいことがあるって聞いてたから。』
『それはまた今度、ということになりました。』
メッセージを送っているともうすでに花屋付近についていた。
「遅くなってすいません。」
「別に。人来なかったからいいよ。」
そう言いながら、レジ横で本を読んでいた。この風景も見慣れてきた。絵になる。最初に会った時は殺風景だったが、今は花に囲まれているため、絵画のようだった。
「絵になりますね。」
「そう?ありがと。褒めても給料は上がらないからね。」
「いいえ、思ったことを言っただけですから。そんな腹黒くないですよ。」
「そう?むずかしい顔してること多いから、色々と考えてるのかなと思ったから。給料とかに不満があったら言っていいからね。」
「ないですよ。満足してます。」
「ならよかった。改めてよろしくね。」
「はい。よろしくお願いします。」
まだお客さんが来たわけではないが、家からも近いし労働環境は整っている。二人しかいないことは、最初の準備は大変だったのだが、これからバイトも募集するだろう。不満は現状ない。お父さんに挨拶まで行ったし、母のメンツもある。すぐにはやめられる環境ではない。
「そうだ。お願いなんだけど、そこにある花一色、病院に飾ってきてくれない?せっかくの太客が目の前にいるのにもったいないじゃない。お金は後でお父さんに請求しておくから。」
「は、はい。わかりました。病院側の許可は取れてるんですか?」
「さっき、連絡してOKだって。花瓶も用意してもらえるらしいから。」
「わかりました。行ってきます。」
「いってらっしゃい。」
籠の中にはかなりの量の花が入っていた。色とりどりの花が多かったが、そのほとんどが造花だった。なるほど、枯れたら縁起悪いし、何より色々な方が来るのでそこへの配慮かな。花粉症の人がいるのに花粉を振りまくのもよくはない。
病院前には秘書の方が待っていた。
「お疲れ様です。話は聞いているので、よろしくお願いします。」
さっき会った時とは違ったキャラで戸惑った。先ほどの陽気なキャラではなく、クールな感じだった。
「さっきとキャラ違いすぎません?」
「そうですか?どっちの方がいいとかあります?」
「変えられるんですね。なら、明るいキャラの方がいいですかね。クールな感じにされるとこっちが不安になります。」
「そーお?ならそうするね。」
女性は皆、女優というがここまではっきりされると怖い。あまり見たことがないタイプの女性だった。
「そういえばまだ名前お聞きしてませんでしたね。なんてお呼びすればいいですか?」
「うーん。佐藤でいいよ。」
「じゃあ、佐藤さんよろしくお願いします。」
「じゃあ、こっちは寛くんって呼ぶね。」
「早速始めますか。お昼前には終わらせたいですし。」
「そうだね。始めよっか。」
もうこの時点で11時をすぎていた。館内放送もしたし、お昼時になるとお見舞いに来る人も増えてくるだろう。今はまだあまり人が来てはいないようだが、結さん一人でさばききれないこともあるだろう。花を置くところは決まっているし、結さんがすでに仕分けしてくれていたので、あとは自分がどの場所に置くかを周りの雰囲気を見て決めるだけだ。
「じゃあまずは1階からねー。」
この病院は、7階建。1階には各診察室があり、平日の昼間なのにかなり人がいる。いつの時代になってもお医者さんという職業は忙しそうだ。2階より上には病室があり、年齢ごとに振り分けられるらしい。これは同じ年代の子が集まった方が明るく楽しく病院生活を送れるようにと結さんのお父さんの方針らしい。こどもの階の壁紙は明るく元気な感じ、大人の階にはシックで落ち着ける感じになっている。それぞれの階には母の絵が飾られている。相当な枚数があるので、相当母の絵が好きなんだろう。ありがたいことだ。改めて母の偉大さを感じる。
「じゃあ、この辺りにおいてね。」
そう言われながら各階の雰囲気にあった花をおいていく。雰囲気を壊さないように、また、花ばかりが主張しないように注意しながらおいていく。結さんも派手な花は選択しなかったようだ。オレンジや黄色など淡い色が多く選択されていた。この病院の医院長の娘なだけはある。1つだけ生花があり、これだけ場所が指定されていて、その場所は院長室だった。院長室は最上階にありその階は子供が多くいる階だった。それもそのはず、お父さんは小児科の名医だ。かなり有名な人らしい。全国からお父さんを求めて、患者さんが集まるらしい。院長室に入り、生花を置いた時に気づいた。籠の下の方に、請求書があり書き置きで『お父さんの机の上に置いといてください。』と自分に向けたメッセージがあった。請求書を置こうとしたら金額が少しだけ見えたが相当な額だった。
「じゃあ、これでおしまいね。お疲れ様―。」
「はい、お疲れ様でした。」
「意外に早く終わったね。花選ぶのも即決だったし。そんなに早く終わらせたかったの?」
「早く終わらせたかったのもそうですが、案内されながらイメージしてたので悩むことはなかったです。」
「案外こういったセンスを問われるものは悩むものだと思うんだけどなぁ。」
「母のおかげですかね。」
「そうか。ここの絵殆どお母さんの作品だもんね。センスはお母さん譲りかなぁ。」
「ここまでうちの母の作品を飾ってもらえて嬉しいです。でも実は自分絵がクソ下手くそなんで。」
「えー以外!!」
苦笑いをする。時間を見てみると11時半だった。今から行くとちょうどいいくらいだろう。
「では、ここに請求書置いておくので、医院長先生によろしくお伝えください。」
「りょうかーい。」
「では失礼します。」
そういって病院を後にした。
「今戻りました。お客さんはどうでしたか?」
「うん、もう10人くらい来店してもらったから。接客とかよろしくね。」
そういうと結さんはレジカウンターのところで本を読み始める。ここまでされると怒る気もないが、会計だけはしてくれるようだ。まあ、結さんの本業は花束作りなので、他は自分の仕事になる。
「いらっしゃいませ!!」
そういって、本来の業務を始めた。
開店初日は、40人ほどのお客さんが来てくれた。放送を聞いて来店してくれた方、お見舞いに来た方がプレゼントとして花を買いに来た方、昼休みの看護師の方が見にきたりと、初日にしては多くの人が来てくれた。
「おーい、やってるかー。」
閉店間際、結さんのお父さんが来店した。
「寛くん、初日お疲れ様。結もお疲れ様。患者さんもとっても喜んでたよ。うちの従業員もお邪魔したみたいだね。一気に病院内が華やかになったよ。ありがとね。お母さんの絵も相まってオシャレになったよ。女性陣に大ウケでね。今まであたりが強かった女性陣が僕に対して優しくなったよ。」
「そうなんですか。結さんのおかげですね。」
太鼓持ちのつもりで言ったのだがお父さんは、
「そうなんだよ!!ありがとう結。」
簡単に真に受けてくれた。心なしか結さんの顔が赤かった。褒められることに慣れていないのだろうか。ここまではっきりと褒められると照れるのも無理はないか。しかも、自分がいる時に目の前でとなるとなおさら。
「花の請求は振込でお願い。この金額現金だと面倒だから。」
「わかったわかった。それより、寛くん結の働きぶりはどうだったかな?」
こう言ったことは本人がいないところでするのではないのかと疑問に思ったが、お父さんの目がキラキラしているので答えるしかないか。
「ええっと、、、、」
「お父さん!!やめて!!」
結さんに止められ、お父さんがシュンとしてしまった。明らかにこの家のパワーバランスは圧倒的に娘に傾いているようだ。お父さんは結さんのことを溺愛しすぎているように思える。ここまで綺麗な娘だと分からなくもないが。恥ずかしがる結衣さんも新鮮だ。いつもはかなりそっけない態度しかとらない人の意外な一面を見た。
「まあ、とにかくお疲れ様。今日はもう終わっていいよ。あとはお父さんに余計なこと言わないこと。面倒だから。」
「そんなこと言わんでくれよ結。寂しいじゃないか。」
「まあまあ。こう言った話は結さんの前ではやめましょう。当の本人は恥ずかしいらしいですし。」
ニヤニヤしていると、寒気を感じた。すごい目で結さんが見てくる。殺されるんじゃないか。
「はい。さっさと帰る帰る。明日もあるんだから、初日の疲れを残さない。くだらない話するくらいならさっさと寝ろ。」
「りょっ了解しました。お疲れ様です!!」
ここは早急に逃げた方が良さそうだ。すみませんお父さん。ここは任せます。すぐに帰る準備をして店を出た。このあとのお父さんがどうなったのかは知らない。
帰り道母さんから連絡があり、おつかいを頼まれた。というより、作るのは自分なので、これが食べたいという要求だけの連絡だったため足りないものの買い出しに行かなければいけない。うちの家は朝母さんが作り、夜は自分が作ることになっている。母さんの料理は単にパンを焼いて、目玉焼きを作るくらいだ。ご飯の場合は自分が前日に下処理をしておく必要がある。母さんの仕事柄、夜遅くまでかかったり、集中していたりすると時間を忘れて絵を描いてることがある。仕方ないかもしれないことだが、もう少し手伝ってくれてもいいのに。他にも家族はいるが、今は家にはいない。いたとしても他は包丁を握らせるのが怖いくらいなので結果的に自分が作ることになる。母さんからの要求は豚バラのせいろ蒸しだった。豚バラももやしもない。味のバリエーションがないといけないのでポン酢の他にゴマだれ、あとは味噌ダレなんかどうだろうか。我ながらなかなかのメニューだと思う。
買い物を終え、家に帰る。正直疲れてはいるが作らなければ何も食べるものがない。豚バラには疲労回復の効果もあるので今の自分には最適なメニューでもあった。
「ただいま。母さん、今から作るから。30分後に降りてきて。」
遠くの方ではーいという声が聞こえた。この様子だと絵は描いていないようだ。描いているときは返事すらしない。本人曰く集中していると何も聞こえないらしい。自室でテレビでも見ているのだろう。
食事も終わり、母さんからの評価は上々、満足してもらえたようだ。そして、母さんから今日のことを聞かれる。
「今日はどうだった?今日オープンだったんでしょ?」
「まあ、初日にしてはかなり忙しかったよ。2人ではかなりきつかった。あと、結さんのお父さんに挨拶に行ったよ。母さん俺のこと色々と相談してたみたいだったからかなり話が弾んじゃって開店時に店に行けなかったのよ。」
「そうなの?結ちゃんに迷惑かけなかった?」
「開店したばっかりだったから、あまりお客さん来てなかったみたい。」
「そうそれなら良かった。」
「なんか俺に頼みたいことがあるらしいんだけど、なんか聞いてない?」
「別に聞いてないけど。まああんた色々と使い勝手は良さそうだからね。器用に何でもこなすし。」
「人を便利な機械みたいに、、、」
「まあまあ、あそこの家の人たちはあなたを悪いようにはしないよ?楽しみにして待ってれば?」
「そうなのかな?お姉さんはかなり感じ悪かったけど。」
「そうなの?結ちゃんにしかあったことないから。お父さん曰く、めちゃくちゃ真面目な子ってきてたけど。気のせいじゃない?」
「なんか挨拶に来たんだけど、俺のこと見てない感じで不気味だったんだけど。」
「あんたのこういったやつは結構当たるから嫌なんだよねぇ。」
こんなことを話していると、自分のスマホがなる。
『明日も通常通りにお願い。ゆっくりお休み。』
『わかりました。結さんもゆっくり休んでください。』
特にたわいも無い連絡だった。すると母が、
「あんたわかっているだろうけど、あんまり親しくなりすぎると、大変なことになるからね。女の嫉妬は怖いのよ。」
「わかってるって。節度は守るよ。俺の中で一番大事なのは何なのかわかっているから。」
「なら安心した。そろそろ、帰ってくるから掃除しておかなきゃね。」
「掃除なら少しは手伝ってよ。結構大変なんだから。」
「うーん、考えておく。」
これは絶対に手伝わないパターンのやつだ。即答してくれなければ確実に手伝ってはくれない。
「はぁ、わかったよ。掃除しとく。明日も早いからもう寝るわ。」
「はいはーい。お休みー。」
ゆっくりと風呂に入りながら自分も今日1日を振り返る。濃かった。いろんな人と関わることができたし、こもってた時よりも1日が長い。疲れた。お風呂の中で寝そうになった。もう上がって寝よう。風呂から上がり、11時には寝床に着いた。
直射日光が顔に当たり目覚ましより先に起きた。時刻は6時半。相当疲れていたのか昨日はすぐに寝ることができた。目覚めはいい。母さんはまだ起きていないようなので今日は自分が朝食を作ろう。昨日の豚バラのせいろ蒸しが余っているので、豚汁でも作ろう。キッチンに向かい、手際よく朝食を作り上げた。
「うーん。いい匂いがする。」
母さんが起きてきたようだ。匂いに誘われて起きてきた。
「どうしたの?外に出て、心境の変化でもあったのかな?」
「うるさいわ。たまたま朝早く起きたから作ってみただけだよ。」
「そう?まあいいわ。そうだ。昨日メール届いてたよ。早めに確認しておいてね。多分仕事のことだろうから。」
「わかった。帰ってきてから確認するよ。まあ冷めないうちに早く食べよ。」
仕事といっても、花屋のことでは無い。自分には複数の仕事がある。それは父さんの手伝いのようなものだ。父さんの仕事はデザイナー。様々な企業から依頼が来る。自分のブランドも持っている。しかし、7年前、交通事故により視覚障害を持ってしまい、色が見えない。服のデザインまでは今まで通り作ることはできるのだが、色がつけられない。そこで父さんに代わり色付けを自分がすることになった。とはいっても、当時まだ学生だった自分にはあまり時間がなかった。しかも、お金も発生していたため、下手なことはできない。なおかつ父さんの作品を汚すようなこともできない、真剣に取り組んでいた。すると、自分が着色した服の評判がよく、売上が上がったらしい。そこから、父さんが自信を持った1着だけを自分が着色し、あとは他の人に依頼するという形をとっていた。今、父さんは海外に出張中のため、メールで依頼が来たらしい。多分期限までまだ時間あると思うから、ゆっくりやっていこう。父さんもそこまで鬼畜なことはしないだろう。
食事を終えると、片付けは母さんに頼んで仕事に行く準備をし始める。初出勤では無いので緊張はないが昨日、帰ったあとどうなったのかはわかっていないので少し怖い。メッセージは来たのだが挨拶みたいなもの。結衣さんがどういう心境なのかはわからない。お父さんには今日会わないとは思うが、毎日のように閉店間際に来店するのはやめてほしい。お父さんと話していると色々とボロが出そうになる。お父さんも忙しい人なので頻繁には来ないと思うのだが。そんなこんなで準備が終わり、出勤には早いが余裕を持って出ることにしよう。そうして家を出た。
まだ、4月の半ば、道には桜の花びらが散っている。まだ朝が早いのだが散歩をする人がいつもより多い。この季節はいいものだな。暑くもないし寒くもない。過ごしやすいことこの上ない。心地の良い風に包まれながら散歩するのも悪くはない。落ち着く朝だ。
店に到着し、自分より早く来ていた結さんに挨拶を済ませる。
「おはようございます。」
「うん。おはよう。」
意外とそっけない反応だ。昨日のことは根に持ってはいないようだ。
「そういえば昨日みたいなことはやめてよね。今度そんなことしたら、減給するから。」
「わかりました。調子に乗らないように気をつけます。」
「ならいいけど。でもたまにはお父さんの話し相手になってあげて。私こんなだから話し相手が佐藤さんくらいしかいないらしいから。」
「わかりました。」
「ただし、あまり私の話は極力しないこと。」
自分の話をされるのが嫌というわけではなさそうだが、ただ単に恥ずかしいのだろう。ちなみに自分はもう、結さんに対する苦手意識はない。もう何かといって1週間以上ほとんどの同じ時間を過ごしているわけだし、だんだんこの人が不器用なんだろうと思えてきたからである。単に自分に自信がないだけなのだろう。結さんも自分には少し心を開いてくれていると思う。初めて会った時より話しかけてきてくれる。何より少し笑顔を見せてくれるようになった。こんなことで関係性が壊れるのは忍びない。仕事に影響出るのも嫌だ。
「わかりました。気をつけます。」
「わかったならよろしい。」
まあ、こう答えるのは、建前で結さんのお父さんも結さんの話は聞きたいだろう。ここは、両者といい関係性を築き上げたいので結さんのいないところでお父さんと話すのが得策だろう。元はと言えば結さんが自分のことを話さないのが悪い。太客の要望には答えておかないと。にしてもいつも以上に機嫌がいいな結さん。
「今日は通常業務でいいですか?」
「そうだねぇ。特別なことといえば大きな荷物が届くからそれを運ぶくらいかな。」
「そうですか。わかりました。」
今日はどうやら、結さんが注文していた土などが届くそうだ。
「あ、そうだ。寛くん料理できるよね?」
「はい。そこそこ自信はありますけど。」
「なら良かった。今日届くのは寛くんに任せるから。」
「えっ?どういうことですか?」
「まあ、届いてからのお楽しみってことで。」
この家族はいつも説明が足りない。心の準備ってもんもあるのに。性格は似ていないくせにこんなところだけ似やがって。
「わっかりました。」
ここは適当に返事しておくのが正解だろう。どう転んでも教えてはくれないだろうし。考えるだけ無駄。
「じゃあ、奥で着替えてきます。」
「いってらっしゃい。」
通常の業務が始まった。自分が接客、結さんが会計。このスタイルでしばらく行くのだろうか。相変わらずレジで本を読んでいる。花に対して詳しい人が接客をやるべきだとは思うが。客足は午前中ということもありまちまち。バラやガーベラはよく売れる。お見舞いのマナーで、白や青、紫などの色の花を持っていくのはタブーらしい。館内に置くのは問題ないようだ。個人的には、難しいことは考えず好きな色の花を持っていく方がいいとは思うのだが。いつの時代もマナーにうるさい人はいるもんだ。時代が進むにつれてマナーも変わってきて、マナーを注意すること自体がマナー違反になることもあるだろう。実際自分もマナーにうるさい人を鬱陶しいと思うことが多々ある。でもしきたりとか、伝統などは守っていかなきゃとも思う、、、、
「あのー?すいませーん。」
「ああ、はいはい。なんでしょうか?」
「もー何回も呼んでたのに。」
小学3年生頃の女の子だった。考え事して聞こえていなかった。これからは考え事するのは勤務中やめよう。
「ごめんね。でなにかお求めのものでも?」
「うん。千佳ちゃんひまわりが好きらしんだけど置いてないのー?」
「ごめんね。置いてないんだ。代わりのお花探してもらえるかな?」
「わかったよ。同じ場所にひまわり病院あるのにね。変なの。」
「そうかな?ほら他にもいっぱいいろんなお花あるから見てきて、お気に入りの花があったらあのお姉さんに渡してね。」
「わかったー。」
幸い結さんには聞こえていないようだ。この話はタブーなのだが、花屋をやる以上切ってもきれないことだろう。なるべく結さんの耳に入れたくないから良かった。にしてもこの子学校はどうしたのだろう。仲のいい友達が入院して寂しくなったのだろうか。
「ねぇねぇ。それより学校どうしたの?」
「今日お休みなの。だから千佳ちゃんのお見舞いに来たの。」
「そうなんだぁー。大切な友達なんだね。」
「そうだよ。千佳ちゃんいないと学校つまんないの。」
「じゃあ、早くよくなってもらえるようにお花選ばなきゃね。」
「うん。」
そういって女の子は店内を周り始めた。この子が結果的に選んだのはマリーゴールドだった。
お昼時になると昨日同様、看護師の人たちが続々と来店してきた。今度はお医者さんも同行してきた。なにやら診察室に置く花が欲しいらしい。
「あのー、渡辺くん?」
「あ、中村先生。どういったご用件で?」
この人は中村先生。自分が一時期お世話になっていた精神外科の先生だ。
「今度さ診察室に花を飾りたいんだよね。なんかオススメのお花ないかな?」
「なら、結さんに花束作ってもらいましょうか?花粉とか生花だと問題ありそうなので造花の方がいいかと。」
「わかった。結ちゃんに頼んでみるよ。」
そういって中村先生は結さんの元に向かった。店内は看護師さん達でぎゅうぎゅうだった。この病院の看護師さんは11時と1時で昼休みが分かれている。12時台は患者さんの昼食があるので休めない。この病院は小児科がメインのため子供が多くいる。ここに勤めている人は、看護師の資格とともに保育士、もしくは保育士の資格を持っている人が多い。そういった人を積極的に採用しているらしい。さらに、看護師という仕事の都合上、朝早く出勤し、遅番まである。看護師さんも楽な仕事ではない。子供相手になるとなおさらである。奇想天外なことをたまに子供はする。ここに来ることは癒しになるのだという。花の香りにはリラックス効果もある。いい休憩所になっているのだろう。
「寛くん、レジ任せるね。」
「わかりました。」
どうやら、中村先生の花束を作るようだ。レジに向かうと中村先生が待っていた。
「渡辺くん、お疲れ様。」
「お疲れ様です。結さんの花束待ちですか?」
「そうだよ。笑顔で受け入れてもらえたよ。前まであまり喋ったことがなかったんだけどね。最近まで他の先生から気難しい性格だからと言われてたから、意外だったよ。」
「そうですか。今でも気難しい方だとは思いますけど。まあ初めてあった時よりは話してくれるようにはなったとは思います。」
「渡辺くん効果かな?前会った時よりはずいぶん明るくなってると思うよ。」
「そんな、そうだと少し嬉しいですけど。」
「渡辺くんも初めて会った時よりかなり変わったよね。」
「それはそうですよ。先生の診察のおかげです。かれこれ5年はお世話になりましたから。」
「こらこら、君も心理学を大学で学んできたんだよね?」
自分は大学はで教育学科だったのだが、時間に余裕があったため、教育学と並行して心理学も中心的に学んできた。大学では時間の許す限り、知識を貪った。それが楽しくて仕方なかった。知識が増えるだけでなく、教育学、心理学を併用することによって人間の深い部分まで見えている気がしていた。成績は決していいものではなかったのだが大学の教授の中ではかなり有名だったらしい。時々自分の話をしていると、ゼミの先生からは言われていた。教授から見ると自分は面白い生徒だったらしい。普通の人にはない着眼点があったのだとか。いわゆる変な子だ。
「そうでした。カウンセラーや精神科の人は感謝されてはいけないんでしたっけ?」
「そう。心の病は結局、自分で治すしかないから。僕らはその手助けをするだけ。自分で治したっていう自信が完治するためには必要なんだよ。感謝されてしまったら僕らにとっては失敗になるんだよ。」
「大学の先生も同じようなこと言ってましたけど、自分はやっぱり先生には感謝しかありませんよ。自分がこう今ここに立っていることができるのは先生のおかげです。感謝されるって大切なことですよ。感謝できるっていうのも治療の効果だと思いますけど。」
「そうかな。ならありがたくその言葉受け取っておくよ。結局渡辺くんは先生にはならなかったんだよね?」
「そうですね。先生になってたらここにはいませんし。教育実習で失敗してそれがトラウマになってまして。」
「いままで多くの時間を使ってきたものが失敗してしまうとそう言ったことになるよね。渡辺くんの性格上、考えすぎちゃうところがあるから。余計に落ち込んで頭から離れないんだろうね。実習の成績はどうだったの?」
「実習先の先生が優しかったのか、最高評価をしてくれたんですが、、、」
「そうだね。自分が失敗だって思っているのに、他の人からいい評価を受けてしまうと自己評価と他者評価の差で悩んでしまうからね。渡辺くん理想もプライドも高いからね。その割には自分に厳しすぎて自分傷つけて苦しんじゃうっていう困った性格持ってるからね。」
中村先生がいうならそうなんだろう。性格なんて自分ではわからない部分が多い。自分のことは自分が一番わかっているなんて迷信だ。人間は自分のことに対して盲目だ。多くの人は自分のいいところにばかり目がいって嫌な部分を見ていない。反対に自分のような自己肯定感の低い人間は自分のいい部分を見ることができていない。自分のいいところも悪いところも見れる人間がいたら自分は友達にはなれない。自分の悪いところもいいところだと言い張る人も苦手だ。こういった人は人間特有の弱さがない。人間皆どこか弱いからこそ個性が出るのだろう。弱さのない人間など人間などではない。弱さを隠して生きていくしかないんだ。
「そうなんですかね。自分だといまいちわからなくて。」
「まあ、それがわかったら僕みたいな職業は必要なくなるからね。精神科、カウンセラーなんて廃業だよ。」
「それもそうですね。」
長々と話していると花束を作り終えた結さんが戻ってきた。
「かなり話し込んでましたけど、知り合いかなんかですか?」
「ああ、前にお世話になっていた先生なんです。」
「5年は診察していたから、久々に会ってかなり話し込んじゃってね。できたのかい?」
「はい。お待たせしました。請求は父の方にしておきます。」
「いいよいいよ。これは自分の診察室に飾るものだから自分で払わなきゃ。」
「そうですか。寛くん、あっちの片付けしてきて。」
「わかりました。中村先生ではまた。」
「うん、また来るよ。」
そういって、店先の掃除を自分は始めた。
病院の昼休みが終わり、業務もひと段落。3時になり、宅配便が届いた。朝結さんが言っていたものが届いたらしい。土と他に大きなものがあった。そういえば自分に任せるとはどう言ったことだろう。運ばれてきたのは机が3つ、椅子が6つ、大きめの段ボールが一つ。机も椅子も店の雰囲気に合ったデザインのものだった。
「あっ、届いた届いた。寛くんそことそことそこに並べて。」
店内の指定された場所に机を運んでいく。結構重い。女性にはかなりきつい重さだろう。結さんも椅子を運んでくれていた。
「なかなか雰囲気に合うものがなくってね。結構探したんだよ。」
「そうなんですか。でこのダンボールはなんです?」
「まあ開けてみてよ。」
と言われるがままにダンボールを開ける。そこにはティーカップととポットが梱包されていた。10人分以上はある。
「これって、ティーカップですよね?」
「そうだよ。お父さんからここに開店するとき、患者さんが利用できること、もう一つに、病院で働く人たちが居心地の良い空間にすることを条件として出されたの。まず患者さんが利用できるってところは開店すれば問題ないでしょ。もう一つの条件をどう解決しようかって考えてたんだけど、ここをカフェっぽくしたらどうかなって。病院内に食堂はあるけどこう言った施設はないでしょ。ということでよろしく。」
「はい?自分が全部やるんですか?」
「当たり前でしょ。私料理どころかカップ麺すら作ったことないから。」
「マジですか。自分も紅茶なんて入れたことないですよ。」
「良いから良いから。なんも問題ないよ。いろんな紅茶取り寄せてあるからよろしくね。」
ダンボールの中を調べてみるといかにも高級そうな銘柄の紅茶が8種類ほど入っていた。
「いったいいくらで出すんですか?」
「タダだよ。花束を作ってる時の待ち時間にでも飲んでもらおうと思って。」
カフェっぽくとは言ってはいるが、別におしゃべりするような場所にはしないのかな。そうすると店が回らなくなるのも確かだ。しかし自分が入れることになるといよいよ人手が足りなくなる。
「わかりました。でしたら奥の空いてるスペース使わせてもらいます。」
「そのつもりで開けておいたから。」
店には一箇所不自然に空いてるスペースがあった。なるほど、このためのスペースだったのか。全てこの人の掌の上だったのか。コーヒーならよく好んで飲むのだが紅茶はどうも自分は苦手。歯がキシキシするのがちょっと。だから紅茶を淹れたことも飲んだこともない。
「結さんは紅茶とか飲まれるんですか?」
「飲むよ。毎日。」
ならあんたが入れろよと言いたくなったがカップ麺も作れない人に任せるのはお客様にも申し訳ない。もし怪我でもされたら困る。お父さんにも申し訳が立たない。現状自分が入れるのが最適だろう。
「結さん。提案なんですが、1人でも良いのでバイトでも雇いませんか?自分が思ったより仕事量が多いので2人では回らなくなると思います。」
「そう?まあ検討してみるよ。必要と思ったら紹介して。出来るだけ寛くんの知り合いでお願い。ただし、男の人はダメ。苦手だから。」
「わかりました。必要になったら言ってください。」
人手不足は早急に解決したほうがいいだろう。お父さんも何かお願いがあるらしいのであまり忙しすぎて首が回らなくなるのが一番失礼だ。
この日は正午以降あまりお客さんが来なかった。紅茶はまだ準備中ということにして自分が家で練習することに。まあ、喫茶店みたいに本格的なものは入れられないだろう。使っている茶葉が高級なものなのでソコソコの値段がする。ある程度上手に入れることができないと生産者にもお客さんにも失礼だ。唐突な以来だったが頑張るしかない。そしてこの日もあの人が来た。
「おーい。結、寛くん元気に営業してるかい?」
「もう閉店だからあまり邪魔しないで。」
「まあまあ、今日はどう言ったご用件ですか?」
「なんだろう、寛くんよそよそしくない?お父さん寂しい。」
「もう、邪魔。早く用件言って。」
わかりやすく結さんがイライラしている。昨日の今日だ。あのあと散々言われたと思うのだが、なんも変わってはいない。
「結さん後はやっておくのでお父さんと話してください。」
「ああ、話があるのは寛くんの方だから、結、片付けお願いね。」
「そう。わかった。早めに終わらせて。」
「すいません。よろしくお願いします。」
「気にしないで。でも出来るだけ早く帰ってきてね。」
「わかりました。」
「じゃあ結、寛くん借りるから。」
お父さんに連れられ病院内に入った。
「お父さん。話とはなんでしょう?」
「それは医院長室に入ってから。ところで、かなり結が懐いてたみたいだけど何かあった?」
「特にないですよ。自分といるときはあんな感じです。」
「そうか。よかった。君にあの子を任せて。さあついたついた。入ってくれ。」
医院長室に入ると、秘書の佐藤さんが待っていた。笑顔でお辞儀をしてコーヒーをお願いした。偉い人の部屋というのはどうも慣れない。いつきても緊張してしまう。部屋に入ってからお父さんの目つきが変わった。
「さあさあ、座って。」
「じゃあ早速話とは?」
「この話はもっと時間をおいてお願いする予定だったんだが、少し予定が変わってね。君のタイミングでいいからお願いを聞いてくれるかな?」
「内容によります。今の仕事の他にも父からの依頼もあるのでなんともいえませんが。花屋の人手不足も否めないですし。」
「わかった。でその内容なんだが。この病院子供が多いのは知っているよね?」
「はい。お父さんが小児科の有名な先生というのも知ってます。」
「知っててもらえてるのは嬉しいね。でね、その子供達のために授業をしてもらいたい。できれば週3、各学級ごとに合わせたものをして欲しくてね。大きい子で高校の子もいるから。内容は君に任せるし、何やってもいい。でもこの子たちのためになるような授業にしてほしい。学校の雰囲気でもいいから感じてほしんだ。長く入院していると世間から隔離されている感じがどうしてもついてしまう。同じ年代の子供が今どんな生活を送っているのかだけでも感じるだけでその子たちのためになるんだよ。君は社会科の免許しか取っていないから知識を教えることはしなくていい。道徳的な授業を頼みたい。給料もそこそこのものを出そう。どうかな?」
この上なく嬉しい依頼だ。もともと教師を目指していたので、諦めてたものが間接的にかなうわけだ。各学級に合わせたというのがかなり難しいができることなら挑戦してみたい。大学時代、どうしても納得できなかった学習指導要領もここにはない。自由に必要だと思う教育ができる。しかし、現状ではとても受けられない依頼だ。
「正直嬉しい依頼です。自分は教師を志して挫折した身ですし、自分もできるだけ教育に関われるような仕事をしたいと思っていたのも確かです。しかし、今の現状ではこの依頼を受けることはできません。開店にてまだ2日目ですが人手不足になるのは目に見えています。結さんと自分の負担が増えてしまうので今は受けることは考えられませんね。もう少し仕事に慣れてきて、どのくらいの集客があるのかがわかってくるまで返事は待ってもらえますか?」
「それは仕方ないよ。本業は結の方なんだから。今君に抜けられるのは結に嫌がられると思うから。娘に嫌われるのは父親的に辛いからね。昨日の今日だし。もうあんな思いはこりごりよ、、、」
「昨日一体何言われたんですか?」
途中からいつも通り明るいお父さんに戻っていて口調が戻っている。真剣な話の時は威圧感が出ているような気がする。自然にこっちも畏まった口調になってしまう。正直畏まったのは苦手だ。できるならいつも通りの口調で話して欲しい。でも、こう言った話の時にはこう言った話し方が必要になってくるのだろう。普通に求められる社会人としてのスキルの一つなんだろう。自分は周りの人が優しいからあまり必要なスキルではない。逆に畏まった話し方になってしまうと周りが気を使ってしまうだろう。とにかく良かった。お父さんがいつもの話し方になって。
「もう来ないでとか。私の前で話さないでとか。5時間は怒られてたよ。」
おそらく5時間は嘘だろうが相当長い時間怒られていたことはわかる。
「それは災難でしたね。」
「笑い事じゃないよ。おかげで今日は寝不足で、患者さんに逆に心配されちゃったよ。今日は君に話があったから行ったけど今度からはそうはいかないね。」
「大丈夫ですよ。父親が娘を心配するのは当たり前のことですし。週1くらいなら結衣さんも怒らないんじゃないですか?」
そう言っていると結衣さんからメッセージが届いた。
『早く帰ってきて。
もう閉めるから。』
『わかりました。』
「結からだね。もう帰ってこいって連絡だったんだろ。」
「そうですね。もう閉めるらしいので自分も帰る準備しないと。」
「わかった。今日の話、ちゃんと考えてくれないか?できるだけ前向きに。」
「わかりました。考えておきます。」
「そうだ。ついでなんだが、君の連絡先をくれないか。近況報告でもなんでもいいから。多分ほとんどこっちからの連絡だと思うから。聞いていて損はないかなと。」
「そうですね。知っておくと結さんの近況も聞きやすいでしょうし、これなら結さんにもバレませんからね。いいですよ。」
すぐにお父さんに連絡先を教えた。
「では結さんが待っているので今日はこれで失礼します。」
「お疲れ様。まだ開店してすぐだからバタバタしているけどよろしく頼むよ。」
「了解です。何かあれば遠慮なく連絡ください。」
そう言って医院長室から出た。医院長室前には秘書の佐藤さんが待ち構えていた。なぜかニヤニヤしている。少々不気味だ。
「断られたのですね。少し意外でした。」
「断ってはいませんよ。少し考える時間をもらっただけです。」
「せっかく私が進言してあげたのに。」
「佐藤さんだったんですか。でも、知らないですよね。自分が教師を目指していたこと。」
「まあ、色々と手はあるから。」
「怖いですよ。佐藤さん目が笑ってませんもん。」
「まあ、医院長先生の前に急に現れた人間だからね。少しだけ調べさせてもらっただけだよ。別に調べればわかることで、隠してるわけではないでしょ。」
「随分とお父さんに尽くすんですね。」
「医院長先生には感謝しても仕切れないからね。」
「まあ詳しいことは聞きませんけど、今度どこまで自分のこと調べたのか教えてください。話していいこととそうでないことしっかり教えなきゃいけないんで。この調子だと他にも色々と知ってそうですから。」
「そんなベラベラ喋らないよ。信用してない?」
「そういうわけではないんですが、まあ色々と知られたくないものも多いので。」
「そうみたいね。」
「本当に色々と調べたんですね。」
話していると、結さんから連絡がきた。
『遅いよ。早くしてほしいな。』
『すいません今すぐ行きます。』
「お嬢さんからね。これだけは言っておくけどお嬢さん傷つけないようにしてね。そんなことしたら許さないから。」
「そのことも知ってるんですね。それには気をつけているつもりではあるんですが人の気持ちなんてわかりませんからね。」
「そう。なら用心してね。ほらお嬢さんをこれ以上待たせないであげて。」
「そうですね失礼します。」
そう言って自分はこの場を急いで後にする。
「お嬢さんは寛くんのことかなり気になってはいるとは思うんだけど。知らない方が幸せなことも多いから言わない方がいいのかもね。」
「そうだよ。」
「医院長、独り言の盗み聞きなんて趣味が悪いですよ。」
「悪かったね。でも彼をあまり困らせないでくれよ。彼も彼でかなり重い過去を背負っているんだから。今でも彼は世間からは到底受け入れてもらえないような関係を持っているからね。」
「こんなところで話していいんですか?」
「どうせ君のことだ。調べはついているんだろ。彼はこれから難しい選択に迫られるから、今は彼の思う通りに行動させてあげたいんだよ。」
「それが自分の娘が傷つくことだとしても?」
「まだ結がどう言った答えを出すかはわからない。どう思っているのかもわからない。なら任せるのさ。それが選択するってことだろ。」
「冷たいですね。」
「親になればわかるよ。どこまでいっても自分の子供は可愛い。でも、そこに親の意思はあまり入ってはいけないんだよ。結局はその子の人生なんだから。生きてれば傷つくことも絶望することもある。親ができることはいつでもそこに待っていて帰ってこられる場所を作ってあげ続けていることだけだよ。」
「そういうものなんですかね?自分にはあまりわからないです。真由さんにもそう思っているんですか?」
「そうだよ。でもあの子は帰ってくるところだとは思ってないだろうね。真由は僕に対する憎しみが強いからね。初めての子供だったからどうしていいかわからなかったんだ。言い訳になってしまうけど。」
「難しいですね。」
「人間も人生も病気も思う通りにいかないからね。ましてや可愛い娘だといろんな感情が入っちゃって余計に思う通りにはいかない。子育てって良かれと思ってやったことが裏目にでることがほとんどなんだよ。本当に難しくてね。親はレールを敷いてあげればこの子は幸せになるって信じて色々と口を出してしまう。それは子供にとっては自分を縛るものでしかない。レールの通りに進んで幸せになるかどうかなんてその子の考え方次第。真由は僕の敷いたレールの通りに進んでしまった。もっと彼女には色々な道があったのかもしれない。僕も気がつくのが遅すぎたよ。子供の可能性をもっとも狭めてしまっているのは親なのかもね。」
「でも、その道を選んだのは真由さんです。結局は医師の道を選んだ責任は真由さん自身にあるのではないんですか?」
「そう割り切れればよかったんだろうけどね。そうは考えられないのも親なんだよ。だからこそ結には自分で選んだ道を選んでほしい。結が医学部をやめて専門学校に行きたいって言った時に初めて気づいたよ。ああ、自分は間違っていたんだなって。」
「そういうもんですか。親の心子知らずですね。」
「子の心親知らずとも言えるよ。」
「それもそうですね。わかったら苦労しませんもん。」
「難しいよね。まあこの話はここまでにして今日はもう上がりだよ。もう遅いしね。」
「はぁーい。お疲れ様でした。」
病院を出てすぐに結さんのもとに向かった。時間的にはそんなに経ってはいないが、閉店時間は過ぎている。閉店準備もおそらくだが結さんが1人でやってくれただろう。店に着くと案の定閉店準備は終わっていた。
「本当に申し訳ないです。閉店準備結さん1人でさせてしまって。」
「いいよいいよ。こうなることは予想できてたから。今度からは事前に連絡してもらうことにするから。重要なことは時間をかけてお互いに話したいだろうし。」
「ありがとうございます。今日お父さんの連絡先をいただいたので今度からは自分に直接連絡がくると思います。」
「そう。でも念押しで私からも言っておくから。私がいると話しづらいこともあるでしょ。ところで何の話だったの?」
言っていいことなのかはわからなかったがどうせお父さんからは話は行くだろうと思い、隠し事なく話すことにした。
「病院内の子供に向けて週3回授業してくれないかと頼まれました。今の状態では受けられないと一応保留という返事をしました。」
「そうだね。今の状態じゃ受けることは難しいね。正直受けたかったでしょ?その仕事?」
「そうですね。受けたいのは山々ですが、今はこっちが優先です。まだ自分が慣れてないのもありますし、何より結さんに迷惑かけてしまいますから。中途半端なことはできません。」
「私の心配はいいよ。それよりもし受けることになったら、アルバイトの件真剣に考えていかないとね。1週間様子見てから考えてみようか。ある程度候補はあげておいて。」
「そうですね。こっちも真剣に考えておきます。こっちの都合で店には迷惑かけないようにします。」
「まあ、今帰りたいんだけどお父さんとながーく話して閉店準備手伝ってくれなかったのは迷惑じゃないのかな?」
「すいません精進します、、、」
最後に毒を吐かれたが結さんの顔は笑顔だった。
「すいません遅れました。」
「じゃあお疲れ様。ちゃんと休んでね。」
「お疲れ様でした。」
そうして今日の営業は終わった。すでに周りは暗くなっていた。これから夕飯を作らなくてはいけないのは少し憂鬱だ。こう言ったときは鍋に限る。材料も家にはあるし、何より切って煮えるの待つだけ。主婦の味方だ。母さんも鍋が好きなので文句はないだろう。
「ただいま。」
「おかえり。遅かったじゃない。お腹すいた。早くご飯。」
お疲れ様の言葉もなしに、すぐにご飯と言ってしまう。なんとも母さんらしい。少し子供っぽいからこそ、いい絵が描けるのだろう。母さんは無邪気という言葉がよく似合う人だ。
夕飯を食べ終わり、後片付けは母に任せ、朝言われていた父からのメールを確認しに言った。メールでは
『お疲れ。日向さんの所で働いているらしいじゃないか。ママから聞いたよ。くれぐれも迷惑をかけないように精進してな。ゴールデンウィークには帰れるから。それまでにこれ仕上げてくれ。よろしく頼む。寛の料理を2人とも楽しみにしているよ。PS.おみあげはそれぞれ買ってくるからどれが良かったかコンテストでもしよう。』
メールには添付されたファイルがあった。そこには白黒で書かれた服のデザインがあった。ゴールデンウィークまでというとあと3週間ほどある。まあ問題はないだろう。集中して週末にでもやろう。疲れているし、久々にお酒でも飲んで寝よう。そうして、キッチンにあるウィスキーを炭酸水で割った、少し度数の高いハイボールをコップ一杯分飲んだ。自分はあまりお酒に強くない。少しの量でほろ酔い気分になる。実に気持ちがいい。フワフワするというのが正しい表現だろう。ほどよく酔えるからこそお酒の美味しさに気づくってもんだ。強すぎると酔わない。弱すぎると飲めない。程よいっていうのが大切だ。気持ちがいいのでそろそろ寝よう。
開店して3日。特に問題なく、順調に進んでいると思う。お客さんにも満足していただけていると思う。特にクレームなどはない。それもそのはず、患者さんの家族か病院関係者以外きてはいない。いわば、身内がきているだけのこと。ここで問題が起きているとこの先やってはいけない。
3日目の午後4時頃ある問題が起きた。ある女性がこの場に似合わない大きな声を上げている。俗に言うクレーマーのようなものだ。どうやら、結さんの対応について怒鳴り散らしている。結さんもかなり萎縮してしまっていて、言葉を出すことができないでいた。店内には他に6人ほどお客様がいる。他のお客様に迷惑がかからないようにしなければ。
「お客様どうかなさいましたか?」
結さんに向けて合図を送りここは自分に任せてもらうことにした。結さんにはこの場から離れてもらった。
「どうもこうもないわよ。こっちのイメージしたものと違うものを用意されたのよ。」
「そうでしたか。申し訳ございません。ちなみにどう言ったものでしたか?今後のためにご意見をいただきたいのですが、奥の部屋にお手数ですが一緒に来ていただけませんか?ここでは周りのお客様に迷惑がかかってしまいますので。」
女性は周りを見渡して、視線が自分に集まっていることにようやく気付いた。その視線はとても気持ちいいものではなく、とても不快に思われている蔑んだ目だった。対照的に自分は笑顔を突き通した。不自然なくらいに。
「もういいわよ。早く会計を済ませてちょうだい。」
「そうですか。わかりました。では、2500円になります。」
女性は財布からお金を出して、足早に店を出て行った。
「ありがとうございました。またのご来店お待ちしています」
店の中に戻り、お客様に向けて一礼した。顔を上げると自分の顔は笑顔だった。店内のお客様も同様に笑顔だった。
「ありがとう。私じゃどうしていいかわからなかった。本当に助かったよ。」
「この話は閉店準備の時にでもしましょう。今は営業時間です。まだお客様もいるので。」
「わかった。」
そう言って自分は元の業務に戻って行った。この光景を見ていたお客様からめちゃくちゃ声をかけられた。そのおかげで少しだけ売上が上がったらしい。
閉店の時間になり昨日手伝えなかった閉店準備をしている。お父さんからの連絡もないので問題はない。
「寛くん?今日のことでさ、クレームとかの対応を教えてくれないかなって思ったんだけど。今日のことが繰り返されるようなら寛くんばかりに負担かけちゃうしこう行ったことも今後必要になると思うんだよね。いいかな?」
「いいですけど、自分のはあまり参考にはならないと思いますよ。自分はこういうのが得意なんで特に自分にとって負担だなんて思ってませんよ。」
「いいから教えて欲しい。寛くんがいない時もこれからあるだろうし、こういうことも寛くんにおんぶに抱っこじゃいけないと思うんだ。一応ここの経営者だかからね。」
「そうですか。わかりました。あまりひかないでくださいね。」
「わかった。精進する。」
「クレーム対応で1番大事なことってなんだと思います?」
「お客様が何で怒っているのかとか?」
「そこですね。クレーム対応で間違ってしまうことは。」
「別に普通のことだと思うけど?」
「そこを変えないとクレームで悩みますよ。クレーム対応で1番大事なのは、相手がどう行った人か観察することですよ。性別、身だしなみ、喋り方などなど。1つ1つのクレームに真剣に向き合っていたら他のお客様に迷惑です。店として合理的に選択することも大事です。その1人のお客様のために他のお客様の迷惑になるのは店としてもマイナスです。簡単に言ってしまえばクレームなんて真剣に聞いて時間を取るよりも多くのお客様の相手をしたほうがいいってことです。その場を丸く迅速に収めることが1番です。クレームなんて聞いていても1人分の利益しか出ないですから。」
「なるほど。」
結さんは真剣に話を聞きながらメモを取っている。
「今日の場合は、女性、服装は高価そうなブランド品、左の薬指には服装に合わない少し安上がりな結婚指輪。このことから考えられることはなんだと思います?」
結さんに問いかけてみる。自分で考えられ、対応できるようにならなければ意味はない。
「既婚者でお金持ちとか?」
「そこまではおそらく誰でもわかるでしょう。この人の特徴は服装に合わない結婚指輪です。今日のお客様はどんな口調でしたか?」
「偉そうだった。早口で怒鳴り散らすような感じ。」
「その特徴と、服装に合わない結婚指輪から考えるに、結婚してお金持ちになったわけではなく、実家が裕福なことが考えられます。あくまで考察ですが、今日のお客様は長女だと思います。」
「なんで?」
「シンプルな統計でクレームする人は長子が多いんですよ。真面目で神経質、親から厳しく育てられて、完璧主義。溜め込んでしまって爆発することが多いんですよ。長子はストレスフルなんです。そしてよく他の人に当たってしまう。あの周りを見えていないほどの激昂っぷり。かなり溜め込んでいたんでしょう。」
結さんは頷きながら聞いていた。結さんにもお姉さんがいるので理解できるものがあるのだろう。あくまで統計だがかなり信憑性があるデータだと思う。長子の特徴と環境がよく反映されている。しかし、ここで大学時代に培った知識が使えるのは嬉しい。
「夫婦間の仲はあまり良くないと思います。女性の方の実家が裕福な場合、夫が萎縮してしまうことが多いですから。友達が同じような感じで結婚したんですがかなり肩身がせまいそうですよ。価値観も大きく違うと思います。あのブランドの服はかなり高価なものですが、指輪はほとんど装飾がなくシンプルなものでしたし、かなり格差のある婚約だったんだと思います。親の反対を押し切って結婚したということも考えられます。」
「女性としては、少し憧れるかも。少女漫画とかでよくある展開だよね。」
「やっぱりこういったことは憧れるもんですかね?男にとってはかなりリスキーなもんで、かなり勇気がいるものですよ。」
「だからこそ憧れがあるんじゃないかな?それだけ自分のこと思ってくれているって感じでさ。」
「そう言うものなんですかね。でも、少女漫画ではそのあとのことはあまり書かれていませんよね?」
「そうね。あまり語られることは多くはないと思う。ハッピーエンドで終わったほうが幸せだもの。」
「そうですよね。バットエンドを読みたい人の方が圧倒的に少ないでしょう。こういったカップルは反対を押しいった時がピークなんですよ。後になって、相手の嫌な部分とか、周囲の目とかが気になってしまって、ストレスを溜めてしまうことも多いんです。2人とも自分たちのことしか見えなくなって、自分達に酔ってる場合がほとんどです。恋をすると人は盲目になるとはよくいったものです。」
「リアルね。夢がない。」
「現実主義といってください。その時だけの感情に流されて多くの時間を無駄にするのはおろかですから。結婚という大きな選択をするときは余計に慎重に熱くならないようにしなければいけませんから。」
「寛くんはどこか人間味がないよね。感情はあるんだろうけど、どこか心ここに在らずみたいな感じ。たまにだけど、何考えてるかわからなかったり、威圧感が出てる時もあるよ。接客中は気をつけるように。」
「わかりました。てか、自分の説教タイムになってません?クレーム対応ですよクレーム対応。」
「そうだったね、まあこの話はまた今度ってことで。今はご教授お願いします。」
「わかりました。どこまで教えましたっけ?」
「その人の見た目から判断するっていうところかな。格差がある婚約かもしれないってところだよ。」
「そうでしたね。ここからはいたって簡単です。そのお客様のことを考えるのではなく周りのお客様を大切にしなければならないので、早くそのお客様にはお帰り願いたいところ。ならどうするか。こういったときは周りのお客様に目を向けさせる事が1番でしょう。周りのお客様もクレームを怒鳴り散らしているのを見るのは不快でしょうし、何よりこういったタイプの女性は悪目立ちすることを嫌っている事が多いので効果的です。」
「難しくない?」
「簡単にできますよ。目線を他のお客様に向けさせればいいんです。今回みたいにお客様と反対の方向から急に声をかけたり、1人の場合は向こうの席に移動してもらうとか、他の人が目線に入るように誘導します。人間案外視野が広いものですから必然的に視界に入ってくると思います。そこで必要なのが違和感です。」
「違和感?」
「違和感です。周りの人との対比から生まれる不快感のことですよ。そうですね、例をあげたほうが簡単ですね。今回の場合自分はあのお客様に対して終始笑顔でした。それに対して他のお客様の顔は、自分からは見えていませんでしたがきっと不快な顔をしていたと思います。ここでまず私に対して、違和感を覚えます。周りとは明らかに違う顔をしている私に対して不快感とともに恐怖感も感じていたと思います。さらに自分の行動に対する予想外の表情に困惑するでしょう。こうなったらこっちのものです。一刻も早く帰りたいと思うはずです。別室に移動してもらいたいと説明して自分と2人になる状況を作ります。嫌がるのが目に見えているのでここでクレームを取り下げて帰ってくれるはずです。1人の場合は待ってもらうのがいいでしょう。本当にこの店のことを思ってくれている人はここまでしても待ってくれていたり、話してくれるはずです。こういった人の話は真面目に聞いたほうがいいです。他の人はただ単に憂さ晴らしな事が多いので無駄です。いかに他のお客様に迷惑をかけないようにするかと自分たちの利益にならないお客様かどうか判断する事が重要です。」
結さんは真面目にメモを取っていて、しっかり話を聞いていたようだった。メモを書き終えると最後に、
「なるほどね。確かにあまり参考にならないかもね。」
「ですよね。前にも同じような事があったんですけど、参考にならないと言われた事があったんで。」
「複雑だよね。そこまで瞬時に人のこと見れないし、その人の特徴を抑えてその人にあった対応を瞬時にできなきゃいけないからかなり難易度は高いかもね。シンプルに寛くん以外できないよね。」
「そういうものなんですかね。別に自分には難しいことだとは思ってはいないんですけどね。」
「自分ができるからって誰でもできると思わないでとかよく言われてそう。」
「全く同じことよく言われます。」
ふと時計を見ると時刻は8時をまわっていた。いつもなら家に帰り、料理を済ましているところ。話に夢中になりすぎて時間を忘れていた。母は怒っているだろう。ピザでも頼んでいてくれるとこれから帰ってから料理しなくて済むから助かるのだが。
「すいませーん。寛いますか?」
聞き慣れた声が店内に響いた。なるほど、これは予想外の行動だ。前々から店に行きたいとはいっていたがまさか本当に来るとは思いもしなかった。一番反応に困るパターンのやつだ。学生の頃体験した授業参観の気分だ。生徒側から見ると親が来るのはとても嫌な気分になる子供も少なくないだろう。学生のころ、真面目な方ではなかったので親がいても授業中寝るくらいの度胸はあったのだが、真面目に働いているところを見られるのはなぜか恥ずかしい。
「母さんなんできたのさ。ピザでも頼んでくれればよかったのにさ。てか、ご飯もう食べたの?」
「あっ、寛。遅い。お腹すいた。早く帰ってきて、料理して。今日は和食の気分。トンカツ食べたいトンカツ。」
よりによって時間のかかる和食。しかも、トンカツだと。今から帰って作ったとしても、9時半になってしまう。無理だ。食べたいものを言ってくれるのはメニューを悩まなくていいのだが時と場合を考えてほしい。作る方にも配慮してほしいものだ。
「お母さん、初めまして。日向結と言います。」
「あっ、結ちゃんじゃない。実は初めましてじゃないのよ。覚えてないのも無理もないけれどね。まだ結ちゃんが2歳だったから。けどお父さんとは頻繁にあっているのよ。」
「はい。父から聞いています。」
「ところでどう?うちの息子。そこそこ使える人材だとは思うんだけど。」
「はい。とても助かっています。」
「そうでしょう。優秀なのよこの子。まあ器用貧乏なのが玉に瑕ではあるんだけどね。」
正直やめてほしい。自分の目の前で親が自分のことを褒めるのは。恥ずかしいことこの上ない。親バカ丸出しではないか。
「やめてよ、母さん。恥ずかしい。」
「あら、恥ずかしがらなくてもいいのに。事実だし。褒めてあげているんだから素直に喜びなさい。難しいことではないわよ。ニコッてするだけなんだから。ほら笑って笑って。」
「お母さん、まあそのくらいにしてあげてください。寛くん顔真っ赤にしてますから。」
「あら本当に真っ赤。笑える。普段感情を表に出さないからこういう時に恥ずかしくなるのよ。」
「これでも昔よりはいいだろ。そんなに無表情でもないし、思ってることも口に出すようになってきてるだろ。」
「何言ってるの。まだまだよ、母さんと比べるとそんなの無表情と変わらないわ。思ってることもあんた闇が深くて何考えてるかわからないから口に出してないようなもんでしょ。」
笑顔でなかなか心をえぐってくるではないか。でもあまり嫌な思いをしないのは母さんのマジックだろう。母さんの笑顔には癒しの効果でもあるのかと思ってしまうほどに場が和む。結さんも最初は母さんに対して緊張していたようだが、約1ヶ月の間で見たことのない笑顔をしている。母さんは自分が1ヶ月かかって作った関係を簡単に越えていった。母さんとは喧嘩をしたことはない。母さんを傷つけると父さんがかなり怖いからという理由もあるが、母さんと話していると喧嘩することがバカらしくなってくる。感情を素直に前に出す母さんは、表情に変な含みがない。自分は表情の中に色々な考えを含めてしまう。こういう表情をした方がいいとか考えてしまう。クレーム対応なんかがいい例だろう。自分でも思う。自分の笑顔には裏がある。自分は単純に母さんに弱い。母さんのその表情に憧れと、苦手意識があるから。
「ほら見てみてよ。この結ちゃんの笑顔。あんたの数倍は可愛いわよ。」
不意をつかれたのか、結さんの顔に一瞬緊張が走る。しかし、言われたことの意味を理解したのか顔が赤くなっていく。
「ほら母さんいいから。お腹空いてたんじゃないの?」
「そうだった。ごはんごはん。早くしろ。」
「今から作ってもかなり遅くの時間にしかできないから今日は食べに行こう。」
「うん?仕事放棄かな?これはパパに連絡かな。」
「いいじゃない。たまには外で食べようよ。」
仕方ないなと言わんばかりの顔をし、何かを思い出したかのように、
「仕方ない。いいよ。ただし今度、結ちゃんと結ちゃんのお父さんをうちに招くからもてなすように。」
結さんも聞いていなかったようで少し驚いていた。今思いついたばかりの案なのだろう。母さんは得意げな顔をしているのが腹たつ。
「わかったけどいつにするの?結さんと結さんのお父さんの予定もあるでしょ。結さんのお父さんは特に忙しい方なんだから無理は言えないよ?」
「そこは心配ない。もともと、日向先生だけは呼ぶ予定だったからスケジュールは確保済み。結ちゃんが1人増えても問題ないでしょ。あっ、あと中村先生も読んじゃおうかしら。久々に会いたいわ。」
「それも初めて聞いたんだけど。中村先生も予定あるかもしれないじゃん。」
母は一瞬考えるようなそぶりはあったが、こっちを見て
「まあそこらへんはあんたに任せるわ。どうせ職場は同じ敷地内なんだから。」
やっぱりというか、予想通りというか。今回は自分に頼んだ方がいい理由があるから仕方ないが、自分の思いつきでは始まるのだから面倒なことも自分で責任持ってやってほしいものだ。
「わかったけど、いつにするの?できるだけ早く予定抑えないといけないけど?」
「いつって、今週の土曜日だけど。もともとその日に日向先生来る予定だったから。」
まじか。母さんのお願いなら自分が断れないことを知っている中村先生なら無理にでも予定を空けてくれるだろう。年頃の独身男性、もし彼女がいてデートの予定でもあったら大変申し訳ない。
「急すぎるよ。一応聞いてみるけどさ。」
「ありがとね。無理はしないでって言っておいてね。結ちゃんはどうかしら?予定とかある?」
結さんは戸惑って入る様子だったが、母さんの笑顔を見ると、
「大丈夫です。本当にお邪魔しても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫。何にも問題ないわよ。寛の負担が増えるだけだから。何にも考えないで楽しみにしておいて。」
結さんは、自分の顔を見て「どうしよう」と困ったような顔だった。別に自分的には1人増えようが2人増えようが関係ない。笑顔で「大丈夫ですよ」と返すと少し悩んだ末に、
「ではお願いします。父が迷惑をかけないように監視しないと。」
「そんなのいいのいいの。楽しんでもらえた方が寛も嬉しいから。」
「では、土曜日に待ってますね。母さんそろそろ帰ろう。もうそろそろ、お店も閉まっちゃうから。母さんも話に夢中で忘れてるかもしれないけどお腹空いてるでしょ。」
「そうだった。話に夢中で忘れてた。早くご飯。」
話に夢中になりすぎて気づけば9時を回っていた。流石に自分もお腹がすいてきた。この時間で空いている店になると、ファミレスくらいだろう。ファミレスであれば母さんの要望であるトンカツもあるだろう。しかも、揚げ物の後の嫌な片付けもない。
「では、また明日ということで。メニューのことで色々聞くので何か食べたいもの考えておいてくださいね。母さん、すぐに着替えてくるから待ってて。」
そういって自分はその場を後にした。
「さて、邪魔者がいなくなったところで結ちゃん。あの子本当に接客業できてる?」
「えっ?はい問題ないですよ。逆に自分の方が問題があるくらいで。本当に助かってます。色々と教わることも多いですし。」
「そう。本当に良かった。あの子、極度の人間不信だから、接客業なんて向いてないと思ってたわ。まあ強制的に行かせたのは私なんだけど。」
「そうなんですか。」
「まあ詳しいことはうちに来てからね。あのこのこともっと知ってほしいし、知っておいたほうがあの子も下手なこと言わないだろうしね。お父さんは色々知っているけど聞いちゃダメよ。私の口から説明させてね。これだけはお願い。」
「わかりました。」
「準備終わったよ。母さん帰ろっか。」
「おっそい。餓死したらどうするつもりよ。」
「まだ1、2分しか経ってないだろ。」
「あら、ここまで待たせたのは誰かしら?口答えするきなの?」
「ごめんて。では、結さん先に失礼します。」
「・・・あっ、お疲れ様。」
不自然な間があった。何か思い詰めているような。またなんか母さんが言ったのだろう。母さんの性格上あまり人を困らせることは自分以外には言いそうもないが。母さんの方を少し睨んだが、自分のことなんて見てもいない。ご飯、ご飯言いながらその場でスキップしている。
「あの母さんが何か言いました?」
「あっ、大丈夫大丈夫。気にしないで。」
これは確実に何か言ったな。これ以上問い詰めても何も出てこなさそうなので今は諦めるが、母さんには問い詰めてみよう。
「ほら早く。ご飯、ご飯。」
遊園地に行く前の小学3年生が親を急かせているようなリアクションで自分で乗ってきた車に向かっていった。「はぁ」とため息をつきながら母さんの方に向かっていった。
「楽しいお母さんだね。」
「結構毎日になると大変なんですよ。」
結さんに笑顔を向けてその場を去った。車に着くとすでにエンジンをかけて母さんは待っていた。
「早く乗って。ご飯いこ。」
「わかったわかった。もうあんまり急がないでよ。」
そういって、近くのファミレスへ向かった。車内で母さんに、
「俺のいない間に結さんになんかいったでしょ?」
「いったけど言わない。」
「何言うのもいいけどさ、困らせることはしないでね。」
「うーん、まあ頑張ってみる。迷惑はかけないかな。」
「それならいいけど。」
「あら、案外聞き分けがいいのね。」
「母さんが俺以外の人を困らせるのは俺のこと思ってのことだって知ってるからさ。昔よくこう言うことあったから。」
こう言う時の話をする時、母さんは威圧感のある顔をする時がある。纏う空気が変わると言うか、どこか全くの別人になってしまったのかと思ってしまうことがあるらしい。それに結さんはびっくりしてしまったのだろう。
「わかってるんならいいじゃない。あんたはいつも考えすぎなのよ。ほらもうすぐ着くから。」
そういってファミレスにつき、母さんは美味しそうにとんかつ定食の大盛りをペロリと完食した。相当お腹がすいていたのだろう。デザートにチョコレートパフェも1人で完食した。
母さんがビールを飲んでしまったので、自分が運転する羽目になった。運転苦手なのに。家族に自分の運転は不評だ。よく実技受かったねと言われてしまう始末。ブレーキの踏み方が下手すぎて酔ってしまうらしい。案の定自分の運転に関して母さんが、
「ほんと下手くそだよね運転。スポーツはできるし、運動神経は抜群なのになんで運転できないかね。」
「昔から言ってるじゃん。俺は力加減ができないの。体育の野球で女の子相手に力込めて投げちゃって、泣かれたこともあるんだから。ブレーキも優しく踏むための力加減がわからないの。」
「あー、覚えてる覚えてる。学校に呼ばれた時は笑っちゃったよ。甲子園出場投手が野球未経験の女の子に本気で投げたって聞いてさ。」
そう。自分は春の甲子園に出ていた。3年生の時の1回だけ。21世紀枠での出場だったが3回戦まで進むことができた。夏は県予選の決勝で敗れてしまい甲子園には行けなかった。
「学校来た時母さん大爆笑してたから、親子揃って先生に怒られたしね。」
「寛関係でよく学校に呼ばれてたから心配になったのよ。問題行動はなかったけど大きな怪我とかよくしてたから。安心して理由聞いたらおかしくなっちゃったんだもん。仕方ないでしょ。」
「今となっては笑い話だけどね。」
そうこう話しているうちに家に着いた。
「じゃあ先に風呂入っちゃって。俺まだやることあるから。」
「パパにメールでも送るの?」
「そうだよ。どんな感じにしたいとか色々聞かなきゃいけないし。」
「そう。なら後で私も送ろうかな。」
「メールより電話の方が喜ぶでしょ。」
「面倒じゃない?お金もかかるし。」
「それ聞いたら父さん悲しむよ。1ヶ月も会えてないんだから声くらい聞かせてあげればいいじゃん。」
「まあ後少しで帰ってくるからいいっか。」
「めんどくさくなったんだろ。」
「久々にあったほうが感動が大きいでしょ。あんたも父さん以外に連絡しちゃいけない約束なんだから、寂しくてたまらないんじゃないの?」
「まあ。そうかな。」
「おっ、デレたデレた。めずらし。流石に1ヶ月も離れ離れは辛いもんなのね。まだ可愛いとこあるじゃない。」
「俺は常に可愛いでしょ。」
「うわ、、、」
「冗談冗談。真に受けないでよ。」
「その顔外でできるようにならなきゃね。」
「そうだね。まあみんな揃えば少しは笑顔が増えるんじゃないかな。というより早く風呂入ってきてよ。俺明日も仕事なんだから。」
「はいはい。上がったら呼ぶからね。」
そうして自分の部屋に戻った。父さんへのメールを打ち終わり、中村先生に「明日花屋に来てください」とメッセージを打ち、母さんの「上がったよ」の声が聞こえたのでお風呂に入った。風呂から上がり、メッセージを確認すると「了解」と一言中村先生から返信が来ていた。父さんからの返信はおそらく明日以降になるだろうからこの日は寝た。
次の日、正午あたりに中村先生が花屋に来店した。
「渡邉くん、話があるんでしょ?」
「そうなんです。わざわざすいません。来てもらって。」
「いいのいいの。気にしないで。」
「あの今週の土曜日の夜何か予定ありますか?」
「いいや、特にはないけど。」
「よかった。母さんが久しぶりに会いたいというので。後、日向先生と結さんもくるんですけどいいですか?」
「医院長先生もくるのか。でもいいよ。医院長先生に自分のこと紹介してくれたのは渡邉くんのお母さんだし。おそらく結ちゃんも呼んだってことはおそらく君の話をするからだと思うから。」
「そうですね。では、よろしくお願いします。そうだ。何食べたいですか?」
「そうだね。普通に唐揚げとかが食べたいかな。渡邉くんのやつめちゃくちゃ美味しいから。」
「ありがとうございます。わかりました用意しておきますね。」
「じゃあ、こっちのお願いも聞いてくれる?」
「はい。いいですけど。」
「ちょうど同じ日に病院のみんなで野球をする約束しててね。一緒にどうかな?もう投げることはできるんだろ?」
高校卒業後、スポーツ推薦で某大学に進んだのだがその大学の練習中に肩を故障してしまい、野球部を辞めたわけではなかったが、授業と他のことで手が回らなくなって、思い立った時に部に顔を出してリハビリをするような感じだった。それゆえ、リハビリにかなり時間を使ってしまって、大学では満足するほど野球ができなかった。
「そうですけど。いきなり自分が入って大丈夫でしょうか?」
「いいよいいよ。むしろ大歓迎。甲子園出場投手の球なんてなかなか見れないからね。みんな興奮すると思うよ。ちなみに日向医院長もくるから。」
どこにでも顔を出すなあの人はと、内心思った。この病院の先生方は本当に仲がいいのだなとも思った。
「わかりました。参加させていてだきます。」
「そうよかった。楽しみにしているからね。」
そういって中村先生は花屋を後にした。
その日の帰り道、母さんに土曜の買い物をするから、遅れるとメッセージを送り、近所のスーパーに寄った。結さんにも食べたいものを聞いたがなんでもいいということだったので唐揚げとうちで好評の長ネギと甘い梅干しの味噌汁にしようと思う。うちになくて買うものは、鶏肉と長ネギなどの食材とお酒を少し。中村先生はお酒が好きだから、少しだけいいお酒を買おうと思う。うちに確かウイスキーはあるからワインかな。あまり詳しくは知らないが、母さんが白の方が好きなので白ワインを一つ買った。
家に帰るとめずらしく母さんが夕飯を作っていてくれた。生姜焼きだった。買ってきた白ワインを母さんに見せると案の定、飲みたいと言って聞かなかった。もちろん飲ませなかった。代わりにといってはなんだが、ハイボールを作り一緒に飲んだ。
慌ただしかった2週間が終わり、結さんの元で働き始めてから初めての休日。準備から開店、不慣れな接客、人との交流。大学卒業後、しばらくの間家に引きこもっていた自分にとってはたった2週間が1ヶ月以上に感じた。
初めての休日ということで、ゆっくりと一日中寝て過ごしたいとは思うのだが、朝から夕食の仕込み、12時から市営の球場で病院の方々と野球、終わり次第家に帰り夕食を4人前作らなければならない。人が来るときは基本後片付けも自分がすることになる。母さんがお客さんと喋っていて、その場から離れない。お酒が入るとなおさら。たまに飲み過ぎてしまうこともあり、母さんの介抱をしなきゃいけなくなることもある。食事が終わり、片付けをしたあとは、父さんからの依頼もこなさなければならない。2日前に送ったメールの返信が来た。メールの内容は、自分が送った質問の返答と、父さんのブランドの会社に出勤するときの内容だった。うちの会社は家族経営で父さんが社長、自分も様々な仕事を行うことがある。他の家族も色々と役職についている。今回の自分の仕事は新入社員に対する講義だった。うちの方針や、会社での役割、配属する部署など説明するだけなのだが、部署ごと別々に説明をするため各部署との連携が必要になる。これがなかなか面倒。父さんはこういったことは苦手だから任せられることが多い。自分のブランド、会社を立ち上げてからこういうものは全て自分が担当している。おかげで大学ではプレゼンの成績が抜群に良かった。自分は月に1、2回ほどしか会社には出ないのだが、会社内の信頼は厚い自信がある。父さんはどこか職人気質なためあまり集団は得意ではない。会社というものがあまり適していない人だ。経営とかは他の人たちで協力して行なっている。その責任者が自分だ。色々と面倒なのだが会社を成り立たせるためには仕方ない。
今朝は、9時に起き、母さんと一緒にキッチンに立つ。母さんは朝食、自分は夕飯の仕込み。うちのキッチンは広いので2人で別々の作業をしても相手が邪魔になることはない。仕込みを行うのだが4人分となるとそこまで大変ではない。鶏肉を適当な大きさに切ってからタレにつけるくらいだ。時間はあまりかからず、ものの10分程で終わった。朝食を食べ終わり食器を片付け、野球の準備をする。母さんは自分の仕事部屋にこもるみたいだ。絵の依頼の締め切りが迫っているようだ。今度、うちの会社主体で個展を開く。そのための創作も進めなければいけない。母さんも母さんで大変なのだ。それをわかっているからこそ母さんのわがままは聞きたいと思える。何よりわがままを言う母さんは可愛いらしい。父さん曰く。
野球をするのは大学4年の9月以来。教育実習の時に部活を見て以来だ。あのときは生徒の尊敬の眼差しが嬉しかった。出身校が唯一甲子園の土を踏んだときのエースだったから。この時代のうちの野球部は黄金世代と言われていたらしい。高校生からの質問攻めは少し嬉しかった。
準備が終わり、11時半。中村先生が家まで迎えに来てくれた。
「寛くん、迎えに来たよ。」
「すいませんわざわざ。今すぐに向かいます。母さんいってくるね。」
「いってらっしゃい。中村先生この子のことよろしくね。お医者さんいっぱいいるから怪我はしないと思うけど。寛は無茶しないこと。わかった?」
「大丈夫ですよ。自分がついてます。」
「あら、頼もしい。よろしくお願いしますね。」
「中村先生早く行きましょう。みなさん待ってます。」
「そうだね。じゃあ行きますか。ではお母さんお子さんお借りします。」
「いってらっしゃい。」
そういって家を出た。車中では母さんの話で盛り上がった。
球場に着くと早速日向医院長が出迎えていた。
「寛くん、待ってたよ。今日1日よろしくね。」
「日向医院長も今日うちに来るんですよね?」
「そうだよ。お邪魔するね。夕飯楽しみでね。寛くんのお母さんがいつもうちの息子のご飯は美味しんだよって自慢してるから。」
「医院長の要望が聴けなかったんで中村先生のリクエストで唐揚げなんですけどいいですか?」
「医院長はやめてくれよ。日向さんくらいにしてくれ。知らない仲じゃないんだし、仲良くしようよ。唐揚げね。良かった。好きだよ唐揚げ。今日ご飯抜いてきて良かったよ。楽しみだな。」
そういって、中村先生の肩に腕を回した。
「そうですね。自分も楽しみです。」
中村先生は3年前に大学を卒業後すぐにこの病院にきたため、医院長先生より自分の方が歳が近い。歳の差を感じさせないこの仲の良さは医院長先生の人柄だろう。ちなみに中村先生を日向さんに推薦したのは、うちの母さんらしい。自分は中村先生が大学生の時からの付き合いで、大学在学中に色々と面倒を見てもらっていた。その関わりもあり、母さんは中村先生を日向さんに推薦したのだと思う。故に、中村先生はうちの母さんに頭が上がらない。就職先を進めてきてくれた人だからだ。すぐに就職先が決まって、じっくりと論文を仕上げることができ、医師免許の勉強も捗り、見事一発合格だったらしい。
「大丈夫ですか?何も食べてないって。これから運動するんですよ?」
「問題ないよ。朝はもともとスムージーしか飲まないから。」
どこぞのOLかとツッコミを入れたくなるが、お医者さんが健康に気を使うのは当たり前のことなのかもしれない。お医者さんが不健康なら患者さんに対して説得力がなくなる。
「そうなんですか。でもしっかりと水分補給だけはしてくださいよ。まだ4月なのにかなり暑いですから。」
「わかってるよ。今日倒れてしまったらせっかくの寛くんの料理が食べられなくなるからね。」
そういって自分の方に向けてウインクをしてきた。綺麗な、もしくは可愛い女の子のウインクだったらご褒美だが、いい歳のおじさんのやつはちょっと。
「なら準備しよっか。もうみんなグラウンドで待ってるだろうから。」
そういうと、せっせとグラウンド内に入っていった。グラウンド内に入ると、見たことある顔がちらほら。あまり話したことはないが、日向さんとよく一緒にいるところを見られていたり、花屋に来店してくださった人もいる。自分が打ち解けるのはあまり時間がかからなかった。
「寛くんってさ、甲子園出たことあるんだろ。」
野球好きが集まると当然この話題は出てくる。全国で野球をしている人にとってはそれほど憧れの地なのだろう。改めて甲子園に出るってことはすごいことなんだと実感した。
「21世紀枠でしたし、3回戦で負けてしまいましたけど。」
「でもすごいよ。実は実際に見てたんだよ。テレビでだったけど。近所の高校が甲子園にでるってだけでかなり興奮してさ。応援してたんだよ。」
「ありがとうございます。改めて今日はよろしくお願いします。」
一通り会話を済ませ、アップを始めた。
今日の対戦相手は、近所の商店街のチームらしい。久々に野球ができるということで自分はかなり興奮していた。しかし、無理はしないようにと母さんから念押しがあったため、投げるのは80球前後、全力投球はなるべく避けるようにしなえれば。
試合は進み、6回から自分がマウンドへ。そこそこ打てれてしまったものの、試合には勝つことができた。
「いやー、寛くん大活躍だったねえ。」
ニヤニヤしながら日向さんが近づいてきた。
「みなさん上手でびっくりしましたよ。自分も打たれてしまいましたし、本当に助かりました。」
「そうだろう。なぜかうちの病院には野球好きが集まってね。みんなそこそこの高校で真剣に2年半野球してた人ばかりだから。」
「いや、日向さんが面接するときに野球好きかどうか聞いてるって、中村先生から聞いたことありますよ。それで合否が決まることもあるらしいじゃないですか。問題にならないんですか?」
「あらバレてたか。まあいいのいいの。経営者は私だしね。寛くんもわかっているだろうけど組織を動かすにはみんなに何か共通点があることが望ましいでしょ?目標とかそんな堅苦しいものではなくて好きなスポーツがうちの病院での共通点なわけよ。長く一緒にやるには硬い共通点では長くは持たないからね。自然に会話も増えるし、先生の連携もうまくいくのよ。」
日向先生の言うことはたまに芯をくっていることがある。確かにこの病院の先生方は仲が異常にいい。
「そういうものですかね。自分はあまり会社の方に行かないのでわかりませんけど。経営自体は他に任せてますし、うちがそういう組織だったら嬉しいですけどね。」
「寛くんそろそろ。君のこと送らなきゃいけないから。」
「わかりました。すぐに向かいます。」
中村先生に呼ばれ、病院の先生方、試合相手の方々に挨拶をして一足早く家に帰った。家に着いたのは、5時半ごろだった。
家に着き、まずはシャワーと着替えを済ませた。母さんのことを確認してから、今日の夕食の準備をすぐに始めた。途中、母さんからコーヒーとお菓子の要望があり、それを届けに行ったりもした。朝に準備をしていたおかげで唐揚げは衣をつけてあげるだけ、味噌汁も長ネギを切って炙り、味噌汁に入れるくらい。揚げ物なので少し時間はかかるが、手順が簡単なのであまりストレスにはならない。うちの唐揚げは、山椒を入れて香りをよくする。山椒の香りであまり脂っこく感じないので好評だ。
料理を始めて、30分後の6時ごろ、家のチャイムが鳴った。
「母さん。きたみたいだからお出迎えして。こっち今手が離せないから。」
「了解―。こっちでしゃべってるから、できたら呼んで。」
野球の時に聞いていた時間通りに3人はきた。数分後にキッチンからは見えない客間で母さんと日向さんの笑い声が聞こえる。お茶でも運んだ方がいいのかなと思い、客間に向かった。
「失礼します。お茶持ってきました。」
客間に入ったら少し異様な光景だった。母さんと日向さんだけが喋っていて、結さんと中村先生がその場に居づらそうに正座をしていた。
「お、気がきくじゃない。それよりまだなの?お腹すいちゃった。」
「もう少し待って。あと5分ぐらいだから。」
お茶を置いて、すぐにキッチンに向かった。どうも、あの2人は話についていけてないみたいだし、あとの2人は話が終わりそうもない。早く作り終えて自分が入った方がいい。中村先生は母さんに強くは言えないし日向先生は直属の上司だ。肩身が狭いのもわかる。結さんはあの性格上話すのは無理だろう。母には5分と言ったものの、急いで3分ほどで完成させた。ちゃんと仲間で火が通っているから大丈夫だろう。
「母さん。できたからみなさん案内して。」
キッチンから母さんに向けて、少し大きめの声で呼びかけた。話に夢中で囲えないと悪いから。
「わかったー。」
明るく母さんは答えた。
食事を始めると、あれだけ話していた母さんと日向さんも食べることに集中した。時折、4人の口から美味しいという言葉が聞こえたので内心とても嬉しかった。自分が4人の中に入ることで会話に入ることができていなかった結さんと中村先生も会話に参加し始めた。
「それにしても寛くんは料理上手だね。」
「知り合いのプロの料理人に教えてもらいましたから。中3の夏休みから卒業までの放課後ほぼ毎日。」
「おかげで食に興味のなかった、うちの家族が食に興味を持つようになったの。寛以外うちはろくに料理できないからね。私も寛に教わるようになったのは最近で、他の家事はみんなで分担するけど、料理ばかりは練習しないといけなくて。こればかりは寛に頼りっきりで。」
「1人で毎日3食作るのは大変なんで、母さんの創作の息抜きがてら料理でもしてみたらっていうことで自分が教えるようになったんです。こっちとしては負担が減るし、手伝ってもらえるので一石二鳥なんですけどね。」
話の内容も、こう言った世間話がほとんどだった。
食事が終わり片付けをしていると、母さんに呼ばれた。さっきまでと全然違う顔で。
「あの話するけどいい?辛いなら自分の部屋に戻っていいからね。」
自分のことを心配するのも無理はない。以前、会話の最中に過呼吸になってしまったことがあり、母さんは少しトラウマになってしまったらしい。そうなるのなら話さなければいいと言ってしまえば話は早いのだが、自分たちの特殊な関係性を理解してもらうためにはその方が手っ取り早い。色眼鏡にみられることも避けられる。特殊な関係性なため、途中人伝いで知るよりも、自分達から話した方がリスクが少なくてすむ。今まではありがたいことに自分のことを特別扱いや関係性を切ってくる人は現れなかった。とはいえ、そのことを知っているのは、限られた数人。親友とゼミの先生、今ここにいる中村先生と母さんがよく相談していた日向さんくらいだろう。今回はおそらく結さんがターゲットだろう。他の2人を呼んだのは結さんの負担を少しでも抑えるため。自分と関わっていくには、いくつか知ってもらわなければならないと母さんはいう。確かに特殊な過去を持っているが、そんなに関わりにくいかなと少し傷つく。
「話があります。座ってください。」
母さんが真剣な顔をしていきなり呼びかけるので、周りの空気が少しピリッとする。母さんの呼びかけに応えるように3人はそれぞれ座る。中村先生と日向さんは何か察したみたいだが、突然周りの空気が変わったことに結衣さんは戸惑っている。
「結ちゃん、あまり緊張しないで。でも聞いて欲しい話があるから。寛も来なさい。」
「寛くんいて大丈夫なんですか?」
「大丈夫だと思う。あれから時間も経っているし、あなたを呼んだ一つ目の理由はこの子がどれだけ過去と向き合えているのかみてもらうためだから。」
「わかりました。でも危ういと思ったら自分が止めます。いいですか?」
「構わないわ。その時はこの子を退席させるから。寛も辛くなったら退席していいし何か言いたいことがあったら言ってね。これはあなたのためでもあるんだから。」
正直気がおもい。思い出したくもない過去消し去ってしまいたい過去を、改めて確認するようなことだから。でも甘えたことも言っていられない。過去との決別ではないが、今の自分を形成しているほとんどの理由が過去にあることは自分でもわかっている。これから、人として生きていくために必要な試練だと思っている。
「さて、役者も揃ったところですし、今回は結ちゃんに向けての話なんだ。」
「私ですか?」
「そう。あなた以外はある程度知っているから。この子のこと。薄々気づいているかもしれないけど、この子は、うちの子供ではないの。」
「はい。なんとなくわかってました。寛くんは渡邉。でも、お母さんは佐々木。苗字が違うのでなぜかなって思ってました。」
やっぱり気づいていたかと言いたそうな顔をしていた母さんだが普通に考えたらわかることだとは思う。苗字が違う子を息子だということには違和感だらけだ。
「まあ、私の前にも2人いるんだけどね。母親が。」
この母さんの発言に結さんは少し戸惑っていた。
「これは寛から説明してもらった方がいいかもね。ほらリハビリになるし。」
中村先生も自分を気遣って心配そうにしているが、倒れたのは随分と前のこと。高校入ったばかりの頃だ。心配ない。
「そうだね。もともと、僕は渡邉寛ではなく、上野慎太郎。渡邉寛は2人目の母がつけてくれた名前。一つ目の名前は訳あって捨てたんだよ。昔の家族は全員もうこの世にはいないけどね。」
周りの空気がどんどん重くなるのが感じ取れた。無理もない。聞いていて気持ちのいい話ではない。
「僕がもともと産まれた家は、父親が教育学者、母親が小学校の先生、5つ下の妹の4人家族でした。母親は父親が大学で教えていた生徒でした。大学在学中に僕を妊娠、卒業後にすぐに就職せず、僕を育てました。僕が3歳になった時、母親は近所の小学校の非常勤講師として働き始め、自分が5歳になった時に、妹の香が生まれました。僕が家族と別れるきっかけになったのは僕が8歳、香が3歳の時でした。それは、、、」
自分が言葉に詰まると、母がそれを察し、自分の肩に手を置いた。
「これは私から話すわ。寛は無理しないで。」
自分は軽く頷くことしかできなかった。自分の心臓が一段と懸命に動くのがわかった。息も少し荒い。まだ自分は受け入れることはできていないのだと実感を持った。
「心中したのよ母親が。寛が何よりも愛しく思っていた香ちゃんとね。その時の状況を私は直接見たわけではないけれど警察の人の話では、お風呂場で亡くなっていた香ちゃんの首には刃物で切られた跡が、母親は自分の手首を切り、湯船にお湯を浮かべて血が固まらないように手首を入れていたらしいわ。寛が帰ってきた時にはもう手遅れで、風呂場で大きな声で泣き崩れる寛を近所の人たちが見つけて警察に通報したのよ。そのあとに警察の人が家の中を調べている時に母親の遺書が見つかったの。」
遺書には母親が香とともに心中した理由が書かれていた。父親の母親に対する暴力と香に対する虐待。自分は知らなかった。父親は自分には優しかった。父親のそんな姿を見たことはなかった。自分が見ていた家族の姿は偽物だった。
「唯一の肉親になってしまった父親も、遺書の影響で裁判になったの。そこから、警察の捜査で色々と父親の不祥事が表沙汰になったわ。大学の資金の横領、生徒に対する暴力、女子生徒に対するセクハラなどなど。あげるときりがなかった。当時、ニュースにもなったわ。」
「知ってます。あまりにも近所の事件だったので。」
「ニュースの報道後、保釈された父親はその日のうちに家の中で首吊り自殺したわ。寛は保護施設に預けられていたから父親の姿を見ることはなかったの。」
父親が自殺したと聞いたときはあまり悲しくはなかった。むしろ、どこかうれしかった。香を間接的に殺した張本人が死んだのだ。そんなやつを自分は許すことは今でもできない。したくもない。もちろん父親だけではない。むしろ母親に対する恨みの方が大きかった。なぜ自分も一緒に連れて行ってくれなかったのか、なぜ香と一緒の必要があったのか、なぜこのことをもっと早く言わなかったのか。考えれば考えるほど恨みや怒りで気がおかしくなりそうだった。
「両親と妹のお葬式の時に寛をどうするのかを親戚で話し合ったらしいわ。多額の保険金が入るわけではなかったから親戚中で幼い寛を押し付けあったの。そこで寛を引き取ったのは私の親友で寛にとって2人目の母になる渡邉小百合だった。」
両親は火葬して散骨、香は保険金を使ってある会社に頼み骨から宝石を作ってもらいペンダントにした。いつでも自分と一緒にいれるように。2人目の母は1人目の母のいとこだった。お葬式まであったことはなかったけど葬式の時はずっと自分の隣にいてくれた。自分が泣いた時には優しく頭を撫でてくれた。優しかった。母さんは結婚していたけど、子供に恵まれなかった。2人揃って治療をして、ようやくできた赤ちゃんを流産してしまった直後だったらしい。本当の自分の子供のように自分を愛して、育ててくれた。
「小百合とは中学校からの同級生で大学までずっと一緒にいたの。学部も同じ看護学科で部活は美術部。私は卒業後、看護師になって、小百合は数々のコンクールで賞をとっていたからその才能を認められて画家に。結婚しても家が近所だったからよくあっていたわ。私が真心を妊娠したことも自分のことのように喜んでくれた。だからこそ、小百合たちに子供ができないのが私も辛かった。」
うちには、自分を挟んで2人姉妹がいる。もちろん自分とは血は繋がっていない。姉は一つ上、妹は一つ下。2人の母さんが花のことが好きだったということもあって、姉はタンポポの花言葉から真心、妹はマリーゴールドの花言葉から愛という。今は父さんと一緒に海外へ行っている。
「うちの子供に名前をつける時に相談に乗ってくれたのも小百合。もし男の子ができたら、寛って名前をつけようって話していたの。そしてこの子が小百合の家に来たの。寛が小百合たちの家に来る時に、精神科の先生の勧めで名前を変えることを裁判所に許可を取りに行った。あの事件は幼かった寛にはあまりにもショックな出来事。今後トラウマになってしまう可能性だってある。だからこそ、全く違う人間になってもらうために名前を変えることを勧められたの。そこからこの子は正式に渡邉寛という名前の人間になったわけ。」
自分の名前は白い紫陽花の花言葉から来ている。2人で話していたもしもが自分になったわけだ。ちなみに渡邉は父型の姓だ。
「もちろん名前が変わったからと言って、そう簡単に過去の清算ができるものではなかった。何年も精神科に通ったり、一緒の時間を共有したり。時間がものすごいかかったわ。真心と愛ともよく遊んでくれた。小百合が『1人より2人、2人より3人。この子の傷を癒すためにはたくさんの人の協力と愛とつながりが必要なの。真心ちゃんか愛ちゃんが香ちゃんの代わる存在になってくれれば私は嬉しいんだけどね。』ってよく言っていたわ。父親同士も仲が良くて、2人でよく飲みに行ってたらしいわ。」
2人目の父の渡邉亮介は医者だった。母さんの就職先の大学病院に新人医師として勤務していた。年齢も2つ上というだけで、母さんの持ち前の明るさと人懐っこさですぐに仲良くなった。今の父さんは2人目の母さんと仕事の依頼で出会った。
「歳も近かったし、念願の子供と男の子だったから寛の事2人でとっても可愛がっていたわ。嫉妬しちゃうくらいにね。この子が野球を始めたのは2人の影響ね。でも幸せは長くは続かなかったの。月日が流れて寛がようやく壁を乗り越えかけた中学校3年生の8月だった。県大会の応援のために2人が試合会場に向かっている時だった。」
この時にはすでに複数の高校から声がかかっていた。進学先も決まっていて、大会に向けてかなり熱を入れていた。父さんも母さんもそんな自分を応援したくて病院を休んでまで応援にきてくれるということだった。
「交通事故に遭ってしまってね。亮介さんは意識不明の重体、小百合も重症だった。小百合のお願いで寛にこのことが伝えられたのは試合終了後だったの。試合終了後、すぐに寛は病院へ行ったわ。」
病院に着くと事故の経緯が説明された。事故の原因は対向車の逆走およびアクセルの踏み間違い、高齢者による運転だった。相手は事故後即死、車も大破、事故の大きさを物語っていたという。2人とも集中治療室に入り、面会できる状態ではなかった。
「寛が着いてから30分後に私たちも病院に着いたわ。この子のことは小百合から聞いていたからほっておけなくて私と真心とで寛に会いに行ったの。」
父さんは心破裂によって保ってあと1日。母さんも出血が多くて生きていることが不思議だったらしい。輸血が必要なのだが母さんの血液型がAB型のRhDマイナス2000人のうち1人しかいない珍しい血液型だった。今思えばよく母さんは献血に行っていた。私の血液は貴重だからと言って。母さんが運ばれた病院にはAB型のRhDマイナスの血液のストックはなく、血液が足りなかった。肉親であればもしかして、ということがあるらしいのだが自分は母さんの本当の息子ではない。この時ほどこの家に本当に生まれたかったと思った。
「亮介さんはそのあと手術を行ったけど手の施しようがなかった。次の日の昼に集中治療室の中で亡くなったわ。小百合の方は周辺の病院から血液を集めたのだけどそれでも足りなくてね。どんどん弱っていくのを私たちは見ることしかできなかった。」
いよいよというところで母さんの願いで特別に自分と佐々木の母さん、真心が面会できることになった。母さんの最後の言葉は今でも自分の中にある。
『人はね辛い思いをした分、優しくなれるのよ。こんな辛い思いばかりさせてごめんね。でもその分誰かに優しくしてあげて。流した涙の倍人のこと笑顔にしてあげてね。乗り越えてね。あなたには後ろにいる2人みたいな繋がりがあるから。1人じゃないんだよ。あなたが息子で本当に良かった。あなたとの時間幸せだったわ。ありがとう。』
その言葉を最後に母さんは息を引き取った。
「小百合たちが亡くなったから1週間後に2人の葬儀が行われたの。そこでまた寛を誰が引き取るのかという議論になったのだけれど、1人目と違って小百合たちは自分たちが死んでも寛が困らないように多額の生命保険を自分たちにかけていたの。その保険金欲しさに今度は寛の取り合いが始まったの。寛はまだ事故のショックを引きずっていたからその場では発言しなかったの。それを見かねたうちの真心が20人はいる大人に向かって説教かましたの。」
その時の記憶はあまりないが最後の言葉だけは覚えている。
『もういい。寛は私がもらう。結婚してずっと寛の隣で寛を支える。好きだもん。』
高校1年生で、性格はおとなしい真心が言った告白に自分は驚きを抱いた。当たり前に隣にいた幼馴染の意外な言葉にドキッとした。
「我が娘ながらなかなかやると思ったわ。小百合たちの死で何か大切なものに気づいたんじゃないかしら。その言葉で大人が黙っちゃってね。話がいろいろ進んでうちが引き取るという形になったの。養子ではなく、居候としてね。」
養子にならなかったのは結婚するのに面倒だからということもあったが一番は母さんたちとの繋がりが欲しかったから。自分の名前は2人の母さんからもらった一番大事なものだから。
「保険金で高校、大学までの資金は十分だったし、寛に使って欲しいということでうちの会社の設立費にもなったわ。そういうこともあってこの子はうちの重役。主に人事の責任者なのよ。結ちゃんに最初頼んだのはこの子が会社に月一くらいで出勤しなきゃいけないから。そのことについても案があるからあとは寛に聞いてね。」
話が終わると案の定泣いていた。胸にあるペンダントを握りながら。人前で泣くのは好きではないし恥ずかしいのだがこればかりは仕方ない。
「ということでここまでがうちの歴史。寛はこのあとの話聞いて欲しくないから自分の部屋に行ってね。」
いつもこの話の後は母さんに部屋に行けと言われる。話を聞いた人にも何を話されたかというのを聞いても答えてはくれない。盗み聞きしようとしたが母さんにバレてからやったはいない。自分は自分の部屋に戻るしかない。
「わかったよ。終わったら呼んでね。」
涙を拭き自分の部屋に戻る。
「さて、寛が居なくなったところでここからが本題ね。ここからは日向さんにも相談はしてないから。まずどうだった結ちゃん?寛の過去。」
「・・・。」
「まあ無理もないわ。結構壮絶といえば壮絶だから。でも、寛に対する態度は変えないでね。あの子そういうことに敏感だから。」
「わかりました。」
「さて本題ね。これからあの子と関わっていくには知っておいて欲しいことだから。あの子のためにも、ここにいる他の人のためにも。」
「中村くんはこれから話してもらうこと知っていたのか?」
「はい。佐々木さんから寛くんの相談を受ける時に知りました。」
「あの子はね、過去のこともあるけどそれ以前に人をよく見ることができるの。それもただ見ているだけでなくて容姿や服装、態度や口調までしっかりと把握してしまうの。無意識にね。」
「それに加え、過去の経験があるので自分が傷つくのを極端に恐れてしまうため余計に寛くんは人を見て判断して行動に移してしまいます。寛くんが問題なのは過去の経験から何より人との繋がりを失うことを恐れてしまう傾向があります。」
「高校の時に寛が緊急搬送されたことがあったの。部活での怪我ではなくて、一般生徒とのトラブルだった。ことの発端は妹の愛が受けていたいじめだったの。愛は結構ものをズバズバ行ってしまう性格で仲間も多かったんだけど敵も結構多かったわ。寛が高2の時にたまたまいじめの現場に遭遇してしまって、その時一緒にいた友達に携帯で動画の撮影と先生に連絡して欲しいと頼んでいじめの間に入ったの。男3人組で愛を囲んで今にも殴りそうな状況の中に寛が入っていった。寛はこの子たちがいると愛が危ないと感じたんじゃないかと思うんだけど、わざと挑発して自分に手をださせたの。そこで寛は袋叩きにあって骨も数本折れていたわ。駆けつけた先生方に止められてようやく暴力が終わり、その子達は友達が撮っていた動画が決め手になって逮捕。退学になって結果的に愛の目の前からいなくなったわ。病院で寛から話を聞くととても満足そうに笑顔で話していたの。下手したら死んでいたかもしれないのに。」
「寛くんの過去のことも知っていたのでここで確信しました。この子は自分の命よりも繋がりが大事なんだって。繋がりを守るためならなんだってするって寛くん自身も言ってましたし、特に愛ちゃんと真心ちゃんのためなら方法は問わないって。」
「この事件以降うちの中がかなり複雑になってしまってね。愛まで寛こと好きっていうのよ。日本じゃ重婚は認められないし、真心の気持ちを考えたらって思ったんだけど真心もいいよって。私たちも反対したんだけど真心に言いくるめられちゃって。日本には今事実婚っていう便利な言葉があるじゃない。経済力があるから大丈夫っていうんだけど、内心複雑で。小百合の願いもあるし、寛はどうするって聞いたら、アッサリ受け入れるんだもの。」
「それは自分も知っていたよ。佐々木さんからよく相談されていたから。そんなバックグラウンドまでは知らなかったけどね。」
「どう転ぶかわかりませんし本人たちに任せてみてはという話だったんだけど、一緒にいるとき3人とも幸せそうなの。間に入る余地もないくらい。パパはいいじゃないかっていうけどもし子供ができたらって思うと心配になっちゃって。あ、ごめんなさい。結ちゃんに話したいことはこのことではなくてね。」
「大丈夫です。寛くんのこと知れましたし。」
「あの子は正しく使えればむしろいい方向に迎えるわ。間違った時が問題なだけ。まあ回りくどい昔話はここまでにして結ちゃんにお願いがあるの。あの子の過去を知っているから頼めるんだけどあの子が変な行動とり始めたら私に連絡ちょうだい。それとうちの愛を雇ってくれない?」
「人手が足りないと寛くんとも話してましたしいいですけど、愛ちゃんはいいんですか?大学とか就活とか。」
「全然問題ないわ。単位取り終わってるし、うちの会社に就職することは決まっているから。あの子の監視にもなるしね。」
「ではよろしくお願いします。」
「ということはうちにも寛くん貸してもらえるってことでいいかな?」
「それは寛に聞いてください。本人もやりたそうだったのでいいとは思いますけど。」
「じゃあ決まりだね。」
自分がリビングから離れてから30分後くらいに呼ばれた。どうやら話は終わったらしい。なんの話かはわからなかったがさっきまでの重い空気は何処へやら。4人は笑顔だった。
週末明けの月曜日。話を聞いた後も結さんの態度は変わらなかった。むしろ前より明るく吹っ切れた感じだった。結さんになんの話だったが聞いたが教えてはくれなかった。そしていつの間にか愛がここで働くこと、自分が日向さんから受けていたお願いが聞ける環境が整っていたことに驚いた。
お店も軌道に乗り始めた開店から3週間後の4月の下旬。あれだけきれいだった桜も散り始めていた。客足もいつも通りほとんど病院関係者かお見舞いの人。自分も仕事に慣れてきて余裕ができてきた。結さんも最初の頃とはまるで別人のようになって、接客業をする人の顔になっていた。動画サイトで勉強していた甲斐あって自分の紅茶も人に出しても恥ずかしくないレベルまできていると思った。おかげでここ1週間めちゃくちゃな量の紅茶をのんだとおもう。そろそろ店を閉めようかという時に、1人来店してきた。
「結いる?」
と一言。久々に少し悪寒が走った。振り向くと、結さんのお姉さんだった。
「真由さん、いらっしゃいませ。結さんなら裏にいます。」
「あっそ。わかったわ。」
真由さんの目はあからさまに敵意むき出しだった。最初に会った時よりさらに鋭い顔で自分のこと見ていた。別に何もしてはいないし、嫌われる理由もわからない。内心複雑だった。数分後に裏から真由さんは威圧感たっぷりで出て行った。また睨まれた気がする。閉店準備をしていると、裏から結さんが出てきた。明らかに落ち込んでいる感じで。
「お姉さんに何か言われましたか?」
考え事をしていたのか、突然の自分の質問にビクッとしていた。
「ないもないよ。大丈夫。」
無理しているのはバレバレ。これは何か言われたのだろう。そういえば自分は結さんとお姉さんの関係性はあまり知らない。あまり家庭内の話をズカズカ聞くのも失礼だろうと思っていたが、ここまで敵意むき出しで見られたり、結さんの落ち込みようを見ていると気にはなる。
この日以降閉店間際になると必ず真由さんが来店するようになった。そして、毎回自分を睨んで結さんの元に向かう。結さんもあからさまにおかしくなっていた。就業中もミスが増え、笑顔も無くなってしまっていた。寝れていないのか目の下に隈が目立つようになった。心配になって声をかけるが大丈夫の一点張り。失礼だと思いつつも少し核心に触れるようなことを聞いてみた。
「お姉さんと何かありました?」
結さんは何も答えない。聞こえてはいるが答えたくないのだろう。ここで自分は冷静さを欠いていたと思う。あからさまに向けられる敵意に少しイライラしてしまっていたのだと思う。
「何も言わなかったらわからないじゃないですか。ここ最近の結さんみたら誰でもおかしいこと気付きますよ。今まで全くミスのなかった結さんが会計のミスに始まり、花束の注文のミス、発注のミス、不注意で花瓶も割りましたよね。何かあったなら相談してください。自分も力になりますから。」
「ああもう。うるさいうるさいうるっさい。だいじょうぶって言ってるでしょ。話しかけないで。」
初めて結さんに怒鳴られた。言った本人もやってしまったと言ったような顔をしていた。怒鳴られて自分も冷静になった。
「すいません。デリカシーのないこと聞きました。少し外の掃除してきますね。」
この場の雰囲気に耐えられなくなって精一杯の作り笑顔をしてその場を去った。この日はそれ以降会話はなかった。
真由さんが始めてきてから1週間が経った。4月の最終週の月曜日。上空にはヒツジ雲ができていた。いつもの時間に花屋に向かう。相変わらず結さんに笑顔はない。気まずい雰囲気は続いていた。会話もまちまち。業務的なものばかり。正直はじめのころより溝は深くなってしまっていた。今日も真由さんが花屋に来た。
「いらっしゃいませ。結さんならまた裏ですよ。」
「違うの。今日はあなたに用があるの。」
「はあ。ここでいいですか?片付けもあるので。」
「構わないわ。でもあまり結には聞かれたくないから単刀直入に言うわ。あなたここやめてくれない?」
突然のことで驚いた。この人が自分に好意的ではないのはわかっていたがここまでとは。
「突然ですね。どういった理由ですか?」
「そうね。あなたみたいな危険な人自分の近くに置きたくないのよ。だからやめて。できるだけ関わらないで。」
ここまで言われてしまうと逆に清々しい。どれだけ自分のことを警戒しているのか。嫌っているのかがわかる。
「そうですか。でも、自分は結さんに雇われている身。あなたにはその権限はないはずですよ。自分を解雇したいのなら結さんにお願いするのが筋じゃないですかね。」
「だからあなたに頼んでるのよ。結はおそらくあなたのことを自分から解雇することはない。あなたのこと信頼し、必要だと思っているから。」
「なら余計に自分がやめることはないです。必要とされているならなおさらです。」
必要とされているなら力になりたい。この仕事も楽しいと思えてきた。
「それはあなたのことを知らないからよ。あなたがどれだけ危険な人間か。」
真由さんは大きな声で自分に訴えかけてきた。ここまで言われてしまうとこっちも腹が立ってくる。
「俺のこと知っているような口ぶりですけど、あなたも俺のこと知ってるんですか?後あまり大きな声を出すと結さんに聞こえますよ。」
「もちろん。佐藤さんに調べてもらったから。それにあなたの大学の教授の中に私と仲良くしてた人がいたから、大学時代に問題になったあなたの卒論の内容も知ってるわ。それがあなたのこと危険な人間だと判断した一番の理由よ。」
佐藤さんがどういう人かわからなくなってきた。ただの秘書とは違うらしい。どこから漏れたのかわわからないが今後警戒したほうがいいかもしれない。
「そうですか。あの論文捨ててなかったんですね。確かにあれはかなり問題になりましたし、普通危険人物だと思われても仕方ないかもしれませんね。」
当時、教授会でかなり問題になったらしい。あまりにもリアルで実現できそうだったこれを認めるわけにはいかないということで最初の論文は却下されて、急ピッチで当たり障りのない普通の論文を書き上げて無事に卒業できた。今考えると認められるわけがない『人を自分の手を下さずに殺す方法』など。
「そう、だからあなたにはここにいて欲しくないのよ。」
「そうですか。でも今は自分からやめることはしません。あなたから聞いた必要とされているという言葉が嬉しかったので。必要ならいますし、やめてほしいと言われたらやめます。ここでは結さんの判断に自分は任せたいと思ってますから。」
「やめる気がないなら結に頼むしかないか。時間取らせたね。」
そういうと真由さんは帰っていった。振り返り店のバックグラウンドに行くと、結さんが隠れていた。
「どこから聞いてましたか?」
気配は感じていた。話を聞かれている感覚も持っていた。
「最初から。今日はお姉ちゃん来ないのかなって店の中見にいったらちょうど話してたから。ごめんね。」
「謝ることはないですよ。実は慣れっこなんです。嫌われるの。大学時代はあまり友達いませんでしたし、変人扱いもされてきました。」
「でも身内がひどいこと言っちゃてたから。お姉ちゃん私のことになると後先考えずに行動しちゃうから。あまり気にしないでね。あと寛くんのことやめさせるつもりはないよ。そんな考えを持っていても、ここまで自分がこの店を続けてられているのは寛くんのおかげもあると思っているから。」
と、結さんはいうが、自分はきっかけになっただけ。結さんが変わったきっかけは恐らく日向さんと自分の関係性だと思う。実の父親と仲が良くて、えらく自分の能力をかっている。父親に対する態度は少しあれだが信頼しているのだろう。自分を変えられるのは自分だけというのはまやかし。変わるきっかけは必ず自分を取り巻く環境が変わり、それに対応しようとするから。結さんはおそらく、自分のテリトリーの中に異物である自分が入ったことによって環境の変化を感じてその変化に対応しただけ。異物である自分も受け入れてくれた
「でもやめたかったらやめてね。寛くんには他にも必要とされているところがあるんだから。」
「やめませんよ。必ずとは言えませんがここ好きですから自分。やめる方が勿体無いですしやめたくないです。」
自分の言葉を聞いた結さんは笑顔だった。
次の日から真由さんがうちに来ることはなくなった。確かに花屋の閉店間際だとあまり話す時間は取れないし、万が一自分が会話の中に入ってきたら面倒でたまらない。今ならスマホもあるし、いくらでも連絡手段はある。姉妹なんだから会おうと思えば会えるだろう。結さんは不安がなくなったのか、目の隈もミスもなくなり、笑顔と会話が増えた。少し以前と違うのは、どこか自信に満ちているところか。
ゴールデンウィークを3日後に控えた5月の初め。うろこ雲が空を覆っていた。店に入ると結さんがマスクをしていた。少し咳き込んでもいた。
「どうしたんですか?風邪ですか?」
と、聞くとガラガラの声で話し始めた。
「違うの。昨日お姉ちゃんと喧嘩しちゃって。初めて大きな声で言い合いしちゃったから喉潰しちゃったの。今まで喧嘩なんてしたことなかったから喧嘩の仕方わからなくて一方的に怒鳴り散らかしちゃった。」
きっと喧嘩の原因は自分だ。少し罪悪感があった。悪いことしたなっと。
「そうだ。今日は病院内の花を変える日だからまたお願いしてもいいかな?前と同じように医院長室に請求書置いてきて。」
「わかりました。時間はお昼すぎくらいでいいですかね。結さんの声がこの状態ですし。」
「そうならよろしくお願いね。今日は接客も任せていい?」
「構わないですよ。」
喉を潰してしまった結さんはカウンターに座って会計を自分が接客を中心にした。極力結さんが喋らないように質問なども自分が答えた。カウンターには『今日は声が出ません。お手数かけますが質問などはもう1人の従業員にお願いします。』と、注意書きを置くことにした。こうすると会計の時も会釈だけで済むだろう。
時間が過ぎお昼頃。結さんは病院内に飾る花の準備に取り掛かった。前同様生花をひと組だけ作り、あとは造花。今回の花は紫陽花が多かった。季節的にぴったりのセレクトだった。気持ち白が多い。結さんは振り返り、自分の顔を見て笑った。おそらく自分が白い紫陽花が好きなのを覚えてくれていたのだろう。少し嬉しかった。
お昼が過ぎ、お客さんの数も随分減った。どうやら休憩時間は終わったようだ。自分は結さんが準備していた花たちを持って病院へ向かった。病院内にも顔なじみが増えて色々な人から挨拶をされるようになった。看護師さんやお医者さんと話しながら指定の場所に花を飾っていった。最後に医院長室に生花と請求書を置いて店に戻ろうとした。そこに就業中にも関わらず、真由さんが自分の診察室のない4階にきている。気になって後をついていくことにした。真由さんは階段を使い屋上に向かっていった。外は雨が降っていた。屋上にでると階段のすぐそばにある手すりに手をかけ、乗り越えようとした。
「ちょっと。真由さん何を・・・」
と、言いながら真由さんとの距離を急いで詰めた。自分の存在には気付いたようだが真由さんは動きを止めることはなかった。手すりを飛び越えた。間一髪手すりに身をあげて、真由さんの手首に届くことができた。
「な、なにしてるんですか。死んじゃいます。やめてください。」
「死なせてよ。死なせて。」
「死なせるわけないでしょ。」
真由さんは爪を立てて自分の手を解こうとする。ただでさえ、雨の影響で滑るのにと思いながら必死で耐えた。すると体勢が悪かったことと、雨の影響で手すりから手がが滑ってしまって、真由さんと一緒に落ちてしまった。真由さんを抱えて、自分が下になり、運よく車の屋根の上に落ちた。車がクッションになり、最悪の事態は避けれたと思う。すごい音が響いた。左腕の感覚がない。血が流れているのもわかる。真由さんは衝撃で気を失っている。見た感じ外傷はない。だんだん意識も薄くなってきた。誰かの声も聞こえるが意識を保つのが限界になっていた。冷たい雨が自分に降り続けた。
気がつくと白い天井が見えた。左腕が動かない。呼吸も苦しい。どうやら呼吸器がついているようだ。心電図の音だけが聞こえる。しばらくするとありとあらゆる部分が痛かった。どうやら助かったらしい。ここは病室かな。どうやら左腕が折れてしまっているらしい。ギブスが巻かれているのがわかった。痛みに耐えながら少し体を起こすと、自分の右手を握っている人がいた。母さんかな。そこだけシーツの色が濃かった。右手を離し、頭を撫でていると母さんが起きた。顔をぐしゃぐしゃにしながら勢いよく抱きつかれた。
「痛い、痛い、痛い。母さん痛いよ。」
「よがった。本当によがった。」
泣きながら自分を抱きしめ続けた。左腕は動かないので右手で母さんの頭を撫で続けた。しばらくすると母さんが自分から離れてナースコールを押し、日向さんと結衣さん、中村先生、おそらく執刀してくださった先生が部屋に入ってきた。
「まずは君の体の状態を知ることが必要かな。君が落ちたのが2日前。今君は全身の打撲と左腕、あばらが2本折れている。屋上から落ちてこの怪我で済んだのは奇跡だよ。落ちたところと君が落ちた瞬間にとった受け身のおかげだね。左手の骨が貫通して、血がかなり出たけど落ちたのが病院で本当に良かったよ。輸血も大丈夫。ギブスを外すのにかなりかかるけど命に影響はない。明日、明後日には退院できるようにするよ。佐々木さんがいるから問題ないし、何より精神的にも楽だろ。まあ通院は必要になるけどね。」
2日も気を失っていたのか。これじゃあ料理もできないし、花屋の仕事もできないな。
「真由さんは大丈夫でしたか?」
「大丈夫だったよ。軽い打撲と擦り傷だけだった。しばらくは休みを取らなきゃいけないかな。これだけは言わせてくれるかな。」
日向さんは地面に座り、手をついて頭を下げた。
「本当にありがとう。そしてすまなかった。真由を救って切くれてありがとう。」
「そう謝らないでください。自分のとった行動に後悔はありませんしその行動が最善だと思ったから行なったまでです。真由さんに大きな怪我がなくてよかったです。母さん心配かけてごめんな。勝手に体が動いちゃったんだ。」
「知ってる。あなたそういう子だもん。でも、ここであなたが死んじゃったら小百合に顔向けできないし、それに残された真心と愛はどうするのよ。小百合の言葉忘れたの?あなたの命はもうあなただけのものじゃないのよ。真心と愛を誰がこれから守っていくのよ。失う辛さはあなたが誰よりも知ってるはずでしょ。」
「うん。だから動かないわけにはいかなかったんだ。」
自分の言葉を聞くと母さんはうん、うんと頷きながら泣いていた。
「どんな理由があったとはいえ、真心と愛を心配させることには変わりないんだからちゃんと自分から説明しなさい。あなたがよく言っている責任を取るのよ。」
「わかった。」
母さんと話している間もずっと日向さんは頭を下げていた。隣に居る結さんは涙を我慢しているようだった。
「日向さんもう頭あげてください。結果的には誰も亡くならずに自分が怪我しただけですみました。考えられる中では最高の結果だったと思いますよ。結さんもそんな悲しい顔しないでください。」
長い沈黙の後に日向さんがようやく顔を上げた。
「そうか。本当にありがとう。」
「お願いがあります。少しだけ結さんと2人にしてくれませんか?」
「わかった。では半紙が終わったら呼んでくれ結。」
そういって結さんと自分を残して3人は出て行った。
「2人にして大丈夫なんですか?」
「心配いりませんよ。あの子のことです。任せていいと思いますよ。何がしたいかは私が一番わかっていますから。先生、改めて手術ありがとうございました。感謝しています。」
「いいえ。見つかるのも早かったですし、出血は多かったですが臓器へのダメージはあまりありませんでした。ただ、左腕の骨が神経を少し傷つけてしまっていたので痺れや機能障害が起こるかもしれないので注意してみてください。では、私はこれで。」
「ありがとうございました。」
3人がいなくなり、少し静かになった。
「結さんそこに立ってないで座ってください。少し話しましょ。」
結さんが近づいてきて、病室にある椅子に座った。
「すいません。心配かけました。これでしばらく働けなくなっちゃいましたね。その間に愛のことよろしくお願いしますね。」
結さんは声を発することなく首を上下に動かした。
「今回の原因は自分にもあります。そんなに責任感じないでください。」
「でも、私がお姉ちゃんと話し合いしてればこんなことにはならなかったのかもしれないのよ。」
「たらればの話はやめましょ。例えそうだったかもしれないけどそんなこと誰にもわかりません。現実はお姉さんも自分も生きてる。ただし自分が怪我をしたということだけです。何も失ってないじゃないですか。まあ落下の衝撃で下にあった車は壊れてしまったと思いますけど。」
「うん。ありがと。お姉ちゃんを救ってくれてありがとう。」
結さんは立ち上がり頭を下げた。
「結さん聞きたいことがあって。ずっと引っかかっていたんです。前に話していた向日葵のこと嫌いな理由、きっかけはお姉さんですよね。向日葵の花言葉は憧れ。昔の自分を見ているみたいっていうことは結さんには憧れている人がいた。でも、その人と自分を比べて差がありすぎて見ることをやめた。結さん専門学校行く前は大学で医学部だったらしいじゃないですか。母さんから聞きました。お姉さんの背中を追っていたんですよね。」
結さんは少し話辛らそうだったが、重い口を開いてくれた。
「気付くよね。寛くんは人のことよく見える人だってお母さんも言ってたから。あまり思い出したくはないけれどそうなんだ。向日葵と自分が重なって、向日葵のこと見るのが嫌になっちゃったの。」
「だから、一度も病院の中に入ろうとしなかったんですね。本来なら、病院の花の発注も結さんがやるべきだったのだと思いますし、請求書もかなりの高額だったので責任者が行くべきだとは思ってました。母さんがかいた向日葵の絵が見たくなかったから。」
「そう。寛くんお母さんの絵をあまりひどくいうつもりはないけれど、あの絵がかなり大きいから余計に現実を突きつけられるみたいで嫌だったの。憧れの存在が自分の中でどんどん大きくなっているのを突きつけられているみたいで。」
「結さんにとって真由さんは憧れの存在だけじゃないですよね。幼い頃に亡くなったお母さんの代わりだったんじゃないかなって自分は思うんです。」
「そうなのかな?」
「結さんはどうかはわかりませんけど、真由さんはそういう意識だったと思いますよ。結さんには言ってなかったですけど真由さん初めてあった時から自分を見るときものすごい敵意むき出しだったんです。怖いくらいにね。今考えるとわかりますけどあれは自分が思う危険な人物が大切な人の近くにいることに警戒して、排除しようとしたのではないかと思ったんです。だから、自分をやめさせようとした。まさに子供を思う母親のように。結さん言ってたじゃないですか。自分のことになると真由さんは後先考えないって。まあ少し過保護ですけどね。」
真由さんと結さんは4歳離れている。もし、母親が亡くなったのが幼い頃でまだ結さんが母親が必要な年齢だった場合、お姉さんは自動的に母親のような態度をとって自分を押し殺してしまうことがある。父親が日向さんみたいに忙しい方ならなおさら。これなら結さんの人が苦手なのもある程度説明がつく。幼い頃から正しいコミュニケーションを取ってこなかった人、特に母親とのコミュニケーションが十分に行えなかった子供が大人になって人間が苦手になってしまうことが多々ある。結さんの場合、幼い頃に母親を亡くしているためにまだ精神の発達していないお姉さんが母親がわりをしなければならなかった。所詮子供同士のコミュニケーション、大人と子供では全く話が違う。真由さんも結さんとしっかりしなければと必死だったと思う。このことが今回のことを起こしてしまった原因だと自分は思う。まあ引き金になってしまったのは自分なのだが。
「真由さんは結さんの前では弱みを見せないで、しっかりしなければと思っていいたと思います。日向さんも手のかからなかった子だって。そうやって自分を押し殺してきたんだと思います。」
真由さんにとって、支えだったのは間違いなく結さんだろう。だからこそ、今回のことは真由さんにとって耐えられない苦痛だったのかもしれない。
「だから真由さんは結さんに依存していたと思います。結さんは自分のこと裏切らない、必ず自分のところに帰ってきてくれる、自分の考えを理解してくれていると。結さんから喧嘩をしたことがないって言ってましたし、自分から結さんが離れていくと思ってしまったのかもしれません。」
強がっている人ほど心は脆いもの。弱いものに補完して無理して強く見せることはよくある。真由さんは典型的なパターンだろう。結さんに依存して、自分を保つ。結さんが自分の考えられない行動をとってしまうとパニックになってしまう。喧嘩の時に結さんが一方的に怒鳴ってしまったのは真由さんが混乱していたからだと思う。
「単純に真由さんは結さんが自分から離れていくのが寂しかっただと思います。常に自分についてきてくれた自分の妹が自分の元から離れていくのが耐えられなかった。このままでは真由さんも結さんも辛いと思います。」
「・・・。」
「結さん、真由さんともう一度話してくれませんか?自分の気持ちを素直に。結さんにとって真由さんはもう憧れの存在ではありません。憧れと尊敬は違います。憧れはその人のようになりたいですが、尊敬はその人の弱い部分も受け入れてその人に感謝すること。結さんと真由さんは違います。このことが今の結さんに必要な考えだと思います。たとえ真由さんの背中を追っていたとしてもそこで考えてきたことや思ったことは違います。今現時点では全く違う職業に就いている。今の自分の考えだったり、感じてきたことだったり。真由さんと話して欲しいです。」
真由さんと結さんの関係を修復、改善するには結さんの力が必要不可欠だ。1度自殺に失敗してしまった人がまた同じようなことを繰り返してしまうことは多々ある。自分もここで真由さんに死なれてしまっては体を張った意味がない。
「わかったわ。お姉ちゃんと話してみる。私もこのままじゃいけないと思うし、寛くんに悪いからね。何よりも私とお姉ちゃんのために。」
「これは少しばかりのアドバイスですけど何か花を持って行ったほうがいいと思いますよ。話のきっかけと、今の結さんを表現するに一番いい表現方法だと思います。」
「わかった。やってみる。」
「頑張ってください。」
「うん。ありがと。」
そういうと結さんは足早に病室を出て行った。なんの花を贈るのか考えるのだろう。なんの花を贈るのかは想像がつく。結さんも自分と向き合うにはとてもいい方法だと思う。難しく考えずに素直になって欲しい。血の繋がっている姉妹なんだから。血の繋がりは自分が望んでなくても自然につながっているもの。嫌になるときもあるけど、どうやっても切れない強い繋がり。今の自分にはないもの。
結さんが出て行き、少しすると中村先生が来てくれた。
「目が覚めたんだね。心配したけど、どうやら大丈夫みたいだね。頭も働いているしね。的確な指示だったと思うよ。」
「聞いてたんですね。自分より中村先生が言ってくれれば信憑性も上がっていたと思いますけど。」
「君が言ってくれるから結ちゃんの心にも響いたと思うよ。君が言ってくれたから意味があることじゃないか。難しい問題だし、君1人に任せるのもどうかとは思ってはいたけど安心したよ。僕じゃできないカウンセリングだったと思うよ。感心しちゃった。」
「あまり褒めないでください。」
「結ちゃんが話し終わった後に真由先生に会いに行くんだろ?」
「そうですね。後始末というか、今後のために。ここで働くには真由さんの敵意はなくしておきたいですから。」
「そうだね。君にも資格があれば僕の右腕になって欲しいくらいだよ。」
「自分の力は自分の繋がりを守るためにあります。その中でも真心と愛のために。心理学も愛のために勉強したものです。それはいつになっても変わりません。自分は2人のために生きてます。前にも話しましたけどあの2人のためならなんでもします。」
「変わらないね。君の力なら多くの人の力にもなれると思ってるんだけど。君はそこに興味がないからね。勿体無い。」
「自分はあの2人に救われました。他がどうであれ関係ないです。自分は自分が大切の思うもののために働きます。」
これは結さんも中村先生も例外ではない。自分にとっては大切な繋がり。自分が一度失った繋がり。ようやく取り戻した繋がり。多分だが、中村先生の頼みなら聞いてしまうと思う。ここまでお世話になっているからこそ少しでも力になりたい。結さんも同様。中村先生の後ろで母さんが自分のこと見ていた。
「中村先生、母さんが自分に話があるみたいなのでいいですか?」
「そうだね。まだ目が覚めて2時間しか経ってないからお母さんも話したいこともあるだろうし。邪魔したね。また今度。」
そういって中村先生は出て行った。
「また褒められてたね。資格取ればいいのに。」
「身に余るものだよ。僕にはもっとやることがあるから。」
母さんとたわいのない話ができるのも今自分が生きているから。自分の行動には後悔はないが、冷静になったら怖くてたまらなかった。今、自分が幸せを感じれていることが嬉しかった。
「母さん。僕さ、もっと自分のこと大切にするよ。今幸せだもん。」
どうしても今は母さんに甘えたかった。母さんも少し驚いていたが受け止めてくれた。母さんに甘えることなんて今までなかった。心も体も少し疲れていたからだと思う。母さんと話しているうちにだんだん眠たくなってきた。
「気にせずに寝て。今はあなたと一緒にいたいの。」
そう言って母さんは手を握ってくれた。安心したのか自分はすぐに眠ってしまった。その間も母さんは自分の手を握り続けてくれた。
次の日。習慣でいつも通り7時半にはおきた。手を握っていた母さんは自分が寝ていた後に、帰ったらしい。個室なのでイヤホンなしでテレビを見ることができる。この時間はどこもニュースばかり。一つぐらい子供向けのアニメでも流せばいいのにと思う。しばらくすると朝食が運ばれてきた。病院のご飯は美味しくないとよく聞くが普通に美味しかった。1人で食べる朝食は実に7年ぶり。母さんたちの葬式の日以来だった。少し寂しかった。朝食後、スマホに2件通知が来た。今やほとんどの病院で普通にスマホが使うことが可能になった。医療機器の進化で電波による障害が出にくくなったのが理由である。だからこうして普通にスマホを使うことができている。今の時代これがないと不便でたまらない。スマホ依存とよく問題になるが制限しろという方が無理だ。1つ目の通知は母さんからだった。溜め込んでいた仕事があるから今日は夕方にしか行けないということだった。2日も自分につきっきりだったから仕方ない。意識も戻ったし安心して仕事に集中できるかな。2つ目は結さんからだった。お店はしばらく休み。今日の午前中に真由さんと話すようだ。メッセージと一緒に一枚の写真が送られてきた。その写真を見て、自分なりの答えが出せたのだなと安心した。
中村先生と日向さんがお見舞いに来てくれた。ちょうど日向さんに話しておきたいことがあった。
「日向さんお願いがあるのですが。」
「中村くんから聞いているよ。大丈夫。止めはしないよ。」
「ありがとうございます。真由さんの病室聞いていいですか?」
真由さんは大きな怪我はなかったが大事をとって入院している。怪我よりもおそらく精神的なダメージが大きいだろう。自分が会いに言っていいものか迷ったがこれからのためには必要だと思った。
「君が会いに行くのかい?真由をよこすけどいいの?」
「自分が真由さんに話があるので自分から行くのが筋だと思います。拒否されてこないってことも考えられますから。自分も動けないわけではないですしね。でもあらかじめ真由さんに伝えておいてください。」
「わかったよ。任せる。」
「ありがとうございます。いざとなれば中村先生に入ってもらいます。安心してください。」
「期待してるよ。」
自分が出るまでもなく、結さんとの話し合いでなんとかなればいいのだが、自分と真由さんの関係改善には至らない。真由さんの自殺は結さんで十分防ぐことは可能だ。だがまた、自分の影響で2人の関係が崩れないとも限らない。これからもここにいるには必要なのだ。
そろそろ結さんと真由さんの話も終わったかな。お昼ご飯が運ばれてきた。
「花屋さんが経営してないと、お昼休みに休憩するところがないのよね。」
いつも花屋に休憩に来てくれる看護師さんだった。
「すいません。すぐに元気になって開けられるようにしたいですね。」
「お願いね。でも無理はしないこと。けが人なんだから。」
「ありがとうございます。今度から自分の妹も働き始めるのでお願いしますね。自分よりできる子なんで期待してくださいね。」
「あらそうなの。期待しちゃお。」
そういって看護師さんは自分に手を振りながら病室から出て行った。明るい人だな。この病院には本当にいい人が多い。昼食を食べ終わると、佐藤さんが部屋にやってきた。お見舞いなら出来るだけまとめてきてほしいものだ。
「案外元気そうじゃない。4階の高さから落ちた人間だとは思えないわ。」
どうやら心配してきてくれたわけではないようだ。
「真由さんに自分のこと教えたのは佐藤さんでしたよね。」
「もう随分と警戒されるようになったわね。真由ちゃんに求められたから仕方なくてね。真由ちゃんは結ちゃんのこと大好きだから。」
「どこから仕入れたのかはわからないですけどあまり他の人に言わないでくださいね。」
「わかっているわ。個人情報をあんまりベラベラと喋らないわ。」
この人がどこから自分の情報を得たのかはわからないが、注意してみておいたほうがいいだろう。
「似てますね。自分たち。自分と同じものを感じます。」
「そうね。似た者同士仲良くしたいわね。」
仮面の被り合い。本質なんて見えてこない。似た者同士は確か。仲良くは・・・おそらくできないとは思う。
「真由ちゃんの元に行くのよね?」
「そうです。自分がここで働くために。」
「結ちゃんはあなたと関わって確かに変わったわ。明るく、人との関わり方も上手くなった。でもね、誰もがそう変われるものでもないのよ。結ちゃんより真由ちゃんは手強いわよ。」
「自分が真由さんを変えるわけではないですよ。変わるのは真由さん次第ですし、もし変えるきっかけになるのは紛れもない結さんですよ。」
「そうね。彼女を変えるのは結ちゃんしかいないかもね。だから、結ちゃんに先に行かせたんでしょ?私があなたでもそうするもん。」
「そうですか。」
佐藤さんはただ話しにきただけなのかそれとも念押しにきたのかわからない。
「まあ問題は起きないと思うわよ。君の選択は間違っていないもの。ただあの2人を傷つけることがあるなら容赦はしないわよ。」
「極力はそうしますけど、条件次第ですね。もし、結さんたちがうちの2人を傷つけることがあるなら容赦はしません。」
「それはお互い様ってことね。いいわ。」
「佐藤さんって読めなさ過ぎですよ。なぜか、結さんたちのことを自分の真心たちみたいな感じで思ってるってことはわかってますけど。」
「違うわよ。あなたたちはもっと深い関係性でしょ。私は真由ちゃんたちとは秘書と娘さん。繋がりの強さが違うわよ。あなたが最も大切にしてるものじゃない。」
「どこまで知ってるか不安になってきました。」
「さあ。あなたのこと調べてはいるけどどこまでが真実なのかわからないしね。その様子だと調べたことはあったっているようだけど。」
「聞いたわけではないのでわかりませんが確かな情報だと思いますよ。」
「そうよかったわ。」
佐藤さんと話しているとスマホに通知が来た。結さんからだった。
「結ちゃんから?」
「そうですね。終わったみたいです。よかったって来てましたよ。」
「そう。安心したわ。ありがとね。」
「自分は何もしてないですし、何も終わってませんよ。佐藤さんも手伝ってほしいくらいです。」
「私の出る幕はないでしょ。十分上手くやっていると思うわ。」
「ありがとうございます。
「私もそろそろ時間だから。感謝してるわ。これは本当よ。2人を助けてくれてありがとね。」
そう言い残して佐藤さんは部屋を出て行った。そろそろ自分も動こうかな。重い体を無理やり起こして真由さんの元へ向かった。午前中のうちに日向さんから聞いていた病室に向かう。確か4階の一番奥の個人部屋。4階は日向さんが担当している子供達のフロアだ。真由さんの病室に着き、扉をノックした。
「あいてるよ。早く入りなさい。」
訪ねてきたのが誰だかわかったような口ぶりだった。そういえば朝のうちに日向さんに頼んでいたな。
「失礼します。」
真由さんの病室に入ると、ベットの横にある花瓶には結さんが持ってきたであろう季節外れの向日葵が美しく咲いていた。
「お礼は言わないから。結がきたわ。あなたの差し金だったのね。」
真由さんの顔は泣いていたのであろう、肌が少し赤かった。
「話し合ってくださいとは言いましたけど、こう言えとは言ってませんよ。全て結さん自身の言葉です。花も持って行ったらとも言いましたけど、向日葵を選んだのは結さん自身です。」
真由さんは結さんが持ってきた向日葵を見て、
「あの子向日葵嫌いだったのに、どうしてかしらね。嫌がって病院にも入らなかったのに。」
向日葵を選んだ理由は言ってなかったようだ。
「向日葵に結さんは自分を重ねていたらしいですよ。太陽に憧れて諦めた向日葵と。自分が憧れていた真由さんと自分との差に苦しんでいたんです。その過去との決別のために選んだんだと思いますよ。」
「そうなんだ。知らなかった。あの子のこと自分が一番理解していて、あの子のためにって行動してきたつもりなんだけど。うまくいかないものね。あんたみたいに人の気持ちがわかればそんなこともなかったのかな。」
「自分も人の気持ちなんてわからないですよ。自分はただ人の特徴をとらえることが得意なだけで、そこからあとはあくまで推測です。自分が思った通りに物事が動くことなんて稀です。100%他人のことを理解するなんてできないですよ。だから話し合うんだと思います。少しでもお互いのこと理解するために。話さなきゃわからないことだらけです。」
だから結さんと話し合って欲しかった。大人になるにつれて会話も減ってくる。恥ずかしがらずに話すっていうことが人間関係上必要なのだと思う。
「あんたと結が出会ってから結が変わっていくのがわかったわ。事前にどんな人が来るのか佐藤さんに聞いて、私はあなたを危険判定した。でも明るく、笑顔の増えた結を見ているとわからなくなった。1人自分だけ置いていかれているみたいで。次第に変わっていく結をみるのが怖くなった。あんたをどうにかすればまた前の結衣に戻ってくれて、自分のところに戻ってきてくれると思っていた。でもそうにはならなかった。結と喧嘩した時にもしかしてこの子をダメにしてるのは自分なのか思ってしまったの。いつまでも自分の後ろについてきてくれている結じゃなくなっていた。そこから孤独になる怖さを知ったわ。これが続くなら死んだ方がマシだと。だから死のうとしたの。」
人間は繋がりの中を生きている。それは自分がよくわかる。2度の親との別れ、大切なものを失うことを経験したからこそ。孤独がどれだけ恐怖なのかはよく知っている。
「あんたの論文、あんたがまだ目覚めていない時に読ませてもらったの。『人を自分の手を下さずに殺す方法』だったけ。殺すのではなくて死ぬように誘導する。いわゆる自殺に追い込むこと。あんたはその対象を孤独にすることで死に追いやるっていう内容だったわね。他にも色々と方法があったし、論文としては完成度が高いものだったと思う。今ならわかるわ。孤独に耐性がない人は死んだ方がマシなんだもの。今回の私も論文で言っていたように進んだものね。だから問題になったのね。あんたの論文。」
そう。大学時代は常に自分の過去と向き合っていた。そのために知識を集めた結果、あの論文を書くことができた。人のためになるとかそういうことは二の次に、自分のための論文だった。実際に行動に移そうと思うとかなり長い時間がかかるし、自分に降りかかってくるリスクについても述べていたから実用性は自分にはないと思っていたが他の人から見るとそうではないらしい。今現在誰とでも繋がることができる環境に慣れてしまっている人間にとっては耐え難い苦痛らしい。真由さんのように短な誰かに依存してしまうタイプも例外ではない。自分もそうだ。
「そうですね。この論文は自分のことでいっぱいいっぱいの時に書いてましたから。教育実習の失敗で改めてという時でしたし、他人のこと考える余裕はありませんでした。悪用されるとはこれっぽちも考えてませんでした。結果的にか却下されてよかったと思ってますし、自分から破棄してくださいとは言ってましたから残っているのがすこし衝撃的でした。この論文の内容を実行できるのは対象者と親密な関係か、身近にいる人間のみです。家族や友人、学校のクラスメイトなど、物理的もしくは精神的に近い人間に限ります。真由さんたちは無意識に自分の論文のような最悪の形に進んでしまいました。」
この方法は身近な人間にしかできない。直接的に関わっていなくても間接的にでも接点がないと不可能な方法なのだ。自分の場合、真心と愛にこの方法を取られてしまったらおそらく論文通りにことが進む。密接であればあるほど、自分が相手を思っていればいるほど確率は高くなる。
「だからなのかもしれないです。真由さんの手を離さなかったのは。今考えると、自分が建てた仮説が証明されるのが怖かったのかもしれないです。結果的に証明してしまったのかもしれないですけど誰も死んでないのが自分の中では幸いでした。自分勝手なエゴですけどね。」
「あんたやっぱ変だわ。本来なら私のこと責めたりしてもおかしくないのによかったなんて。私のせいで死にかけたのに。」
「変は自分にとっては褒め言葉です。人と違うことはそれだけで自分の価値になりますから。真由さんのせいでなんて思ってないです。死にかけたのは事実ですけど、追い込むきっかけになってしまったのは自分ですしね。お互い様ですよ。」
「やっぱり変だわあんた。でも、ただの危険人物とは思わなくなったかな。ただあんたはお人好しの変人。笑っちゃうわ。こんな人間を緊張感持って警戒してたことが。結があんたに心開くのわかった気がする。」
初めて見た。真由さんが笑っているところ。笑った顔は姉妹揃って子供っぽかった。女性は年齢でかなり性格も顔つきも表情も変わるから。まだこれから大人っぽくなっていくのかな。母さんはいつになっても子供っぽい笑顔をするから例外はあるのかもしれないけど。何より真由さんの表情が柔らかくなってよかった。
「大丈夫そうですね。その顔見て少し安心しましたよ。」
「そうねあんたが考えてたことにはならないわね。でも、寂しいな。結が自分のもから離れていくのを実感するのは。これが親離れってやつなのかな。」
自分から目をそらしさっきまで笑顔だった顔に一つの雫が伝っていった。
「離れませんよ。結さんは今回で真由さんの弱い部分を見てましたから。人は強い部分で繋がるよりも弱い部分で繋がっていた方が強く繋がれます。自分のこと必要だと相手が思っているのがわかるからです。人間の弱い部分は最も強いもののタネになります。本当に強い人は自分が弱いことを知ってる人です。真由さんには結さんが必要ですし、結さんにも真由さんは必要です。1人では生きられないんですから他の人に依存することは仕方ないのかもしれません。一方的ではなくてお互いに依存し合えばそれは何より強い繋がりですよ。結さんももう大人ですし、もっと頼ってもいいと思いますよ。」
「結にも同じこと言われたわ。もっと頼ってって。そうね。じゃあ、少しだけあんたのこと信用してみようかな。結が信用していることだしね。でも変のことするなら私は結と違って優しくないからすぐにここから出て行ってもらうからね。」
「わかりました。信用を裏切らないために頑張ります。じゃあ最後に念押ししておきます。自殺は殺人と変わりませんよ。せっかく命の大切さが感じられる職業なんですから自分の命も大切にしてください。命を真っ先に抱きかかえる職業の人が命粗末にしたらダメですよ。」
「そうね。忘れてたわ。自分がなぜ産婦人科を選んだのか。」
「せっかく素晴らしい職業に就いているんですから、もっとその意味を考えてください。では自分はここで失礼します。」
そういって自分は真由さんの病室から出た。
自分の病室に戻ると結さんが扉の外で待っていた。
「結さん中に入ってください。」
結さんと一緒に自分の病室に入った。
「お姉さんと話してきました。もう大丈夫だと思います。」
「お姉ちゃんと初めてこんなに話したと思う。あんなに弱った姿も初めて見たし、あんなに私のこと思ってくれているなんてわからなかった。」
「人は自分に向けられている思いになかなか気づかないものです。仕方ないですよ。他の人から見るとあからさまでも当人にとっては当たり前のことだったりしますから。当たり前に受けていた思いに気付けるのは失ったり弱ったりしたときくらいですから。」
「ほんとそうね。私はお姉ちゃんから受けている思いに気が付かなかった。その思いに応えてあげることができていなかった。まだ間に合うかな?」
「きっと間に合いますよ。その思いに気づけたのなら、きっと。」
「そうだよね。ありがと。頑張るわ。」
そういうと結さんは満面の笑みで自分を見てきた。
「そういえば、お姉さんに送ったのは向日葵だったんですね。」
「そう。憧れは私の中から離れたから、それを送ろうかなって。」
「いいと思います。自分もそうしたほうがいいと思っていましたから。」
「やっぱりね。少し誘導されたような気はしてたのよ。でもおそらく自分だけで選んだとしても同じ選択だったと思うわ。」
「結さんは向日葵が花を咲かせるとき太陽になることを諦めたと言っていましたが自分は諦めたのではなくて同じように輝こうとしたんだと思います。太陽にはなれないけど同じくらいここで輝いてやる、だから太陽を追うことをやめて自分で輝くために大輪の花を咲かせる。憧れが尊敬に変わっただけです。それに太陽は一つしかありませんし、近づいたら何もかも燃えてしまいますけど、向日葵の周りには色々な生き物や植物がいる。近寄ってきてくれて、自分この戸を綺麗と言ってくれる人がいる。太陽の孤独を知ってみんなと生きていくことを決めた花だと思います。」
大きな輝きは身を焦がすことがある。誰も近づくことができなくて孤独になる。人間でも同じことがある。輝けば輝くほど後ろは濃く暗くなる。だからこそ弱い部分を見てもらうことは大事で、恥じることではない。輝きがあればあるほど。
「寛くんらしい答えかもね。」
「少し後付け感ありませんでしたかね。あと少し臭いセリフな気がします。」
「いいじゃない。どんな考えであっても、寛くんのものなんだから。確かに少し臭いセリフだけどその言葉は十分に私に届いたから。じゃあもう帰るね。店は1週間私がお昼だけ営業して、寛くんと愛ちゃんがきたら通常営業にします。それまでちゃんと休むこと骨折してもできることはあるから来てもらうからね。お大事に。」
結さんは出て行った。窓を開けて少し換気をした。新しい風が入ってきてそれにつられて数枚散った桜の花びらが部屋に入ってきた。