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absorption ~ある希少種の日常~  作者: 紅林 雅樹
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六十六節、テラーハウス

「おや、どちらさんだい?」

ギィ、と木造の扉から顔を覗かせてきたのは、顔面が皺だらけの老婆だった。

そのぎょろりとした目つきに、中年と青年の男二人は一瞬表情を強張らせる。

「す、すまない。雨宿りさせてもらえないだろうか」

男たちの背後では、雷鳴と共に大雨が降っていた。

予報がはずれ突然の豪雨だったので、何の準備もしてなかった男たちのスーツは肩が変色するほど濡れている。

「近辺を当たって回ったのだが、どこも留守だったらしく、ここぐらいしか頼るところが無くて…」

顔にハンカチを押し当て雨水を拭いているが、そのハンカチはとっくにずぶ濡れだったため意味を成さない。

「少しの間だけで良い。雨が上がったらすぐに出て行くので…駄目だろうか?」

困り果てた顔を下から覗き込んでいた老婆は、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにさせて笑った。

「ああ、ああ、いいともさ。困ったときはお互い様。これも何かの縁だろう」

扉を大きく開け、「入りな」、老婆はいった。

「すまない、助か…」

言いかけた中年の男は、玄関を見て一瞬言葉を失った。

前方の壁には絵が飾られていた。

大きな屋敷に飾るぐらいなのだから、何か高名な画伯が描いたものなのだろう。

しかし、誰かの顔面をどろどろに溶かしたようなその絵画は、赤や黒が入り混じっていてとても不気味な雰囲気を醸し出していた。

続けて入ろうとした若い男も、その絵を見て「ひっ」、と短く声を上げる。

照明器具が灯っているにも関わらず、屋敷の中は全体的にやけに薄暗かった。

まだ夜になったばかりの時間だというのに、廊下の奥は真っ暗で、リビングと思しき部屋は青白く浮かび上がっている。

静かで雨音しか響かないその広い屋敷は、まるでホラー映画にでも出てきそうな佇まいをしていた。

「ほ、他のところにしませんか…?」

背後の青年が中年の男にこそっと話しかける。

「仕方が無い」

中年の男はそう諭すようにいったとき、「こっちだよ」、携帯用のランプを手にした老婆が、九十度近く折れ曲がった腰に手を当てつつ、その薄暗い廊下を歩いていった。

案内されたゲストルームも、内装は不気味なものだった。

そこにもいくつかの絵画が飾られていたのだが、どれも人体や生物を溶かしたような絵ばかりが並べられており、一部が欠損した人形、真っ白な顔面に真っ赤な口紅をつけた仮面など、何をテーマにしたのか分からないアート作品も多数転がっている。

「家人がほとんど出払っていてね、粗末なもてなししかできないが」

適当な椅子にかけるよう促し、老婆はポットからコップに紅茶を注ぎ、男たちに差し出した。

怯えた表情で周囲を何度も見回し、細心の注意を払いつつ、濡れた上着を椅子の背もたれに干した男たちは、誘われるままコップを手にする。

その紅茶と思しき液体は濃い緑色をしており、薬品か何かのような、つんとした匂いを感じた。

老婆に気付かれないよう顔をしかめた中年の男は、飲むのを待っているようにこちらをじっと見てくる老婆に、「ほ、本当に助かったよ」、コップをテーブルに置いて、話題を逸らした。

「突然の土砂降りに困り果てていたとはいえ、押しかけるような形になってしまい申し訳ない」

謝罪を口にする男に、「別にいいんだよ」、老婆はしゃがれた声で笑った。

「この大雨で家人は当分帰ってこれそうにないし、人数分の食材が余っている。ちょうど良かったよ」

どうやら夕飯までご馳走してくれるらしい。

男たちは朝から何も口にしてなかったので、警戒心は捨て切れなかったが正直ありがたかった。

「あ、ありがとうございます」

空腹だった青年は、思わずそう頭を下げてしまった。それほどに嬉しかったのだろう。

「あまり持ち合わせはないが、お返しはさせていただく」

そういう中年の男に、「金はいらんよ」、老婆はいった。

「作るのにそれほど手間はかからないし、無駄にするところだったんだ。こちらの方がありがたいことだ」

そして老婆は再び男たちをじっと見る。

「それで、お前さん方は何の用で“ここ”に?」

率直にきいた。「親族以外でこのような辺鄙なところに訪れる者はいないはずなのだがねぇ」

「あ、ああ、実は我々は地質の調査をしている者で」

中年の男が答えた。「この辺りの土壌をまだ調べていなかったので、サニア村からの帰りがてら調査していた途中だったんだ」

「なるほど、そうかい」

それはご苦労さんなことだ、と老婆は労うようにいって、男たちに背を向けた。

「夕飯の支度をしてくるよ。すぐに出来上がるから、それまでくつろいでいると良い」

そのまま部屋を出て行こうとした老婆は、「そうだ」、途中で足を止めた。

「お前さん方、好き嫌いはあるのかい?」

「え? いや、特には…」

質問の意図を計りかねながら男が答えると、

「じゃあ、“肉”…は、好きなんだね?」

顔だけを振り向かせた老婆の目は、大きく開かれていた。

「あ、ああ、まぁ…」

内心びくりとしながら男が頷くと、満足そうに頷いた老婆は再び歩いて部屋を出て行く。

「…やっぱり、いまからでも出ませんか?」

薄ら寒いものを感じた若い男は、たまらずそういった。

「屋敷が不気味なのもそうなんですが、あのお婆さんからもただならないものを感じるような…」

「厚意で入れてくれたんだ。いまさら無下になんてできないだろう」

「それはそうなんですが…」

そんな軽い押し問答をしている間にも、窓には雨が打ち付けている。

時折ピカッと光り、大きな雷鳴がコップを揺らした。

その音に思わず悲鳴を上げた若い男は、不安げに周囲を見回し、忙しなく動き出す。

落ち着かせようと中年の音が声を出そうとしたとき、キィ、キィ、と小さな車輪が回るような音が聞こえ始めた。

「ひっ…」

若い男がまた短く悲鳴を上げる。彼の視線は開けっ放しだった部屋のドアに繋ぎとめられており、薄明るいそこからは、人影が伸びていた。

中年の男も思わずギョッとし、何が飛び出てくるのかと身構えていると、音の通り車輪が現れた。

どうやらそれは車椅子のようで、老婆と同じぐらい顔をしわくちゃにさせた男性の老人…老爺が乗せられている。

虚ろな目をした老爺を、老婆が車椅子を押して移動していたようだった。

こちらを見ることもせず、二人はそのまま部屋の前を横切っていく。

「ろ、ロドニーさん…」

震えた声で上司を見る青年の顔は青い。

「あ、雨露をしのがせてもらっているんだ。詮索はしない方がいい」

ロドニーと呼ばれた中年の男もまた、表情が固まっている。

恐らく先ほどの男性は、同じ老齢であることを考えると夫婦なのだろう。

年のいった夫婦が片割れを介護するのはいまどき珍しいことではない。

しかし屋敷の独特な雰囲気の中では、より一層その不気味さが際立って見えていた。

それに何より…

「か、片足…なかったですよね…」

若い男…クレスの言葉が、ロドニーには妙に頭に残ってしまっていた。


「どうしたんだい、食べないのかい?」

食卓の席に座らされたロドニーとクレスの前には、一皿のシチューがあった。

とろみのある白いスープの中に、一口サイズに切られた野菜や肉が浮かんでいるのが見える。

先ほど差し出された紅茶が得体の知れないものだったので、夕飯も警戒してなかなか手をつけられなかったのだが、そのシチューからは何とも美味しそうな香りが立ち上っている。

「今回は上手にできたと思うんだよ。その証拠に、爺さんもよく食べてくれているからねぇ」

ロドニーとクレスの対面には、さきほど見かけた車椅子の老爺がかけていた。

相変わらず目は虚ろで表情はなく、老婆が何をしても人形のように動かない。言葉すら発さず、こちらを認識しているかどうかすら怪しい。

そんな老爺を、側に立つ老婆が甲斐甲斐しく食べさせている。

「た、大変だな」

空腹に耐え切れずシチューを食べようとしたクレスをこっそり制しつつ、ロドニーはいった。

「家人が何人ほどいるのかは分かりかねるが、このような広い屋敷に二人だけとは。身に堪えるだろう?」

「なに、慣れればどうということはないさ」

老婆は笑った。「家人は口やかましい夫婦と子供たちだから、この静けさを謳歌していたところだよ」

スプーンで野菜と肉ごとシチューをすくい、老爺の口に運ばせつつ、続けた。「爺さんもこんな状態になっちまってもう随分経つし、喋れないから文句も言われない。気楽なもんだよ」

「そ、そうか…」

「頭がイカれちまったのか、感覚が鈍っちまったようで、たまに“粗相”をするときがあるけどね。我慢できず“折檻”しちまうときもあるが、痛覚もないみたいだからやりたい放題だよ」

突然不穏なことを言い出したので、ロドニーとクレスは同時にごくりと生唾を飲み込んでしまう。

冷や汗か脂汗かわからないべっとりしたものを額に感じつつ、「な、何か自分たちに出来ることはないか?」、雨宿りのお礼にと、社交辞令を口にした。

「介護に思い悩んでいるようなら、我々から役所に相談をしても…」

「かかっ! いらんいらん!」

老婆はまた声をあげて笑った。「お前さんたちやけに緊張しているようだから、つまらない冗談をいっただけだ。そのまま受け取らないでおくれよ」

確かに、冗談だとは思う。

ちらちら老爺の様子を窺ってみたが、傷跡めいたものはどこにもない。

だがやはり始終薄暗い屋敷の空気のせいなのか、ロドニーもクレスも引きつった笑みしかできなかった。

「ふむ…まだ雨は止みそうにないねぇ」

老婆はふと窓の外を眺め、打ち付ける雨音に困ったような表情を見せた。

「もう夜更けだ。お前さん方、良かったらこのままうちに泊まっていくといい」

男たちに顔を向け、老婆は優しい口調でいった。

通常の状態であれば、非常にありがたい話だ。

見ず知らずの男たちを疑いもせず家に招いてくれて、料理まで振舞ってくれている。

昨今は老人を狙った犯罪が多く警戒心を抱く人が多い中、その老婆は珍しく優しい人なのだろうということは、ロドニーもクレスも頭では理解していた。

だが彼女が醸し出す怪しげな気配なのか、周囲に並ぶ奇怪な絵画のせいなのか、男たちは容易に頷けないでいた。

とにかく、雨が上がれば一刻も早くこの屋敷から出て行きたかった。

このままここにいたら、何を見せられるのか…はたまた、何をされるのか分かったものではない。

「そ、そこまで世話になるわけにはいかない。仕事の途中だし、雨音が少しでも緩んだら帰らせてもらうよ」

「そうかい? 残念だねぇ」

老婆は本当に残念そうにいった。「若い男と話すのは久しぶりだし、婆の愚痴でも聞いてもらおうと思っていたんだがねぇ」

「は、はは…ま、まぁ、それはまたの機会に…」

ロドニーもクレスもぎこちなく笑うしかなかった。


「や、やっぱり出て行ったほうがいいですよ」

ゲストルームに戻るや否や、クレスはロドニーに訴えかけた。

「ご厚意に預かってる手前こんなことをいう資格がないのは分かっているんですが、この屋敷全体怪しすぎますって」

クレスはすっかり怯えきってしまっている。「いや、この屋敷だけじゃなくて、そもそもこの村全体が…」

「おい、やめろ、それ以上いうな」

帽子を取り寄せようとしたロドニーは、慌てていった。「“禁忌”を口にするな。どこで誰が聞いているか分からないんだぞ」

この村は、“ある言葉”を口にすると本性を表す。

まことしやかに囁かれるそんな噂を、クレスも耳にしたはずだ。

「下手なことはいうな。お前のいいたいことは分かるから」

「じゃ、じゃあ…」

「ああ。出よう」

屋敷の怪しげな空気に、側には終始不安げな部下。大丈夫だと自分に言い聞かせつつも、ロドニーも限界だった。

いそいそと半乾きの背広を羽織り、被った帽子はまだ濡れていたため、頭から雨水が滴り落ちてくる。

気持ち悪いが、乾くまで屋敷にいることはもはや精神的に持たなかった。

「あのご婦人に一言伝えて出るぞ」

「はい」

クレスも同じように背広を纏い、帽子を深く被る。ショルダーバッグを肩に提げ、そのまま部屋を飛び出した。

廊下に出た瞬間だった。

ズドンッと大きな何かが倒れるような物音がして、建物全体がみしみしと揺れる。

「ッ!? な、なんだ…!?」

突然の物音と揺れに飛び上がって驚いた男たちは、そのまま周囲を見回した。

「こ、この屋敷の中から…ですよね?」

「あ、ああ」

と男たちが話してる間に、またズシンと音。

「うおっ!?」

ロドニーはバランスを崩し、側の壁に手を着くが、落ちてきた不気味な絵画と目が合い、思わず「ひっ!?」、と声を上げてしまった。

「あ、あっちからです」

クレスは音のする方向を指差している。

先ほど老夫婦と食事をしていたリビングだ。

「な、何か事件かもしれない。行くしかないな」

「は、はい」

男二人は、足音を消しつつリビングへ向かう。

その間にも馬鹿でかい物音は定期的に起きており、その都度彼らは転びそうになっていた。

ズドンッ!

物音はリビングではなく、さらにその奥にあるところから聞こえているようだ。

「こ、ここは…」

側にあるのは食器棚。

冷蔵庫やゴミ箱もあり、奥が何の部屋かを察した男たちは、途端に嫌な予感がした。

━━調理室だ。

そこからは僅かな光が灯っており、真っ暗な廊下をぼんやりと照らしている。


“全く…最近の若いモンは、好き嫌いが多くて適わんねぇ”

その調理室から聞こえるのは、老婆の声。大きな物音が、その後に続いた。

“あのシチューはなかなかの出来だったのに。爺さんもそう思うだろう?”

ズドンッ!

また聞こえる。聞き耳を立ててみると、その物音の後に水が飛び散るような音も聞こえていた。

“唐揚げだったら食べてくれるかねぇ? それともステーキがいいかねぇ?”

ズドンッ! ビシャッ!

“ポトフも良さそうだし、串に刺して炭焼きってのもいいねぇ”

…ただごとではない“何か”が、目の前の調理室で起こっている。

男たちは恐る恐る、開きっぱなしの扉に手をかけ、中を覗くと…、

予想通りそこには老婆がいた。広い調理台の前に立っており、こちらに背中を向けている。

振り上げた手には大きな出刃包丁が持たれており、それは真っ赤な血で染め上がっていた。

老婆が包丁を振り下ろすたびに大きな物音が周囲に響き渡っており、それと同時に血飛沫が飛び散っている。

いまや調理場はほぼ全てが深紅に塗り替えられていて、その調理台に“何が”あったのかを見た男たちは、思わず息を呑んだ。

「あ…あぁ…あ…」

そこに寝かせられていたのは車椅子の老爺だった。

老婆は老爺の足元に向かって出刃包丁を振り下ろしており、肉や骨を断ち切る物音が建物全体に響き渡っている。

その光景を目の当たりにした男たちは、同時に先ほどのシチューが何であるか、どうして老婆が自分たちに“肉”が好きか尋ねてきたのか、その意味を理解した。

“牛や鳥なら暴れまわるところだが、爺さんは大人しくしててくれるから楽で助かるよぉ。味も分からないから自分の血肉を食らっているとも分からず、文句をいうこともない”

「う…うぐ…!」

突然見せられたスプラッター映画ばりのグロテスクな場面に、クレスはシチューを食べてもないのに胃から何かがこみ上げそうになる。

ロドニーは足をがくがくと震わせ、全身にどっと汗がにじみ出てきた。

二人とも言葉はなく、あまりに凄惨な光景に動くことが出来なくて、思考が停止してしまう。

“内臓は一番美味しいから最後にとっておこうねぇ。死なない程度にじわじわと美味しい部分を食わせていくから、楽しみにしてるんだよぉ?”

老婆の側には、“調理済み”なのか、赤黒い肉の塊のようなものが積みあがっていた。

衝撃音と共に老爺は全身を揺らし、口から泡を吹かしている。血飛沫は老人の顔面まで届いており、まるで血の海に浮かんでいるようだ。

老爺は老婆に自分の肉を食わされていた。体の端から徐々に切り取っていき、じわじわと嬲り殺すように。

つまり、老爺の片足がなかったのは…、

「ひっ…ひ、ひっ…」

過呼吸に似た症状に陥ってしまった男たちは、指先が白くなるほど口を押さえており、声を出さないようにすることだけで精一杯だった。

ゆっくりと、決して物音を立てないように、後ずさりを始める。

“引き締まってそうな“肉”が来てくれたんだ。この機会を逃すわけにはいかないからねぇ。爺さんも物を食える期間が延びて嬉しいだろぉ?”

(ろ、ロドニーさ…逃げ…)

(あ、ああ…!)

ようやく身体が動き始め、すぐさま逃げ出そうとしたときだった。

窓の外が真っ白になるほど光り、激しい雷鳴が轟く。

「ひっ…!」

その光と音に驚いてしまい、クレスが短い悲鳴を上げてしまった。

包丁を振り下ろそうとした老婆の手がぴたりと止まる。

動きを止めた老婆は、“…おやおやぁ?”、そのまま声を出した。

聞かれた━━!?

固まったままの男たち。

“もしかして…もしかしてぇ”

老婆は、ゆっくり、ゆっくりと頭を捻り…、

「“肉”がわざわざ調理されに来たのかねぇ?」

男たちを振り返り、そのぎょろりとした目を向ける。

その皺だらけの顔面は…返り血で真っ赤に染め上がっていた。

「う、うわあああああぁぁぁぁ!!!」

ロドニーとクレスは大慌てで全身を反転させ、脇目も振らず駆け出す。

真っ暗な廊下を走り、途中で振り返ると、血の滴る包丁を手に老婆が追いかけてきたのが見えた。

「外はまだ大雨だよぉ!? ゆっくりしていけばいいんじゃないかねぇ!?」

腰の曲がった老婆であるはずなのに、その走りは老齢とは思えぬほど俊敏だった。

出口が分からずあちこちを駆け回る男たちとの距離はぐんぐん詰められていき、男たちはどうにか距離を伸ばそうと必死の形相で中庭やリビングを駆け抜けていく。

「げ、玄関…玄関はどこだ!? 俺たちはどこからきたんだ!?」

明るかったら道のりは記憶に残るはずだが、如何せん屋敷は全体が薄暗い。

死に物狂いで屋敷の中を駆け回る男たち。背後からは、老婆の狂ったような笑い声が追いかけてきている。

「ろ、ろど…ロドニーさん! こ、こっち、こっちです!!」

どうにか玄関の映像を思い出したクレスは、ロドニーの手を取って玄関へ駆け出した。

「ひっ! ひっ! ひっ!」

薄暗い明かりが見え、何故か開きっぱなしの玄関が見えた。

外は大雨だ。雷鳴も絶え間なく起こって危険かもしれないが、いまはそんなことはもうどうでもいい。

とにかく外が見えた。外に出れる。

もう少しだ━━、そう思ったときだった。

「どこへ行こうというんだい?」

外へもう一歩というところで、男たちのすぐ背後から老婆の声がした。

稲光に一瞬照らされた老婆は全身が赤くなっており、皺だらけで血みどろの顔面を見た男たちは、あまりの恐怖に立ち竦んでしまう。

「泊まっていきなよぉ? 美味しくしてやるからさぁ、ねぇ?」

「く、クレス…! で、出るぞ! 早く出るぞ!!」

駆け出そうとしたロドニーだが、「ろ、ロドニーさ…」、クレスはその場から動かなかった。

「な、何をしている! 早くしろ、捕まるぞ!!」

「あ、ああ、あ…足…足…!!」

クレスは震える声で何度も、足、といっている。

ロドニーは咄嗟に彼の足元を見る。その瞬間、彼もまた固まってしまった。

クレスの足首に、誰かの手が回されていたのだ。

ゆっくりと視線を上げる。

すると、クレスの足を掴んでいたのは…

「ア、アァ、ア、ア…」

…両足のない、車椅子の老爺だった。暗渠の中に沈んだような両眼が、彼らを捉えている。

「う、うわああああああぁぁぁぁぁ!?」

また大きな悲鳴を上げてしまったロドニーは、必死な思いでどうにかクレスを助けようと彼の腕を取り、手前へ引く。

かろうじて老爺の手から逃れられた二人は、後ろを向いて駆け出そうとしたが、そこにはどういうわけか不気味な絵画が眼前にあった。

どろどろに顔面が溶けた絵を見て、男たちは、

「ぎゃあああああぁぁぁぁ!?」

また悲鳴を上げる。

またまた反対を振り向くと、そこには真っ赤な老婆。

「あぎゃあああああああぁぁぁぁ!?」

血みどろの老爺が手を叩く。

「びゃああああああああぁぁぁぁ!?」

老婆が絵画を動かす。

「ぐぎゃああああああああぁぁぁぁ!?」

何をしても飛び上がるほど驚いていた男たちは、半べそをかいたような顔をしたまま、転がるようにして外に出て駆け出していく。

大雨の降りしきる中、ぬかるみに何度も足を取られ、泥に全身を打ち付けている。

そんな彼らの背中と足音が消えていくのを、玄関前にいた老婆と老爺は大人しい様子で眺めていた。

「ひっひっひ…つれないねぇ」

老婆はしばらく満足そうな笑みを浮かべ、

「もうお終いかい。全く…」

そのしわがれた声が、徐々に透き通ったものに変わっていく。

「全く…もう少し遊びたかったんですけどね」

折れ曲がった背中が真っ直ぐに伸び、皺だらけの顔面を掴む。ゴムがちぎれるような音と共に、その顔面が引き剥がされていった。

「すみませんね、このような戯れにつき合わせてしまって」

皮の面から素顔を覗かせた若い女…サラは、座り込んだままの老爺に向かってそういった。

「即興で作り上げた設定をどうしても活かしたくて。奥様からあなたを招き入れる許可を頂きましたし、本当ならあなたとしっぽり湯船に浸かっている時間なのですが」

「あ、あはは。ま、まぁ僕は、サラが嬉しそうならそれでいいからさ」

皺だらけの老爺の声もまた、その外見に似合わず若いものだった。

「で、でも凄いね。大した仕掛けもしてないのに、あの人たち完全に信じ込んでいたよ」

「人の意識というのは、複雑なものですからね」

老爺を立たせ、特殊素材でできた仮面を剥がしていく。その仮面の下には、優しげな顔つきをした若い男の顔があった。

「よく見れば分かりやすい単純なトリックだとしても、恐怖心が勝手に補完してしまい、より怖く見えてしまう」

青年の片足には、車椅子と同じ色の毛布が巻かれていただけだった。先ほどの二人は、恐怖心から足がないように見えていたのだろう。

「肝心なのは雰囲気作りです。相手に不気味だな、と思わすことができれば、その時点でこちらの勝ちだということです」

「そ、そうなんだ」

「まぁ何はともあれ、ジェイルが来てくれているときで良かったですよ。私一人なら別の演出を考えていたところですし」

サラは玄関のドアを閉め、持っていた絵画を靴箱に立てかける。

「しかしあの驚きよう…またこのエレイン村に悪評が立ってしまいますね」

「ま、まぁそれはそうかも知れないね」

「もっと手っ取り早く追い払えば、ジェイルともゆっくり過ごす時間もあったのに…」

軽く後悔しているサラだが、「僕も楽しかったから」、ジェイルは笑顔を向けた。

「こうして会えたのも久々だし、純粋に嬉しいよ。悪戯の内容はちょっとあれだけど」

本当に嬉しそうな恋人の顔を見たサラは、「先にお風呂に入っていてください」、そういった。

「束の間の休暇をいただいていますし、飲みなおしと致しましょう。キッチンの片付けは済ませておきますから」

「いや、悪いよ。僕も…」

いいかけたジェイルは、全身が急に熱くなり始め、言葉が止まった。

やたら胸がどきどきしてきて呼吸も荒くなる。

「…そのような状態では無理でしょう?」

サラは涼しげにいった。「もう一つの手でした」

「も、もう一つ?」

「ええ。連中が口にしなかったのが非常に名残惜しいのですが、あのシチュー…」

そこでサラは口の端に、にぃっと笑みを浮かべる。

「媚薬が入ってましたから」

「び、びや…!?」

「興奮状態に陥れば思考力も低下しますし、そちら方面では男というものはてんで弱いので、縛り付けて色々聞き出せそうだったのですがね」

「い、いや、そ、それ…ぼ、僕のシチューにも入れる必要があったのかな…?」

「あなたには、私の個人的な“用件”があったので」

サラはいい、婦人用の服を脱ぐ。その下からはメイド服が現れた。

「突然お越しになられたニーニア様がルシラを連れ出していってくださったので、あの子がいるとできない手段を色々用意していたのですが…」

「うぅ…け、結局、分からないままだっていうこと、だよね…」

薄く事情を知っているジェイルがいうと、「全く何もないということでもありませんけどね」、サラはおもむろに携帯を手に取った。

「あちらも人手不足なのでしょうね。先ほどの二人組、ダイン坊ちゃまにちょっかいをかけた二人組のようですから」

そこにはいつだったかダインを尾行しようとしていたガーゴの二人組が、ぶれた画像だが写っている。

「先日ディエル様のお宅にお邪魔させていただいたときも“面白いこと”が聞けましたので、進展はあると思いますよ」

「そ、そう…」

サラはジェイルの老人用の服も脱がしてやり、軽装にさせる。

媚薬の効果が出ている明らかな“証拠”を発見し、サラは「ジェイル、ご苦労様です」、といった。

「さ、お風呂へ。ご協力していただいたお礼も考えていますから」

「お、お礼?」

「ええ。ちなみに挟むのと踏むの、どちらがいいですか?」

「は、挟む? 踏む?」

「意味についてはご想像にお任せします」

ジェイルは興奮のあまりかなかなか歩き出せないようだったので、サラは彼を車椅子に座らせ、風呂場へ向かって押した。

顔を真っ赤にさせながらあらぬ想像を思い描いてしまうジェイル。

普段は朗らかに笑う恋人の、恥ずかしがる様子を満足げに眺めながら、サラは別のことを考えていた。

とうとうガーゴが家に乗り込んできた。

今回はうまく追い返すことができたが、また同じように踏み込もうとしてくるかもしれない。

別の人を使い、偶然を装うのか…それとも、あらぬ容疑をかけ家宅捜索をかけてくるのか。

今回の追い出しで唯一失敗だったことは、恐怖を与えすぎたことだ。

結果として屋敷の中を走らせることになってしまった。

彼らではない他の“誰か”に色々見られたかもしれない。

極力屋敷全体を暗くし、子供服やオモチャは別の場所に隠したが、ヒントを与えてしまった感は否めない。

「…ジェイル。近々、“移動”のときがくるかも知れません」

ふと真剣な表情になったサラはいった。「その際にはまた協力してもらうことになるかも知れませんが…」

「うん、分かってる」

興奮を落ち着けつつ、ジェイルは頷く。「ダイン君と…それに、まだ会ったことはないけど、ルシラちゃんを守るためだからね」

「村の皆も分かってくれてるよ」、振り向く恋人の表情は、やはり優しい笑顔だった。

不意の表情に、不覚にもどきりとさせられたサラは、「お礼の追加というわけですか」、そんなことを言い出した。

「衣装の追加ですね。色々と用意しております」

「う、う〜ん、話が見えないんだけど…」

そう会話を続けつつ、ジェイルは改めて壁に飾られている絵画に目を向ける。

「で、でもほんと、この絵は雰囲気作りにもってこいだよね」

どの絵も独特なタッチと色使いで、見ているだけで不安な気持ちになってくる。

「この前お邪魔させてもらったときはなかったような気がするんだけど…」

「本人は至って真面目に描いたつもりのようなんですけどね」

サラの台詞が意外に聞こえ、「え? 知り合いの画家がいるの?」、ジェイルは尋ねた。

「画家といいますか何といいますか…。その絵を描いた方なら、ジェイルも知ってますよ」

「え、そうなの?」

「といいますより、これら独特な絵画は本人によりますと似顔絵のつもりのようですし。ジェイルのもございます」

「に、似顔絵…なんだ…」

ジェイルは気になってとうとうきいた。「だ、誰なのかな?」

「ダイン坊ちゃまですよ」

サラは淡々といった。「ルシラにせがまれて渋々描いたものなのですが、あまりの出来映えにさすがの私も驚きました」

「だ、ダイン君か…意外だなぁ…」

ジェイルはダインの顔を思い浮かべる。

彼とは、週に一度の頻度で会っている。学校が休みの日に、ジェイルの勤め先であるレストランにいつも来てくれるのだ。

シェフであるジェイルの腕前にほれ込んでいたダインは、店に迷惑がかからない程度に、調理の手ほどきを受けていた。

彼との出会いによりサラとも知り合えるようになって、彼女との仲を取り持ってくれた彼にはいまも感謝の念しかない。

だから、そんな優しいダインが屈強なガーゴも怯えるような絵を描くとは思いもよらなかった。

「さすがカールセン家のご長男です。このような才能があったとは。誰にでも笑顔を振り撒いていたルシラも逃げ出したほどですよ」

「あ、あはは」

ジェイルは笑うしかなかった。

きっと描いた本人のダインも想像してなかったことだろう。

まさか“不気味な館”のメインの恐怖演出として、似顔絵が使われることになったとは…。

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