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absorption ~ある希少種の日常~  作者: 紅林 雅樹
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十八節、包まれる不安

「ずいぶん遅いお帰りで。どこかでお楽しみなことでも?」

玄関で出迎えてくれたサラから、早速小言が飛び出した。

「あー、いや…」

ダインは頭をかきつつ後ろを見る。玄関の外はすでに暗くなっており、街灯がついていた。

「悪い、忘れてたわけじゃないんだ。ちょっとトラブルがあってさ」

「トラブル?」サラは不思議そうにしていたが、長くなりそうだったので「後で話す」と言うに留めた。

買出しの後に夕飯を作る予定だったので、サラは「そうですか」とすでに身支度を終えていたのかそのまま靴を履き玄関を開ける。

「では後のことはよろしくお願いします」

「ああ」

サラが出て行き、ドアのカギが閉まったと同時に奥からパタパタと足音が聞こえてきた。

「さらー、しょっきおわった…」

やってきたのはルシラだ。ダインの姿を確認した瞬間口と動きが止まる。

「だいん!」

すぐに笑顔になり、そのままこちらに突撃してきた。

「ただいま」

ダインは笑いながら可愛らしいタックルを受け止め、抱き上げる。

ルシラは嬉しそうに笑うが、それも一瞬のことですぐに表情を不満げなものに変えた。

「もー、おそいよだいん!」

ずっと待っていてくれたのだろう。怒った顔もまた可愛いが、早く帰ると言ったのに待たせてしまったことには詫びなければならない。

「悪い。ちょっと色々あってな」

「むー」

頬を膨らませてたのも一時的なもので、すぐに「あれ?」と声を出す。

「さらはー?」

「さっき買い物に行ったよ」

「そうなんだ」

「食器洗い終わったっていってたけど、今日はルシラは何してたんだ?」

話題を切り替えると、ルシラはすぐに嬉しそうな顔になる。

「きょう? きょうもね〜、おにわのおそうじとか、しょっきあらいとか!」

何もかも斬新に映るルシラにとっては、家事手伝いも遊びの一環なのだろう。

「相変わらず良い子だなールシラは」

可愛くて献身的なルシラに一層の愛くるしさを感じたダインは、抱っこしたままその小さな体をぎゅっと抱きしめる。

ダインの腕の中で、ルシラはまた心地良さそうに、嬉しそうに笑った。

ルシラはヴァンプ族ではない。他種族なので、ヴァンプ族特有の感触の良さは彼女も感じているはずだ。

通常であればシンシア達のように顔を赤くさせ骨抜きになってしまうはずだが、身体か年齢か影響しているのだろう。ルシラにとっては心地よさしか感じないようだ。

「えへへ。きもちー」

彼女は笑うだけで、ルシラからも腕を精一杯伸ばしてダインを抱きしめようとしてくる。

「だいんのだっこ、すき!」

「はは、そりゃ良かった」

本当に嬉しそうにしているので、ダインはそのままルシラを抱きしめ、頭を撫で続ける。

「すき、ほんとに…だいん、すき…」

その瞬間だった。触れ合った箇所から、ルシラの感触が変わったように感じたのは。

「ん?」

まるで何かを吸われるような感覚を抱き、違和感を覚えたダインはルシラを少し離して顔を見てしまう。

「ふぇ…?」

ルシラの顔は真っ赤になっていた。目は半開きで、まるで酒に酔ってしまったような惚けた顔をしている。これまでに見たことのない、初めての反応だ。

…もしかして“目覚めて”しまったのだろうか。

「だ、大丈夫か?」

シンシア達のようにエッチな感覚を覚えてしまったのだろうか。

この場合どうしたらいいのだろうかと頭の中で様々な思考をめぐらせている間に、ルシラの顔の赤みはみるみる引いていく。

「なにがー?」

元の子供らしい顔に戻っていき、どうやら取り越し苦労だったとダインは嘆息した。

きっと気のせいだと思い、「いや、なんでもないよ」と笑いかける。

「そう?」

「ああ」

頷いたところでまたルシラは笑顔になり、ダインの胸に頬を押し付けてくる。

パタパタと足を動かし、ダインの抱っこを心行くまで堪能している。

彼女はどこからどう見ても純真無垢な子供だった。過去を思い出せず身内と離れ離れという憂き目に遭っているというのに、そんなことを微塵も感じさせない笑顔をダインやサラに振り撒いている。

これほど優しくて可愛いルシラに、ガーゴは一体彼女の何を知っているというのだろうか。

何かしらの計画が露見するリスクを冒してでも、ルシラと接触を図る意図とは何なのだろう。

思わず考え込んでしまったダインを、ルシラは不思議そうに見上げている。

ダインは「いや」と首を振りつつ、「サラが帰ってくるまで遊んでようか」と言った。

「夕飯まで待てそうにないなら何か作るが…」

「んーん、まつよ! あそぼ、だいん! またもんだいときたい!」

「問題って勉強か」

頷くルシラに、改めて彼女の凄さを認識したダインは言った。

「ルシラにとっては勉強すら遊びか」



「あふ…」

あくびを漏らすダインの足の上には、ルシラが乗っていた。

彼女の目の前にあるテーブルには教科書や参考書が散らかっており、ルシラは鉛筆を手に算数の問題集を解いている。

何の気なしにルシラの勉強振りを見ていたダインだが、ルシラの年齢にしては高難度の問題に気付き少し眠気が飛んだ。

「これ、中等学校の入試レベルの問題集…だな」

ソファを背に地べたに座っていたダインは、つい前のめりになってしまう。

「ん? うん」

「解けるのか」

「かんたんだよ!」

そう言いつつ、彼女の鉛筆を走らせる手は止まらない。

勉強を始めて数日でこれほどの実力だ。出会った頃はノートすら知らなかったはずなのに。もしかしたら来月にはダインの学力を超えてしまうのではないか。

「やはり天才か…」

思わず言ってしまうと同時に、どうして彼女がここまで勉強に勤しんでいるのか気になった。

知識欲の化身となったルシラは勉強が楽しいというのは分かる。だが知識が欲しいだけなら本を沢山読むのが一番だ。

クイズ問題とは違って、学校のテストで出てくる問題はどれも味も素っ気もない堅苦しいものばかりで、楽しくはない。

なのにルシラは始終嬉しそうに問題集に取り掛かっている。楽しそうではあるが、学ぶ姿勢に妥協は感じられない。

「もしかしてさ、ルシラって何か目指してるものとか、なりたいものとかできたのか?」

彼女から明確な意思のようなものを感じられたダインは、単純に気になって尋ねた。

「ん〜とね〜」

鉛筆を動かしていた手が止まり、胸元から仰ぐようにこちらを見上げた彼女は、

「ないしょだよ!」

という、ダインにとっては意外な返事をした。

「あれ、教えてくれないのか?」

「んふふ〜、なりたいものになれそうだったら、おしえてあげるよ!」

ルシラはダインに悪戯っぽい笑顔を向けてから、再び机に向き直り問題集を解いていく。

答えは教えてくれなかったが、ルシラに目指してるものができた。喜ばしいことだと思ったダインは、笑いながら尋ねる。

「そのルシラがなりたいものってのは、大変なことなのか? 俺に手伝えることはないのか?」

「ん〜ん、だいんはなにもしなくていいよ! るしらががんばらなきゃならないことだから!」

正直なところかなり気にはなるが、ルシラがそう言っている以上手伝えることは何もない。

「そうか。じゃあせめて応援だけはさせてもらうよ」

焦る気持ちを押し込め、ダインはそのままルシラの頭を撫でてやった。

するとルシラはこれまた嬉しそうに笑い、鉛筆のスピードを速めていく。

回答速度が凄まじい速さだ。参考書を見てはいるが、途中で考え込む様子もない。

悩む素振りすらないので、ダインが教える隙も暇もなかった。

それどころか勉強の邪魔になるから余計な口出しもできず、彼女が次々と問題を解いていく光景を眺めていることぐらいしかすることがない。

やがてその光景も見慣れたものになり、ダインは再び口を大きく開けあくびを漏らしてしまった。

「だいん、おねむ?」

再び手を止め、ルシラが振り返ってくる。

「いや、そういうわけじゃ…」

ない、と言おうと思ったが、やけに眠たいのは否定できない。

昨夜はルシラに魔法力を奪われた。シンシアから補給できたものの、その補給した分すらルシラに吸われてしまったのかもしれない。

今日は色々あったから吸魔する時間もなかったし、脱力感は今日一日ずっとあったのだ。

「起きてるよ…ちゃんと遊ばなきゃな…」

目をこすって言うものの、ルシラは笑顔のまま「んーん!」と首を横に振ってきた。

「おねむなら、このままねてもいいよ? このもんだいとくのたのしいから」

「マジか…」

「うん! だいんのだっこきもちーから、るしらはこのままでもじゅうぶんだよ」

「あー、ルシラは本当に良い子だよなぁ…」

ダインはたまらなくなって、背後からルシラを抱き寄せる。

「あはは。だいん、やりにくいよ〜」

ルシラから笑顔の抗議が上がるが、構わず彼女に寄りかかるようにして目を閉じる。

「ん〜気持ちいい…可愛いなぁお前は…」

ルシラの高い体温と柔らかさと、さらさらの髪を感じたままダインは眠ってしまった。



白いもやの広がる、何もない世界。

そこは現実にはないものだと自覚できる、夢の世界だった。

「だ、ダイン…」

何もかもがおぼろげな中、視界の中央から誰かの声がする。

そこにいたのは、これまでに何度か夢の中に現れてきた緑髪の少女だった。

成長したルシラに似た彼女は、どこか恥ずかしそうにもじもじとした様子でこちらを見ている。

「ダイン、さっき…か、可愛いって、言ってくれたね?」

これまでにないほど鮮明に少女の顔と姿が視認でき、声がはっきり聞こえたことにダインは驚いた。

原理が分からないが、こうして少女の夢を見るたびに、徐々に輪郭が浮かび上がってきているようになっているのかも知れない。

「う、嬉しいな…」

嬉しがる少女に、何のことだと思案を巡らせたダインであったが、眠る瞬間現実のルシラに可愛いと言ったのを思い出した。

照れてはいるがかなり嬉しそうにしていた彼女は、そのままこちらに走ってきた。

「私、ダインのこと、好き!」

そう言って抱きついてくる。

「大好きだよ!」

あまりにストレートな告白だった。

かなりドキッとしたダインだったが、彼女に抱きつかれたことにより自分の体に感覚があることを自覚する。

「んふふ、ダイン、好き〜!」

なおも告白してくる彼女は、そのままダインを力一杯に抱きしめている。

彼女はやはりルシラなのか、この世界は夢じゃないのか。

様々な疑惑が沸き起こっていたものの、好きだと言いながら抱きついてくる少女があまりに可愛くて、ダインの方からもつい抱き返してしまう。

嬉しそうに笑っていた彼女は、しばらくダインの胸元を何度も頬擦りしていたが、やがて顔を上げる。

こちらを笑顔で見つめていた彼女は、突然その表情を悪戯っぽいものへ変えた。

「ダインは、男の子だもんね?」

一瞬どういう意味の台詞か分からなかったが、自分の体の一部にある変化を感じた彼は気まずそうな表情を浮かべた。

現実ではありえない現象だった。幼少期から理性の鍛錬を積み、何事にも動じなくなった彼は、吸魔の感覚に晒されてもなお理性を保てていた。

シンシア達と触れ合っても、緊張はしたが暴走しなかった。努めて冷静に、平常心で対応できていたと思う。

であるはずなのに、夢の中ではそんな理性がそもそも存在しないのか、目の前の少女が可愛すぎたのか、はたまた彼女の体の感触が良すぎたのか。

男子としては当然の反応を出してしまい、少女は悪戯っぽい笑みから恥ずかしそうなものへと変える。

「私、知ってるよ? 色々と勉強したもん。全部はまだ分からないけど、少しは知ってるよ」

どぎまぎするダインに向けて少女は言い、体を少し離す。

解放してくれたのかとホッとしたが、そうではなかったようだ。

「男の子は、常に女の子のことを…体のことを考えてるって書いてた」

何を読んだのかは分からないが、突然そんなことを言い出す。

「触りたがっているって書いてた。だから…」

何をするのかと思いきや、彼女は白いワンピースの服を突然脱ぎ始めた。

慌てたダインはすぐさま顔を横に向ける。本当なら今すぐにでも手を掴み止めさせたいところであったが、夢であるためか首から下が思うように動かせない。

視界の隅に、少女のまっさらな素肌が見える。

「は、恥ずかしいけど、ダインなら…こんな体でも、喜んでくれるのなら…」

必死に顔を逸らし理性を持ち直そうとしているダインに、裸の少女は再び抱きついてきた。

そのとき、少女から「ふやっ!?」という悲鳴に似た声が上がる。

「あふ…あ、改めて思うけど、す、すごいんだね。ダインの感触って…」

夢の中だというのに、ヴァンプ族特有の肌質が出てしまったのだろうか。

分からないことだらけでどうしようもなかったが、少女にはとりあえず服を着て欲しい。

そう言いたかったが、やはり口も動かせないようで自分の意思を彼女に伝えることが出来ない。

男に対し間違った認識…いや、間違ってはいないが、そんな認識を持った少女は再びダインに抱きつき柔肌を押し付けてきた。

「い、いいんだよ? ダイン…もっと、触っても…この間は私が好きに触らせてもらったから、今度はダインから…」

いや、駄目だろう。

そう言いたかったのにやはり声は出せず、しかも満足に理性が働かないせいで体の自由は利かない。

可能な限り抵抗した結果どうにか目だけは閉じられたものの、まるで少女に操られてるかのように体は動いてしまっている。

自分自身何をしてるのか分からないが、ふと両頬にものすごく柔らかな何かを感じた。ほぼ無意識に、その柔らかいものに顔を押し付けてしまう。

大きくはないが、丸く柔らかで温かな二つの感触。

「ん…や、やっぱり、そこ…なんだね…ふふ…」

上から少女の声がする。何も見ないようにしてはいるが、何となく分かる。どうやら自分は少女の胸に顔を埋めてしまったらしい。

興味がないわけではない。しかし理性が働いていたなら、決してこんなことするはずがない。

やはり少女に操られてるのだろうか。

どうにかできないだろうかと思っている間に、今度は自分の首に柔らかな何かが回されてきた。

「ふふ…ダイン、可愛いよ? もっと触れて良いからね…もっと…」

どうやら少女が抱きしめてきたのだろう。ろくに抵抗できないダインはそのまま動けず、さらに少女の柔らかな胸に顔が沈み込んでしまう。

そのとき、上から少女の「あ」という声が聞こえた。

「この私はいいんだけど…“そっちの私”には、まだ早いかもしれないから、徐々に、ね?」

理性が働かず戸惑うばかりのダインに向けて少女が言った台詞は、一瞬では理解できないものだった。

「ダインがそうしたいんだったら、そっちの私にしてくれてもいいけど…きっと嬉しがると思うけど。ふふ」

何が何だか分からない中でも、少女の言った意味を必死に考えたダインは、ある結論にたどり着く。

やはりルシラのこと、だろうか。この少女はルシラなんだろうか。

そう思い至ったダインはどうにか顔を上げ問いかけようとしたものの、ふと別の方向から不自然に体を揺さぶられていたことに気付く。

沈んでいた意識が徐々に浮かび、ぼやけた視界がさらに白くなっていく。

「あ…もう時間か…」

少女は残念そうに漏らし、ふとダインを抱きしめる腕の力が緩んだ。

間近でダインを見つめる少女は、どこか寂しそうだが笑顔だ。よく分からないが、夢の終わりが訪れたらしいことを悟ったダインはホッとした。

裸の少女は、意識と同時に全身が浮かびあがっていくダインを笑顔のまま見上げている。

「じゃあまた、ね? 大好きだよ、ダイン!」

そんな声と共に、彼の意識は完全に覚醒した。



「ダイン坊ちゃま」

体の揺れを感じて目を開けると、サラの顔が飛び込んできた。

「リビングで寝ていては体を冷やしてしまいますよ」

彼女の背後のテーブルには大量の食材が転がっている。どうやらたったいま、サラは帰ってきたらしい。

「あ、ああ…」

曖昧な返事をしつつ上半身を起こす。ダインが寝落ちする瞬間まで勉強に勤しんでいたルシラも、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

開きっぱなしの問題集に突っ伏したまま、すやすやと寝息を立てている。手には鉛筆が握られたままだ。

「ルシラはずっとお勉強を?」

「ああ、そう、だな…滅茶苦茶頑張ってるよ」

「ほう」

サラと会話をしながらも、ダインが思い出していたのはつい先ほどまで見ていた夢のことだ。

今回の夢は風景こそぼやけていたが、あの少女の声も姿もやけにはっきりしていた。

触れる感触も現実とほぼ同じだったし、あれは明らかに夢ではない。

少女の可愛らしい声に、姿。そしてあの生々しい感触。

さすがにこのことはサラには言えない。サラに言ったところで面白がられるだけなのは目に見えてる。

「…ルシラ…」

ダインはそう言ったきり、思わず黙り込んでしまう。

脳裏には未だにルシラに抱きつかれた感触や、胸の柔らかさや温もりがこびりついている。

「ダイン坊ちゃま。ルシラが少し苦しそうにしてますよ。少々力を込めすぎでは?」

サラにそう指摘されるまで、ルシラをぎゅっと抱きしめていたことに気付かなかった。

ダインはハッとして力を緩め、ルシラを起こしてしまわないようゆっくりと腕を離す。

「買出しに少々時間がかかってしまいました故、お夕飯は出来合いのものになってしまいますがよろしいでしょうか」

「ああ、いいよ」どうにか動揺を落ち着けつつダインは言った。「元々俺が帰ってくるのが遅かったんだし」

「では温めてきます」

キッチンへ向かったサラは、出来合いの料理を魔法式レンジに入れ、温度と時間を設定した後ダインの分の飲み物を持ってリビングに戻ってくる。

「なぁ」

料理が温まるのを待つ間、食材を保冷庫に入れようとするサラを呼び止めた。

「何でしょう?」

「ついでだから報告会しようぜ」

トラブルがあったというダインの台詞を思い出したサラに、ダインは「気になってるだろうし」と言うと、サラはすぐさま自分の飲み物を持ってダインの正面に座る。

眠るルシラの手前、彼は静かに今日あったことを報告した。

グラハム校長に呼び出されたこと、そのグラハム校長と担任のクラフトがガーゴを怪しんでいること。

順を追って説明したが、彼女が食いついたのはやはりガーゴ捜査員との一件だ。

「ここからは俺の憶測なんだが」

人目の多い校内ということもあり、シンシア達には言えなかった憶測をサラに伝える。

「連中は、ルシラを狙ってるんじゃないかと思うんだ」

「ルシラを?」

「ああ。捜査員の奴らは、どうも何らかの事件性があって俺の家を突き止めようとしているようには見えなかった。俺自身何かの事件に巻き込まれた自覚はないし、した覚えもない。直近で特別な変化があったと言えば、ルシラがやってきたことぐらいだ」

「なるほど」と納得した様子を見せたサラは、お茶を飲みつつ未だ寝息を立てているルシラの後頭部を見つめる。

「お役所にこの家の住所は正式に登録してありますし、わざわざ尾行などしなくてもこの家は突き止められるはずですからね」

同じことを考えていたダインは頷いた。サラは続ける。「その捜査員がダイン坊ちゃまを尾行しようとした目的は住所を突き止めることではなく、ダイン坊ちゃまの体にまとわりついている“何か”の気配を探ることだったのかも知れません」

「捜査員の奴らには家を突き止めろとだけ命令されてたっぽいが、奴らは気付いてないのか衣服には巧妙に仕込まれた“目”の魔法が施されてあったよ」

シンシア達には明かさなかった事実だが、確かに連中の衣服には色々と謎めいた魔法が仕掛けられてあった。

有事を想定しての補助魔法、回復、幻視。それらは自分を守るために施された、捜査員自らが使っただろう魔法というのは分かる。

しかし魔法力の“元”を視ることが出来るダインには、その“目”の魔法だけは本人ではない誰かのものだということを見抜いていたのだった。

「つまり、ダイン坊ちゃまから漂う“何か”の元をその目の魔法を通して辿ろうとしていたわけですか」

「じゃないかと読んでる」

ふぅむ、と顎に手を添え考え込むサラは、コップの中のお茶を揺らしながら頭の中で情報を整理している。

「確かにルシラの気配を探っているのは間違いないでしょうね。そしてその上で考えたならば、何の目的があって、ルシラの何を狙っているのかという疑問に行き着くわけですが」

「そこまでは情報がまだ乏しいから分からないが…」

ダインは言い、ルシラが起きないよう彼女の頭を優しく撫でた。

「ルシラが目的だと分かった段階で、俺たちにはすることがある」

不意に真剣になったダインの表情を見て、彼の言わんとすることが分かったサラは頷く。

「ルシラの存在を隠したいということであれば、できないこともありませんよ。ダイン坊ちゃまから漂う“気配”を察知しただけのようですし、ガーゴの方々はまだその正体に気付いてはいないはず。目はつけられたでしょうが、まだ疑惑段階だと見ていいでしょう」

ガーゴの連中にとって、ルシラがどれほどの存在かは分からない。

しかし多少のリスクを冒してでも尾行しようとしてきたことを考えれば、正体に気付いた瞬間畳み掛けてくる恐れがあるとサラは言った。

「仮にルシラの存在に気付かれるようなことになれば、少々面倒なことになるやも知れませんね。ルシラの気持ちや我々の思惑はどうであれ、形だけで見れば私とダイン坊ちゃまはルシラを誘拐していると見られなくもないのですから」

サラの言うとおりだった。正式な手続きを踏んでルシラを保護してない以上、取り締まり組織であるガーゴはダイン達の現状を如何様にも出来るのだ。

誘拐。監禁。あらゆる容疑をかけ、ルシラを大々的に、強行的に奪い取れる方法はいくらでも作れる。

そうしてこないということは、つまりまだ疑惑段階ということ。まだ、ルシラの存在は気取られてないということになる。

「どのようにいたします?」

サラからルシラを守るための方法を尋ねられたダインは、「そうだな…」としばしルシラの髪を指で梳きながら考える。

「ルシラのことは知られたくないな。サラの言うとおり面倒なことになる。だが、ルシラの力なのか存在なのかが狙いだということは、連中はルシラの正体かそれに近いものを知っているということになるよな」

「そうですね」

「その情報だけはどうにかして欲しいところだ。ルシラのためにもさ」

今度はサラがコップに視線を落とし、熟考しだす。

「こちらの正体は隠したまま、相手の情報を引き出す、というわけですか…」

何事も行動するにはリスクが伴う。ダインが言っているのは、そのリスクなく行動しろと言っているに近い。

「やっぱ難しいか」

リスク込みの案を探そうとしたとき、「いえ」とサラは言ってきた。

「なかなか骨の折れそうなミッションですが、やってみましょう」

「いけるか?」

「ええ。幸いにも私もこれまでガーゴのお世話になったことはございませんし、住民登録帳にもカールセン家のメイドとしか記載されておりません。すでに名前も顔も知られてしまっているダイン坊ちゃまよりは多少なりとも動けるかと」

サラは過去、父ジーグの元で諜報活動をしていたことがある。自由に動くため基本的には人前に出ず、名前も仮名を使うことがある。

その名残か現在もサラのことは役所には知らせていない。

それどころか、サラの本家であるシーハス一族自体、国家管理下ではルシラと同じく存在しないことになっている。

シーハス一族は、エレイン村の特産品を売り込むための、カールセン一族の見えざる懐刀といってもいい。

「助かる。でも無理はしないでくれな? 何しろ相手は巨大組織なんだから」

心配を口にするダインに、サラは「心得ております」といった。

「ルシラの現状を何とかしたいという気持ちは私も同じですから。ダイン坊ちゃまに依頼されなくとも動くつもりでおりました」

「しかし」と、彼女はやや困ったように眉を寄せる。

「まずはどこから手をつければ良いかが分かりませんね…ダイン坊ちゃまを尾行しようとした捜査員に狙いをつけても良いのですが」

「そうなんだが」ダインは気まずそうに言う。

「録画してないんだよな…奴らには携帯を見せて録画してると言ったが、逃げようとした連中を足止めするために嘘ついただけだから」

かまをかけたのが本当のところだった。とはいえ、捜査員の男二人は上層部の考えに薄々気付いてはいたようだが、末端だしこれといったことは教えられてはいないのだろう。

「可能ならジーニって奴に当たってみて欲しい。そいつがどうも色々と知ってるっぽいし」

「ジーニ・ジルコン様ですか。魔法に関連した犯罪の対策にあたっているという」

知ってるような口ぶりだ。

「詳しいのか?」

「いえ、そこまでは。ただなかなかの有名人だということは存じております。啓発ポスターやテレビなど、街中で目にする機会は多いですね」

「へぇ、そうなのか」

「見るからに完璧超人でクール美人。そこが男性に受けているようです」

クール、という単語を聞いてダインがまじまじと見たのはサラの顔だ。

「…そういや、ちょっと似てるな」

「ジーニ様にですか?」

「ああ。冷たそうなところとか、愛想のなさそうなところとか」

「何を仰います」

心外だと言いたげに、サラはお茶を飲み干してダインを見返した。

「冷徹美人とは似ても似つきませんよ。私はただ美人なだけです」

「自分で言うのかよ」

「ええ。それに愛想は私の方がありますし。うふ」

うふ、と言いながら両頬に人差し指をつきたて首をかしげる。目は一切笑ってない。

「真顔で笑うと余計に怖いんだが」

冷静に突っ込むと、「まぁ冗談はさておき」と話を戻してきた。

「探りを入れてみますか。直接は無理そうなので、とりあえずの狙いをジーニ様の周辺といたしましょう」

「本当はこんなこと、あまりして欲しくはないんだがな…」

ダインは思わず息を吐いてしまう。信念として嘘や騙しは嫌っているが、その信念を捻じ曲げるようなことをサラに依頼しているのだ。

「ガーゴの方々が大人しく口を割るつもりがなく、ちょっかいをかけてきたのですから。こちらもそれ相応の対応をするまでです」

「そうなんだがな…」

「全てはルシラのためなのですから」

サラはそう言って手を伸ばし、ルシラの頭部に触れる。

「いつまでもこのままというわけにはいきませんから」

いまも探し回っているかもしれない、ルシラの両親。親族。

ルシラ本人はどう思っているのかは分からないが、現状のままでいいはずはない。

ルシラの親族を思えばこそ、日が経つごとにダインにもサラにも焦りは募っていたのだった。

「私は思うのですが、恐らくこの子は育児放棄や虐待などという目に遭ってはないと思うんですよね」

「どうしてだ?」

問いかけるダインに、サラはルシラの寝顔を見るように言った。

「酷い目に遭っている子がするような寝顔ではないですから」

根拠はない。しかし、すごく納得の出来てしまう一言だった。

「これほど素直で、常に笑顔でいられる子なのです。見ていてこちらまで嬉しくなってしまうほど。その無垢すぎる笑顔には何の暗さも感じません」

「…確かにな」

ダインは思わず笑ってしまい、再びルシラの髪を指で梳いてしまう。

二人に撫でられたルシラはまたくすぐったそうな笑い声を上げ、そのまま寝息を立て続ける。

これほど良い子なんだ。きっとルシラは愛情のある家庭に生まれたのだろう。

「まぁしかし、事と次第によってはルシラを引き取るつもりではいますがね」

それは紛れもないサラの本心だった。

「例えダイン坊ちゃまであろうとも、この子は渡しませんよ」

ゆるぎない決意を持った視線を受けつつ、ダインは「おいおい」と肩をすくめる。

「何言ってんだ。俺が引き取るよ」

ダインもダインで本気だった。しかしサラは引かない。

「私の方が一緒にいる時間が長いのです。私が引き取ります」

「俺は毎日一緒に寝てるぞ」

「私こそ毎日一緒に寝てます。昼間」

「だから仕事は」

そう突っ込んでから、サラはくすりと小さく笑う。

「ダイン坊ちゃまもすっかりルシラの虜ですか」

冗談めかすような台詞だが、ダインは「否定はしない」と素直に言った。

「可愛いし懐いてくるし。虜にならない奴なんかいないだろ」

「確かにそうですね」

そのとき、キッチンの方から料理が温まったことを知らせる甲高い音が鳴った。

「準備してまいります」

「ああ。俺は片付けとくよ」

立ち上がってキッチンに向かうサラを見てから、ダインはテーブルに散らばる教科書や辞書を重ねていく。

起こしてしまわないよう気をつけながら、ルシラが枕にしていた問題集もそっと引っこ抜く。

ふとその問題集を見たダインは、思わず動きを止めてしまった。

「…なぁ、サラ」

近くまでやってきたサラを再び呼びつける。

「何でしょう?」

「最近のルシラの知識の詰め方が半端ないような気がするんだが」

そう言いながら、手に持った問題集をサラに見せる。

それは初等部や中等部の入試レベルの問題集ではない。

歴史マニアでしか解けなさそうなほどの難問レベルの問題集だった。

「これは…確か奥様が歴史博士の称号を得るために買った問題集のはずですが…」

空欄が全て埋められていることを確認したサラは言う。「全問正解してますね」

「文字はまだたどたどしさがあるが、この短期間で覚えたとは思えない単語の量だ」

始めは確かに文字の書き取りや簡単な単語の穴埋め問題を解いていたはずだ。

低学年用の問題集を解いてるとばかり思ってたから、これまで特に気にすることはなかったが、いつの間にこれほど難しい難問を解けるまでに成長したのだろうか。

もはや頭が良いというレベルなどではない。

参考書を完璧にマスターしていれば解けそうではあるが、天才だからこそ物覚えも早かったのだろうか。

「集中すれば時間を忘れるほど没頭していましたからね。それがルシラの種族の能力なのかは分かりかねますが」

驚異的な学習能力の高さに舌を巻きつつ、ダインはしばしノートを眺める。

「ルシラからさ、何か目指しているものがあるって聞いたんだが」

視線を落としながらサラに尋ねると、彼女も話には聞いていたようで「ああ」と声を出した。

「そのようですね。私にも教えてはくれませんでしたが」

サラも別の問題集を手に取り、内容を黙読する。「これほど勉強しなければなれない何かということでしょうね」

「専門レベルの知識っていうと…学者あたりか?」

「さぁ…それは分かりませんが、しかしルシラに関することで気になる点が一つ」

「何だ?」と尋ねるダインに、サラはルシラがこれまでに解いていったドリルやノートをひとまとめにした。

「確かに、傍から見ればルシラは熱心に“勉強”をしているように見えていたのですが…そのやり方を見ていると、どうも単純な勉強というわけではなさそうなんです」

「どういうことだ?」

「通常であれば、問題に対して解答する際は、参考書や過去に見たり聞いたりしたことと問題を照らし合わせ、色々と思考しながら答えを導くものなのですが…」

サラはおもむろにルシラが既に解いていた問題集を広げて見せてくる。

「例えば算数であれば、空白の箇所に計算式など書いたり、語学であれば解答欄に書き直したりした跡があるはずなのです」

サラが指摘する箇所を見てみるが、彼女が言っていた“ルシラが考えていたような”書き跡はどこにもなかった。

「答え一覧は別紙がありまして、私が答え合わせをするまでは私が管理していました。なのでルシラがカンニングしたということもありません」

つまりサラは、“ルシラは何も考えずに”直で正解を書き込んでいったと言いたいのだろう。

「改めてルシラが勉強しているところに注視してみたのですが、この子は勉強をしているといよりは、問題の正解を“確認”しているように見えました。その姿は歴史の回答をする際に顕著に現れていたように思います」

「確認…」

ダインは思わず、未だ眠り続けるルシラの背中を見てしまう。

「まさか…考えなくても答えが分かっていたと? 正解を知っていたってことなのか?」

「私見に過ぎません。異常なほどの学習能力と記憶力ですから、本を一度読んだだけでその内容が全て頭に入ったということも考えられますが…」

だが、たとえケタ違いの学習能力と記憶力があったとしても、出題される問題はひねりや応用が多い。どれほどの天才がいたとしても、思考せずに答えを導き出せるはずはない。

「確かに気になるな…」

サラの言っていた通り、ルシラが過去に解き明かした問題集はどこにも書き直した跡は見られない。ノートにも消し跡すらなかった。

「これも私の完全な憶測なのですが」

そこでサラは一つの仮説を打ち立てた。

「世の中は多種多様。我々のように特異な能力を持った種族が他にも沢山いることを考えると、ルシラはひょっとしてエル族のように長命な種族かもしれません。幼年ですでに長命期に入り、沢山知識を身につけていたのかも」

確かに長命な種族はエル族の他にもいくつかある。

だがどの種族も、肉体が成熟してから長命期に入るのが一般的だ。それも当然だろう。体が幼いままでは何かと不便だからだ。

なので、ルシラのように幼年から長命期に入るのなんて聞いたことがない。

それにルシラは元々記憶喪失のはずだ。問題集に直面したとき、その問題に関する知識だけ記憶が戻るというのもかなり無理がある。

とは言え、ルシラは色々な意味で規格外だ。吸魔もそうだし、ダインの夢に干渉できる能力もそうだ。限定的な記憶の呼び覚ましということも、ルシラにならば起こり得る事なのかも知れない。

「う〜ん…」

思わず腕を組み唸ってしまったダイン。

「こう見えてルシラは我々より年上かもしれません。ルシラさんと呼ぶべきなのかもしれませんね」

「いやないだろ」

サラの仮説を、ダインは笑い飛ばして否定した。

「口調はたどたどしくて甘えんぼなルシラなんだから、どう見たって年下だろ」

ダインが家にいるときは常に側を離れず、抱っこをせがむ。

口の周りをソースや油でべたべたにしながら、「おいしいね!」と笑いかけてくる。

ダインにとって、ルシラという存在は愛情を注ぎ守るべき“子供”なのだ。いまになってルシラの正体が分かり、例えサラの言うとおり年上だったとしても、彼女への接し方を変えるつもりはない。

記憶を取り戻し急に大人びた性格になったとしても、いまの関係性は崩さない。

「俺の中のルシラのイメージは定着した。いまさらどんな事実が分かったところで、態度を変えるつもりはない」

明確な意思を示すダイン。サラは口の端に笑みを浮かべる。

「年上を年下扱いするというのも、なかなか趣のあるプレイですからね」

「妙なところで共感を得るな」

ダインの突っ込みをスルーしつつ、サラは立ち上がって食事の準備に取り掛かる。

普段より遅めの夕飯だったので、美味しそうな匂いが漂った瞬間ルシラは飛び起きた。

すぐさま定位置に腰を下ろし、がっつくように夕飯を食べ始める。

「んん〜!!」

頬をパンパンに膨らませながら、片手を振り上げ美味しいということをアピールする。

その姿はやはり子供にしか見えなくて、ダインもサラも微笑みっぱなしだった。



ダインの部屋のドアがゆっくりと開き、そこから小さな姿が現れる。

「あの…だいん…」

ルシラはどこか神妙そうな面持ちだ。

シンシアと明日の待ち合わせを再確認しあってる途中だったダインは、携帯を机の上に置いてパジャマ姿のルシラへ近づく。

「どうしたんだ?」

「あの…おはなし、したいなって」

そう言って、両手で抱くようにしていた枕に視線を落とす。

「話…?」

いつもなら、ルシラはとっくにサラの部屋で寝ている時間だ。外は真っ暗で、虫の音色が聞こえている。

早く寝ろと言いたいところだが、夕飯までずっと寝ていたので多少の夜更かしは問題ないのだろう。

何より、何か言いたげなルシラの様子が気になったダインは、そのまま彼女を招き入れた。

ダインが勧めるままおずおずとテーブルの前に座り、ダインは彼女の正面に回る。

「話って?」

「あの…あのね、あした、だいんのおとうさんとおかあさんがかえってくるんだよね?」

「ん? ああ。そうだぞ」

賑やかになる、と彼女に笑いかけてから、「俺の親にちゃんと挨拶できるか?」と続けた。

「うん! さらにおしえてもらったよ!」

ルシラはすぐに笑顔になり、枕を置いてばっと立ち上がる。

「おせわになってます! るしらっていいます! よろしくおねがいします!」

そしてぺこりとお辞儀をする。

「完璧だ。さすがだな」

あまりに可愛らしい姿に、ダインはまた笑ってしまった。

ルシラも嬉しそうに笑ったが、すぐに表情を寂しそうなものに戻し、座布団に座りなおす。

「るしら、ここにいられなくなるのかな…」

彼女の口から突然そんな言葉が飛び出した。

「どういうことだ?」

思わぬ台詞に、ダインもつい前のめりになってしまう。

「えほんに、かいてあったから」

「絵本?」

「うん。えほんのなかで、おうちは、かぞくのもの。みうちのものだから、よそものはいちゃいけないって…」

ルシラが何の絵本を読んだかは分からない。

恐らく絵本の中の辛いシーンの一場面が、ルシラがいま置かれている状況と酷似しているため、不安にさせてしまったのだろう。

「だいんのおとうさんとおかあさんがかえってきたら、かぞくみずいらずになるから…るしらは…」

「何も心配することはねぇよ」

ダインはすぐさまルシラの真横に移動し、その小さな頭を優しく撫でた。

「俺の両親が帰ってきても、お前を追い出すようなことは絶対にしない」

力強く言うと、ルシラの「ほんと?」という上目遣いが返ってきた。

「本当だ。両親ともにルシラのことは連絡済だし、了承も得ている。だから好きなだけここにいたらいい」

絵本は絵本だ。そう言ったところで、ルシラにようやく笑顔が戻った。

「ありがとう!」

そういいながら両手を大きく広げ、ダインの胸に飛び込む。

ダインはそのままルシラを抱きとめ、ぽんぽんと背中を叩いた。

「その点に関しては安心しろ。何があっても、お前が寂しがるようなことはしない。一人にはしない」

「うん…うん…!」

嬉しそうに何度も頷くルシラを見て、ちょうどいい機会だと思ったダインはルシラを少し離して言った。

「とは言ってもさ、いつまでもこのままってわけにもいかない」

「え?」

「ルシラにも家族がいるだろ?」

不安はないのか、焦りはないのか。ルシラのいまの気持ちが知りたい。

彼女の正直な気持ちに直面するときだと思い、彼女を地面に降ろして真正面から問いかける。

「分からなければ分からないって言っていいからさ、ルシラのことを教えてほしいんだ」

「るしらの?」

「ああ。家族はどうしてるんだ? そもそも、ルシラはどんなところに住んでたんだ?」

これまで、ルシラ本人に何も聞かなかったわけではない。

ルシラの記憶が戻るまでが待てなくて、何度も問いかけた質問だった。

「改めて教えて欲しい。思い出せないならそれでいいから」

そのとき、ルシラは決まって難しそうな顔をする。「う〜ん」と何かを思い出そうとする素振りは見せるものの、彼女の口から発せられたのは…、

「んと…どこかはよくわからなくて…ずっとみどりのなかにいて…かぞく…は、いないよ?」

という、やや抽象的なものだった。

家族はおらず緑の中にいた。それだけだ。

記憶喪失だから家族のことを思い出せないだけじゃないかと思っていたが、ルシラの答え方を見るに記憶があやふやになっているようには思えない。

ルシラの台詞や仕草に注目しつつ、ダインは質問を変えた。

「じゃあさ、その緑の中からどうやってあの公園の場所まで行ったんだ?」

誰かに運ばれたのか。はたまた魔法で飛ばされたのか。

ダインの真剣な質問に、ルシラもまた真剣な様子でそのときのことを思い出そうとする。

「それは…んと…」

幾度となく繰り返した質問なのに、ルシラはいつも真面目に考えてくれる。

言葉や仕草の端々から、何かヒントが得られればいいかと思ってたのだが、ルシラからの返答はやはりぼんやりとしたものだ。

「すごくかわいてて…くるしくて…どうにかしなきゃっておもってたら、あそこにいた…んだとおもう」

その台詞から、ルシラは何か身体的に辛く苦しい状況に置かれていたのだというところまでは推察することができる。

渇いてて苦しい。逃げ出したいという一心から、無自覚に転移か何らかの魔法が発動してしまったということだろうか。

まだまだ、ルシラの本当の種族や住所を突き止められそうにはない。

いや、そもそも…

「ルシラは、家に帰りたいとかは思わないのか?」

核心を突く質問だと思った。

しかし、彼女はやはり不思議そうに「おうち?」と聞き返してくる。

「家に家族はいないにしても、そこで待っててくれる人とかはさすがにいるだろ?」

「おうち…」

また首をひねって考え出す。

「おうち…ある、のかなぁ…」

「いや、ないってことはないだろ」

ダインはすかさず言う。「ここまで成長して来れたんだし」そう続けても、彼女はまだピンと来た様子はない。

「ずっとうかんでて、ずっとぐるぐるまわってるようなところだから…」

それは以前にも聞いた、ルシラが飛ばされる前に住んでいたらしい場所だった。

この世界には様々な種族がおり、その種族の分だけ様々な生活の仕方がある。

海の中でしか生きられない種族や、山の頂上でしか生活できない種族も見たことはあるが、さすがに空中に住む種族というのは聞いたことがない。

それに近い種族としてはエンジェ族やゴッド族が挙げられるが、空中ではなく空間を超越した別世界に住んでいた頃の話だ。大昔の『イシュタル歴』時代は天上から下界であるこの地上を見守っていたが、創造神エレンディアの降臨がきっかけで続々と降りてきたらしい。

いまも天上界は存在し、純血のゴッド族やエンジェ族もそこに住んでいるかもしれない。ルシラはそこから何らかの事故により降りてきたという可能性も考えられるが、それら二つの種族の最大の特徴である羽は見られない。翼人の可能性はないだろう。

「だいん…このままは、だめなの? るしら、やっぱりこのおうちにはいられない…?」

ルシラはまた不安そうな顔になってしまう。天真爛漫な彼女だが、ルシラもこれまで何も考えてこなかったわけではない。

ルシラにはルシラなりの不安があったのだ。ダインとサラがルシラについて相談しているとき、いつもルシラは不安そうに二人の様子を窺っていた。

身寄りがなく、親類もいない。ダインという優しい人に保護してもらったが、あくまで保護であり足は宙ぶらりんのままだ。

何事か思案していたダインは、ふとルシラの両肩を持って見上げさせた。

「ルシラ、一つ常識的な話をする。面白くはない話になるだろうが、聞いてくれ」

眉を寄せ普段以上に体を小さくさせるルシラに、ダインは真面目な顔のまま言った。

「人は誰であっても、いるべき場所、帰るべき場所っていうのがあるものなんだよ。その帰るべき場所には待っている人がいるはずで、その人達を不安がらせるわけにはいかないんだ」

ルシラの瞳が揺れ動いている。不安で押しつぶされそうな彼女に、ダインはルシラにとっては辛いであろう“常識”を突きつける。

「きっとルシラにも、ルシラが帰るべき場所で待ってくれている人がいるはずなんだ。今頃、血眼になって探してるかもしれないんだ。そこへ送り届けるのが、ルシラを保護した俺とサラの責任であり、成し遂げなければならないことだ。そういう意味で、このままではいけないって言ったんだよ」

「でも…るしらをまってるひとなんて…」

寂しそうにいうルシラに、ダインは笑いながらその頭を撫でる。

「あくまで常識的な話だ。仮にお前がいるべき場所を見つけたとしても、ルシラが帰りたくない、俺たちと一緒にいたいって望むんだったら、無理に帰そうとはしない」

「ほんと…?」

「ああ」、頷くダインは表情を優しいものに変え、ゆっくりとした口調で言った。

「とは言え、向こうさんに報告ぐらいはするがな。要は、ルシラの家がどこで、そこにルシラの他に誰がいて、その人にルシラはこっちで元気にしているっていうことを知らせたいんだよ。安心させたいだけなんだ。そこからどうするかはルシラに任せる」

「るしらに…?」

「そう。この家にいたいんだったら好きなだけいればいい。ルシラの望むことをすればいい」

「めいわくじゃ…ない…?」

今更そんな心配をしだすルシラに、ダインは再び笑い飛ばした。

「お前がここにいることで困ることなんて何もない。俺もサラも、そして明日帰ってくる両親でもな。むしろお前が来てくれたことにより、家の中がより明るくなったようで毎日楽しいんだ」

本音を打ち明けた瞬間、不安げだったルシラの表情に再び笑顔が戻る。

たまらずといった様子で、ダインの足の上に飛び乗りそのまま力いっぱい抱きついてきた。

「ありがとう、だいん」

「礼なんかいらない」

そう言いつつ、ダインも優しく抱きしめ返す。

「ルシラはそのままでいろ。何も不安に思うことはない。迷惑だからって、勝手に出て行ったりなんか絶対にするなよ?」

「俺がついてる」そう続けると、ダインを抱くルシラの腕に一層の力が篭った。

「俺はお前のこと、もう家族みたいなもんだって思ってるからさ」

ダインは微笑みながら、何度もその小さな背中を撫でる。

「何か不安に思ってることがあったら、俺やサラにまず話せ。一人で抱え込もうとするな。家族ってのはそういうもんだ」

最後に再びルシラを苦しくない程度にぎゅっと抱きしめ、そのまま「分かったか?」と言った。

「うん…」

ダインの広い胸に顔を埋めつつ頷くルシラは、手足が僅かに震えている。

きっと、ダインが思っている以上にルシラは不安だったのだろう。

ずっと迷惑をかけていたのかもしれない。いつか追い出されるかもしれない。

初めからルシラはダイン達のことを信頼しきっていた。どこにいようとも、ずっとべったりと離れまいとしていた。

そんな二人から、いつか「迷惑だ」と言われるかもしれない。邪魔だという目を向けられるかもしれない。

信頼している人からの裏切り。絵本から様々な物語を読み、そこからいらぬ恐怖心を抱え込むようになってしまったのだろう。

これからもルシラは色々学んでいくはず。その中で、また今回のように不安や恐怖を抱いてしまうかもしれない。

「大丈夫だからな…ルシラ」

その都度、不安を取り除いてやろう。

その都度、正直な気持ちを伝えてやろう。ルシラが笑顔になってくれるのならいくらでも抱きしめてやろう。

初めからダインはそのつもりでいた。ルシラを保護しようと決めた瞬間、何が何でもルシラを守り通す気でいた。

「だいん…だいすき…」

やがて体の震えが収まったとき、ルシラからそんな安心しきったような声が漏れる。

ダインはなおも笑顔のままルシラを抱擁していると、ダインを抱きしめていた腕の力が緩んだ。

ついにはダインから離れだらりと垂れ下がり、胸元からルシラの小さな寝息が聞こえだす。

「…寝たのか」

安堵感から急速な眠気に襲われたのだろう。

ダインはまた笑ってしまいながら、ルシラを抱え上げる。

サラの部屋へ送ろうかと思ったが、ルシラの枕が転がっているのが見え思いとどまった。

「甘えんぼだな」

そう話しかけつつ、ルシラをダインのベッドへ寝かせる。

部屋の明かりを消しつつダインもベッドにもぐりこむと、ルシラは「ん〜」とくぐもった声を出しながらすぐにダインにしがみついてきた。

「本当に大丈夫だからな、ルシラ」

そう言って、ダインもルシラを抱き寄せる。

「側にいるからさ…」

眠る瞬間の、ダインの声が届いたのかどうかは分からない。

分からないが、眠っているルシラの寝顔はとても嬉しそうなものになっていた。


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