百三十五節、月光
トイレから寝室に戻ろうとしたとき、リビングから見える中庭のベンチに誰かが座っているのが見えた。
現在はもう深夜を回った時間だ。辺りは完全に暗くなっており、月明かりの青白い光が中庭と“銀の長い髪”を照らしている。
「寝たほうがいいんじゃないか?」
中庭に入りつつ、ダインはその銀髪の人物に声をかけた。
「あ、ダインさん」
彼の姿を見るなり、ティエリアは嬉しそうに微笑みかける。「すみません、月があまりに綺麗でしたので…」
ふと目が覚め、部屋から月が見えたため中庭まで見にきたと彼女はいった。
「朝昼晩、ここは様々な顔を見せてくださるから居心地がよくて…」
「そこまで気に入ってくれたなら、丁寧にガーデニングしてた甲斐があったよ」
ダインは笑って彼女の隣に腰を降ろした。
そしてティエリアと一緒に顔を上げ、煌々と輝く月にしばし見とれる。
夜風が気持ちよく、どこからか聞こえる虫の鳴き声も心地いい。
「先輩」
やがて、ダインのほうから彼女に声をかける。「明日の七竜戦は不安じゃないのか?」
心配げにいった。
彼は、やはり七竜に翻弄されるシンシアたちの姿が浮かんでしまっていたのだ。
「怖いなら怖いってちゃんといってくれたら…」
「あ、いえ、怖くはないです、本当に」
ダインを見て、彼女は小さく笑う。「痛みも怪我もないですし、七竜の試練とはいいましても、それほど勝ちには拘るつもりはありません。パパ様とママ様を説得できればそれでいいのですから」
シエスタがいうように、あくまで遊びのつもりだ、と続ける台詞は本心のようだ。ダインも「そうか」、と笑顔になる。
「重要なのはプノーを救出できるかどうかだからな。ついてきてくれるのは有り難いけど、危険な目には遭って欲しくない」
「あ、はい。お任せください。守ることは得意ですので」
「ゴッド族の先輩がいうんなら間違いないな」
お互い笑い合い、二人は再び夜空を見上げる。
吹き抜けの天井の突き当たりには、円状の穴が開いていた。天窓は開かれており、その中心にちょうど月が来ている。
「やっぱここ地上だから、先輩んところよりは空が少し遠いな」
ティエリアの家から見た夜空を思い出してダインはいうが、「ですけど遠い分、星も沢山見えます」、ティエリアは穏やかに返した。
「この様子ですと、明日も快晴かもしれませんね」
「ああ、そうだな。つっても俺らは朝からトルエルン大陸に行くんだけど…向こうは晴れてるのかな」
現地の天気予報を確認しようとしたダインだが、携帯は部屋に置いたままだったことを思い出し、ポケットを探るのを止めた。
「トルエルン大陸の地上は砂漠地帯ですから、雨は降らないのでは…」、とティエリア。
「ところがさ、ヴォルケインが討伐されたせいで環境が変わって、雨が降ることもあるらしいんだ」
サラから聞きかじった情報を伝えると、「え、そうなのですね」、砂漠地帯に雨など、初めて聞く現象だったのか彼女は少し驚いた。
「マレキア大陸に吹き荒れていた風はぱたりと止んだし、コンフィエス大陸全体の気温も上昇したらしい。ダングレスのいたここオブリビア大陸も、以前は頻発していた地震が激減した。自然環境が変わることが良い事かどうかは別として、七竜の討伐と同時に世界は本来あるべき姿に戻っていくらしいよ」
「あるべき姿、ですか…」
それがどのようなものか。
思い描こうとしたティエリアだが、その口から漏れたのは可愛らしいあくびだった。
ダインの視線に気付き、慌てて「す、すみません」、顔を赤くして謝った。
「はは、昨日も夜更かししてたんだろ? いい加減寝たほうがいいんじゃないのか?」
「それはそうなのですが…その…なんだかもったいなくて…」
俯き加減のまま、ティエリアはぼそぼそという。「ダインさんはもちろんのこと、ご両親にサラさん、ルシラさん、ピーちゃんさんたちといるのが楽しくて…」
どうやらカールセン邸での日常を楽しんでくれているようだ。
「俺も楽しいけどさ、でも別に今日だけってことはないんだから、あんまり過剰に貴重に思わないで欲しい」
ダインは笑って彼女の頭を撫でた。「シンシアもニーニアも先輩も、いつでも来てくれたらいいんだから。サラもいってたが、いつでもウェルカムなんだから、もったいないも何もないぞ?」
「はい…」
ダインの手の感触に、しばしうっとりとしていたティエリア。
「あ…ですけど…ふふ」
突然、彼女は肩を揺らして笑い出した。
「よくよく考えてみれば、おかしな話です」
「うん? 何がだ?」
「ダインさんが、いまも私のことを“先輩”と呼んでくださっているので」
可笑しそうに彼女はいった。「学校という繋がりがなくなってしまったので、先輩というのは少し変かなと思いまして…すみません」
「あ…それもそうだな。でも今更呼び方を変えるのも変じゃないか?」
先輩は先輩だし、と続けるダイン。
「ダインさんのお呼びしたいようにしていただければ、私は何でも構いませんが…」、とティエリアはいうが、こちらを見てくる目に何か訴えかけてくるようなものを感じた。
「何か要望が?」
ダインがきくと、「あの…ご迷惑でなければ、一つだけ…」、と再び顔を赤くさせ、彼女は続ける。
「げ、限定的でも構いませんから、先輩以外の呼び方も、たまには…」
「先輩以外?」
「は、はい。是非とも…その…な、名前で…私の…」
「じゃあ、え〜と…ティエリアさん…とか?」
彼女はぷるぷると首を左右に振る。
「ど、どうぞ、呼び捨てで…」
「いや、一応年上だしそれはさすがに…」
ダインは遠慮するが、今更な話かもしれない。
「一年は誤差の範囲です」
彼女もそういったところで、「あ〜、じゃあ、そうだな…」、ダインはしばし思案を巡らす。
「直読みは何だか気恥ずかしいから…うん…」
良い案が思いついたダインは、彼女から視線を逸らし、夜空を見上げながら、
「…ティア…」
そういった。
ティエリアは一瞬びくりと体を震わせ、
「は…はい…」
小声で返事をした。
その顔は真っ赤でかなり恥ずかしそうだが、しかしどこか満足そうだ。
「ソフィル様と被っちまうな」
「い、いえ…っ…う、嬉しい、です…」
「まぁ先ぱ…じゃなくてティアがいいならいいけどさ」
ダインは再び彼女の頭を撫でてしまう。「二人きりのときはそう呼ばせてもらうことにするよ」
「あ、は、はい」
頷いたきり、彼女は何も喋らなくなる。
足の上に置かれた両手はギュッと握られており、恥ずかしいのか嬉しいのか、色んなプラスの感情がない交ぜになったかのような表情をしていた。
恥ずかしそうな彼女を見てその恥ずかしさがダインまで伝染してしまい、「あー、その、さ」、徐々に昂ぶってきた動悸を落ち着かせながら、ふと思い出した話題を彼女に振った。
「最近たまにさ、妙な夢を見ることがあるんだよ」
「妙な夢…ですか?」
「ああ。ルシラ関連とはまったく別の、俺の知らない人ばかりが出てくる夢でさ」
記憶の中からどうにか引っ張り出しつつ、彼は続ける。「ゴッド族かな。背中に翼を沢山生やした人が、俺じゃない“誰か”を色んなところに連れて行く夢なんだけど」
とそこまできいて、ティエリアは少し驚いたような表情でダインを見た。
「あの、その夢に出てくる方は、ゴッド族の…女性の方、でしたか?」
「え? ああ、そうだったと思う」
「男性の方と一緒に、空を駆け巡ったり、草原で親しげに話していたり…?」
「…どうして知ってるんだ?」
逆に尋ねると、彼女は「私だけではなかったのですね…」、といった。
「え、まさか先ぱ…ティアも?」
「は、はい。恐らく、ダインさんが見ていたものと同じだろうものを…。私も、“あるきっかけ”のときだけ、そういった夢を見ることがありまして…」
「あるきっかけ?」
「その…だ、ダインさんに、聖力を吸っていただいたとき、とか…」
そこでダインは「あ」、と声を出してしまう。
思い返せば、確かにティエリアの聖力を中から感じているときに、あの妙な夢を見ていたような気がする。
「じゃあさ…」
それから思い出す限りの夢の内容を彼女に伝えてみると、ティエリアも自分も全く同じものを見たと何度も頷いた。
話せば話すほどにお互いの夢が寸分違わないものだと分かってきて、怖いほどに合致しているものだから、最終的にはお互い顔を見合わせるだけで黙り込んでしまった。
「その…ティアは、その夢の中の登場人物に心当たりはあるのか?」
「いえ、私にも全く…」
と彼女は答えるが、夢ではゴッド族が出てきているだけに、ティエリアに関連があるのは間違いない。
ティエリアの遠い親戚か、それとも先祖の記憶か。
考え込む彼女は、「ジャスティグ家に由縁のある方なのかどうかまでは分かりませんが…お祖母様にきけば何か分かるかも…」、と呟くようにいった。
「気にはなるよな…」
ダインは腕を組んで地面を見つめる。「夢は続いてるっぽいし、あの人らは現実に存在しているのか、それとも存在していた、のか…」
「私も気になっていました。あの二人の物語は、どこまで続いているのか…」
そういって、彼女は「ですから、あの…試して…みませんか?」、と続ける。
「試してみる?」
「は、はい。私単独ではあの夢は見られませんでした。どのような作用が起こってダインさんと同じものが見れたのかは分かりませんが、私の聖力をダインさんと共有する、という条件の下に見れるものではないかと思うのです」
「…確かに」
「ですので、良ければ、その、また…」
その先は恥ずかしいのか、もごもごと口ごもってしまった。
ティエリアの聖力を共有…つまり吸魔して、夢の続きを見ようと彼女はいいたいのだろう。
普段なら夢の内容など気にも留めないが、ティエリアと同じものを見ているという時点で、そこに何か意味があるというのは明白だろう。
誰かが何かを伝えたくてあの夢を見せているという可能性もある。
「試してみる価値はある、か」
ダインがいうと、早速、という感じにティエリアが身体を寄せてきた。
「ど、どうぞ」
ダインは遠慮がちに、その小さな身体をそっと抱き寄せる。
ピクリと反応した彼女は、目を閉じてダインに身を委ねた。
早速吸魔を始めようとしたダインだが…思うところがあった彼は、しばし動きを止めてしまった。
何だか昨日から、誰かと二人きりになるたびにこうして抱きしめてしまっているような気がしていたのだ。
目的は様々だが、彼女たちが来てからの自分の行動を振り返り、ダインはついため息を吐いてしまう。
「ど、どうかされましたか?」
何かしでかしてしまったのかと、ティエリアが少し不安そうに見上げてくる。
「いや、ちょっと…俺って節操無いなってさ…」
胸の中にいたティエリアに笑いかけ、彼はいった。「シンシアたちと連帯組んでるティアなら何かと耳にしているかもしれないけどさ、昨日はディエルやシンシアにいまと似たようなことしちまったし、今日の昼間だってみんなと引っ付きあってさ…昔の俺はこんなんじゃなかったような気がするんだけど…」
なるべく硬派でいたかったと嘆くダイン。
「だ、大丈夫です!」
ティエリアは、突然強い口調でいった。「私たちは、同盟を組んでおりますので…!」
「同盟?」
「はい。その…ダインさんがお悩みになられないようにと、そして私たちが後悔しないようにと、結ばれたものでして…す、全てはお話できないので心苦しい点もあるのですが、決して、その…ダインさんの行動で私たちが幻滅するようなことは、決してないですから…私たちになら、ダインさんがどのように振舞ったとしても…」
彼女からそこまできいても、“同盟”がどのようなものかは、ダインには正直よく分からなかった。
原因やきっかけなど話してくれそうになかったが、しかしある程度分かったこともある。
どうして彼女たちは“争奪戦”をしなかったのか。
恋愛モノのドラマや映画でありがちな、駆け引きや抜け駆け、騙しあいといったものをしてこなかったのか。
全てはダインのため、そして自分たちのためだったのだ。余計な問題を作って彼を困らせたくない。騙しあいや裏切りで嫌いになりたくない。
誰も不幸にならない、最高の大団円というものを目指して、彼女たちは同盟を結んだ。そのためのプロセスを、ダインに気付かれないよう暗に踏んでいたのだ。だから“同盟”を結んだメンバー内であれば、ダインが誰と親密になろうが構わない。いずれ自分にも回ってくるだろうから気にしない。シンシアたちはシンシアたちで、お互いのことが大好きなのだから。
暗躍していた彼女たちの真の狙いは何なのか。ダインが知ることになるのは、まだもう少しだけ先になるのかもしれない。
「大丈夫ですから…全然、全く…ですからお気になさらずに…」
そう訴えかけるティエリアの目は本気で、ダインならばどんなことをされてもいいとでも言いたげだ。
「ま、まぁ、そういってくれるならいいんだけど…」
「はい…」
そこでお互いに黙り込んでしまい、僅かな“間”が生じる。
数秒後、どうして抱き合っているかに気付いたダインは、「あ、じゃあ、ティアの聖力、少し…もらうな?」、といった。
「あ、ど、どうぞ」
ティエリアは全身の力を抜き、再びダインに完全に寄りかかる。
そして、どういうわけか背中に翼を出現させた。
「え…どうした?」
「あ、こ、この状態のほうが、ダインさんはよく吸えるのではと思いまして…そ、それに、以前、ダインさんが綺麗だと仰ってくださったので…」
ダインのためにと、普段から隠しがちだった翼を出してくれたのだろう。
ゴッド族であるため常に彼女は発光させていたのだが、月の明かりを受けた翼はより一層輝いて見える。
「綺麗だよ、本当に」
ダインに褒められ、ティエリアの体がまたピクリと反応する。
胸元から見上げてくる彼女の瞳は、少し潤んでいた。
真っ赤な顔で、恥ずかしすぎるのか泣き出してしまいそうな表情をしている。
その姿に、ダインはしばし言葉も忘れて見とれてしまっていた。
上空からは未だに月光が降り注いでおり、その光を受けた銀髪までもが、月光のような青白い光を放っている。
彼女が小柄だからか、それとも泣き出しそうな表情のせいか…ティエリアという存在自体が、一瞬儚げなものに見えてしまった。
ふと視線を外せば、一瞬にして泡となって消えてしまうかのような━━まるで消えることが運命付けられた、御伽噺のヒロインのような存在に見えてしまった。
だからだろう。
ダインは少し抱き寄せる腕に力を込めてしまった。がっちりと彼女を抱き、ティエリアが自分から離れないようにと、どこにも行かないようにとしてしまった。
「だ…ダイン…さ…」
やや驚いていた彼女の瞳はまた潤み始め、じっと見上げていた表情に変化が現れる。
ダインを見つめたまま、そのまぶたがゆっくりと閉じられていったのだ。
そして差し出される小さな唇。
また、“待ち”の状態だ。
思わずラフィンとの一幕を見ていたのかと尋ねそうになったが、それは野暮というものだろう。
もはや言葉など意味を成さない。会話も不要なシチュエーションだった。
しかしやはりティエリアは真面目だった。恋愛小説を読み漁っているくせ、知識も経験も浅い。
「お…お願い、しま…す…」
と、ティエリアが目を閉じたままおねだりしてきたのだ。
無言の要望に応えようとしていたのに、しばし固まったダインは、やがて吹き出してしまう。
彼のリアクションを聞き、何か失敗したと思ったのか、ティエリアは急に慌てだした。
「す、すみません、何か間違って…」
「いや、先ぱ…じゃなくてティアらしいなって」
笑うダインは、すっかり緊張がほぐれた様子だ。「真面目で優しくて…そしてすごく可愛い人だよ」
「え…?」
不思議そうにする彼女は疑問を口にしようとしたが、喋れなかった。
ダインに口を塞がれたからだ。
“二度目”となる口付けはダインからで、あまりに自然だったから、ティエリアは一瞬何が起こったのか分からなかった。
彼の息遣いを頬に感じ、口元からは柔らかさと体温を感じ、次第に何をされているかに気付き、目を大きくさせていく。
感情が爆発しそうだった。
好きだという気持ちが暴走を起こし、全身から溢れ出るゴッド族の聖力が中庭を駆け巡りそうになったのだが…光ったのは一瞬だけで、すぐに収束してしまう。
ティエリア自身の中から、“何か”が引き抜かれていくような感覚に襲われたのだ。
「んん…!」
その強烈な感覚は吸魔によるもので、暴走する感情が心地よさや気持ちよさに切り替わっていく。
ダインもティエリアも、このときばかりは吸魔に未だ慣れない己の身体を恨めしく思ったことだろう。
もっと唇を重ねていたかったのに、この上ない幸福を噛み締めていたかったのに、堪能も感動もする間もなく、あっという間にお互い意識を失ってしまったのだから。
ヴァンプ族の唇は第二の触手。通常の吸魔以上に強力な快感がある。
「ん…ん…」
二度目のキスも、やはり長続きしなかった。
━━二人はキスをしてまで夢の続きを見ようとしていたのだが…結果として、その検証は空振りに終わった。
何も夢を見ることなく、次の日の朝を迎えることになってしまったのだ。
ベンチで折り重なるようにして倒れていたところを第一発見者のサラやシエスタに散々からかわれ、ジーグは愉快そうに笑い、ルシラ含むシンシアたちは羨ましいと正直にいう。
ダインもティエリアも恥ずかしさでいっぱいで、そんな中朝食を取る羽目になったのだが…しかし、夢は見れなかったものの、“声”は二人の心に確実に届いていた。
ルシラでも、知っている人でもない、誰かの声が。
彼らに不思議な夢を見せていた“張本人”の声が、確実に届いていたのだ。
━━《聖域》で待ってる━━