一章 シンシアとマリア (3)
彼女はモテ本を熟読しようと気合いを入れて読んだが、自分の価値観と違い過ぎて高速で心が折れた。
所謂『オレ様系』の会話方法で、「ふっ……オレがドラゴンから護ってやるよ」とか「キミはなんて美しいんだ。どこかのお姫様かい?」とか歯が浮く台詞ばかりだった。この本の著者、絶対モテない。読んでて確信した。こんなんでモテる奴がいたら逆立ちをしながらご飯を食べても良い。
食べ物を持ってきてくれる人に見られても恥ずかしいので、非モテ本はすぐに書庫に戻しておいた。
それからは結局、見られても恥ずかしくない本を適当に数冊選び、ベッドの上で読みふけた。本を読む時はもう少し照度が欲しいので、部屋の壁に備え付けられているランタンの一つを指差し、ロック。それを引き寄せて近くに浮かせておく。おばさんメイドに教えてもらったこの魔法、とても便利。
気がつくと、空気穴から西日が差していた。そろそろ夕飯の時間だ。ベッドに転がっていれば備え付けられたカーテンが彼女を遮り、入室して来た人には彼女が見えない。その方が怖がらせずに済むし、このままでいいかぁとだらしなく転がる。ランタンは元の位置に戻しておいた。
怖がらせるのは嫌だ。怖がられるのも嫌だ。
ノックの音が聞こえる。ノックをして入室するのは、甲冑の人かおばさんメイドしかいない。ああ、やはり、あの女の子は一回限りだったか、と激しく落胆した。
当然の結果でもへこむ。もしかしたら、という淡い希望を心のどこかで期待してしまった。
定番の人達なら今更怖がらせることもないか、とベッドから降りる。入って、と呟いてテーブルに向かい、小さな椅子に座る。部屋の入口を見て。
そこには、昼間に見た、あの女の子が、いた。
彼女は頭がくらくらするほど動揺した。視界が回る。ぐるぐる、ぐるぐる。熱を持ったように頭が熱い。極度の緊張状態に陥った。
「失礼します、主様。お夕飯の支度に参りました」
彼女は部屋の入口前で丁寧にお辞儀する。昼間とは打って変わり、その所作は同一人物とは思えないほど落ち着いていた。長く伸びた美しい金髪がさらさらと揺れる。控えめな胸は揺れなかった。
挙動不審にちらちらと視線を送っていると、
彼女と目が合った。そして、にこりと花が咲いた。それが眩しくて、可愛くて、心が舞い上がった。この感情は、そう、萌え。
「主様。入室してもよろしいですか?」
返事をしようとするが、声が詰まった。横隔膜が痙攣しそうになる。もごもごしている間も、金髪メイドさんは姿勢良く主の返事を待ち続けている。結局声を出せなかったので大きく何度も頷いた。
失礼します、と優しさに満ち満ちた声。見惚れているとあっという間に入室、すぐそばまで来ていた。話しかけたい。
しかし何を話せばこの女の子の気をひけるのか全く思い浮かばなかった。今日の天気? 窓もないのに! 君、可愛いね? それはさっきの非モテ本の知識! 何を話すにも、まずは名前を訊かないと!
「な、名前……おしえ、て?」
それだけの言葉を絞り出すのに多くの勇気を必要とした。恥ずかしくて、恥ずかしくて、俯き気味になる。
「はい。マリアと申します、主様」
マリアさんはワゴンから手を離し、礼儀正しく一礼した。
「ま、マリアさん……」
「はい、主様。マリアです。私のことは呼び捨てで構いませんよ?」
「そ、それは、あの、その、ちょっと……」
「分かりました。主様の呼びやすい方で大丈夫です」
その笑顔は前世で見てきた誰よりも何よりも可愛くて、彼女は直視できずにまた俯く。胸の鼓動がうるさい。ふんわりと香る甘い匂いがこの人は絵でも画面越しでもない存在証明で、リアルで、それが怖い。
「マリア、さんで、いい……?」
「はい! 主様! それではお夕飯の準備しますねー」
可愛いメイドさんはテキパキと夕飯の支度を終わらせてしまった。目の前にはいつも通りの謎の味がする夕飯。彼女は焦った。このままでは、また何も話せず折角のチャンスを棒に振ってしまう。
「準備終わりましたっ! それでは、失礼しますね!」
「ま、待って」
部屋の入口に向かおうとしたマリアさんの袖を無意識に掴んだ。皺になってしまうだろうか、などと考える自分と、それで、このあとなんて言葉を繋げばいいのだろう、と考える自分が同時に存在し、脳がショートを引き起こす。
「主様?」
「えと……その、あの……」
涙で視界が歪む。彼女は泣き虫の自覚はあるが、ここまで感情が動くのは初めてで、引き留めるために本能的に涙を流す自分に嫌悪感を抱き、考えが纏まらず、バラバラの気持ちを整頓できない。
彼女は会話が苦手だ。雑談が何よりも難しい。だから自分の心を伝える術がない。もどかしい。引き留めても、何も言えない。無言。自分は今、何をしているのか。どこにいるのか。
ふわふわと自分自身を見失い、どうしたいのか、マリアさんにどうして欲しいのか、必死に探して、捜して、さがして。
天啓のように、ふと。それが見つかる。
ただ、そばにいて欲しい。
言葉はその手段で、道具で、でも彼女のそれは欠陥品で、だから行動に頼るしかなくて。
ぎゅっ、と、力の限り袖を引っ張る。手が震える。伝えたい、伝わって欲しい。今日出逢ったばかりの女の子にそれを求めるのは彼女のエゴで、独りよがりで、一方的な甘えだ。
その表情を確認するのが怖くて、俯いたまま、震える。でも、この人なら、この人になら、こんな自分を、受け入れてくれる気がして。
マリアさんは袖に手を掴ませたまま正面に向き合い、椅子に座っている彼女と視線を合わせるように膝をつき、頬を伝う涙をハンカチで拭いてくれた。
「主様。主様の食事が終わるまで、私、お側にいても、いいですか?」
力が抜けて、掴んでいた袖を離す。
両肩にそっと、柔らかな手が乗せられる。それは優しくて、温かくて、彼女を安心させる、安らぎの魔法。凪の心が戻る。
だから、自然に頷いて、ありがとう、と、
噛むことも淀むこともなく言葉を返せた。
言葉に出せない自分の想いに応えてくれた。
欠陥品の自分を見捨てないでくれた。
……ここにいる自分を、見つけてくれた。
それで感極まり、涙が止まらない。マリアさんになされるがまま顔を拭いてもらう。
泣くことはたくさんあったけれど、嬉しい気持ちで泣いたのは。
初めてだった。