序章2 つき姫の塔 (4)
憑き姫の塔入口の門扉前。マリアは震える手で魔方陣と同じ色の鍵をあてがい、解錠した。腹に響く重い音を立てながら扉はゆっくりと開く。
ワゴンを押して、塔の入口に入った。マリアの身体が全て塔に入ると、扉はすぐに動き、その入口を閉じる。外の光が、少しずつ細くなり、やがて、消える。
ひんやりとした。違う。寒い。身体だけではなく、心まで冷える寒さ。歯が音を鳴らす。足が震える。寒さで震えているのか。それとも恐怖感か。
塔内は真っ暗闇ではなかった。光源もないのにうっすらと先が見える。螺旋上の緩い坂になっていて、グルグルと円を描くように上がっていくようだ。
マリアは寒さや恐怖を圧し殺して歩き出す。歩く度に出るブーツの音と、ワゴンの車輪の音だけが塔に反響する。
しばらく進むと、倒されたワゴン、散らばった料理が見えてきた。アネットはここで引き返したようだ。どうしてこんな所で、と疑問を抱いた瞬間。
不意に。恐怖が。心を。侵食する。
「…………っ!」
叫びそうになって、ワゴンの取っ手を離しそうになって、逃げ出そうとしそうになって。ギリギリの淵で、自分を取り戻し、取っ手を強く掴む。冷や汗が、止まらなかった。
今のは何だったのか。自分が一瞬、消失した。気を失ったわけでもないのに、自分が無になったのだ。
お母さんを助けるんだ、と何度も何度も何度も心に言い聞かせ、先を進む。石で作られた扉が見えてきた。同じように魔方陣に鍵をあてがい、進む。これで使った鍵は2つ目だ。先は、まだ長い。
塔に入ってからどれだけの時間が経過したのか。時間の感覚を手放してしまったため、分からない。
あれからさらに2つの扉をくぐり、残る扉は2つになっていた。そして今、5つ目の扉を開け、くぐった。
最後の回廊だろうか。今までよりも更に薄暗く、寒い。暗闇に目が未だに慣れない。身体が重い。自分の体重が何倍にも膨れ上がった感覚。鉛のような足を一歩一歩踏み出す。
おかしい。自分が立てる音以外は無音のはずのこの塔から身体の底に響く、低いうなり声のようなものが聞こえる。どこから。前には誰もいないのに。まさか、憑き姫の、呪詛なのでは。
ぐんにゃりと。硬いはずの床がへこみ、前に踏み出した右足が沈んでいく。床に吸い込まれている。悪夢だ。どこからか笑い声が聞こえる。慌てて右足を引っ張り上げるが、動かない。沈むだけ。どうして。どうして。次第に左足まで沈んでいく。同じように動かない。沈む。沈む。動けない。身体が、身体がなくなる。そして。視界が闇に呑まれて。
一瞬のホワイトアウト。気がつけば床にへたりこんでいた。どこか冷静な頭でワゴンを離さなくて良かったと安堵し、次の瞬間には恐怖に襲われる。
床から青ざめた手が生え、塔の壁面には虚ろな顔面がいくつも浮かび、どこからともなく足音が聞こえる。もう、限界だった。
母を必ず助けると固く誓ったはずの決意がほどけていく。気力がなくなる。涙が溢れる。嗚咽が漏れる。
母を助けるためにはこの塔を7日間、1日3食と仮定しても21回上らなくてはならない。もしかすると、食事回数はもっと多いかもしれない。
無理怖い逃げたい帰りたいどうして私がこんな目に嫌だ助けて死にたくない!
母は必ず自分が助けると息巻いておきながら、無様だった。無力だった。
こんな塔に1日いたら間違いなく発狂する。本能で引き返そうとして、理性で踏みとどまる。
怖い。とても怖い。でも、この先に進まなくては、母が、助けられない。
マリアは心の奥底に残っていた僅かな勇気を奮い起たせてゆっくりと立ち上がる。前だけを見据えて、目に写る異形は無視して、ただただ歩き続ける。
そして、ついに、終着点にたどり着く。今までよりも大きな扉。血に濡れたような赤色。見ているだけで不安になる。今までと同じ方法で、解錠した。
扉の先は、真っ暗闇だった。何も見えない。闇。闇。一面の闇。一条の光さえ届かない暗闇。僅かな勇気と多大な恐れを以て闇に踏み出した。
その先は。
短い廊下だった。マリアは突如として雰囲気の変わった景色に半ば呆然とし、キョロキョロと見渡した。
煉瓦作りの壁に短い廊下ながらも赤い絨毯が敷かれ、上流階級が住んでいるような家の作りを想起させる。窓がなく、ランタンのようなものが壁に灯され、それが光源となって廊下を明るく照らしている。
正面には豪奢な扉。複雑で高貴な模様が描かれ、部屋主の格の高さを象徴しているようだ。扉前にある小さな机には空の食器が積まれていた。
この廊下は地面に対して水平になっているようで、ワゴンを押すのが軽かった。扉に近づく。
扉のノブを掴み、捻る。開けようとして、御者のアドバイスを思い出す。目を、合わせてはいけない、と。
マリアは俯きながらワゴンと一緒に憑き姫の部屋へ入室した。
視界にまず入ったのは、赤色の絨毯。模様はこの部屋の扉と同じだった。それ以外は見えなかった。見なかった。
これではテーブルの所在が不明と思案していると、視線を、部屋のどこかから、呪詛、首元に鋭利な刃物が突きつけられているような、内蔵を手掴みされているような、おぞましい殺気の包容。
身体が震えて、腰が抜けた。俯いていたせいか、涙が絨毯を濡らす。テーブルまで運ぶのは不可能だ。
メイドさんが最悪は床に置けと言っていた理由を身をもって理解した。動けない。動けるわけがない。僅かに視界に入るワゴンが遠く感じた。今から料理を床に置かなくてはならない。手も動かないのに。
軋む音が聞こえた。まるで、椅子から人が立ち上がったような、生活音。そうだ、居るのだ。ここには、あの、憑き姫が。
絨毯の踏む音が。少しずつ、少しずつ近づいてくる。人間なのか。魔物なのか。悪魔なのか。死神なのか。知りたくない。知った時、どうなるかなんて考えるまでもない。
その気配はすぐ近くまで。
「あの……。だい、じょうぶ?」
天使の福音。その声は、天界から聞こえてくるであろう透き通った声で、今の状況では絶対にあり得ない優しい声で、頭上から聞こえ、いよいよ死が間近に迫っていると。
「具合、悪いの?」
つい。顔を上げてしまって。
そこには、本物の小さな天使がいた。
腰よりも長く伸びている銀色の髪はどこにも枝毛などなく、薄暗いこの部屋でさえ艶やかに輝き、マリアを明るく照らす。赤色の瞳は魔眼などと呼ばれるにはあまりにも綺麗で、神々しく、吸い込まれそうで、手を伸ばしたくなるような魅力を秘めている。
露出の少ない淡い色のドレスからほんのり見える、染み一つない白肌の色素は薄く、今にも消えてしまいそうな程儚げだ。整った顔にはうっすら朱が浮かんでいて、それでこの子は人形ではなく命を持った、感情のある女の子だと確信させた。
こんな可愛らしい女の子が憑き姫と呼ばれるには抵抗があった。そんな禍々しいものではない。この女の子はもっと、別の、相応しい呼び方がある。漆黒の闇の中でも燦然と輝き、圧倒的存在感でマリアを照らすその姿は。
月姫。