三章 新月 (3)
翌朝、目覚めたシンシアは起床時特有の気だるさで、少しの間ぼんやりと虚空を見つめた。ややあって完全に覚醒してからキョロキョロと部屋を眺めて、見覚えのない部屋に戸惑った。
シンシア好みの小さな空間。リビングや店内とはまた違う、自然な甘い香りがする。今自分が寝ているベッド、姿見にクローゼット、一人用の小さな机しかない簡素な部屋。けれど、落ち着く。
昨日は夕食の途中から船を漕ぎ始めた気がする。その辺りから記憶が曖昧だ。どうやってこのベッドまでたどり着いたのだろうか。服も寝間着に変わっている。ぶかぶかだけど、肌触りが良い。なんだか優しさに包まれている気分にさせる寝間着だ。
「あ、おはよぅ、シンシア様ー。体調はどうかしらぁ?」
声のした方へ意識を向けると、リリが壁に寄っ掛かっていた。身支度は既に整え終わっているのか、昨日までと同じく赤い髪を一つにまとめて、村娘の服装に身を包み、そして黒ぶち眼鏡をかけている。
「おはよう、リリ。わたしの体調は、大丈夫。リリは旅の疲れ、残ってない?」
「ええ。大丈夫よぅ! シンシア様! 私は元気! その服、サイズはちょっと合ってないけどぉ、いや、むしろそれが味を出しているのかしら? とにかく最高よぅ!! 可愛いわぁ!! もう、ずっと眺めていられたわぁ!」
「あ、ありがとう」
朝からテンションが高い。彼女は普段、物静かだが、突然テンションが上がる時がある。そのタイミングはまだ把握出来ていない。他の人がいると無口になるのだろうか? シンシアと同じく人見知り?
昨日、シンシアが起きている間はマリアの両親とリリは一言も喋っていない。人見知りが原因なのだろうか? そこまで考えて、シンシアは一つの事実に思い至る。
「リ、リリ、昨日はごめんね? わたし、自分のことしか頭になくて、マリアのご両親に、リリの紹介、してない……」
そうだ。普通は主が従者の紹介をするのではないか? もしシンシアが従者なら主人を差し置いて、名乗らない。
緊張していたから、とか、まだ主としての経験が少ないから、とか。それは全て言い訳に過ぎない。きちんと反省しよう。
「ん? ぜんっぜん気にしてないわよぅ。それに、シンシア様がお休みになった後に軽く挨拶ぐらいはしといたからぁ」
「そ、そっか。そうだよね。本当にごめんね……」
少しだけ安心して、息をゆっくりと吐き出す。そろそろ起きようとして身じろぎすると、上掛けが不自然に盛り上がっていることに気づいた。誰かいる?
上掛けを捲ってみると、そこには金色の髪をピンクのリボンでまとめ、ぐっすりと眠っている女の子がいた。安らかな表情で、見ていると再び微睡みに襲われそうな、癒しの塊。マリアだった。
彼女は深く眠っている。窓からは朝の光が淡くこぼれているので、起床時間はそう遠くない筈だ。どうするか逡巡したが、起こすと決め、名前を呼びながらマリアの身体を揺さぶった。
しかし、起きる気配がない。弱すぎるのだろうか。これ以上強く揺さぶるのは気が引け、早々に諦める。
そろりと上掛けをどかし、ベッドから降りる……前に、もう一度だけマリアの顔を見た。寝ている時にじろじろと見ることに罪悪感を覚えながらも、その行動を止めることができなかった。
誰よりも何よりも、特別な大事なひと。シンシアの原動力。心に、ぽかぽかとあたたかいものが灯る。このひとが、好き、だなぁ、と、想いがあふれる。
もう少し顔を近づけ……鐘が鳴った。シンシアは不意討ちの音に現実に戻され、慌てた。身体のバランスを崩し、マリアの胸に顔面から突っ込んでしまった。頭が真っ白になる。
「んん……。あれ……シンシア様……」
「ご、ごめんね、マリア! た、体勢、崩しちゃって……す、すぐにどくから!」
「……落ち着いてください、シンシア様。シンシア様なら、その、大丈夫ですよ……?」
マリアはそのまま頭を優しく撫でてくれた。いつもの、優しい声音。彼女の広い心に感謝しつつ体勢を直して、改めて朝の挨拶を交わした。
その後は雑談を交えながら身支度を整えた。今日もキャスケット帽にオーバーオールの、動きやすい服装だ。
身支度を整えている時にお風呂がないのか訊いてみたが、家に浴室はなく、少し歩いた場所に公衆浴場があるとのことだった。銭湯のようなものだろうか。基本は早朝に身体を清めるらしい。
お風呂道具一式を持ってマリアの家を出ると、店の前にバッケルさんが箒で掃除をしていた。シンシア達に気づくと、満面の笑みになる。
「おぉ! おはようシンシアさん! リリさん! マリア! 今日も良い朝だな!」
容姿は昨日と同じなのだが、その表情は険がなくなり、爽やかでにこやかな男性になっていた。偽物のバッケルさん……?
「お、おはようございます」
「ほう! 礼儀正しくて良い女の子じゃないかっ! 昨日はほんっっとうにすまなかった! 腹の調子が悪くってな! いやー! 恥ずかしい限りだ! バッケル反省!」
「い、いえ、その、気にしていません。調子が悪い時って、誰でもあると思いますし……」
「おぉ! 気立ても良い! マリアは素晴らしい主人を見つけたな! これから風呂か? ここの女子風呂は旅人や冒険者から評判が良いらしいぞ! 香りが良いとか? 俺には良く分からん! マリア、シンシアさんをしっかりと案内するんだぞ!」
「言われなくても、わかってますから。それでは、行ってきます」
バッケルさんは大きく手を振って見送ってくれた。少し離れて、彼に聞こえない距離になってから、先頭を歩くマリアに疑問をぶつける。
「マ、マリア、同じ人、だよね? バッケルさんだよね!? 双子とか、そっくりさんとかじゃなくて!?」
「昨日、少しだけ、話し合いました」
マリアはいつもの柔らかな笑顔と違う、貼り付けたような笑顔でにっこりと笑った。……どの世界でも、どの時代でも、父親は、娘には勝てないのかもしれない……。深くは訊かないでおこう。気を取り直して歩みを再開する。
まだ太陽が低い早朝の時間帯だが、通りにはちらほらと通行人の姿もある。どの店も慌ただしく開店の準備に追われていた。店の前を掃除する人。看板を出す人。樽や木箱を運ぶ人。町の起床時間も近い。
それらの様子を眺めながら少し歩を進めると、普通の民家とは一線を画した、石で造られた大きな建物が見えた。入口の近くにある木製の看板には公衆浴場と書いてある。
開きっぱなしの大きな扉から中に入る。屋内は窓から朝日が差し込んでいて明るい。入口すぐ近くにカウンターがあり、その中央に背の低いお婆さんが座っていた。
今の時間帯が一番利用客が多いのか、店内は老若男女様々な人がカウンターで受付を行っていた。壁を見ると羊皮紙が張ってあり、左側が男、右側に女、と簡潔に書かれている。
マリアの先導で白髪まじりのしわくちゃのお婆さんの前まで歩くと、不審者でも目撃したようにじろりと睨み付けられた。
「あんた二人は見ない顔だね! 正規の旅人ならカードを見せな!」
「は、はい」
シンシアとリリは旅人用のカードを見せた。番台はそれを目を皿のようにして確認して、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「結構だよ! で、がきんちょ、あんた、どっちだい!?」
「え、えと……」
「女の子です、サラさん」
「あらぁー、そうかい。マリアちゃんがそう言うなら、女の子なんだろうねぇ」
声音と態度が露骨に変わり、マリアへ愛想を振りまいた。マリアには特にカードを見せるように迫らないので、住民は顔パスなのかもしれない。
「それじゃ、マリアちゃん、銅貨一枚……」
「あ、ああー! ちょっと待ってください! シンシア様! えーと……。そう! あれを! あれを見てください!」
マリアが指差した方を見てみる。そこには一枚の羊皮紙が壁に貼られていた。近寄って見てみると、お風呂の禁止事項について殴り書きされていた。
一つ、騒ぐな。
一つ、異性を覗くな。
一つ、異性のお湯を飲むな。
……簡潔だが、闇が深い。番台さんが厳しい理由を察した。おののいていると、マリアからお呼びがかかった。
「……ふん! それじゃ、通りな。がきんちょ、はしゃいで騒ぐんじゃないよ。ほかの客に迷惑だかんな! そっちのメガネの姉ちゃんは……落ち着いてそうだし、大丈夫か」
頷き、番台の横を通り更衣室へ。手早く服を脱ぎ、持参したバスタオルを身体にくるくると巻いた。
「大丈夫でしたか? シンシア様。少し前に、この浴場で色々あったみたいで……サラさん、一見さんには厳しくなっちゃったみたいなんです……」
「大丈夫」
内緒話をするようにお互い囁き声で耳打ちした。このような施設で勇者的行動に出た人がいたのならチェックが厳しくなるのは当然だろう。
マリアの後ろについて行く。更衣室から出ると、開けた場所に出た。窓からの光はなく、壁掛け照明のみで照らされているため、やや薄暗い。大きな浴槽があり、石鹸と、花のような香りが漂っている。
それから……当然、たくさんの女性。俯いてなるべく視界を狭めることにした。幸いにも薄暗いのと湯気でぼんやりとしか見えない。
それでも……なんだかいたたまれない……。そうだ! 先程の禁止事項について考えてみよう。そうしよう。
騒ぐな。これは、想像に難くない。元気な少年少女がいて、広い空間に盛り上がったのだ。単純に雑談が弾んだ、というケースもあるかもしれない。
異性を覗くな。これは、考えるまでもなく、その手の人種がいるのだろう。しかし、ここは一つの大部屋で、男性浴場とはつながっていない。覗く手段はなさそうではある。しかも薄暗い。……それでも、異性の服の下を見るために全力になる人種は一定数いるものだ。勇者だ。
異性のお湯を飲むな。これは……業が、とても、とても深い。深淵のように底が見えない。所謂、上級者という一部の存在だろう。超越者かもしれない。前例が、あったのだ。あっちゃったの……? しかし、遂行方法がわからない。そのまま突撃して、ゴクリしたのだろうか? 予想もつかない大胆不敵な技があるのかもしれない。
無駄なことを考えているうちに入浴は終わった。
石鹸や、お湯に漂っていた香油の匂いを引き連れ、マリアの家の前に戻る。レイさんはパンを主体とした朝食を用意してくれていた。お礼を言ってご馳走になった。朝食後は全員で紅茶を楽しみながら一休み。
「マリア、シンシアさん達に町を案内するのはどうだろうか」
「はい。言われなくても、そのつもりでした」
「そ、そうか。シンシアさん、もし疲れたり、腹が減ったりした時はいつでも我が家に戻ると良い。自分の家だと思って気軽に使ってくれ」
「ありがとう、ございます」
ありがたい。そうだ、ずっとお世話になりっぱなしなのも悪いので、今度この店のお手伝いをしよう。簡単な手伝いなら出来る……筈だ。
今はお言葉に甘えて町を調べよう。日中はレイさんもバッケルさんも仕事で忙しいだろうし、夜に色々訊いてみよう。
一休みが終わり、レイさんとバッケルさんはいそいそと開店の準備を始めた。シンシア達は二人に見送られ、家を出た。まずは大聖堂前広場方面へ向かうことをマリアに提案した。大聖堂の内装が気になる。
石畳の道を歩き出す。店は、どこも既に開店している。まだ朝だけど、通行人は多い。町の服装をした人もいるが、鎧やローブを着た人も多い。特に、薬屋の前にはたくさんの人がならんでいた。
冒険者、だろうか。会話の内容までは聞き取れないが、何かを真剣に話している。漂うのは、不穏な雰囲気。それを横目で見ていると、通行人の若い女性が一人、足を止める。
「あれ、マリアちゃん! おはよっ!」
マリアに向かってはにかんだ。




