二章 小さな一歩と広がる世界 (3)
「主様ー!」
真っ黒な塔の近くにある小さな民家から、マリアと同じメイド服を着用した女性が飛び出した。
中年に差し掛かかりそうな見た目の女性で、あまり似合っていない丸メガネに恰幅の良い体格をしている。長い黒髪を雑にまとめ、後ろに流している姿は、この世界に生まれて一番目にしているシルエットだ。シンシアは彼女を心の中でおばさんメイドと呼んでいる。
大きな体格に合わない凄まじい速度でシンシアに接近している。彼女の後ろには砂埃が舞っていた。なんだ、あの速度は。魔術の力を使っているのだろうか。
そして彼女はシンシアの面前で騎士のように片膝をついた。メイド服が砂で汚れることは全く気にしていないようだ。
「主様! どうかされましたか!?」
シンシアは、怒鳴っているかのような、彼女の大きな声が苦手だった。声量をもう少し下げて欲しかった。言えない、けれど。
「外に、出た、だけ」
「おお、そうですか!! 主様! どこかへおでかけになられますか!?」
「い、いや……。練習というか……」
目の前にいるおばさんメイドは、昔はもっと無口で、明らかに嫌々シンシアの世話をしていたが、ある日、前触れもなく熱血漢になった。恐ろしき突然変異である。
シンシアは長い間彼女の世話になっているのに、この人の名前を知らない。
そして彼女も、今のシンシアに名前があることも、シンシアの苦手なことも、シンシアの好きなものも知らない。
きっと、シンシアが彼女に無関心だったから、彼女もシンシアに無関心なのだろう。
主人として、従者をおざなりにするのはとても格好が悪い。そんな主人は、マリアに相応しくない。今までの自分を恥じた。
「あ、あの!」
「主様?」
「いつも、ありがとう」
頭を深く下げた。この人には、本当にお世話になってきた。
料理を運んでくれたし、書庫を作ってくれたし、解呪薬を作る手伝いもしてくれた。その他にもたくさん、わがままを聞いてくれた。
この人がいなければ、今の自分はいない。生きていない。彼女は仕事として仕方なくわがままを引き受けたのかもしれない。それでも。
「こんな、無愛想な主人、に、尽くしてくれて……そ、その……」
涙声になるのを堪えて、感謝を少しでも伝えたい。泣き虫なシンシアだけど、こんな時くらい、泣いちゃだめだ。
「ありがとう……。これからも、よろしく、ね?」
「あ……ある、じ、さま」
メイドさんは、大きな身体を震わせて俯いた。彼女は一つひとつの行動が大袈裟で、驚かされることも、辟易としてしまうこともたくさんあったけれど、それでもやっぱり、憎めない。だって全部、自分を想ってくれての行動だから。
「しかし……わたくしは……」
「あ、あの! なまえ、は?」
「? 名前、ですか?」
メイドさんは即座に顔を上げ、首を傾げた。彼女にしては珍しく、困惑した表情だった。
「うん。わたしは、シンシア、っていう名前、ある。あなたの、名前は?」
「ございません。わたくしには、不要ですので」
不要? それは、シンシアと同じく、親に見捨てられて、名前を付けてもらっていないのだろうか? この世界では、名前がないのは珍しくないのだろうか?
でも、そんなの。
「やだ」
「主様?」
「名前って、大切。とても、とても大切」
「名前が……大切……?」
「な、ないん、だったら! わ、わたしが、付けて、いい、かな?」
シンシアも膝をついて、名前のないメイドさんの目をしっかりと見る。目を反らさないように、自身の両手を強く握りしめて、気合いを入れた。
「あるじさ……いえ、シンシア様に名付けていただけるのでしたら、これに勝る喜びはございません」
「ありがとう。それじゃあ……」
続いて、彼女の全体をじっとみる。名前に理屈も理論も必要ない……はずだ。一番最初に浮かんだその名前にしよう。
なるべく頭を空っぽにして、それを待った。待つ。待つ。そして、一つの名前が閃く。
「ロザリーで、どう?」
「ハッ! わたくしは今、この時より、ロザリーと名乗らせていただきます!」
「う、うん」
彼女、ロザリーは勢い良く立ち上がると、シンシアが一度も見たことない、豪快な笑顔をマリアに向けて、高らかに叫ぶ。
「おい! マリア! 俺様はロザリーだ! ロザリーだぞっ! これからはロザリーと呼べ! 大切な名前だっ!」
「はい、ロザリーさん」
マリアは微笑んでいた。シンシアの前で見せる微笑みとは、やはり、種類が違う。同僚だから仲が良いのだろうか。その打ち解けた仲が、距離感が、羨ましい。
わたしも、ロザリーと普通に話せるようになるかな。……マリアと、もっと距離を縮められるかな。
まだマリア以外の人とは滑らかに会話できないから、これを機に少しずつ練習していこう。
マリアとロザリーが何事かを話しているのを尻目に、塔の入口に目を向けた。
シンシアの感謝したい相手はロザリーだけではない。
次は、塔の入口で槍を持って立っている二人だ。赤色の甲冑の兵士と、黒色の甲冑兵士。彼らもこの面倒な塔を上り、シンシアに食事を運んでくれた。
初めてこの甲冑が食事を運んでくれた時、どちらも喋らないし、必要最低限以外動かなかったので、シンシアはこの甲冑兵士二人に恐怖を抱かずに済んだ。
そしてこの二人に慣れると、無骨な甲冑が新鮮で、格好良くて、幼いシンシアはそれを触るために甲冑兵士二人の足元にまとわりついた記憶がある。懐かしい。
しかし……件の二人は、石像のように……動かない。
どうしよ……。
ちらちらと塔の前で微動だにしない甲冑兵士二人を見る。視線を送っても動かない。
しかし、ここで甲冑兵士達をいないものとして扱うのは気が引ける。動かないのなら、シンシアが動けば良い。
「あ、あの……その……」
二人に近寄り、ぼそぼそと声をかけた。小さな声では兜が音を遮って聞こえないだろうか。今度はもう少しだけ声を大きく出そうとすると。
二人の甲冑は金属音を立てて動きだし、ロザリーと全く同じ姿勢で片膝をついた。
「わが君」
「主君」
クールな女性の、凛とした声が二つ、重なって聞こえた。
えー!? 甲冑さん、女性だったの!?
あと、喋れたの!?




