二章 小さな一歩と広がる世界 (2)
「…………壁?」
扉の先に見えたのは、視界が埋まるほどの壁、壁、壁。部屋の壁とは違う素材のレンガ壁。
部屋のレンガはもっと清潔で、触ることに躊躇うことはない。しかし、目の前に見えるレンガは苔が群生し、埃で汚れて黒く、とてもではないが触れたくもない。まるで長年、放置されているかのようだ。
そして、ここは空気が薄いのか、少し息苦しい。人の生活音も聞こえない。無音。
同じ室内なのに、何故こうも違う? ここは、どこだ? なんなんだ? わたしは、どこにいる? 家? 分からない!
シンシアは混乱して左右を見渡す。左手側も壁で、右手側には通路が見えた。螺旋状に壁が曲がり、下り坂になっている。通路の幅は広く、人が10人くらい横並びになっても歩けるだろうか。
通路の壁に、一定の間隔で自室と同じランタンが付いている。全くの暗闇ではない。先は良く見えて、照度は十分足りている。
この構造は、家では、ない? それとも、この世界ではこれが一般的な家の様式なのか?
マリアの手を強く握り、彼女を引っ張るように坂を下る。今は、前に進むしかない。
数歩進むと、壁が黒く歪む。シンシアには見覚えがあった。カオタチ先生が出現する前兆。
カオタチ先生は禍々しくその姿を現した。複数の顔が一塊になった異形。その手のジャンルが苦手な人は裸足で逃げ出すだろう。
見た目は確かにおっかないが、シンシアの恩師だ。カオタチ先生はシンシアの周囲をぷかぷかと浮かび、最終的には手達と同様、シンシアの背後に並んだ。
異形パレードのようになってきた。しかし、何故呼んでもいないのに先生は来たのだろう。
「ふふっ。ここにいるみなさん、シンシア様のことが大好きなんですね」
「そうなの?」
「はい。何となくですけど、分かります」
背後を見渡す。空いている手を振ってみる。手達は全員振り返してくれて、カオタチ先生はその場でくるくる回り、跳び跳ねた。
「みんな、ありがとう」
お礼を言って、再び前へ進む。二人分の足音が反響する。ランタンに投影された影も遅れずに付いてきた。
シンシアの歩幅は狭い。マリアはシンシアの前に出ないようにそれに合わせてくれる。一歩分、後ろに離れた位置。
そして、ついに終点。石で作られている大きな扉だ。これもセンサー式だろうか。とりあえず扉に近寄ってみると、やはり自動ドアのように、開いた。
いよいよ人が住む部屋に到着するか? と身構えたら。
扉の先は、また螺旋状の廊下だった。
「……ねぇ、マリア」
「はい。シンシア様」
「これ、どこまで続いてるの?」
「ええと……もうちょっと……続きます」
「具体的には……?」
「あと扉4つ分です……」
部屋に帰りたくなった。
最初の赤い扉から次の扉まで、息が切れるくらいには歩いた。既に体力の半分は使ってるし、明日は、下手すると今日の夜には筋肉痛に悩まされるのは確定している。
それを後4つ分。絶対に体力が尽きる。無理無理。人間にはできることとできないことがある。心折れそう。
しかし、躓くのは早すぎる。三日坊主にすら負けてしまう。シンシアは気合いを入れ直し、マリアの手を引いて再び歩き出した。時間はいっぱいあるし、休み休み進めば良い。
そして、歩きながら考える。
解呪薬の件でマリアの話を聞いた時に違和感を覚えた、塔という単語。
この、ぐるぐると螺旋を描いて下る構造。
自分の部屋の位置。
その下に広がる書庫、その丸い輪郭。
「もしかして、ここって塔みたいな建物?」
「はい。シンシア様」
「…………。ねぇ、マリア」
「はい?」
「もしかして、毎日、少なくとも3回はこれを往復してるの……?」
「はい! お陰で足腰鍛えられちゃいました!」
これは早急に現状を変える必要がある。女の子を毎日、こんな塔を往復させるのは人でなしだ。改善されるならあの部屋を放棄しても良い。そうだ、どうせならもっと狭い部屋に住もう。
そして予定通り、休み休み進み、自動ドアをくぐって通路の行き止まりに到達する。左側に最後の大扉が見えた。
「シンシア様、この扉で最後です」
「外?」
「はい。外に出ます」
この世界に生まれて一度も見ていない外。自分の知っている世界ではない外。一体何が待ち受けているのか。
恐怖をごまかすようにマリアの手を強く握る。そして。扉に近づいて、開門する。
その先には。
一面の、青。遥か彼方まで、どこまでも、どこまでも続いている、悠久の青。白い雲がのんびりと優雅に泳いでいる。太陽は高い位置から大地を見下ろし、シンシアを照らす。
「あ……」
それは、当たり前にあるものだ。
それは、見飽きるほど身近なものだ
雄大で、広大で、大地さえ覆うそれは、いつでもシンシアを待っていたはずなのに。
嬉しくもないのに、悲しくもないのに、感動してもいないのに、それを見上げて、涙が流れる。
「そら」
そうだ。それは、空。
マリアの手を自ら放す。前へ歩き出す。一歩、二歩、三歩。さらに前へ、大地を踏みしめる。
振りかえる。マリアは優しい微笑みで。手達は手を振って。カオタチ先生は風に流れるようにぷかぷかと。
塔を見上げる。空を二分する大きな黒い塔。シンシアが引きこもっていた塔。自分の部屋は、きっと、一番上。あんなにも高い所で引きこもっていたのか。まったく気づかなかった。
大きく息を吸い込む。吐き出す。そして、もう一度吸い込む。爽やかな外の空気はシンシアの肺を綺麗に循環させる。
うん。大丈夫。
まずは外に出ることができた。しかし、これは目的ではない。ただの通過点だ。
塔の周りの確認をしなくては。ここは、一体、どういった場所なのか? シンシアは何故塔にいたのか? 家族が住んでいる家は別の所にあるのか?
知らないことを一つずつ丁寧に調べ、遅すぎるスタートを切ろう。本懐を遂げる為にも。




