一章 シンシアとマリア (9)
「シンシア様っ!」
今まで静観していたマリアさんが叫んだ。これから行う禁呪を邪魔するかのように立ち塞がる。
「シンシア様の命を犠牲にするような解決方法は望みません!」
「いいの」
「考え直してください!」
「マリアさんは、まだわたしの配膳の仕事、完全に辞めてないよね?」
「えっ? は、はい!」
「それじゃ、マリアさんだけじゃなくて、2人に命令。これからわたしがすることを、絶対に止めないで」
「シンシア様……」
「主様……!」
わたしは決めたんだから。この女の子を助けるって。
「大丈夫。今言ってたでしょ? わたしは、呪術の親和性が高い。だから、絶対に死なない」
この命にかえても!!
「それじゃ、効果の高い解呪薬の精製方法、わたしに伝授して?」
「……」
「伝授して? 命令」
「…………ッ! イエス、マイロード!」
涙を流しながらも頷いた。メイドさんが手を掲げると、そこに魔方陣が展開され、突如として瓶が出現する。
「……わたくしに、呪術の適正があれば……」
「あっても、わたしがやる」
「………………それでは、こちらを薬の基盤としてください。ただの水です」
その瓶は牛乳瓶ぐらいの大きさで、水が七分目あたりまで入っている。コルクで蓋をされている、ごく普通の瓶。
「まずは何をしたらいい?」
「はい。はじめに、血で呪陣を描きます」
「呪陣?」
「魔術で使う、魔方陣のようなものにございます」
「どういう形してるの?」
「では、わたくしが先に光る魔方陣を描きます。主様はそれを自身の血でなぞっていただければと」
「下書きがあるのは分かりやすくていいね」
メイドさんは右手の人差し指に青白い炎のようなものを纏わせると、絨毯に直接、呪陣の下書きを描いた。魔方陣に比べて、呪陣は規則性がない。震える手で書いたような文字が縦方向に記され、円を形作るよう、寄せ書きの如く並んでいる。中央には水の入った瓶が置いてあった。
魔方陣は同じく青白い炎のように輝いている。血で書く習字のようなものかと、早速はじめようとして、血なんてどうやって出そうと迷った。やはり刃物で少し肌を切って血を出すのだろうか。
「血は……」
「禁呪を使う際、指の先を噛み切って血を出し、その指で呪陣を描きます」
指を噛み切る。シンシアは自傷の経験はなく、その行為に躊躇う。この様では刃物があったとしてもスムーズに進まなかっただろう。
深呼吸。これから訪れる痛みの恐怖に耐え、目を瞑り、右手の人差し指の先を思いきり噛みきる。どこからか悲鳴が聞こえる。大切な声なのに、今だけは関心を持てない。
血が流れ、ポタポタと赤い絨毯に垂れる。……同じ赤色なのに、ハッキリと血だまりが見える。この絨毯はもう、使えないだろう。
「離してっ!! シンシア様を! シンシア様を止めないと!」
「ふざけんな! テメェ、主様の命令聞いてなかったのか!?」
膝をついて、描く。指が燃えるように痛い。血が。血だ。なぞった部分の魔方陣は消えて、そこに血文字だけが残る。身体を構成しているモノ、恐らくは魔力、が、文字らしきものをなぞる度に流れ出している。血も、止まらない。
「いや! いやぁ!! どうして!? どうして!! 命令だったらシンシア様を見殺しにするんですかっ!?」
「俺様だって止めてぇよ! でも主様の意志で主様の目的を叶えようとしているッ! 従者は主様の意志を尊重し、支えるモンなんだよ!」
手足が震え出す。失血の影響だろうか。身体がひどく、寒い。凍える。
「だったらわたしは今すぐこの仕事を辞めます! だから、離して! 従者じゃないから! 今の私はただのマリア! だから離して!」
「だったらテメェは部外者だ! 主様に触れたらブッ殺すぞッ! 比喩じゃねぇ!」
半分程なぞり終えた。折り返し地点まで辿り着いたと安堵した時。それは心の油断か。
指先から、血が勢い良く噴出した。大きな悲鳴が聞こえる。
シンシアは慌てて左手で指を押さえる。呪陣に血がかからないように明後日の方向に指先を向ける。血の噴出が、止まった。
一度深呼吸をして落ち着かせ、再び呪陣を描きはじめる。両手はすでに、自身の血で真っ赤に染まっていた。
汗が止まらない。相変わらず寒気もする。耳鳴りがする。耳鳴りの音しかしない。目の前がぼやける。視野が狭い。指が震えそうになる。
しかし、それでも描き続ける。
こんな自分に、無償で仕えたいと言ってくれた彼女に応えなくて、何がご主人だ!
あの子のために、全力を尽くすんだ!!
時間をかけて、満身創痍で描き切る。自身の血で構成されたおぞましいまでの呪陣。問題ないか、メイドさんに目配せする。
「素晴らしい、陣です。これなら、相応の効果を望めるでしょう。仕上げに、瓶に魔力を込めてください」
「魔力をこめる?」
「ランタンを浮かしたり、本を引き寄せたりするとき、主様は自然にできています。深く意識しない方がいいかもしれません。ただただ、主様の願いを込めるだけで良いのございます」
「それならできる」
瓶に両手をかざし、祈りをこめた。どうか、マリアさんのお母さんを救える薬になりますように。
血が、気力が、魔力が、根こそぎ身体から瓶に流れる。自分の存在が、命の炎が、小さくなっていく。
そして身体から流れた血はへびのように瓶にとぐろを巻き、竜巻のように荒れ狂う。室内なのに、突風が頬を撫でる。
血で描いた陣が赤黒く、まるで生きているかのように蠢く。血が波打つ。血の嵐だ。
それらの血と血が瓶に吸い込まれ、嵐は収束した。静けさが、戻る。
完成した。シンシアは、生きている。
瓶を落とさないよう、しっかりと持って、おばさんメイドに目を向ける。彼女は大きく頷いた。
次にマリアさんに目を向ける。輪郭だけでも分かる、大切な人。
「これを、マリアさんのお母さんに飲ませて?
きっと、呪いは解けるから」
「シンシア様! お身体は平気ですか!? 血が! 今すぐ手当てを!!」
「大丈夫だよ。血は派手に出てるかもだけど、この通りピンピンしてる。禁呪って言うからもっとすごいことになるかと思ったけど、たいしたことなかった。親和性が高いからかな。わたし、強い」
その場でぴょんぴょん跳ねてみる。くるくる回転も追加した。
「ねっ? 平気平気。指先の血も止まってるし。だから、一刻も早く、これをお母さんに飲ませてみて?」
「シンシア様……! ありがとうございます! このご恩は、決して、決して忘れません!」
「うん。それじゃ、早く、お母さんのもとへ帰ってあげて?」
「はい! はい! 本当にありがとうございます! このお礼は必ず私の全てで払います!」
マリアさんは何度も何度も深く頭を下げて、パタパタと慌ただしく退出した。
……顔、見える時に、もっとたくさん見とけば良かったかな、とほんの少しだけ悔いた。
「ふぅ……」
「……主様」
「いつも、いつも、無理、言って、ごめんね? ありが、とう」
もう、あまり、よく見えない。
こんな方法じゃなくて、もっと冴えたやり方で呪いを解く方法は、きっと、いくらでもあった。禁呪を選択したわたしは、きっと馬鹿なんだと思う。
でも、後悔はしていない。今わたしができる最大限を尽くせた。
「……様」
もう、あまり、よく聞こえない。
マリアさんのおかげで、わたしに色が着いて、名前が付いて。誰かのために本気になることができた。自分の限界を超えた、初めての全力疾走ができた。
マリアさんのおかげで、わたしは、わたしの魂は、救われた。前を向くことができた。
……せめて、マリアさんのお母さんがちゃんと助かったかどうかだけは、知りたかったなぁ。
口の中が鉄分の味がする。抑えきれず、口から垂れる。止まらない。
前世で過ごした暗闇の15年間も、転生してこの部屋で過ごした怠惰な9年間も、全て、マリアさんに出会うためだったんだ。
ここで、新たな生を受けたことは誇りだ。
手足の感覚が、薄れてゆく。
そして、シンシアは遠くなる意識に身を委ねた。きっと、戻れないと、助からないと、知って。
最後の、意識の残滓。最期の、心の言葉。
マリアさん、ありがとう。




