一章 シンシアとマリア (7)
マリアさんは昨日も配膳に来てくれたが、どこか落ち込んだような、ぎこちない様子だった。世間話を挑戦しようと息巻いていたシンシアだったが、空気を読んで結局話しかけることはしなかった。
その日の夜もお風呂で一人反省会を開催し、時には能動的な行動、つまり多少強引に突破する必要もあるのではと結論を出した。
シンシアが主人、マリアさんがメイド。一応、主人に仕えるメイド、という上下関係が存在する。シンシアとしてはあまり実感が湧かないし、それを利用して無理強いさせる気は微塵もないのだが、これは大きな壁だ。
この壁を何としても破壊しない限り、友人にすらなれない。シンシアはマリアさんに一目惚れしたが、いきなり恋人を目指すなどという愚かな真似に出る気はない。
前世においても恋愛経験が皆無なのでそもそもその手の機微が分からない、というのは棚に上げて、まずは友達からだ。同性なのだから、その敷居は男よりも低い筈だ。
そして、友達になった暁にはボディータッチ! お風呂タイム! パジャマパーティー! 一緒にお着替え!? 添い寝もしちゃう!?
夢がいっぱいいっぱい膨らんだ。
そして本日。今日もマリアさんが来てくれれば6日目。その朝。シンシアは話しかける決意を固めて朝食を待った。準備は万端、話の種も何個か用意した。マリアさんと友達になる作戦は静かに始まろうとしていた。
ノックが響き、それに返事をする。マリアさんの顔を見て今日も来てくれたことに安堵。さて、まずは何の話から振ってみるか考えて。
「シンシア様。本日を持ちまして、お暇をいただきます」
マリアさんは部屋に入室するなり爆弾発言を投下した。頭に浮かべていた話の種と神々の夢は爆風によって無惨に散り、跡形も残らなかった。
昨日のぎこちない様子はどこにもなく、その表情は何かを吹っ切ったように晴れやかだ。
シンシアは頭を抱えたくなった。マリアさんが突然辞めてしまう理由に思い当たる件があるからだ。一昨日のアレ。名前決める時、語ったアレ。
やっぱりわたしきもちわるかったぁ!? マリアさん、わたしの一人語りを聞いた後、急に具合悪そうにしてたもんなぁ!? やってしまったパターン!?
しかし、ちょっと待ったー! と懇願出来る筈もなく、頷くしかなかった。後で涙腺崩壊待ったなしだった。
マリアさんは、唯一、心を許せた人だから、本当に、仲良くなりたかった。下心はちょびっとあったが、純粋に、初めての友達になりたかった。
「……そう。わかった。今日までありがとう」
「シンシア、様」
入り口から背を向ける。その姿を視界に映してしまうと、泣きそうになる。レンガ造りの壁の模様を意味もなく目で追う。
「私っ! お金目的でここに来ましたっ! たった7日間! ご飯を配膳するだけで! 金貨10枚! それ目的で来ました!」
突然語気を荒らげたマリアさんに驚き、振り向いてその顔を見た。
泣いていた。
「金貨10枚! それだけあれば何が出来ると思います? 生活が楽になるし、しばらく仕事しなくても良くなるんです!」
シンシアは矛盾に首を傾げたくなった。たった今、辞めると言ったのに、どうして急に給料の話を?
「ここに来たのもっ! シンシア様に料理を運んだのもっ! 全部全部ぜーんぶ! お金のため! お金です! だって、お金がないと何もできないものっ!」
大袈裟に身体を動かし、涙を流しながら笑っている。シンシアはそれを知っていた。絶望を前に進むことを諦め、泣き叫ぶ自分と重なった。
「お金! どうしてっ! そんなものが必要なのっ! 私は、そんなの欲しくない! でも必要なのっ! お母さんを助けるために! でも! お金欲しくない! どうしてなの! どうしてなの……」
マリアさんは顔を両手で隠してその場でうずくまり、大きな声を上げて涙を流す。
シンシアは一歩も動けなかった。自分以外の人の感情の奔流。それを正面から受けたのは初めてで、衝撃的で、脳の奥底まで響いた、意味が繋がらない言葉群が全身を麻痺させた。
背景と自分が融け合い、存在が消失しそうになった。耳に流れる痛みだけがシンシアを繋ぎ止める。
それでも、シンシアは恐れなかった。この女の子の前では、月の姫のように、月の女神のように気高くありたいから。自分と同じ道を歩ませたくないから。
刺激をしないよう慎重に近づき、膝をおろす。
マリアさんの両肩を正面からそっと掴む。今のマリアさんは感情的になっていて、理屈や理論を吹っ飛ばし、支離滅裂の混沌とした状態にある。少しずつ、秩序を取り戻すため、シンシアはゆっくりと丁寧に、と自分に言い聞かす。
シンシアは人と話すのは苦手だけど、この女の子なら、きっと、話せる。話してみせる。
「マリアさん、一旦、落ち着いて、話そ? まず、その、金貨10枚? が欲しいんだよね?」
頷く。
「じゃあ、どうして、今日辞めちゃうの? あと1日だよ? 明日で金貨10枚貰えるのに、どうして?」
マリアさんは嗚咽を上げながら、途切れ途切れに話す。
「……シンシア様、を、お金目当てで、つかえ、仕えたく、なかったんです。ここで、私が帰れば、私はシンシア様に、お金目当てでなく、仕えたことに、なります。そうし、そうしたかったんです……」
「その、わたしは、嬉しいけど……その、うん……それだと、お金が……」
「うう……ううううう~……そう、ですけど。そうなんですけど! 私は、それでも、シンシア様に……。っ! ふぁあ! シンシア様!? 顔が近……や、やだ! 私、今顔が! 私、恥ずかしい! 顔、見ないでください!!」
「落ち着いて! 落ち着いて!」
再び狂乱に堕ちそうだったマリアさんの背中をさすって宥めた。落ち着くように、ゆっくりと、ゆっくりと、さする。
「あの、マリアさん……だいじょう、ぶ?」
「大丈夫じゃないです……。取り乱して、ごめんなさい。シンシア様……………………私のこと、嫌いに、なりました……?」
「? ならないけど」
「うう~……だって、私、急に泣き叫ぶような女じゃないですか……」
「泣き叫ぶのはわたしの方が上手。えっへん」
「シンシア様……」
この女の子が窮地に立たされているのは火を見るより明らかだ。こんなにも健気な女の子を追い詰めたその原因。まずはそれを知りたい。
「……マリアさんがお金を必要としているのには何か理由があるんだよね? それぐらいは、わかる」
マリアさんにはどんな時も笑っていて欲しい。
マリアさんの笑顔を奪う原因があるのなら。
どんなことも、どんなものも、全力で排除しよう。
「だから、事情を話して?」
シンシアは、覚悟を決める。




