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月姫は笑わない  作者: 雨雪雫
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一章 シンシアとマリア (6)

「わたしの、名前?」

「は、はい!」


 主様は人形のようにきょとんと首を傾げる。無表情で内心は何も見通せない。マリアは急に不安になった。柔らかい部分に踏み込んだ自覚があるからだ。


 主様と出逢って4日目なのに、一度もその名を耳にしていない。丸メガネのメイドさんも主様としか呼ばないし、主様自身も自分の話題は避けている節がある。


 それでも訊きたくて、知りたくて。ただ、あの怖い話の一部分が瞬間的によぎる。


「名前は、ない」


 なんてこともないように、あっさりと答えた。回答と、怖い話との一致。でも、それが真実だと思いたくなくて、必死に抗う。


「そ、そんな……! お母様や、お父様から、その……」

「不要だったから」

「ふ、よう?」

「うん。あの人達にとって、わたしも、わたしの名前も不要だったから」


 マリアの抵抗は意味もなく、空を切る。


 両親をあの人達。平然と、それが当然のように。


 マリアは憤った。どうしてこの人畜無害な女の子がこんな目に遭わなくてはならないのだ。あまりにも理不尽で、一方的で、やりきれない。


 何か声をかけようとして、だけど主様にかける言葉が浮かばない。


 それはとても不幸でしたね。


 これから先は良いことありますよ。


 元気出してください。


 そんな赤の他人に接するような上辺だけの陳腐な言葉はいらない! 言いたくない!


 主様を不要と切り捨てた、顔すら見たことのないその両親に激しい苛立ちを覚え、どうしてその頃の主様のそばに私がいなかったんだと悔しくなって、歯を強く食いしばる。


「わたし」


 ハッとする。主様が立ち上がり、マリアに近づく。冷たい明かりに照らされた主様は幻想的な粒子を纏わせて。 


「今まで、何もなかった。空っぽだった。このままでいいとずっと思ってた」


 主様は淀みなく、歌うように小さな口から言葉を紡ぎ、ハッキリとした透き通る美しい声で。


「でもね、マリアさんに出逢って、わたしは変わりたくなった。頑張りたいと思った」


 赤月のような双眸を反らすことなく、決意を秘めた眼差しで。

 

「マリアさんにとって、わたしが、月の姫とか、女神とか、そう見えるなら、ほんの少しでもそれに近づきたい」


 それでも無表情を崩すことなく。


「だからね。シンシア。月の女神の、名前。借り物の名前だけど、大それた名前だけど、それがわたしの名前。今、決めた」


 宣言した。


「大丈夫。わたしは、あの人達のことなんか、何にも気にしてない。わたしは、不幸じゃないよ? だから、そんな顔をしないで?」


 シンシア様。


 自分を構成する大事な名前を、一生涯付き合っていくであろうそれを、マリアのために決めてくれた。


 ……私の、ために。私だけの、ために。その事実に悦びを隠せなかった。心が満たされる。


 だけど。 


 まとわりつくような黒い靄が、心を蝕む。


 シンシア様を不幸と決めつけた。そして、お金目当てで、仕えている。

 

 そんな! 今の私は、お金目当てでこの塔を上った有象無象と何も変わらない!


 私のために大事な名前を決めてくれたこの方を、この方の想いを、裏切っているのでは?


 マリアは吐き気に襲われ、口元を覆う。主様の部屋で吐くわけには、吐くわけには!


「マリアさん!?」

「大丈夫、です。大丈夫……です」


 シンシア様に心配をかけたくなくて、平静を装う。笑顔を作る。


「シンシア様……」

「う、うん」

「シンシア様に相応しい、すてきな名前です」


 シンシア様の目を直視できず、首もとを見る。その純粋な瞳を見ていたら、矮小な自分に嫌気がさして、作った笑顔が崩れてしまうから。


「シンシア様、そろそろお昼の支度などもありますので、一旦失礼します」


 この聖域から、一刻も早くマリアという異分子を消し去りたくて、急いで退出した。その時も、シンシア様の顔を見るのが不敬な気がして、俯いた。


 片付けた食器をワゴンに乗せてふらふらとよろめきながら塔を下りる。焦点が定まらない。耳鳴りがする。頭が割れるように痛い。


 ワゴンをメイドさんがいる民家に返却し、借りている民家に戻った。ほぼ無意識だったので、ここまで戻ってきた記憶がぼんやりとしている。


 マリアは部屋に入るとすぐに丸くうずくまった。まだ吐き気もする。


 もう誤魔化せなかった。自分の気持ちに正直になる。マリアは、見返りを求めてシンシア様に仕えることに激しい嫌悪感を覚えた。家族のように、見返りを求めず仕えたかった。


 シンシア様と話す度に。シンシア様と目を合わす度に。シンシア様と同じ時間を過ごす度に。その想いは強くなって、溢れる。


 波長が合っている? シンパシーを感じる? 分からない。今までこんな経験をしたことがない。たった4日間で、こんなにも大切な人になった。


 ただただそばにいたいという、マリアにとって一番大事なその想いが汚されそうで、これ以上このクエストを続けたくない。クエストを完遂し、その報酬金を手にした時、マリアはもう、シンシア様に仕える資格を失う。物理的な問題ではない。心の問題だ。


 しかし、ここには本来、母親を助けるために来た。その報酬金が母を助けるのに必要だ。この仕事を完遂しなければ、他に道はない。ゴールは見えている。楽に大金を入手できる。母を救える。


 母を選べば、シンシア様を失う。


 シンシア様を選べば、母を喪う。


 どちらも選択できない二律背反。


 どうしてこんな形でしか、シンシア様と出逢えなかったのか。


 もっと、普通に。例えば町で、お隣さんだったり。お金が絡まない関係で、そばにいられたら。配膳の仕事だけでなく、身の回りのお世話もできるメイドとしてそばにいられたら。


 シンシア様が町を歩けば、その可憐な容姿に町行く人が皆振り返り、でも、シンシア様は恥ずかしがり屋だから私の後ろに隠れてやり過ごす。甘いものを一緒に食べて、服やアクセサリーもお互いに選び合ったりして、たくさんの時間を一緒に過ごして……。


 それは夢想。意味を持たない妄想。現状を打破できない逃避。


 こんな想いを抱くなら。


 シンシア様を。


 好きにならなければ良かっ


「もうやだあぁぁぁぁぁぁあああ! どうすれば!! どうしたらいいの!? 誰か助けて!! たすけてよおぉぉぉぉおお!」




 シンシア様、お母さん。私は、どうしたらいいのでしょうか?

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