結婚に墓場はいらない。
「お邪魔しまーす」
俺は遠慮がちに言うと、辺りをキョロキョロと見回す。
隅々まで掃除がされたぴっかぴかの玄関を見た瞬間、入る家を間違えたのかと思った。
だけど、表札は『田辺』と書いてあったし、ちゃんと部屋番号だって確認もしたんだ。
「いらっしゃいませー」
声がした方を見ると、目の前に立っていたのは若い女性。
息を飲むほどの美人で、今までの人生――二十六年の中で見た女性の中で誰よりもきれいだった。
あれ? おかしいな。苗字が同じ人の別の部屋なのかな。
そう思って『間違えました』と言おうとしたその時。
「おー。鈴木ー」
聞き慣れた声と共に、田辺太が姿を現した。
ああ、部屋を間違えたわけではなかったんだ。安堵したところで疑問が一つ。
この美女は、一体……?
その疑問を汲み取ったのか、田辺が顔いっぱいに幸せを現しながら口を開く。
「紹介するよ。この人が俺の奥さん。藍だ」
彼は美人の華奢な肩をうれしそうに抱いた。藍さんも「はじめまして」と顔をほころばせて笑う。
俺は『嘘だろ!』と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。
「さ、こんなところにいないで中に入れよ」
田辺に促され、俺は中へと入った。
言われるがままリビングに通されて、俺は卒倒しそうになる。
以前の田辺の部屋は、友人たちから「最悪の汚部屋」と呼ばれていて、床は足の踏み場もないのは日常茶飯事だし、夏は異臭を放っていたことすらあったのだ。
それが今は汚部屋の跡形は完全に消えてていた。
それどころか塵一つ落ちていない。窓はぴかぴかに輝き、床は見えるどころかセンスの良い絨毯が敷かれ、きれいに整理整頓されている上に部屋の隅には観葉植物まで置かれている。
こいつ、田辺の皮をかぶった別人なんじゃ……?! とさえ思った。
冗談はともかく、藍さんが掃除好きなんだろう。あの悪魔の屋敷をここまできれいにしたのは、もはや達人レベルだ。
リビングを見て感心していると、田辺が声をかけてくる。
「突っ立ってないで座れよ」
田辺が苦笑いをしながらソファを勧めてきた。
「ああ。ありがと」
見るからに高級そうなソファに腰かける。うん。座り心地抜群。
テーブルを挟んだ向かい側にある無駄にでかいテレビは新品同様。ぴかぴかに光り輝いているのは掃除なのか購入したばかりなのか。もうなんでもいいや。
俺がふかふかの座り心地の最高のソファに身をゆだねていると、愛さんがリビングに入ってくる。
「コーヒーと紅茶、どちらにします? あ、それとも緑茶ですか? 何でもそろってますから遠慮なく言ってくださいね」
そう言って、藍さんはふんわりと微笑む。いいなあ。こんな美人な奥さん。
俺が見とれてしまったもんだから、彼女は首を傾げてこう付け足す。
「100%ジュースもありますよ」
なんだか喫茶店とかレストランみたいだなあ。
「じゃあ、コーヒーでお願いします」
「はーい。少々お待ちくださいね」
藍さんはそれだけ言うと、リビングを出て行く。
そして、彼女は五分も立たずに二人分のコーヒーをトレイに乗せて戻って来る。
仕事が早い人だなあ。
ミルクと角砂糖を一つだけ入れて、ティースプーンでコーヒーをかきまぜつつ、ふと田辺を見た。
彼はコーヒーに、ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん、と砂糖を四つも入れている。
まあ、相変わらずと言えば、相変わらずではある。
俺は半ば呆れつつも、友人の変わらない姿にホッとしつつ、それと同時に昔を思い出す。
田辺とは小学校からの仲だ。
そして、友人だからはっきりと言えるのだが、田辺は容姿に恵まれていない。
いや、むしろブサメンを通り越して人外レベルだ。
学生時代の彼のあだ名はオーク。ちなみに俺のあだ名はガイコツ。だから人の容姿のことはあれこれ言えないのだけど。
昔は『モンスターコンビ』としてよくからかわれたもんだ。
俺はあちこちで『死神』と呼ばれて気味悪がられ、田辺は女の子に近づいただけで泣かれてしまうほどだった。
そんなモンスターコンビの片割れは、どうやってこんな美女とお近づきなったんだろう。
そういえば、結婚式もしてないみたいなんだよなあ。
田辺のタキシード姿は見たいような見たくないような。
思い出の旅から戻ってきた俺は、なんとなく口を開く。
「なあ、田辺。お前、また太ったんじゃないか?」
俺の言葉に、田辺は「そうかなあ」と言いながら肉の山みたいな己の腹をさすった。肉の塊という言葉がぴったりだ。
そして、腹をさすりつつ田辺は思い出したように言う。
「あー。そういや、とうとう百キロ超えたな。三桁だぞ、三桁」
自虐なのか、笑みまでつくっている。
「私、少しくらいぽっちゃりしてるヒロ君の方が好きだな」
藍さんはうれしそうに言うと、きれいな手で彼の腹を優しく撫でた。
ぽっちゃりなんてもんじゃねえ! 全国のぽっちゃりさんに謝れ! 百キロ超えってただのデブだよ!
俺がツッコミをしたい衝動を抑えていると、田辺がコーヒーを一口飲んでから言う。
「藍の料理はプロレベルでさ。ついつい食べ過ぎちゃうんだよ」
あーはいはい。ごちそうさまです。
俺はちょっぴり嫉妬しながらコーヒーに口をつけた。
一口飲んだ瞬間、「うまっ!」と声に出していた。
「ありがとうございます」
藍さんがホッとしたような表情を見せる。
「そうかそうか! コーヒー通のお前に誉められるなんて大したもんだな」
田辺は満足そうに愛さんを見た。
「いや、美味いなんてもんじゃないよ。こんなレベルのコーヒー、初めて飲んだ」
「おかわりもありますからね」
藍さんはそう言うと立ち上がった。
田辺は、壁の時計をちらりと見てから俺にこう提案する。
「ああ、そうだ。今日の晩ご飯、うちで食べて行けよ」
「えっ?! でも、そんな、すぐに帰る予定だし」
俺が顔の前で両手をぶんぶんと振ると、藍さんが口を挟む。
「大丈夫ですよ。念のために多めに材料買ってきたんです」
「藍、今日のメニューって何?」
「ビーフシチュー、蟹クリームコロッケ、海老とブロッコリーと卵のサラダ、それから特製のフランスパンです。アレルギーはありせんか?」
それを聞いた途端、急に空腹を感じた。ごくりと唾を飲み込む。
「ありません。じゃあ、お言葉に甘えて……」
俺がそう答えるが早いか「それじゃあすぐに準備しますね」と言い残して、藍さんはキッチンへと消えた。
華奢できれいな背中を見送りつつ、再びコーヒーカップに口をつける。
本当に、お世辞抜きにうまい。
俺は自他ともに認めるコーヒー好きで、暇さえあればカフェやら喫茶店に通っている。
美味しいコーヒーを求めて二年前に海外にも行ってみたけど、藍さんレベルのコーヒーを淹れる店には出会えなかった。
「お前の奥さんはシェフとかそっち系の人?」
俺の言葉に田辺はコーヒーにさらに砂糖を一つ追加しながら答える。
「いや、違うけど」
「ってゆーか、砂糖入れすぎだろ」
「俺、甘党だからしょーがねーよ」
「甘党ってレベルかよ。糖尿とか心配にならない?」
俺の言葉に「それもそうだなあ」と田辺はキッチンの方を見る。
それから彼はぽつりと呟く。
「まあ、でもいざとなれば俺も……」
「ん? なんだって?」
「いや、医療は進歩したって話だよ。大丈夫だろ」
田辺はそれだけ言って笑うと、角砂糖の溶けていないコーヒーを一気に飲み干した。
欲望に忠実な奴め……。
俺が呆れていると、キッチンの方から良い香りが漂ってきた。
ぐうううう、と二人分の腹が鳴る。
俺と田辺は顔を見合わせて笑った。
藍さんの手作りの夕食は、想像以上に美味しかった。
個人的には若い人妻の『頑張って作りました!』っていう料理でも全然、かまわないのだけど。
彼女の料理のレベルは、実は三ツ星レストランシェフと言われても『ああ、やっぱり』と頷けるものばかり。お世辞ではなく本気で店を出してほしい。
最近、田辺を食事に誘っても乗ってこないのは、このせいか。
そりゃあ外で食べるよりも、家で食べる方がずっといいよな。
「ヒロ君、お風呂わいたよ」
食後のコーヒーを飲んでいたら、藍さんがキッチンから戻ってきて田辺にそう告げた。
「んー、今日は後にするよ。もう少し鈴木と喋りたいから」
「分かった。私はまだやることがあるから、二人でゆっくり話してね」
藍さんはそう言うとリビングを出て行った。
俺は彼女がいなくなったことを確認すると、声のトーンを落としてこう尋ねる。
「奥さんも毎日あんな料理食べてるんだよな?」
「ん? ああ、そうかな」
「それなのに、なんであんなに細いんだ? 運動でもしてるのか?」
「さーて。どうだろうな」
田辺は嬉しそうに言うと、コーヒーをすすった。
「完璧すぎるよ……外見も性格も家事も完璧なんて……」
「そりゃあ、お前」
田辺はそこで一旦、言葉を切ってリビングのドアに目をやった。
俺もつられて、そちらを見る。
藍さんが入ってくる様子はない。
それを確認すると、田辺はこう続ける。
「藍はそういう風に作られたんだから」
「は? 作られた?」
「ちょっと待ってろ」
田辺はそれだけ言うと、「よいしょ」と文字通り重い腰を上げる。
そして、部屋の隅にある棚の引き出しを開けて何かを取り出した。
田辺の手にはパンフレットのようなものが握られている。
「これ」
彼はパンフレットらしきものを俺に差し出す。
それを受け取り、まずは表紙を眺めてみる。
表紙には沢山の女性がずらりと並んでいた。
中央には、金色の文字でこう書かれてある。
『貴方の未来の奥さんはここにいます!』
しかし、驚くところはそこではなかった。
「アンドロイド妻パンフレット」
田辺がパンフレットの表紙に書かれた文字を読み上げた。
「まさか……」
「そう。藍はこれ」
田辺はパンフレットのページをぺらぺとめくっていく。
彼の手が止まったページに目をやると藍さんそっくりな女性が写っていた。
その女性の写真を囲むように細かい文字でぎっしりと説明が書かれてある。
「アンドロイド妻NO3 藍」
ページの一番上にはそう書かれてあった。
「藍はな、一番得意な家事が料理なんだ。日本料理はもちろんフランス料理に中華料理、イタリア料理、タイ、トルコ、インド料理などなど。作れない料理はない」
田辺は一人で頷きながら言った。
俺は彼の顔とパンフレットを交互に見ながら言う。
「アンドロイドなんて……嘘だろ……」
「嘘じゃねーよ。考えてもみろ。あんな綺麗な奥さん、俺がもらえると思うか?」
「……それはそうだな」
「そこで納得したか。ま、いいや。これからの時代、妻は金で買うんだよ」
田辺はそれだけ言うと豪快に笑う。
俺は少しだけ考えてからこう尋ねてみる。
「いくらしたんだ?」
田辺は俺の質問にパンフレットを指で指した。
そこに値段が書いてあった。
「ああ。思ったより無茶な金額じゃないんだな……」
頑張れば俺にも買えないことはないな。
「……ってお前。これで藍さんを買ってその上、新品の家具まで揃えたってのか?!」
俺は辺りを見回す。
バカみたいにでっかいテレビもソファーもおしゃれなテーブルもふかふかの絨毯も、掃除できれいに保たれているというよりは、やはり新しいからこその輝きがあると改めて思った。
「いまキャンペーン中でさ。抽選で当るとクーポン券がもらえるんだよ」
「へぇ。キャンペーンもやってるのか」
俺はそう言うと考えこんだ。
田辺は、まるでテレビショッピングの売り子みたいに慣れた口調で言う。
「アンドロイド妻は人間じゃない。作り物だ。でも完璧なんだ。外見も性格も家事も何かもが。しかもメンテナンスをしていれば、あの若さと美貌、それからスタイルも半永久的に保てるんだよ」
俺は田辺の話を聞きながらコーヒーを一気に飲み干した。
ふう、と細く長いため息をついてから、独りごとのように呟く。
「俺も買おうかな」
その言葉に田辺が目をキラキラと輝かせて言った。
「本当か?! 俺の紹介で鈴木がアンドロイド妻を買えば、紹介料として藍に新たなオプションをつけてもらえるんだ!」
俺はカップをテーブルに置いてから尋ねてみる。
「オプションってなんだ?」
田辺はにやりと笑って、もったいぶるように答えをじらす。
「それはな……」
田辺が鈴木にオプションの内容を告げようとしたその瞬間。
突然、辺りが真っ暗になる。
電源が切られたのだ。
中年の男性が、真っ暗になったテレビの画面を三秒ほど凝視してから、椅子ごとくるりと後ろを振り返る。
「あとちょっとで終わるのに、なぜ消すんだ!」
「社長、このCMを何回見るつもりですか?」
右手にリモコンを持って立っている女性は、それだけ言って眼鏡をくいっと人差し指で上げる。
「自分の会社のCMを何度見ようが私の勝手じゃないか」
「それより決めていただきたいことが沢山あるんです」
「そう言えばそうだったな……」
社長と呼ばれた男は、細く長いため息をついて手元の資料に目を落とす。
「それからマスコミが結婚しない男性が増えたのは我が社の影響ではないか、と報道しております」
女性は無表情で社長に告げた。
「マスコミの連中なんて気にするな。あいつらは金でなんとかなる」
社長は資料に目を落としたまま続けた。
「それより例のものは進んでいるのか?」
「アンドロイド夫のことですか? あちらはまだ試作品の段階ですが順調のようですね」
「それならいいんだが」
社長はそう言うと、額の汗を拭った。
「それではまたなにかありましたら、お呼びください」
女性は手短に告げると、ドアに向かって歩き出した。
彼は社長室を出て行くの女性の後ろ姿を見つめていた。
彼女は完璧な「アンドロイド秘書」だ。
実は彼女は元々は人間の女性だった。
しかし、彼女は病気のため、あまり長くは生きられない状態にあった。
その時、彼は思いついたのだ。
彼女の記憶だけをアンドロイドに移植し「アンドロイド秘書」にすることを。
病魔に蝕まれた彼女はそのアイデアに賛成した。
かくして彼は優秀な秘書を持つことができ、彼女は新しい体を手に入れることができたのであった。
「社長、お薬の時間です」
十九時きっかりに秘書が薬と白湯を持って社長室に現れた。
「ああ。ありがとう」
社長はそう言うと、四種類の薬を口の中に一気に流し込んだ。
ふう、と息をつき、彼は独り言のように呟いた。
「私にも新しい体が必要だな……」
<了>