空色彼女
天高くそびえるビル達は空を遮る。無機質なジャングルの中を忙しい顔や疲れた顔が常に行き交う。いつからだったか空を見上げなくなった。それも仕方が無い。だって、空はこんなにも狭いのだから……。見上げたって閉じ込められた気分で憂鬱になるだけだ。
1
上京して半年近く経っていた。ようやく大学にも、都会にも慣れてきた今日この頃。俺、真田義彦は満員電車の中でギュウギュウ詰めにされていた。都会に慣れてきたものの、やはり満員電車には未だに慣れない。
時計は午後六時を過ぎている。仕事終わりや学校帰りの人が多いこの時間は、電車はパンク寸前とまではいかないにしても、かなりの人口密度だ。加えて、今は六月も終わりの時期で梅雨も明け、これから、太陽の自己主張がより一層強くなっていく時期だ。つまり、この人口密度が相手では車内のクーラーも役不足の烙印を押されても文句は言えまいといった状況なのだ。
ふと、そんな中に妙な違和感を感じた。その違和感の正体に、俺はすぐに気が付いた。わずか一人分のスペースが空いている。席が空いているわけではない、空間が空いているのだ。別段、乗客の中に裏側の世界にお住まいの恐い方々がいるわけでもなく、ただ、不自然にポッカリとスペースが空いている。そんな不自然さに周りは気づいていないようだ。まるで、そこに人がいるかのように当たり前にスペースが空いている。
ガタンっと電車が揺れる。崩れる体制を吊り革で立て直す。こんなところで倒れたら圧死しちまう。それよりも、さっきのスペースは? と、視線を先程のところに向ける。
よく見ればそこには中学生くらいの少女が立っていた。身長は一五〇cmに満たないくらいの小柄な少女。髪はツインテールで左右に分けて黒のリボンで結んであり、色白な彼女にはそのリボンが映えて似合っている。瞳はやや眠たげな感じで細めている。いや、眠たげというよりも疲れているという表現が正しい。彼女の体からは気迫というか、活力といったものが欠けているような感じがする。せっかく美人であるのに存在が希薄なせいであまり目立たっていない印象を受ける。
ふと、そんなほっそりとした眼がぱっちりと開き、俺と視線が合う。なんか気まずいので垂れ幕に視線を流してやり過ごす。しばらく、彼女の方は見ずに窓の外に視線を向ける。それから、もう一度、彼女の方に視線を向けると、彼女も俺を見ていた。
アナウンスが俺の降りる駅を告げる。人の流れに乗って電車から降りる。再び、電車の中の彼女を見ようと振り返るがそこに彼女はいなかった。
家に着く。都内から一時間程離れた、六畳一間でユニットバス、キッチン付で45000円の部屋。適当に夕食を作って食べて、シャワーで汚れと疲れを落とす。いつもだったら、友達の家に行ったり、ぶらりとバイクで軽いツーリングなんかに行くのだが、今日はなんだかすごく疲れている。肩が重くだるい感じ。やっぱり、都会にはまだ慣れてないのかもしれない。知らないうちに溜まっていた疲れが出てきたのだろうか。布団を敷き、その上に横になりながらテレビを見ていたが、次第にテレビの音も遠くなり、ズブズブと沈むように夢の中に落ちていった。
*
お役所勤めで上役である父とPTA会長を勤める母と、そんなエリート二人から産まれた凡人な私で家族は成っている。鷹が鳶を産んだという逆ことわざがまさにウチなわけだ。
さて、こういう風に構成された親というものはやっかいなものだ。一にも二にも世間体を大事とする。常に群から外れぬことを意識し、そこから上へ特化するときのみに個を重んじる。この場合に言う、上というのは成績というやつだ。そして、さらに付け加えるのならば上とは一番を指す。オンリーワンよりナンバーワン。
その考えには賛成だ。ナンバーワンを目指すことでオンリーワンに至る。ナンバーワンにならなくていい、とかいう競争意識を捨てるようなどこぞの歌詞には賛成などできはしないし、人間成長するには競い合わなければならない。それは分かっているんだけど、別に成績を上げることなどに面白みを感じられない。とはいえ、一番をキープしなければ、父のボディーブローと母のヒステリックな叫びが鼓膜を震わせるのでがんばることとしている。
そんなわけだから、空いている時間という時間は勉強をはじめ、委員会・ボランティアを行なう。ぶっちゃけて言っちゃうと、先生へのゴマ擦りをしている。
その結果、群から外れて、上に特化することとなってしまった。オンリーワン+ナンバーワンになったものの、その足し算のイコールはロンリーワンとなってしまった。
そんな私の唯一の楽しみというのが、恥ずかしながら盗み聞きというやつである。休み時間とかに参考書を読んでいるフリをしつつ、人の会話に耳を傾けているのが楽しい。特に興味をそそるのが彼氏自慢とかいった色恋沙汰の話だ。
「私の彼氏なんだけど、24歳でさ、超金持ってるし、車だってなんかよ
く知んないんだけど、虎みたいな名前の車に乗っててさぁ……」
「うわっ、超いいじゃんそれ! ウチの彼はさ、ヤンキーでさぁ、この前も喧嘩して傷だらけで、でも、バイク乗せてくれてさ……」
その、なんといいますか、私も年頃の女の子なわけでして、彼氏とか欲しいんだけど、やはりそれは世間体によくないらしく、親の監視も厳しく、少しでも男子と話した日には軽くヒスを起こす始末。PTA会長の名は伊達じゃなく学校内、学校周辺の情報は大抵母親は握っている。つまり、この町は私にとって監獄なのだ。
そんな生活の先で、ようやく私も大学進学という名のプリズンブレイクができるわけだ。できるだけ、この町から離れていて且つ、レベルの高い大学にいざキャストアウェイと、気持ちを高ぶらせていた。
娑婆の空気はきっとおいしいぞ! 今までできなかったことができる。ようやく解放されるんだ! 私は、このときのためにひたすら我慢と勉強を両立させてきたのだ。それがようやく報われる。何をしよう…いつも着させてもらえないセクシーなトップスとか着よう。あと彼氏も欲しいな。やっぱ、バイク乗ってる人で、タンデムとかしてもらえたらいいなぁ。たまに、バイク乗っている人を見るけど、絶対に風とか気持ちいいんだろうなぁ。
だけど、現実は甘くなかった。母親のPTA会長の任期が終わったらしく、それを機に、私と一緒に大学に近い町に行くそうだ。父親も今のマンションを引き払う準備を進めており、父親の仕事場に近い大学でコネがあるらしく、そこに行くようにと、よくワカラナイことを言っている。
気が付けば私は家を飛び出していた。その後は……よく覚えていない。
2
目が覚める。
夢を見ていた。
誰かの少し昔を夢で見てしまっていた。
気が付けば眼に涙を浮かべていた。あいつはただ、何気ない学校生活を送りたかっただけだ! 友達とどうでもいい、大してオチもないようなしょうもない話をしたかっただけだ! なんで、そんな些細なことが許されないんだ。
「くそっ」
苛立たしげに呟いて身を起こす。今、俺が怒ったところで仕方がない、気を静めよう。そう思って顔を洗い、朝食を食べる。それから、大学へ行く準備をして家を出る。
電車に揺られる。バイクで学校に行ければどれだけ楽なことかと、いつも考えるが、駐輪場に停められるのは自転車だけ。それも仕方がないといえば仕方がない。ウチの学校、人数と面積が全然合ってないし…。
にしても、今日は一段と暑い。ナイフのように鋭い熱線が体中に穴を開け、そこから、汗が溢れてくる感じ。唯一の救いといえば、今日は昼前からの授業のため、電車が空いている。席も余裕で取れたし、クーラーもそれなりに利いている。毎日がこうだったらどれだけ楽なんだろう。
そんな取りとめもないことを考えつつ、ポケットからipodを取り出してイヤホンを耳に付ける。ロック調のクールなミュージックが耳に心地良い。
…が、曲が半分ほど流れたところで軽いノイズが混じり、曲が止まってしまう。
「っ、おっかしいな、まだ買ってそんな経ってないぞ?」
特にぞんざいに扱った記憶もなければ、充電も充分な筈だ。
仕方なくイヤホンを外し、ipodを鞄に仕舞う。
ふと、気づくと目の前に少女がいた。黒のリボンのツインテールの色白な子。
確か、昨日電車で見かけた子だ。
彼女は俺の方をチラッと見たあと、他にも席が空いているというのにわざわざ俺の隣に座る。それから、チラチラと何回も俺の様子を窺った後に、か細い声で
「きょ、今日は一段と暑いですね」
と声をかけてきた。
「そうだな。クーラー作った人は偉大だ」
そんな大した返しでもないのに彼女はすごく嬉しそうな顔をする。そんな理由もあってか、俺は柄にもなくおしゃべりをする。どうでもいい他愛のない会話をする。
「でな、俺の怪談話ってのは、実体験に基づいてるからマジで怖いよ」
「えー、ほんとですか?」
「いや、ほんとほんと、俺、年に一回は幽霊視ればいいってくらいなんだけど、一応視える人だよ」
彼女は感心したように俺を見る。でも、しばらく考えたあと
「すごいんですけど、私、怖いの駄目なんですよ。だから、この話は勘弁してください」
と手を合わせてお願いのポーズをする。
「あ、そうなんだ。じゃあ、一年前に行った岡山県にある、今はもう人が住んでいない村の話でもしようか?」
「サイテー」
ジロリと少女は恨めしそうに俺を睨む。
「うそうそ。ごめんごめん。あー」
そういえば、大事なことを忘れていた。どうやら彼女もそれに気づいたようだ。
「私の名前は東雲渚って言います。よろしく」
「…俺は真田義彦。よろしくな」
自己紹介が終わったところで、丁度俺の降りる駅に止まる。
「俺、ここだから」
「そうですか。あの…また、おしゃべりとかしてもらえますか?」
不安そうな表情で俺を見る渚
「もち! またな」
俺は親指を立ててグッドサインをすると、零れんばかりの満面の笑みで彼女は喜んだ。
「東雲渚か…」
彼女の名前を口ずさむ。口ずさんだところでその名前は変わらない。うろ覚えな名前だけど、妙に確信している自分がいる。
もし、彼女が彼女なら俺はどう接すればいいのか。俺が彼女に望むものを与えられたとして、それは彼女にとって苦痛にならなければいいんだけど…。
ポツンと一人で彼女が乗っていた電車の去っていった方角を見つめていた。
3
俺にとって渚と会うのが日課になっていた。今日も夕方の帰りの電車で渚と会って駅の外を歩いている。渚が言うには家は同じ方角らしい。時間は夕方五時。日はまだ高く町に陽を落としている。そんな中を二人並んでゆっくりと歩く。
渚といると何気ない時間がとても貴重だと感じる。他愛ないおしゃべりも、一緒にただ歩くということも、渚はいつだって全力で楽しんでいる。だけど、それと同時に俺の胸は絞めつけられる。だって、彼女は…。
「義彦さん!! ちょっと、私の話聞いてます?」
渚の声で我に帰る。
「あ、ごめん、なんの話だっけ?」
渚はむぅっと少しだけ頬を膨らまして怒る。
「だから、義彦さんの乗っているバイクってどんなのですか? って話ですよ!」
「えっと、カワサキのW400っていうのなんだけど・・・・・・知らな
いかな?」
W400はクラシックな感じのバイクで、その造形美は落ち着いた光を放っている。乗ればエンジンの響きが体に伝わり、アクセルを捻れば安定した走りを見せる。ゆったりとした走りを楽しめ、それは乗る楽しみを教えてくれる一品。だけど、そんなことを説明してもいまいち分かりづらいだろう。だったら、
「渚、今から時間あるか?」
「うん。あるけど?」
これ以上、渚が喜ぶことをしたくはない。だけど、それでも俺は渚が笑っている姿をもっと見たいと思ったし、渚はもっと楽しまなければならない。だから、俺は
「バイク乗らないか?」
渚の笑顔が弾ける。俺の手を両手で握りながらブンブンと縦に振る。
「ほんとですか? すごい嬉しいです!!」
そんな渚を見て俺は先のことを考えるのをやめることにした。今は、今をとことん楽しむことにしよう。渚は俺の手を掴んでグイグイと引っ張る!
「早く行きましょうよ! ほらほらー」
「おいそんな引っ張るな。ってか、俺ん家そっちじゃねえよ」
4
キーを差込み捻る。セルスイッチを押してイグニッション。ドルルルンとエンジンが回転する。そのあと、ドッドッドッと落ち着いたアイドリングが響く。うん、調子良い。
「おお〜、かっこいい!」
渚は右から左からと、いろんな方角からバイクを眺め、その度に、おお! とか、ふむふむとか頷いている。エンジンもだいぶ暖まってきた。俺はヘルメットを渚に渡しながら、簡単に乗っている時の注意をする。
「後ろに乗るときはとにかく荷物になれ。曲がるときも変に体重をかけたりとかせずに普通にしてればいいから」
「りょ、了解です! えっと、どこに掴まってたらいいんですか?」
「横に付いてるそのバーを握って、膝で車体を挟めば大丈夫。とりあえず、乗ってみようか」
俺の後に続き、渚が後ろに乗る。緊張してどこか固いけど、まあ、走ってる内に慣れるだろう。
「そんじゃ、行くよ」
「お、お、オッケーです!」
クラッチを握り、ギアを一つ上げてアクセルを捻る。マフラーから響く排気音とともに車体が動き出す。とりあえず、湾岸線でも走るとするか。
太陽はオレンジ色に変わり、町を染め上げていく。海もキラキラとその光を浴びて輝く。最初は緊張して固くなっていた渚も今は景色や風なんかを楽しんでいる。一時間ほど走った後、近くのコンビニで休憩する。
「すごかったです!! 車と違って360度の景色が広がってて、風も気持ちよかったです」
渚は目を閉じたままその光景を思い出しながら微笑む。その後に、何かを考えるかのように黙り込み、俯く。そして、
「義彦さん。私、どうしても行きたいとこあるんですけど・・・・・・」
上げた顔は何かを決心したような引き締まった表情だった。
「いいよ」
俺達は再びバイクに乗る。行き先は都内にあるビルの屋上だ。
5
丁度、ビルはどこかの企業が移転するのか荷物の運び出しが行われていた。バイトの人に紛れて、屋上に向かう。
日は既に落ち、星がちらほらと顔を見せ始める。涼しい風が俺たちを撫でる。
「あー、楽しかった」
渚は大きく伸びをしながら屋上の端に向かっていく。一歩一歩を噛み締めるようにゆっくりと確実に歩いていく。
「ここが私の終着場所。義彦のおかげで私楽しかったよ」
なんでこいつはこんなに強いんだ? 俺はてっきり楽しめば楽しむほど未練が残ると思っていた。だから、こいつを楽しませることに素直になりきれなかった。
「取り憑いたのが義彦でよかった」
「取り憑かれた方は災難だったけどなぁ」
そんな軽口を叩く。
「あはは、ごめんね。それから、ありがとう。一緒に話した時間とかバイクに乗せてもらったこととか、成仏したって忘れないよ」
そうか、渚はとことん楽しんだんだ。
些細な願いを叶えたんだ。
だから、未練なんてない。
そして、彼女が消えたとしても、楽しかった思い出までは消えはしない。
「ありがとう渚。俺も楽しかった」
渚はにっこりと微笑んだ。それは今までのどの笑顔よりも綺麗で優しい笑顔だった。
それから、ゆっくりと歩き出す。フェンスをすり抜けて、空へ向かって歩き出す。
しばらく、空を歩いてから振り返り、元気よくブイっと、ピースをしてから、夜空の中に溶けていった。
空はどこまでも広く、都会に来て初めての大空だった。渚は今度こそ檻から飛び出して羽ばたいていった。
エピローグ
図書館に訪れた。そして、三年前の新聞を読む。そこには都内のビルから親の制止を振り払って飛び降りた少女の最期が書かれていた。
やっぱりそうだった。俺が通っていた高校で起きた事件だ。彼女との面識はまったく無いけど、一時期、その事件で学校内は騒然としていた。
もう一度、記事に視線を落とす。
『家庭内暴力、スパルタ教育の果てに自殺。辛い人生に自分で終止符を打った。』
そんな一文の『辛い人生』という部分を、グリグリっとボールペンで塗り潰す。
終わってしまった後のことだけれど、彼女は笑って消えていった。だから、辛いだけの人生じゃなかった筈だ。
空は相変わらず狭い。だけど、狭ければ屋上に行けばいい。そこにはいつだって大空が広がっている。空に向かって手を伸ばし大きく伸びをする。
「さーて、今日も一日楽しみますか」
Fin