夜の遠く、街の低く冷たいところ
少しだけ甘い月明りの垂れる街の夜は三時。ひと通りと子どもの声の途絶えた閑静な住宅街の横にひっそりとある公園を通り過ぎた子猫の一匹がふと空を仰いだ。月のない夜。さきほどまでは確かにそこにあったのに。果たしてどこへとけてしまったのか。月の気配だけのある夜。そういうのも悪くないと子猫は思い、そしてまた歩き出す。歩き出してからはもうすでに月への思考は消え、けれど、そういうのもまた悪くない。
歩くからには目的が先行して、けれどまた、そういったあらゆるものごとはふと後ろからやってきて、音もなくぺたりと背中に貼りついてしまうものなのかもしれないとも思う。ぺたり。そしていま、子猫の背中にもまたひとつ。
子猫を探すトオノ・カナコはそういったことを思った。ミミ、と彼女は胸のうちで小さく呟いた。もう一年ほどにもなる、ずっと室内で飼われていたので、外の世界をひと欠けだって知り得ないミミ。犬の散歩というものはよく聞くけれど、猫の散歩というものが果たして存在しえるのかということを考え、結局のところ一度だって外へ連れてゆくことをしなかったミミ。そんなミミの姿が二十二時の風呂あがりからみえなくなり、濡れた髪を乾かすのも忘れベッドのしたやソファーの裏なんかを探してみて、ありもしないのにゴミ箱のなかや冷蔵庫、あるいはトイレの便器を開けてみてそこにいつものミミの姿がまったくみあたらなかったとき、心の臓がひとつおおきくどくりと音を立てた。
ミミ、と今度は口に出してそう云った。ミミは果たしてどこへいってしまったのだろう? 何度も(それはほんとうに何度も)調べてみたのだけれど、玄関のドアや窓硝子はしっかりと閉まっていた。だからミミが物理的に外へ出ることは不可能なのだ。物理的に、とまたトオノ・カナコは思う。ならばもしも物理的ではない手段がそこにあるのなら――。強く首を振った。そんなことはありえない。ありえないとは思うのに、彼女はいまこうして深夜帯の三時に家を出てミミの姿を探している。自分の行為がひとつの矛盾を示しているのは明確だった。けれどそういうふうに思うたび、また彼女はこうも考えた。結局のところ様々なものごとは、どこかしらの点でなにかしらの矛盾を抱えているのだと。ミミのいない部屋。月のない夜。そして、私のいないミミ。すべてはどこかでつながっている気がした。
公園の前を通りすぎた。普段であれば小中学生や女学生、あるいは子連れの主婦の姿がみられるそこも、いまでは忘れ去られた森の奥地のようになにもない。なにも。それはほんとうに、ひと欠けの虫の息さえも認められないほどに。ここはまるで死んだ場所だなと、トオノ・カナコはそう思った。だとするならば平時にみられるひとの姿は幽体のあつまりか。そうした雑多なイメージが刹那だけ脳の横側を通りすぎ、すぐにそこをあとにする。
きっとミミはまだ家のなかにいるのだと、不安定な街灯や淋しい自動販売機の横を通りすぎながら、トオノ・カナコはそう思う。ミミはいまでもあの小さな黒塗りの躰をまるめながら彼女の帰りを待っている。いつものように、地味な調度のあつまりのなかではひときわ目にとまる赤いソファーの肘掛のあたりに頭を乗せ、なにごとかを考えている。彼女の玄関の鍵を開ける音でミミは躰を起こし、その方面をまるい目でみる。それからリビングのドアを開けると、けれど一転、なんの興味もなさげに虚空をみつめるミミ。そんなミミの愛おしい姿を思い浮かべる。きっとミミはまだ家のなかにいるのだ。そう呟くたびにそれはある核心へと段々と近づいてゆくのが判った。ある核心。そしてその考えを切り捨てるように、前へ前へと歩みを進める。
ミミはなにもかもを知らない。ミミのみる世界はそのすべてが新鮮で、だからミミのまるい目はいつも以上にまるくなる。自動販売機の前でミミは立ち止まる。これは果たしてなんであろうか。冷たいアスファルトへ差す明かりのなか、一匹の蛾が飛んだ。あなたはどうしてここにいるの? 問いかけるも応えはなく、消え入る蛾の姿を見送りながらまたべつの興味へ歩き出す。かりかりと音を立てる足音のなかに、ひとつの虫の音が交じった。それが鈴虫のものであることを当然のようにミミは知らない。知らないものは知りたくなるのが猫の性なのだとミミは思う。だから自然、ゆき先はとある公園の茂みのなかへとながれてゆく。とある公園の茂みのなかへと。
ミミ、とトオノ・カナコは叫んでみる。これはちょっと非常識かも知れないと思う。けれどそんなことにかまっていられるわけでもないのだ。ミミは彼女の名前を知っている。だから名前を呼べばこちらへたったと寄ってくるし、にゃあとさして興味もなさげに鳴いてみたりもする。けれどそうした気配はここにはない。あるのは確かな彼女の息遣いと、それを包む夜の深さただそれだけだ。少し寒いなと彼女は思う。季節は八月の中旬だけれど、きっと風呂あがりにすぐ外へ出たために湯冷めしてしまったのだ。ミミは大丈夫だろうかとまた思う。もしもミミがその小さな躰をまるめどこかの茂みの奥で彼女の助けを待っているのなら――そこまでを思考してから、いや、ミミは家のなかにいるのだったと考え直す。ならばなぜ私はこうして街の夜を歩き回っているのだろう? それもまたひとつの矛盾であった。
ただ考える。どうして自分はこうして外の世界を歩いているのか。外に出てしまおうと考えたわけではなかった。もちろんそうした世界のことを考えたことは何度もあったのだけど、カナコがそうさせないということはそれだけの理由があるのだろうとひとりで納得していた。きっとそこは恐ろしい場所なのだ。そう思っていた。そこには有象無象のおおきなばけものがうねるように徘徊していて、そういったやつらに出くわしてしまったら、自分のような小さいいきものはすぐに食べられてしまうのだろうと。
カナコはいつもきまった時間に外へ出る。もしもそこが自分の思うように危険な世界ならば、なにもそんな無茶をする必要はないだろうと思ったりもした。けれどカナコがそうするのならば、それはきっと必要な行為なのだ。いつだってそうだ。どんなものごとにおいてもカナコは正しい。それはミミにおけるひとつのおおきな自慢だった。
強くならなければいけないのだとミミは思う。いままで自分は欠伸をしながら安全な箱のなかにいたけれど、それだけではいけないときがいつの日か来るやも知れない。もしもカナコがその身を危険にさらしたとき、そのときにはきっと。
だからたぶん、自分がいまこうして外の世界にいるというのは、そういうことなのだろう。きっとカナコは泣いている。この世界のどこか深いところで、いまでも自分の助けを待っている。待っててカナコ、とミミは呟く。いまぼくはこの世界の外にいる。だから待ってて。きっとそこへたどり着いてみせるから。そうしてミミは、茂みを避けて先へと進む。先へと。
いくつもの街灯を通りすぎ、いくつものコンビニエンスストアの前をゆき、虚しく点滅する信号機の黄色をみつめながら、ため息をつく。もうずいぶん遠くまできた。そこは隣街であった。そこはトオノ・カナコの住む街よりも少しだけ夜を知っていて、だからいくつかのひととすれ違った。酔ったサラリーマン。女学生の連れ。高校生かあるいはそれよりも若いだろう男どもの騒ぐ声を聞きながら、ただいくつものため息が漏れた。
きっとここにミミはいない。それどころかもしかしたら、ミミなんてものはそもそも存在のしない猫なのではないだろうか? それはひとつの運命的な確信だった。飼い猫が扉や硝子やコンクリートの壁を通り抜けるといった話を彼女は一度だって聞いたことがない。ならばはじめからミミなんてものは存在せず、彼女はありもしないものを探していたのではないだろうか。
「やあやあ、あんた。ほら、ちょっと、そこのあんた」背後から声がして振り向くと、そこには先ほどすれ違ったサラリーマンの姿があった。相当酔っているのか、片足の靴がない。スーツも雑草の生え散らかった庭のようにはだけていて、あまりみていていいものではないなと彼女は思った。「あんた、ほら、そんな悲しそうな顔しないでさ。まだ若いんだから、そんな、命を粗末にしちゃもったいないよ」彼女があんまりにもひどい顔をしていたのか、どうやら男は彼女が深夜に自殺場所を探す女にみえたらしい。そんなんじゃない。否定しようとして、けれど男は続けざまに云う。「実は俺さ、若いころに一回やってんだ。ほら、学校の屋上から飛び降りるってやつ。深夜一時に学校に忍び込んでさ、屋上までむかったわけ。屋上の扉には鍵がかかってたけど何回か蹴ったら開いて、うん、相当ぼろいやつだったからなあ。案外簡単に壊れたよ。そんで家で書いてきた遺書を床に置いて、フェンスをゆっくりとよじ登って、あとはもう飛び降りるだけだったんだ」男が話しているあいだ、ひと組の若いカップルが通りすぎた。酔った中年の男とひどい顔をした女子大生というふたつの組み合わせが奇妙であったのか、まるい視線をこちらによこし、それから首を傾げすぎていった。もちろんそこに、ミミの姿はない。「綺麗な夜だったなあ。雲ひとつなくて、満月だった。季節は夏だったから、星が三角形をつくってめいいっぱいに輝いてた。けれどね、それすら俺の心には届かなかったんだ。いろいろな理由はあったけれど、それはほんとうに思い出したくないほどにいろいろな理由があったのだけど、もうこの世界なんてところにいち刹那だっていちゃいけないんだって、それはほんとうに脅迫の観念みたいに強くそう思ったね。だから飛び降りた。いや、自分のなかではもうすでに飛び降りていたんだ。俺の精神的な躰はそのときからもうずっと前に飛び降りてしまっていて、いつまでも退屈な落下を続けていた。だからあとは、それを追って、消化試合のように身を投げるだけですべてはお終い。そういうふうに考えていた。けれど現実は違った。背後で声がしたんだ。ねえ、って。それは女の声だった。夜の静けさをぱりぱりと剥がしてゆくような、透き通った声だった。振り向くとそこには小さな女の子がいた。小さいといっても年齢は俺とおなじで、なんでそんなことが判ったのかっていうと、それが俺とおなじクライスメイトの女だったからなんだ。やめてくれるかしら、ってそいつは云ったんだ。わたしの前で死なれるとあとが困るから、そういうことはやめてくれるかしらって。俺はね、そいつの声を初めて聞いたんだ。一年近くおなじクラスにいたはずなのに、不思議だなあ、顔は知っていたはずなのに、声のほうはいちミリだって知らなかった。そんなことありえないはずなのに。でもさ、それがありえてしまうくらいに俺は世界を捨てていたんだ。ああ、そうかって思ったよ。こいつはこういう声をしているんだって。俺はそういった当たり前さえ知らなかったんだって、だから、そうだなあ、なんだかすごく悲しくなった。許せなかったんだな。自分の存在が。俺は確かに世界のすべてを憎んでいた。けれどその対象が自分にも牙をむいたとき、俺はただ、悲しくて悲しくて、頭んなかが真っ白になっちゃったんだ。気づくと、ただ泣いていた。フェンスのうえで、一度だって話したことのない女みおろしながら、俺はわんわん泣いたんだ。笑える話だろう?」
男はそこで話しを止めて、それからなんの前触れもなく、来た道を歩きだした。それはあんまりにもあんまりだった。話はまだ、男の話はまだ終わっていないのだ。いくら男が靴が脱げるほどに酔っていたからといって、それはあまりにも人道に反するというものだ。
「あの……」と彼女はひさかた振りにも思える声を出したような気がした。声は擦れていた。ひどいな、と彼女はそう思った。これじゃあほんとうに、深夜帯に自殺場所を探すかわいそうな女みたいだ。男は振り返った。そしてひとつおおきなげっぷをしてから、云う。
「俺さ、思うんだ。俺はあの日の夜、確かになにかを探していた。それは夜の一時における学校の屋上にこそあって、フェンスをよじ登ったそのしたのほうに、さらにそこを突き進んだ低く冷たいところにあるんだって。でもそんなものはなかった。いや、違う、それは確かにあったんだ。けれどまたべつのところで、誰かもなにかを探していた。なあ、もしもなにかを探すあんたの後ろで、誰かもまたあんたのことを探していたのなら、あんたはそれでもまだなにかを探し続けるかい? 俺はただ、あの日の夜にそんなことを思ったよ」
そうして男は去っていった。男の姿がみえなくなると、トオノ・カナコは急にひとりぼっちになった気分を覚えた。ひとの姿はどこにもない。ついさっきまではちらほらとみえていたのに、まるで彼女だけが夜の街から切り取られてどこかの裏路地の壁に張りつけられてしまったみたいに、そこにはもうなにもなかった。
誰かもまた私のことを探していたのなら。
彼女は思う。それはきっとその通りなのだ。いまこのまま立ち止まり後ろを振り返ったのならば、そこにはきっとひとつの解答がある。ひとつの解答。そしてたぶん、そんなものは夜を舞ういくつもの電光のように、そこらにてんでばらばらに散らばっているようなものなのだ。だからね、おじさん、と彼女は呟く。私はけっして立ち止まるつもりはない。もしも、この夜の遠く、街の低く冷たいところでいまもなお私の助けを待っているミミがいるのなら、私はこれからだって歩き続ける。
待ってて、とただそう呟き、彼女はまた歩き出す。朝焼けの気配の立ち込める街のなかを、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに、遠くまで。