プロローグ
これから頑張っていきたいと思います。
朝霧の深い小さな森を数十分ほど奥へ進んだ辺りで黒猫は、僅かな風切りの音を聞いた。
足を止め、耳を澄ませる。冷ややかにまとわりつく霧の奥から、確かに響いてくる。
黒猫の虚ろな瞳にかすかに光がさした。止まっていた足を音のする方角に向け、躊躇いながらゆっくりと歩き出す。何故か興味を引いた。全てに絶望し、死に場所探して偶然辿り着いたこの森。黒猫にとっては全ての事がどうでもいいはずだった。奪われた力も、失った体も、もう戻ってくることはない。残された仮初の体でせめて穏やかな場所で息を引き取ろうとこの場所にやってきた。
だが、風きり音の中に僅かに交じる嗚咽が黒猫の心を留まらせた。
穏やかに何かを見守るように立ち並ぶ木々の合間を抜けると小さな広場があった。その中心で棒のような物を振り下ろす小さな一つの影。
型も何もなく、荒削りで動きに無駄だらけだが、少なくない月日の修練を感じさせる。
5、6歳だろうか?黒猫の瞳に写ったのはそのくらいの年齢の男の子だった。悔恨の表情を浮かべ、涙を流しながら、嗚咽をこらえようと歯を食いしばり、一心不乱に鉄棒を振るっている。いつから振るっていたのか、少年の服は汗で変色している。
その姿に黒猫は遠い過去を思い出した。今の自分になる前の自分。
“才能”
その言葉に抗い続けた友人の姿が、必死に鉄棒を振り続ける少年の姿と重なる。
「少年、どうしてそんなに頑張ってるんだ?」
「誰だ!?」
黒猫の声に反応し少年は目を剥いてあたりを見回した。周囲に何もいなかったのか、自然とその視線は黒猫に向く。黒猫は自分の姿が猫であることを思い出した。
「俺は黒猫だ。怖がらないでくれ」
少年の表情が悔恨から驚愕に変わる。眉間のしわはほどけ、細められていた瞳が大きく見開いている。その顔に黒猫は、少年の年相応の表情を見た。
「猫が……しゃべった?魔物か?」
当然と言えば当然の疑問だ。
「魔物じゃない。まあ、精霊みたいなもんだと思ってくれ。それよりも少年、もう一度聞くが何でそんなに頑張ってるんだ?」
黒猫の言葉に少年は俯いた。
「……頑張ってなんかねえよ」
「じゃあ、ここで何してるんだ?」
「はあ?いや……お前には……関係ないだろ」
ボロボロの格好でシラを切ろうとする少年に黒猫は内心苦笑いを浮かべた。黒猫は少年の姿をもう一度よく見た。手に巻かれた布は血で赤黒く変色し、柄の部分に巻かれた布はボロボロ、足元は少年の周りだけ草が禿げている。黒猫の虚ろだった瞳にハッキリと光が宿った。
「なあ、強くなりたいなら俺がお前を強くしてやるよ」
死ぬ前に少し寄り道するのも悪くない。