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エウブレウスの囁き

作者: 蒼親

 二年ほど前、私自身が突発性難聴になった経験をもとに書いておりますが、医学的な情報には誤りもあるかと思います。

 あらかじめご留意ください。


 当方Webサイト「若高亭」にて掲載のものを転載いたしました。

(1) 目眩のメランコリー


 突然、左耳が聞こえなくなった。

 本当に突然のことだった。いつもの通り、大学からアパートの自室に帰って来て、パソコンを起動させ、映画を見始めた時、唐突に左耳が異常を訴えたのだ。それは実に奇妙な感覚だった。自分の左側からの音が、一切遮断されたのだ。しかし、右側からの音は健在だ。聞こえているけれど聞こえていない。全く不思議な感覚だった。

 これは明らかに異常事態だ、と判断した大鷹慶一は、ともかくも一晩様子を見て、翌日、病院へと向かった。内心、一晩経過すれば何事もなかったかのように、聴覚の状態が元に戻っているのではないかと期待していたことは事実だ。しかし、そうそう上手くはいかないもので、朝起きても左耳の異常は変わらないままだった。

「確かに聞こえないようだね」

 街を歩きながら、耳鼻科医に言われた言葉を思い出す。

「鼓膜には異常がないようだから、中耳炎ではないね。やはり、突発性難聴としか言いようがないかな」

 医師が言うには、突発性難聴の原因は多様過ぎて特定できず、結果として原因不明になるのだという。しかし、多くの場合はストレスが関わって来るらしい。

 他の多くの大学生と同じように、慶一にストレスの自覚はなかった。

 だが、慶一は、無自覚のストレス要因は意外なほど多くあるという話を聞いたことがあるのを思い出した。どこで聞いたのかは覚えていない。週に一回見るか見ないかのテレビで放送されていた事柄か、あるいは大学での講義中に聞いたのかもしれない。

「はぁ」

 慶一の口からため息が漏れた。

 バス停の椅子は硬く、念のためにと付けられた、左耳のぶ厚いガーゼが鬱陶しかった。

 ガーゼが触れているという感覚はあるものの、相変わらず聴覚は働いておらず、左方向からの音声は、その一切が認識できないままだった。

 調剤薬局で購入した飲み薬の袋と、肩から掛けた小鞄以外、荷物はない。宿泊を伴う場合以外、外出の際には出来るだけ軽装にするのが慶一の常だった。

 バスが来た。

 平日の午後。何をするにも中途半端な時間帯。バスの乗客もほんの数人だった。

 二人掛けの席に座り、背もたれに体を預けて力を抜く慶一。

 ぼんやりと、何か詰まったような感覚が抜けない左耳が不快だ。例えて言うなら、水泳の時に耳抜きに失敗し、水が耳に入りこんでしまった時のようだった。

 もうしばらくすれば、慶一の家に近いバス停が見えるというとき、突然、激しい目眩が慶一を襲った。

「な、なんだ?」

 遠のく意識の中、慶一は、耳の異常が目眩を起こすという話を思い出した。直後、彼の目の前は真っ暗闇に包まれ、完全に気を失ってしまった。

 次に目を覚ましたとき、慶一が最初に見たのは、自分の肩をゆすって起こそうとしている運転手の顔だった。

「お客さん、終点ですよ」

 まさか自分がこの台詞を聞く身になろうとは。

「すみません」

 降りるとそこは、バスの車庫がある、最終地点だった。慶一が使用するはずだったバス停からは、遥かに離れた場所だ。結局、普段の倍の運賃を支払うことになった。

 ついてないな。慶一がそう思うのも、当然と言えた。

 バスに乗ったのは、午後も早い頃だったが、今はもう西日が周囲を朱色に染め始めている。少なく見積もっても、数時間は気を失っていたらしい。順調であれば、今頃は既に帰宅していたであろう。

いや、そればかりではない。きっと、レンタルしていたDVDも返却することができたはずだ。

 そこまで考えて、慶一は、DVDの返却予定日が今日であったことを思い出した。

「まずい、急がないと……」

 とは言うものの、次に来る予定のバスは自宅とは反対方向に行ってしまうし、自宅方面へのバスを待って、それに乗ったとしても、実際に帰宅できるのは二時間ほど後になる。

 この時間の浪費は痛い。

 ふと、慶一は周囲の風景に見覚えがあるのに気がついた。市の郊外、田園地帯にぽつんと存在するバスの発着所。ざっと見ただけで十以上はありそうな車庫。その反対側に、小高い山が見える。

「あの山、もしかして裏山か?」

 その山は、実際、高い丘という程度のものだった。しかし、それはまさに慶一が数年前まで通っていた高校の裏山に間違いなかった。

 正式名称は比影山。ひえいざん、と読むが、京都府の比叡山との関係は定かではない。標高は六百メートルほど。学校の裏手にあるために、裏山と呼ばれるが、学校の敷地ではない。地元の人々から手軽なハイキング場所として親しまれている。

 慶一自身、高校生時代には幾度となく登った山である。

 高校生時代を懐かしく思ったことと、バスを待つよりは短い時間で帰宅できるかもしれないと考えたことの二点が、慶一の背中を押し、彼は山に足を踏み入れた。

 この山に車庫の側から上るのは、これが初めてだったが、高校生時代にコースは把握していた。スニーカーが滑らないように、足元への注意は細心である。

 一度登り始めてしまうと、意外なほど足が速く進んだ。頂上まで一息に登ったにもかかわらず、軽く肩を上下させる程度。疲労感も無いに等しい。

 眼下には母校。そして、見覚えのある住宅街。その向こうには巨大なビルがいくつか。

 市内にある高層ビルの中でも特徴的なのはツインタワーだろう。

 スギサワ・ファッション・ビジネス・ビル。二つの高層ビルの間を、何本かの渡り廊下がつなぐ、市のランドマークである。片方のビルはショッピングフロアが多く設けられ、もう片方には多くの企業がオフィスを構えている。

 ドラッグストアのフランチャイズを展開する、スギサワ・グループが出資して建設されたため、スギサワの名前が使われているが、正式名称で呼ぶものは少ない。みな、ツインタワーと呼んでいる。

 「なんだ、近いじゃないか」

 慶一は、そのまま山を降りる。

 この山を降り、住宅地を進めば、一時間ほどで帰宅できるはずだ。山を登った時間を加えても、一時間三十分。

 バスに乗るよりも早い。それに、思ったよりも体力を使っていない。おまけと言ってはなんだが、

ハイキングで気分転換にもなった。

「いい手だったな」

 麓の道路に足を踏み出した時、慶一は呟き、額に浮かんだ汗をぬぐった。

 と、そこへ。

「あれぇ、大鷹君?」

 背後からの声に振り向く慶一。

「あ、相原!」

 軽い驚きとともに声を上げる。

 そこに立っていたのは相原つぐみ。彼女と慶一とは物心付いたときからの幼なじみだった。



(2) 左側のミラーワールド


 軽く手を上げて歩み寄ってくる幼なじみを、慶一は、何やら不思議な気持ちで待った。彼女とは高校を卒業した後、進学先が違ったこともあって、一年に数回しか会わなくなった。それまでは毎日会

っていたというのに、だ。

 今回の「再会」も、ほぼ一年ぶりである。

 しかし、こうして相対すると、毎日会っていた頃と変わらない、一種の安心感というか、愛着というか、そのような感情がわき上がってくる。

 相原つぐみは、際立って美人というわけではない。しかし、それは魅力がないというのとは全く別の問題である。少なくとも慶一の目から見た相原つぐみは、なかなかに可愛らしい外見をしている。

 いつも短く切りそろえている髪。快活な印象を与える、大きな瞳と口。すっきりとした鼻筋に、整った輪郭。

 服装も、子どもの頃から華美なものを好まなかった。今日も、長袖のTシャツと、やや厚手のベストにカラージーンズという出で立ち。

 夕日が照りつけているため、Tシャツの色は定かではない。ベージュか薄い灰色だろう。ベストの色ははっきりとしている。オレンジだ。ジーンズは黒。

 底の厚いウォーキングブーツを履いているため、身長が伸びているように見える。慶一と目の位置が変わらない。

「珍しいところで会うね。買い物?」

 つぐみは自分が手に持っているビニール袋を、ちょい、と上げて見せながら言った。見ての通り、私は買い物帰りだが君もそうかね? ということらしい。

「いや、そういうわけじゃ……」

 何を言ったものか、と慶一は言いよどむ。単純に、思いがけない再会に戸惑っていたせいもある。

「あ、どうしたの、その耳?」

 つぐみが飛び込むような勢いで近付いてきた。数歩分の距離を、一足で詰めてきたのだ。二人の間には、子ども一人が入るかは入らないか程度の間隔しかない。

 慶一は、驚きのあまりのけぞってしまう。そして同時に、この娘が、小さな頃から静と動の起伏の激しい人となりであったことを思い出し、苦笑する。

「病院に行ってきたんだ。突発性難聴だってさ」

 左耳に貼り付けられたガーゼを、撫でるように触るつぐみに、慶一は言った。

 事実を話しているだけなのだが、なぜかそれが恥ずかしく感じてしまう。一般的な友人関係から比べると極端に距離が近いせいもあるかもしれない。しかし、過去には、もっと近付いたこともあったし、抱き付かれたり、抱き付いたりしたこともあった。

 どぎまぎする理由も見当たらないのに、そうなってしまう。慶一は自分の状態を、聞こえない左耳も含めて、完全に持て余していた。

「突発性難聴かぁ。聞いたことあるなぁ、目眩とか耳鳴りとか、酷くない?」

 そう言って、つぐみは手を引っ込める。左側からの音は聞こえないが、実質、つぐみが立っているのは慶一の正面だ。会話に支障はない。

「目眩は、結構ある。耳鳴りは、そう言えば鳴ってるか、くらいかな。やっぱり、一番の問題は聞こえないことだね」

 慶一は、ざっと自分の現状を話した。

「そっか、大変だったね……」

 つぐみは表情を曇らせる。

 慶一は、いたたまれなくなり、そわそわと周囲を見渡すが、無論、何かあるわけではなかった。意を決して口を開く。

「帰るんだろ、途中まで一緒に行かないか」

 つぐみは、ぱっ、と顔を輝かせ、「いいね!」と短く言い、慶一を促すようにして歩き始めた。

 それ以降は、全く何の気負いもなく歩みを進める二人。

 共通の思い出話を、ぽつりぽつりと語り合っていく。それはどれも、大きな笑いが起きるような内容ではなかったが、

 子供の頃に遊んだ公園に差し掛かった時だった。

『危ない!』

 唐突に、慶一の耳に大きな声が届いた。

「な、なんだ?」

 周囲を見回すが、少し前を行く幼なじみ以外は誰もない。

『急げ!』

 また聞こえた。しかも、左側からだ。

「まさか……」

 慶一は左耳を触った。だが、相変わらず、手で触れた感覚はあるものの、肌を撫でるときに聞こえるはずの小さな音さえも聞こえはしない。

「どうかした?」

 つぐみが振り返る。慶一の変調に気付いたらしく、首をかしげて様子をうかがっている。

 と。

『間に合わなくなるぞ、走るんだ!』

 三度目の声。

 そして。

『自動車が突っ込んでくる!』

 その直後であった。

 どこからやって来たものか、慶一達がいる歩道の、すぐわきの道路に、一台のセダンが現れた。しかも、その車は道路を右から左へ、左から右へと、タイヤを軋ませながら蛇行している。

 完全に制御を失っていた。

 車体が横滑りし、全く減速のない状態で、二人に突っ込んでくる。

「おいおい……」

 そう呟いた慶一は、自分でも間が抜けていると思った。が、それとは関係なく、体は思いも寄らないほど機敏に反応し、幼なじみを引っ掴んで電柱の陰へと飛んだ。

 勢い余って、電柱を通り越し、公園の際に沿って植えられている生け垣に突っ込み、さらにそれを突き抜けて地面に伏せた。

 背後からは耳をつんざくような轟音。

 金属がぶつかり合う音、ガラス質の何かが弾ける音、そしてコンクリートが砕ける音。それらが混ざり合い、完全に同時に聞こえる。複雑で大きな音であった。

「大鷹君……」

 どのくらいそうしていたか分からないが、慶一はつぐみの声を間近に聞いて我を取り戻した。

 伏せていた上体を起こす。

 そして、自分の体の下にいたつぐみと目が合った。

 とっさのことだったので、細部までは覚えていないが、どうやら慶一は、つぐみを庇うために上にのしかかっていたらしい。

「だ、大丈夫か?」

 湧きあがる気恥ずかしさをこらえ、言う慶一。どこか<痴漢をした後で取り繕う言葉>のように聞こえたのは、自分の気のせいだったことにする。

「う、うん。……何があったの?」

「よく分からない。……、立てるか?」

 つぐみの手を取って立たせ、生け垣の上から道路を見る慶一。その視線の先には、側面がつぶれ、「く」の字型に曲がったセダンと、根本から折れ曲がり、今にも地面に倒れそうになっている電柱があった。

「う、わぁ……」

 つぐみが呟く声が聞こえた。

 慶一も、それ以外に言いようがないよな、と思った。

「あ、そうだ、運転手は?」

 一瞬、呆然となった慶一だったが、慌てて車の方へと駆け寄った。

 そこからは、中々に大変だった。警察を呼び、救急車を呼んだ。公園の側にある交番から駆けつけた巡査に事情を聞かれ、どうやら気絶していただけらしい運転手が乗った救急車を見送った。

 最終的に慶一とつぐみの二人が解放されたのは、とっぷりと日が暮れ、夜も遅くなった後だった。

 蛍光灯に明るく照らされた交番から、つぐみが出て行く。その行く先には、自家用車で迎えに来た彼女の両親がいる。

「じゃ、大鷹君、明日の夜ね。六時に迎えに行くから。約束だからね」

 やや子どもっぽい仕草で何度も確認するつぐみ。普段の彼女よりもはしゃいで見えるのは、非日常の事故を目の当たりにしたせいで興奮しているからかもしれない。

「ああ、分かったよ。っていうか、前を見ろ、前を!」

 こちらを向いて手を振りながら、後ろ向きに歩いていた幼なじみは、あやうくぶつかる、というところで車に向かって方向転換し、器用にも少ししか開いていなかったドアから車内に体を滑り込ませた。

 慶一は、交番の巡査に、自分も帰る旨を伝え、一応の見送りを受けて家路についた。慶一と前後して帰宅した彼の両親は、かなり長い時間をかけて、息子の体に深刻な異常がない(左耳以外)ことを確かめた。

「全く、人騒がせな奴だ」

「本当よ、慶一。まあ、怪我がなくて良かったけど……」

 両親は口々に言うと、満足したらしく、二人そろって寝室へと入っていった。

 慶一が携帯電話に兄からの着信を確認したのは、丁度その時だった。折り返す形で電話をかけると兄は。

「まあ、お前はしぶといから、何もないだろうとは思ったけどな。ははは」

 と、朗らかに笑った。

 結局その後は、事故の興奮からか明け方まで眠れず、慶一は、聞こえないはずの耳に届いた、あの奇妙な声のことを忘れてしまった。

 ともかくも、一時的には。

 再び、事態の異常さに気がついたのは、翌日の昼過ぎだった。

 案外にすっきりと目を覚まし、顔を洗おうと起き上がった慶一は、左耳以外の快調さに満足しながら、洗面台の前に立った。

 鏡に映った自分は、昨日と全く変わらない。そのために油断が生じていた、とも言える。

 そしてそれは、歯ブラシを手に取った時に起こった。

『ハロー、ハロー、聞こえますか?』

 一瞬、何が聞こえたのか分からなかった。テレビの音かとも思ったが、両親が出掛ける際に消していったはずだったし、携帯電話は自室に置いてある。

 慶一は一切の行動を停止した。

『おーい、聞こえないのかな? 変だな、調整は間違っていないはずなんだが……』

 声だ。

 何とも言えずに明るく、どことなく軽薄そうな印象を受ける、男の声が聞こえる。

 左耳にだけ。

「な、なんだ!」

 慶一は思わず叫んだ。

 そして、間髪を入れず、周囲を見回す。

 誰もいない。

『なんだ、聞こえているじゃないか、心配させないでくれたまえよ、相棒。ハロー、そっちの天気は良好かい?』

 からん、と歯ブラシが洗面台に落下する音。

 それは、慶一の右耳に響いた。

『おや、今の音は何だい。大丈夫かね、相棒』

「ひ、左耳にだけ、声が聞こえる…」

 謎の声には答えず、慶一は呟く。

『はっはっは、驚かせてしまったようだね。安心したまえ、君は決して頭がおかしくなったわけではないからね』

 明るい調子の、姿なき声。

「……」

 無言の慶一。

『どうかしたのかい、相棒?』

「はあ……」

 両肩を落とし、ため息をつく慶一。

「そうか、ついにこの日が来たか…」

 慶一は、先ほど手の中から滑り落ちた歯ブラシを取り直し、ケースに入れる。

 その口元には、かすかに笑みさえ浮かんでいた。

『ついにこの日が…? ま、まさか相棒、君は私が現れるのを予見していたというのかい? 我が英雄とはいえ、そのような能力を持っていたとは、恐れ入ったよ。素晴らしい!』

 はっはっは、と嬉しそうに笑う謎の声。

 そして、それを全く無視して、遠い目をする慶一。

「ふ、変人の自覚はあったが、まさか、姿の無い声が聞こえるようになってしまうとはね。これは入院決定かな…」

『え?』

 予想外の発言だったのか、謎の声は、笑いをおさめ、押し黙る。

「親父、母さん、兄貴。ごめん、俺、もう帰ってこられないかもしれない」

『いや、いやいや、待ちたまえ。だからね、君は正常なんだって。分かるかい、聞いてるかね、もしもおおおおし』

「うるせぇな、耳元で喚くんじゃねぇよ、うっとおしい!」

『なんだ、聞こえてるんじゃないか。焦ったよ。一人で話を勧めないでくれたまえ』

 一通りのやり取りの末、再びため息をつく慶一。

 ようやく、自体が飲み込めてきた。どうやら、この<姿なき声>は虚構のものではなく現実のものらしい。

「で、あんた何なの?」

 意識したわけではないが、口から出た言葉の調子が険しくなってしまう。事実、身体は脱力してしまっていたし、精神的には疲労感が強い。

『まあまあ、そう結論を急がないで。私が何者であるかを語る前に、一つの実験してみようじゃないか。君が私のことを、間違いなく現実のものとして認識できるようにね』

 <姿なき声>は言う。

『君のそばに鏡はあるかね』

「ああ、目の前にあるよ」

『丁度良い。では、始めるとしよう。これから、君の左目に若干の熱が生じるかと思うが、健康に害はないから心配しないように』

 左耳の声が途切れた瞬間、慶一は、自分の左目が徐々に暖かくなっていくのを感じた。

 そのぬくもりは、すぐに熱へと変化する。

「うおおおお……」

 熱はどんどんと高まり、痛みに変わった。

「あ、いったたたたたた!」

 思わず大声を出し、左目を押さえる慶一。しかし、その痛みは唐突に、跡形もなく消え去った。

「う、なんだ?」

 慶一はすぐ目の前にある鏡を見る。

『やあ、うまくいったかな?』

 驚いたことに、鏡には慶一の顔に重なるように見知らぬ男性が映り込んでいた。

 長い黒髪、青白い肌と琥珀色の瞳。こけた頬に高い鼻、端正な輪郭。

 全く見覚えのない顔だった。

『はじめまして、改めて名乗ろう。私はエウブレウス。君の良き忠告者だ』

 奇妙なことに、鏡にはエウブレウスの姿と慶一の顔とが重なるように見えていた。

 慶一は左目を手で覆ってみた。するとエウブレウスは消え、鏡には自分だけが映っている。次に右目を覆った。今度はエウブレウスだけが見えた。その背後は真っ暗な闇だ。

「一体、こいつはどうなっているんだ?」

 慶一はつぶやくように言った。思わず口をついて出た言葉だった。

『まあ、魔法でも呪いでも超科学でもいいさ。君が納得できる理由を、自分で選んでくれたまえ』

 エウブレウスはそう言うと、ぱちり、と片目をつぶって、微笑んだ。その声は、相変わらず左耳にしか聞こえない。

『あ、そうそう、忘れないうちに言っておくことにしよう。君の耳も目も、すぐに元に戻せる。心配はいらないよ』

 笑みを引っ込めると、真顔になって言うエウブレウス。慶一はここに至って、ようやく心の安定を取り戻し、現状を把握しようと考え始めた。

「それで、えっと、エウブレウスさん? あんたが俺の目と耳を乗っ取った目的は何なんだ?」

 これが夢であるにしろ、現実であるにしろ、きっと目的を達成すれば、エウブレウスは消えるはずだ。そう考えた慶一は、鏡に映り込んだ長髪の男に言った。

 それを受けたエウブレウスは、答えて言う。

『話が早くて助かるよ、相棒』

 鏡の中で身を乗り出したエウブレウス。実際には身体の傾斜が変わって見える程度で、鏡から何かが飛び出して来るようなことはなく、慶一はほっと安堵した。

 一方で、慶一は、エウブレウスが自分のことを<相棒>と呼んでいることが気になった。しかし、それは言わずにいた。一刻も早く、彼の目的を果たさせ、別れたいと思ったからだ。

『実はね、私の領地からあるものが、まあ、動物なんだけれどね。その動物が逃げ出してしまってねぇ。それを見つけ出してもらいたいんだよ、君にね』

「動物だって?」

 慶一は目を見開いて言った。

「動物って、えっと、危険なのか?」

『ものすごく危険なんだ』

 エウブレウスの顔は真剣だった。

「その、毒蜘蛛とか?」

『いや、まあ、それも危険なんだがね。そんなものじゃないんだ。人間なぞは軽く引き裂いてしまうような猛獣さ』

「な、なんだって!」

『私に対してはおとなしいんだよ。命令もよく聞くしね。まさに忠犬というやつで……』

「忠犬だって? 相手は犬かよ!」

 エウブレウスの言葉尻をとらえ、慶一は言った。

『犬と言ってもね。君たちの国で言うと、牛よりも大きいんだよ。注意してくれたまえよ』

 慶一は絶句するより他なかった。

 牛だって?

 牛よりも大きな犬?

 なんだ、それは?

『頼むよ、相棒。君にしかできないことなんだ』

 そう言うエウブレウスの目は、真剣そのものだった。たとえ、彼が嘘を言っていたとしても、慶一には見破ることはできなかっただろう。

 いや、最早、慶一の心は決まっていた。左耳にしか聞こえない声も、左目にしか見えない人物も、既にしてどうでもよかった。自分がどう感じようと、この現象は収まらない。となれば、これこそが自分の現実と思って行動する他ないではないか。夢ならば夢、目が覚めてから妙な夢だったと思えばいい。そして、現実ならば、それこそ行動するしか手はないのだ。

『相棒、巨大犬の存在自体も問題なのだが、実は、それ以上の問題があるのだ』

 真剣なまなざしを一片も緩めずに言うエウブレウス。

『その犬は、自力で私の領地に戻る方法を知っているんだ。この方法というのは幾つかあってね。自分で、状況に合わせて選ぶだけの知恵を持っている。利口なやつなんだよ』

 エウブレウスは言葉を切った。

 これから話すことが重要だ、とその目が語っていた。

『実はね、なぜか今回の帰還方法に、星の魔法を選んだようなんだ。それは、地上に落下した流星が砕けた時の魔力を使って、私の領地に帰るというものなんだ』

 その話を聞いている内に、慶一の背筋に冷たいものが伝い落ちた。

「ま、まさか……」

「そう、件の流星だよ、今夜のね。しかも、この魔法は、地上から高いところに星を落とすことによって、最も安定した効果を得られるんだ。君の住む街は、他にも色々と魔法に都合のいい条件がそろっている。……、いや、細かくは聞かないでくれ、きっと理解はしてもらえないだろうから」



(3) 流星ツインタワー


 午後六時ちょうど。大鷹家の玄関ベルが鳴った。

 慶一が生まれた時の改築された大鷹家は、純和風の木造住宅で、随所に伝統的な日本家屋の特徴を持っている。それは慶一の父親の趣味だった。

 玄関の引き戸を開けると、そこに立っていたのはつぐみだった。

「こんばんわ。約束通り迎えにきたよ」

 口調は軽く、目をくりくりとさせて、つぐみは言った。今日の服装は、フェイクファー付きのダウンジャケットに黒いジーンズ。足元には厚手のブーツ。寒さに耐えられる装いだった。

「ああ、行こうか」

 エウブレウスとの話し合いの後、ほぼ半日の間、そわそわと過ごした慶一だったが、ここに至っては既に腹も定まり、平常心を取り戻していた。なんとでもなれ、という気分だった。

 ツインタワーは、慶一の自宅からバスを利用して三十分程度の場所にある。通常、夜間は防犯のために出入り口が限られてしまうが、タワー内の店舗には深夜まで営業しているものもあった。問題の最上階展望フロアは、夜十時まで開放されている。タワーの入口には、<流星観測>のポスターが貼ってあった。

「今日は入場料無料だって、展望フロア」

「へえ、気前がいいな」

「商店街や有志の人達が頑張ったらしいよ」

「頑張った、ねぇ。どう頑張れば、一フロアを貸し切れるんだ…?」

 エレベーターで移動する最中、つぐみと何気ない会話を交わす慶一。こうしていると、彼女が幼なじみであるということが、抵抗なく受け入れられる気がした。

 展望フロアは、予想外に盛況だった。

 エレベーターホールは、フロアの中心部にあり、ドアを出るとタワーの外周をぐるりと取り囲むように大型のガラス窓がいくつも設置されている。

 屋上が存在するため、天井は一部分のみがガラス製だった。

 しかし、人が肉眼で流星群を観測する分には、視界の問題はないようだった。

 フロアには家族連れが多いように見受けられた。近年の天体ショーブームによるものだろうか。それと劣らずに多いのは、男女のカップルである。

 慶一は、エレベーターを降りてから、突然、居心地が悪くなったように感じた。鼓動も早まり、居たたまれない気分が大きくなる。

「大鷹君、あっちにいこう。方角的には、向こう側から流星が流れてくるはず」

 つぐみは、言うなり早足に進んでしまう。

 慶一は、拍子抜けしたような気になったが、それでも鼓動の早まりは収まらない。それに気付かないふりをして、つぐみの後に続いた。

 エレベーターホールから、展望フロアへと扉を抜けようとした時である。慶一の目に絶対にそこにはいないものが映る。

「犬だ!」

 確かに犬である。

 漆黒の大型犬。

 慶一は犬種には詳しくない。その犬は、長く突き出した鼻や先が尖った耳の形状などから、狼犬の一種のように見えた。

 通常の犬ならば。

『よく確かめてくれたまえよ。君の左目にだけ見える存在かどうか』

 ツインタワー内には、動物病院やペットケア店などが営業されているため、時折、飼い主にリードを引かれた犬などは見かけることがある。しかし、それも低層階のことで、展望フロアで動物を見ることはめったいない。しかもこの犬は、リードはおろか首輪さえ付けていない。

「こんなところに犬が単独で登って来る訳ないだろう? 大体、俺の左目はあんたの目でもあるんだから、分かるんじゃないのか?」

 そう言いつつ、慶一は右目を手で覆う。

 切り取られたような闇の中、ゆったりと歩く黒犬が見える。それは、屋上へと続く階段の方へと消えた。

「確かめた。間違いない!」

『そのようだな。自分の目で見れば一目瞭然なんだが、これは君の目だからね。よく分らなくて』

「頼りないなぁ……。で、あれはなんなの?」

 慶一は、窓の方に駆けていき、へばりつくようにして外を見ているつぐみを警戒しながら、小声で言った。

『あれこそ、我らの目的。冥界から逃げ出したケルベロスさ』

 ケルベロス。

 有名な魔獣だ。伝説によれば、三つの頭と竜の尾とを持つ冥界の番犬であるという。

 通常ならばとても信じられないような話だが、実際に右目では見えず、左目にだけ見えるという奇怪な現象に行きあたっては認めざるをえまい。

「誰だよ、そんな物騒な獣を引っ張り出したのは。ヘラクレスか?」

 神話では、ケルベロスはヘラクレスによって地上へと引きだされ、日光に苦しめられるという憂き目に合っている。

『ははは、今回は違うよ。ヘラクレスは今頃オリュンポス山さ』

 エウブレウスは言った。笑いを含んだ発言だったが、その口調は冷静で、むしろ怒りや憤りさえ感じられるものだった。

 何から何まで予想外の出来事に、呆然としてしまった慶一。しかし、即座に気を取り直すと、小声で言った。

「今の、その辺にいそうな大型犬だったぞ。頭も一つだったし」

『その位の擬態はお手の物さ。我々の領地に属するものは、基本的には常人の目に見えないんだ。しかし、中には我々のような存在を見抜いてしまう人間もいる。純真な子供とか、荒行を積んだ僧侶とかね。そういった人々の目をごまかすために、擬態するのさ』

 ため息とともに言うエウブレウス。

『そのために見つけにくくなってしまっているわけだが……』

「なるほどね……」

 大して納得したわけではないが、とりあえずその場しのぎに言う慶一。

 呆れつつも、黒犬の後を追う。

 しかし、駆け出そうとした慶一に、背後から声がかかる。

「どこに行くの、大鷹君。もうそろそろ始まるよ?」

 つぐみだった。

「ああ、えっと、その、と、トイレ。始まる前に言っておきたくてさ」

 苦し紛れの言い訳を口から吐き出すと、そのまま飛びだし、屋上に続く通路へと向かう。

 このタワーの屋上は、緊急用のヘリポートになっている。通常、屋上に一般人が入ることはできない。それゆえ、屋上に続く階段は、非常口扱いになっていた。

 濃紺の壁にアクリル板が嵌め込まれたエレベーターホールを抜け、階段の入口に立つ慶一。壁のアクリル板に慶一の顔が映り込む。

『相棒』

 自宅の鏡と同じように、半透明の顔を見せたエウブレウスが語りかけてくる。

『ケルベロスはこのタワーの屋上で流星を呼ぶことだろう』

「ああ、その前になんとかしないと」

 慶一は非常口と書かれた、上階に続く扉のドアノブを回す。

 しかし、それはかちゃかちゃと空転するばかりで、扉は一向に開かない。

「あれ、鍵がかかってる」

 何度ノブを回しても変化はない。扉は押しても引いても開かなかった。

「ここから上ったんじゃないのか?」

 そこへ、エウブレウスの声が届く。

『我々はそちらの領地の物質にとらわれないんだ。すり抜けていったのさ』

 愕然とする慶一。

「それを早く言ってくれよ、どうすりゃいいんだ!」

 どくどくと、鼓動が早まる。

 流星がタワーに衝突し、粉々になるイメージが、脳裏に閃く。

 しかし、エウブレウスが暢気な声を上げる。

『なに、どうということもないさ。こちらに左手を出したまえ』

 アクリル板に映るエウブレウスが手を差し伸べている。

 それに答えるように、慶一も左手を伸ばす。それは半ば無意識の行動だった。最早、エウブレウスを疑う気持ちはない。

 半透明のエウブレウスの手には、いつの間にか、不思議な形をした金色の我が握られていた。その輪自体、半透明に見えているので、輪郭がぼやけている。細部まではよく分らない。

 アクリル壁越しに、二人の手が重なる。その瞬間、慶一の手には、金色の輪があった。掌にすっぽりと収まるほどの大きさ。ずしりとした重さが、やはりこれは現実なのだと主張している。

『それはケルベロスの首輪だよ。見た通り、首輪というよりは腕輪のように擬態しているが』

 慶一は、エウブレウスの言葉を片耳で聞きつつも、その心を金の輪の観察に傾けていた。

 実に見事な意匠である。二匹の蛇が互いの尾を飲み込み、絡み合っている。そして三匹目の蛇が、二匹の内側を一回りしていた。それ以外には何の装飾もなかったが、蛇は本物と見間違うほどに精巧に造られている。

 その時に、初めて慶一は気がついた。

「あれ?」

 蛇の輪を握りしめた左手に、予想外の変化があったのだ。

「何だこりゃ!」

 慶一は思わず悲鳴を上げた。

 それも当然。

 何と慶一の左手は、指先から手首まで青黒く変色していたのだった。手の爪は白く濁り、手の青黒さと相まって、まるで映画に出てくるゾンビーの手の様である。

『私の領地に属するものを掴むには、そうするしかなかったんだよ』

 エウブレウスは、欧米人がよくそうするように、掌を見せ、肩をすくめて言った。

「ちゃ、ちゃんと元に戻るんだろうな…」

 慶一は、怒鳴りたい気持ちをこらえ、絞り出すように言った。

『大丈夫さ、目や耳と同じ。いつでもきちんと元の状態に戻せるよ。さあ、そんなことはいいから、ケルベロスを追ってくれたまえ、相棒』

 エウブレウスは、階段の入口を指差した。

「しかし、鍵がかかっていちゃ、入るに入れないぜ」

『それも大丈夫。その左手なら開けられるさ。私の領地に属する手だ、扉はすり抜ける。指で鍵を開けてしまえばいい。その際には、鍵をあける、と強く念じれば、鍵だけは触れるようになるからね』

 軽い調子で言うエウブレウス。ウィンクさえしている。

 慶一はと言えば、エウブレウスを呆れ半分で見るしかない。しかし、時間が限られていることを思い出した。ここは深くは考えず、左手の人差指を扉を押し当てる。金の輪を持っているため、他の指は使えなかった。

 押し当てる程度のつもりが、そのまま扉の中に、指が侵入してしまう。

「おお」

 思わず歓声を上げる慶一。

 エウブレウスに言われたように、鍵をあけると念じながらドアノブの近くを指で探ると、何かが引っかかった。

 錠だ。

 そのまま指を上下に動かすと、かちり、と小さな音がして、錠が解除された。

「すげぇ」

 感心したのも束の間。扉を開け放ち、階段を一段飛ばしにして駆けあがり、屋上へ。階段の入口と同じように出口もあっさりと解錠。一息にタワーの頂上へ出た。

 そこで。

 ケルベロスがいた。

 真っ赤に燃える炎の瞳。

 その双眸が慶一を真正面から捉える。

 コンクリートで固められたヘリポート。そこはただただ広く、びょうびょうと吹きすさぶ強風にさらされる中、たてがみをなびかせて、四つの足を並べてたたずむ魔の犬。

「う……」

 慶一は、一切の動きを止め、固まってしまう。

 それはさながら、蛇に睨まれた蛙のような状況である。

 慶一は、そういえばケルベロスのたてがみは蛇に変化するんだったな、などと、どこかで聞きかじった神話の内容を思い出した。

<ぐるるるるるぅ……>

 見れば、犬はこちらを見据えて牙をむき出し、唸り声を上げている。

『いかん、君を通じて私の気配を感じたようだ。飛びかかって――』

 エウブレウスの言葉が終わらないうちに、犬の変化が始まった。

 頭が中央から割れる。……三つの頭が現れる。

 体が膨れ上がる。……雄牛よりも大きい。

 たてがみがざわめき、幾条かの束になる。……一束一束が蛇になる。

 逆立っていた尾に、いつの間にやら鱗が生え始める。……竜の尾だ。

 がちがちと、こちらを威嚇するように、小刻みに音を立てる牙。体の巨大化もあって、その太さはおとなの腕ほどもある。

「これは、死ぬな……」

 しみじみという慶一。目前の光景にはあまりにも現実味がなく、返って冷静さが保たれていた。

『暢気なことを言っている場合じゃないぞ、相棒。なんとかして首輪をはめなければ!』

「こんな小さなものをどうやってはめるんだよ」

 慶一は手のひらにすっぽりと収まった輪を見つめる。

『簡単さ、やつの胸に押しつければ、輪が広がって、勝手に巻き付いてくれる』

 エウブレウスの言葉が耳に響いたその時、ケルベロスは天空に向けて遠吠えを放った。

 風の尾とすらも吹き飛ばすような轟音。

「うおっ!」

 慶一は突然、魔犬の正面にいることが非常に危険な状態であることに思い至り、本能に任せて横っ飛びに飛んだ。

 がちり。

 真横。すぐそばで、犬の牙が咬み合わさったのを感じる。

 辛くも、魔物の第一撃は交わした。

「うわわわわわ!」

 しかし、間に髪を入れず、犬は首を巡らしてきた。

 慶一は叫び声を上げながら走りだす。

 世の東西を問わず、犬の最大の武器と言えば牙である。

 冥府の番犬ケルベロスは、一説によると狼であるともいわれるが、たとえ犬であれ狼であれ、基本的な体の構造は変わらない。

 ケルベロスは三頭犬といわれるように、三つの頭を持っているが、身は一つ。首の付け根が三つ又に分かれているだけである。牙の届く距離に差はない。問題はと言えば、三か所に同時に咬みつけるという点だった……。

 しかし、巨体であるがゆえに、小回りのきく慶一は、辛うじて追撃を逃れ続ける。

 がちん。再び、犬が咬みつこうと迫る。

「くっそぉ!」

 慶一はかつて経験したことがないほどに全身を動かし、走った。後ろは振り返らない。ケルベロスの熱い息が、ごうごうという呼吸音と共に、すぐ背後にまで迫っている。魔犬の牙を目前で一度でも見ようものなら、逃走の原動力となる生存本能さえも失せてしまいそうだった。 

 意を決して直角に曲がる。広いと思えた屋上も、全力疾走していては、すぐに足場がなくなってしまう。空を飛ばない以上、身を翻して犬をかわすしかない。

 がちん。

 がちん。

 がちん。

 連続して三度の攻撃をかわした慶一。しかし、既に息も上がり、膝も震えだしている。 

「もうだめだ。一か八か、飛びこむしかない!」

 苛立たしげに唸りながら首を巡らせる巨大犬を目前に、意を決し、言う慶一。

 ケルベロスは、火炎のような瞳をらんらんと光らせ、この一撃を最後と決めたのか、大きく上体をのけぞらせる。そして、一息に慶一を食い千切ろうと肉迫してきた。

「うおおおおお!」

 慶一は身をひねり、可能な限り低い姿勢を取って、ケルベロスの足元へと飛び込んだ。

 体力の限界かと、慶一自身も思っていたが、火事場のなんとやら。思いのほか早く、そして遠くへ飛ぶことができた。

 がちん。

 頭上後方から牙の音。

「よし!」

 そう思い、うつ伏せになっていた身体を回転させるかのような勢いを付け、飛び起きる。そして、一気に金の輪をケルベロスの胸に押しつける。

 しかし。

「ぐわあぁ!」

 慶一の左手が、犬の胸に、まさに届こうとした瞬間、犬の前足が彼の体をなぎ払った。

 足の甲による一撃だったため、鋭い爪を逃れることはできたが、強靭な足の力は凄まじく、慶一はいとも簡単に吹き飛ばされる。

 ごろごろとコンクリートの上を転がり、上も下も分からなくなる。

 身体が回転する勢いが強すぎるせいで、地面に肩やら腰やらを盛大に打ちつけ、全身に激痛が走っている。

「うわあああああ!」

 唐突に。

 身体を打つ感覚がなくなった。

 理由は単純で、地面が尽きたのだ。

「だああああ!」

 一際大きな悲鳴を上げて、慶一は浮遊感に身を任せる。他にはどうしようもない。

 しかし、その浮遊感は長くは続かなかった。慶一の目前に、緑色が広がる。

 落下物防止用のネットだった。

「……」

 助かった安堵感から、絶句してしまう慶一。高空の冷たい風が、彼の全身を揺さぶる。興奮のゆえに、強すぎる風にさえ心地よさを感じてしまう。

『大丈夫か、相棒!』

「な、なんとか」

『すぐに移動するんだ、ケルベロスがここまで来たら終わりだぞ!』

 エウブレウスの言葉に弾かれるように、慶一は飛びあがる。

「くそ!」

 悪態を付き、屋上部分から一段低いところに隠れるように設置されているネットから、そろそろと顔を突き出し、様子を伺う慶一。

 するとどうだ。ケルベロスは、慶一からさほど遠くない位置で、首をかがめ、なにやら地面を舐めている。

「えぇ?」

 一瞬、呆気にとられる慶一だったが、これを好機と思い、一足に飛びだした。

 ケルベロスは、なぜか熱心に地面を舐め続け、慶一のほうを振り向きもしない。

「とああああ!」

 気合い一発。

 慶一はケルベロスの胸に金の輪を押しつけた。

 緊張のせいで、あまりにも強く握りしめていた左手は、青黒さをより濃くしていた。

 その手を弾くように、金の輪は一気に広がり、蛇の一匹一匹が、ケルベロスの三つの首へと絡みついた。

 瞬間、辺りがまばゆい光に包まれ、その中に慶一もとらわれるように、没入して行った。



(4) 二人のグッドスピード


 気がつくと、辺り一面が漆黒に包まれていた。

 ただしそれは闇の中というわけではない。照明用の燭台には火が灯っていたし、暖炉があって、その中の炎が、慶一の横たわる寝台の上を明るく照らしていた。

 周囲が黒一色に見えたのには、理由があった。

 天井も、壁も、床も、全てが黒曜石のような黒い石で作られていたのだ。

「ここは?」

 呟き、上体を起こす慶一。

「目が覚めましたね」

 すぐそばから声をかけられ、驚きのあまりに飛びあがった。

「あ、ああ、あなたは?」

 声の主はまばゆい金髪をなびかせた、妙齢の女性であった。

 雪のように白い肌に暖炉の火が反射し、ゆらゆらと揺れる炎の影が整った輪郭を明らかにする。そしてその花弁のような唇には微笑み。

「私はペルセポネ。コレと呼ぶ人もいます」

 一瞬、慶一は呆然とするが、思いついたことを反射的に口に出した。

「ぺ、ペルセポネ、って、あのペルセポネ、さん? デメテルさんの娘さんの?」

 思いがけないことの連続に、声が裏返る。

「ふふふ、よくご存じね。二十一世紀の青年も知っているとなれば、母も喜びますよ」

 鈴を転がすような声で笑うペルセポネ。

 その笑顔に見とれていると、もう一人、部屋に新たに入ってくる人物がいた。

「やあ、相棒、無事に目が覚めたようだね」

 エウブレウスだった。

 今度は半透明ではない。

「エウブレウス!」

 慶一は、思わず立ち上がりそうになったが、突然、軽い目眩を感じ、尻もちをついてしまう。

「あなた、いけませんよ。この方は、地上からこちらに来て、体力を消耗しておられるのですから」

「そうだったね。すまない、相棒、驚かせるつもりはなかったんだ」

 エウブレウスは慶一に近付き、その肩に手を置いた。

 意外なほどに優しい、その手つきに、慶一は心が穏やかになるのを感じた。

 しかし、それ以上に気になることがある。

「ちょっと待った。ペルセポネ、さんの旦那さんってことは……?」

 大地の女神デメテルの娘、ペルセポネ。

 春を司る女神である彼女は、冥界の王、ハデスの妻となった。

「そう、私はハデス。冥府の王だよ。エウブレウスというのは、別の神からもらい受けた名前でね。君が怖がるといけないと思って」

 慶一は絶句し、そのまま言葉を出すことができなかった。

 その後、ペルセポネが持ってきてくれたアンブロジアを一口もらい、足腰に力が戻った後、食卓へと案内されても、まだ、慶一は混乱状態にあった。

「なにがどうなっているやら…。俺は死んだんですか?」

「いやいや、死んではいないよ。ケルベロスを首輪の力で冥府に戻す際に、君も連れてきただけだからね」

 エウブレウス、いや、ハデスは、手ずから慶一のゴブレットに葡萄酒を注ぐ。

 それを受けながら、慶一は言った。

「一体どうしてケルベロスが逃げ出すことになったんです?」

「うん、それには英雄が絡んでいるんだ」

 ハデスは自分のゴブレットを満たしながら答えた。

「英雄って、神と人間の子供のことですよね」

 ペルセポネから、切り取られた分厚い鶏肉を皿に移してもらいながら、慶一は追加の質問をする。

 この際だから疑問は全て解消してしまおう、と思っていた。

「そうとも言い切れないな。我々は、運命の予測ができないものを選び、英雄として協力し合っているんだ」

「運命がない者?」

「神々は皆、<運命の書>を閲覧できる。だから、通常は人間の運命は粗方、判断がつくんだ」

 エウブレウスが、食卓に掌を押しつけ、そのまま引き揚げると、なんとその手には一冊の本が現れたではないか。

「これが<運命の書>。人間の運命が記されていて、神々は皆、これを読むことができる」

 黒い革に金の装丁が映える。大判の本だ。しかし、厚さはというと、それほどでもない。慶一は、高校卒業の時のアルバムを思い出した。

「運命というのは、誰にでもある。無論、神であっても、定められた運命からは逃げられない。我が父クロノスも、運命によって八つ裂きにされ、奈落へと追放された」

 ハデスの父であるクロノスは、「息子によって王座を奪われ、命を落とす」という予言を受け、自分の子供たちを次々に飲み込んだが、その災難を逃れたゼウスによって追い詰められ、結局、息子たちの手でタルタロスへと放逐された。

「この時の予言こそが、運命というわけだ。また、ゼウスも『息子に権力を奪われる』という、クロノスと似たような予言を受け、懐妊していたメティスを飲み込んでしまった。しかし、メティスが知恵の女神だったことが上手く働いたわけさ。彼女は、自分の女神としての力を使って、生まれてくるはずの息子を、娘に変えた。だからアテナはゼウスと争わずに済んだんだ」

 ナイフとフォークを巧みに使い、鶏肉を器用に食べるハデス。

「アテナの気性が荒いのは、もともとが男だったからなんだよ。……、あの娘には内緒にしておいてくれ。怒らせると怖いから」

 笑いながら言うハデス。

 慶一は、何と答えたものか、分からない。

「私たちは、過去に起こった人間との争いで学んだ。人間の下した決断は変えられないということをね。だから、この書物を使って見守ることにしたんだ。運命をね」

 慶一は、あまり多くはない神話の知識を、脳裏に引っ張り出す。

 神々は信仰を集めることに熱心だったが、人間は、次第に神々を忘れていった。その人間たちの態度に不満を抱いた神々は、海や陸の怪物を使わして、たびたび、人間を脅かしたのだ。

 その争いで、人間はくるめられることもあったが、勝利することもあった。

 度重なる争いの結果、神々は、自分たちの思い通りに人間を動かそうとすることをやめたのだという。

 そうこうしている内に食事が終わり、慶一はハデスに促されるまま、暖炉のそばへと移動した。

「さて、相棒。君は、運命とはどのようにして定まると思う?」

 ハデスは大きな椅子にゆったりと腰掛け、両手を胸の前で組んで言う。例の書物は、彼の膝の上に置かれている。

 慶一は、ハデスの質問に答えるべく、考えを巡らせた。しかし、どうにも思考がまとまらない。自分の意見が出せないというわけではない。慶一とて、齢は二十歳。運命や未来などという、ある種の抽象的な議題に対して考えたことは、一度や二度ではないのだ。

 だが、不可解なことに、いくら考えを順序よくまとめようと頑張っても、途中でその思考は、ばらばらになってしまい、上手くいかない。すぐにぼんやりとしてしまうのだ。

 そのことをハデスに正直に言うと、彼は声を出して笑った。

「いや、すまない、すまない。これは私が調子に乗ってしまったようだな。君とゆっくり話せたことが嬉しくて」

 ハデスはそう言うと、近くにあった高足の卓からポットを取り上げ、その中身をカップへと注ぎ、慶一に手渡した。

 それは、とても良い香りのする、真紅の紅茶だった。

「君は地上界から、この冥界へ、客分として来ているにすぎない。いわば、半分だけこちらの世界の住人となり、もう半分があちらの世界に留まっているようなものだ。だから、万事がぼんやりとしてしまうのさ」

 慶一は、紅茶を口に運んだ。

 ふくよかな香りが口の中を見たし、すこしだけ頭がはっきりしたような気がする。

 慶一が落ち着いたと見たか、ハデスが口を開く。

「この<運命の書>には、決断を行なう時の選択肢と、選ばれた選択肢の行く末だけが記されているんだ」

 ハデスは続けて言う。

「運命というのは、結果へと至る道さ。選択肢があって、結果がある。その結果は変えられない。しかし、どの道をどう歩むかは、人間の決断によるんだ」

 ハデス自身も、カップを持ち、紅茶を口に運ぶ。

「ところが、この運命が見えない者もいる。それが英雄さ」

 身を乗り出すハデス。その目が光る。

「英雄というと、ヘラクレスやペルセウスみたいな?」

「そう、その通り。だが、神と人間の間に生まれた者だけではないよ。君のように、純粋な人間であっても、時折、運命の見えないものが存在する」

 慶一は、今一歩でカップを落としそうになった。

「俺が、英雄?」

「ああ。だから、私は君の左耳を借りたのさ」

 こともなげに言うハデス。

 慶一は、心中複雑である。

「ケルベロスが無事に戻り、君も、大した怪我がなくて本当に良かった」

 ハデスは、慶一を真っ直ぐに見詰めながら言った。

「遺憾なことに、ケルベロスを地上に連れ出し、何か良からぬことに利用しようとした者がいたらしい。それは、神か、あるいはそれに並ぶ力を持ったものだろう。そして、それに協力する英雄もいるのだ」

 慶一は、ハデスの顔に深い苦悩の色を見た。

「私は、今後、全力あげて首謀者の特定を急ぐつもりだ。何度もこんなことをされてはたまらないからね。しかし、どこの誰が、何の目的でこんなことをしたのか、今の段階では分からない。相手は運命を持たない者だからね……」

 その後、しばらくは和やかに時間が過ぎた。

 紅茶のおかげか、徐々に頭のぼんやりも治まって来た頃、ペルセポネが顔を見せた。

「あなた、門の開く時間ですよ。お客様をお送りしましょう」

 ハデスは頷くと、慶一を促して、宮殿の外へと出た。

「冥界の門は、特定の時間にしか開かないようになっているんだ。冥界に住む者達にも生活があるから、外側の人達にやたらと入りこまれても困るからね」

 宮殿の大扉を出ると、そこは小高い丘の上だった。

 そこからは、おそらくハデスの領地と思われる、いくつかの町や農地が見渡せた。

 慶一は、そう言えば、と思いだす。ハデスは、実は農耕の神であったのだ。

「冥界に住む人たち? そういえば、冥界って何をするところなんです?」

 慶一を先導して、宮殿の裏手へと歩き出すハデス。

 その背を追うように、慶一も歩きだす。

「基本的には、君のいた地上界と変わらないよ。ここにはここの営みがある。無論、冥界生まれの冥界育ちもいる。違いと言えば、地上界からやって来た人専用の場所もあるということかな。この近くなんだよ」

 ハデスの言葉は衝撃だった。慶一が地上人とすれば、冥界人とでも呼ぶべき人々がいるらしい。

 そうなると、慶一の好奇心がむくむくと膨れ上がって来る。

「会ってみたいなぁ、冥界生まれの人達に」

 それを聞いたハデスは、笑い声を上げた。

「ははは、そう言ってくれると嬉しいよ。しかし、彼らに紹介するのは、また今度にしよう。君はそろそろ帰る時間だ」

 二人は、そのまま山の稜線に沿った道を歩く。

 これを良い機会と、慶一はハデスに質問する。

「日本人でも、死んだあとは、冥界に来るんですか?」

 ハデスは答えて言う。

「それは人によるね。昔は、その人の信仰によって決められていたんだが、最近は人間の思考も多様化したからねぇ。まずは、死神が先導して、冥界の入口までは来るんだけど、そこから先は、個人の判断だね。どの冥界に行くかは、自由さ」

 慶一は驚いた。

「冥界って、いくつもあるんですか?」

「あるとも。ちょっと数えるのが面倒なくらいあるね。一つ一つに統治者がいて、その領地ごとの法を用いて管理しているんだ。最近は、サービス重視だし、何ともアピール合戦がきつくてねぇ。なにせ、ほら、サービスが良くないと誰も来ちゃくれないだろう?」

 道は高台に差し掛かっていた。

 そこからはハデスの領地、エリュシオンが見渡せる。

「つまり、この世界にいる地上出身の人達は、みんなこの冥界を選んでやって来たんですね」

「まあ、そうなるね」

 ハデスは、微笑み、自らの領地を見渡しながら言った。

 慶一は、神話や映画、小説などで得たハデスに対する印象が、一気に崩れていくのを感じた。

 いや、それは、ハデス本人を見た時に、すでに起きていた変化だった。

 だがここにきて、実際に死者の魂が安らぐ土地を目の当たりにし、実感を得たのだった。

「さて、ここが終点だ」

 ハデスが歩みを止めた。

 眼前には、ぽっかりと口を開けた洞穴があった。幅は狭く、人間一人がやっと通れる程度といったところだろうか。体を曲げて覗きこんでみたが、内部は暗く、奥を見通せない。

「この穴を真っ直ぐに行けば、地上に出られる」

 立ち止まるハデス。

「料理をごちそうさまでした」

 慶一は軽く頭を下げる。

 意外なほどに人間臭いこの神が、慶一は気に入りかけていた。

「いやいや、ぜひまた来てもらいたいね。君は我が英雄。これからも長い付き合いになるわけだし」

「できれば、短い付き合いにしたいところですがね」

「そう言うなよ、我が英雄。君は<選ばれし者>だからね。はっはっは」

 満面の笑みを見せて笑うハデス。

 しかし、すぐに笑いを引っ込めて言った。

「そうだ、忘れるところだった」

 ハデスは、自分の服の懐から、何やら大きな布のようなものを取り出した。

 一体どこにしまっていたのかというほど大きなものだ。

 よく見ればそれは、ライオンの毛皮だった。

「君は『ネメアの獅子』を知っているかい?」

 ハデスは、ライオンの毛皮を両手で広げながら言った。

 その姿を見て、呆気にとられながら、慶一は答えた。

「ヘラクレスに絞殺されたライオンですよね……」

「これは、その獅子の毛皮さ。君に進呈しよう。災難から守ってくれうようにね」

 ハデスはそう言うと、毛皮をぐるぐると巻き取り始めた。

 するとどうだ、毛皮はどんどんと小さくなっていき、最終的には親指の先ほどの、四角い黒曜石になってしまった。

 この石を、自分が首から下げていた銀の鎖に取り付けたハデスは、そのままそれを慶一の首にかける。

「これを持って帰るといい。この冥界を思い出すよすがになるように」

 そう言って手を振るハデスを残し、慶一は洞穴を、ひた進んだ。

 どこまで続いているのか分からない、暗闇に包まれた通路。しかし、足の裏に伝わる感触は驚くほどに柔らかく、また、平坦だった。これならば、転んで怪我をすることもあるまい。

 狭い洞穴の中、壁に手を当て、バランス感覚を保ちながら歩く。

 何しろ真っ暗やみの中だ。真っ直ぐに歩いていることくらいは辛うじて分かるものの、上っているのか下りているのかは分からない。

 どれだけ進んだろうか。

 疲労感はないものの、時間の感覚がなくなって来ていた。

 ふと、遠くの方に明りが現れた。

 ぼんやりとした光。

 出口だろうか。

 不思議と焦る気持ちはなかった。いいさ、ゆっくりと行こう。ここまでは色々とあり過ぎた。慶一は酷く落ち着いた、穏やかな気持ちで、通路を歩き続けた。

 やがて、視界が光に包まれる。

「ん?」

 はっ、と気がつくと、見慣れない光景が広がっていた。

 いや、それが天井であることは明白だったのだが、一体どこの天井なのかが、まるで分からない。

「ああ、目が覚めたんだね!」

 何やら既視感を覚えつつ、慶一は首を巡らせる。

 ハデスの宮殿とは真逆に、白とクリーム色に塗られた壁と床が目に入る。そして、慶一の横たわるベッドの脇に立っていたのは、つぐみだった。

「心配かけんなよ!」

 怒られた。

「あ、ああ。えっと、どうなったんだ?」

「屋上に続く扉が開いていたから、上ってみたんだ。倒れた君を運んで、救急車を呼んだんだよ。すっごく心配したんだから!」

 目に涙をためて言うつぐみ。

「ああ、ごめん」

 慶一は、じんわりと、胸に暖かいものを感じながら、上体を起こした。

「だいたいね、ケルベロスは、甘いものに目がないんだから。ちゃんと用意しておかないと駄目」

「え?」

「だからギリシャ神話は読んでおいてね、って言ったのに。小学生の時……」

「は?」

 つぐみの発言の意味が分からない。

 いや、分かりたくはない。

 慶一の背筋に冷たい汗が伝い降りた時、部屋に入って来る人影があった。

「やあ、相棒。具合はどうだい?」

 ダークグレーのスーツに身を包んだ、こけた頬の紳士。

「え、エウブレウス! い、いや、ハデスさん。なんでここに?」

「言ったろう、長い付き合いになるって」

「お父さん、私のこと言わなかったの?」

「え、お父さん?」

「はっはっは、ドラマチックを演出したくてねぇ」

「え、いや、ちょっと?」

「ところで、我が娘よ。チョコバーでケルベロスを釣り上げるとは、なかなか良い戦略だった」

「でっしょお、頑張ったんだよ」

 仲睦まじく互いの健闘をたたえ合うつぐみとハデス。

 それはまさに、親子のスキンシップその物。

「えぇ~~~~~!」

 絶叫する慶一。

 その胸元には、黒曜石のペンダントが、陽光を反射して揺れていた。




    <エウブレウスの囁き>  了

 今回の話は、「ギリシャ神話のハデスって、悪役扱いされてるけど、別に悪い人じゃないよね?」という疑問から生まれました。

 終盤、なかなか上手く物語が進まなくなってしまい、自分の構成能力の無さを痛感しております。


 その点も含め、ご意見を頂ければ幸いです。

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