私の可愛い…
私はお母さんに怒られて泣きわめいている広視を半ば強引に連れ出し、よしよしと頭を撫でたり手を繋いだりして両サイドにタンポポやヨモギが生えている砂利道を辿って湖の見渡せる休憩所まで歩いた。休憩所といっても、簡素な木製のベンチと小雨程度なら凌げるくらいの屋根があるだけだ。背後にはスキー場の建設で大分ハゲた会津磐梯山を眺望できる。
ベンチに座っても、広視は鼻を啜って涙ぐみ、下を向いていた。
「広視は優しい子だね!」
明るく語りかけた私に、広視はキョトンとして顔の角度を少し上げたが、それでも俯いたままで、目を合わそうとしない。
「…怒るんじゃないの?」
広視はお母さんの『浸地ちゃんからも何か言ってやって』という言葉を気にして、私に怯えているようだ。
「怒らないよ。だって、お母さんのためにコーヒー用意しようとしてたんでしょ?」
「うん。洗濯とか、家の事やった後、いつもコーヒー飲むから」
「だと思った。広視が飲むのはブラックコーヒーじゃなくて雪印の『コーヒー』だもんね」
「うん」
広視は家事が終わったお母さんのためにコーヒーを用意したのに、裏目に出てしまった。
私が褒めると、広視はいつも無表情のまま目をキョロキョロさせたり頭を掻いたりする。今もそうだ。きっとこの子は、褒められることに慣れていないんだ。
でも大丈夫だよ。私が広視の良い所いっぱい見つけて、いっぱいいっぱい褒めてあげるからね。
「ねぇ広視?」
「ん?」
「広視は今のまま、ずっと優しい広視でいてね」
言って、私は膨らみ始めたばかりの小さな胸の中に広視の頭を抱き寄せた。
途端、広視は再び啜り泣き始めた。私はよしよしと頭を撫でた。
そんな私たちを包み込む湖水風や、さらさらと擦れ合うススキたち。優しい時間が流れゆく湖畔の昼下がり。都会の喧騒は遥か彼方。今は忘れよう。この夏休みは、私たちのたからもの。
「さ、一旦お昼ご飯食べに戻って、それからまた遊ぼっか?」
「うん」
埋めていた顔を上げると、広視は真っ赤な目で鼻水を垂らしながら小さく頷き、私に手を引かれて立ち上がった。
◇◇◇
午後、広視を私のおばあちゃんの家に呼んで一緒に冷や麦をいただいた後、親切を仇にされたショックであまり食が進まなかった広視を再び湖畔へ連れ出した。
湖畔沿いはアスファルトのサイクリングロードと砂利道が並行している。私たちは歩いているので砂利道を歩く。
両サイドにはヨモギやセイヨウタンポポの葉が生い茂り、似た格好をして見分け難いシオカラトンボやコフキトンボが地面スレスレを飛び交う。2メートルほどの高さには黒と黄色の縞模様のオニヤンマが颯爽と横切ったり、黒と瑠璃色の胸が縞模様、尻尾が斑模様のオオルリボシヤンマが縄張りパトロールをしている。この道の周辺は田んぼや水溜まりが多いためか、多くのトンボを見掛ける。
そのまましばらく西へ歩くと、砂利道の草が生い茂る場所に先程は目に止まらなかったハチの巣が転がっているのを見付けた。
「広視、ハチミツ食べる?」
「うん」
広視が頷いたので、私はハチが居ないのを確認するために「えいっ!」と巣を蹴飛ばした。
すると、中からスズメバチが出てきた。想定外だ。ハチが居ないのを前提に蹴飛ばしたから、このような事態をどう対処するのかを想定していなかった。
ブーン!!
呆然としているうちに、巣の中から次々とハチが飛び出してきた。
「うわあああ!! 助けて、助けてえええ!!」
「逃げるよ」
泣いてしがみ付く広視を負ぶり、私は全力疾走した。
広視は可愛い弟分。それは、10年経ち、22歳と17歳となった現在も変わらない。
だから…。
◇◇◇
時間は現在の自宅。
「ごめんなさい。私、いまは広視のこと、弟みたいにしか見れないの」
私は誠意を込め、広視に頭を下げた。
「えっ…」
広視の血の気がみるみる引いてゆくのが判る。
でも、広視と恋人として向き合うのは今のところ難しい。
◇◇◇
フラれたああああああ!!
そりゃそうだよな。浸地は5歳も上だし、俺なんかまだガキんちょだよな。
それから俺たちは、ぎこちない空気の中を過ごした。
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本日、2012年7月15日は『いちにちひとつぶ』シリーズ連載開始から5周年となっております!